扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

真田三代の足跡 二日目 #1 −川中島古戦場−

2018年09月26日 | 城・城址・古戦場

二日目は川中島で目覚めた。

珍しく寝起きがよく7時から行動開始。

 

動きがいいのは場所のせいであろう。

ホテルの隣が海津城。

この辺りは第4次川中島合戦の戦場、まず妻女山に登る。

積年行きたいと思っていた心躍るスポットである。

妻女山の山腹は上信越道が貫通していてトンネルを長野側に出てきたところが登り口である。

割と狭い山道を上っていくと展望台がある。

 

そこからの眺めはまさに謙信公がみた光景そのもので大興奮。

左の方へ上杉勢が山を下り平原左手から渡河して布陣。

右手の海津城を出た武田勢が千曲川を背にして右手に布陣。

霧がはれるや合戦が始まり武田本体が大苦戦。

妻女山を登って来た武田別動隊が上杉勢に追いついて挟撃体制に入って形勢逆転。

右の方角の山間の善光寺方向から引き上げていく。

そうした合戦の展開が手にとるように再現できる。

 

 

実際に来てみると現場でしかわからない情報が得られる。

妻女山の謙信本陣といわれる場所はそれほど標高が高い訳でもなく下りようと思えばさほど時間はかかるまい。

上杉勢を追う役目の啄木鳥部隊の下山も時間がかからないのではあるまいか。

また海津城は樹木に隠れてみえないが間近に見下ろすことができるので炊事の煙のたなびく様子はもちろん、出陣の気配も感じ取れるような気がする。

 

最近では山本勘助策定の「啄木鳥戦法」はこのような現場検証も加えた上で真偽が定まっておらず、妻女山はもっと尾根の上の方ではないかなどという。

そうした諸説検証も楽しいが細かいことはどうでもいい。

この光景は説得力と迫力がある。

弁当持ってきて半日くらいいられそうだったが団体客など来るとやっかいなので退散、典厩寺に向かう。

 

駐車場を探すのに狭い道を走らされ困ったものの到着。

裏道を行ってしまったようである。

典厩寺は千曲川の堤防の下に立地する。

 

 

開門時間まで時間があったので典厩信繁を偲びながら境内を散策。

典厩寺は川中島で討死にした武田信繁の菩提を弔うために真田信之が寺名を改めたという。

元々は鶴巣寺といい、第4次川中島の合戦で武田信繁が本陣とし、落命した信繁の遺骸を家臣が敵に渡さず運び当寺に埋葬したらしい。

合戦寺の武田本陣はもう少し北であろうから討死した地はここではなかろう。

境内には信繁の首を清めた井戸、墓所がありひっそりとしている。

武田信繁は甲陽軍鑑などによれば晴信を疎んじた信虎が家督を譲ると広言したものの、晴信のクーデターを指示してNO.2に甘んじた。

往時もその後も信繁の評価は高く私も大好きな人物である。

「理想の弟」といえよう。

 

 

 

武田信繁の墓石の傍らには真田信繁の供養塔がちんまりと置かれている。

これも松代藩主となった幸村の方の信繁の兄、真田信之によって設けられた。

典厩寺となったのは大坂の陣をはるか下る時期、父と弟を失った孤独の真田家を預かった信之にしてみれば最後の仕事という意識だったのかもしれない。

 

そんなことを考えているうちに開山時間が来て「川中島合戦記念館」を開けてもらう。

信繁ゆかりの品々が薄暗いショーケースに収められている。

 

 

受付の方に御朱印をお願いししばし立ち話などした。

松代の人にしてみれば武田は侵略者であり、真意はどうであれ武田からの開放者としての謙信の方が人気があるかもしれないとおっしゃっていた。

海津城は合戦の後は春日虎綱(高坂弾正)が預かった。長篠には行かずおかげで生き残り武田の運命をみることなく没した。

武田が滅びると織田方の森長可(鬼武蔵)の所領となり織田が去った後は上杉景勝が獲った。

上杉が会津転封となると森忠政(蘭丸の弟)、松平忠輝(家康6男)らが持ち、元和8年(1622)に真田信之が上田から転封された。

以後、真田家は維新まで藩主を務めかつて海津城といった松代城を守った。

こう考えると真田家は家祖の幸綱が海津城から妻女山に登り、窮地の武田本軍を救うべく駆けつけた戦場をながめながら200年過ごしたことも何やら歴史の運命のような気がしてきた。

 

小雨模様になってくる中、真田宝物館に向かうことにした。


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