日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

『「西川社長進退」と「郵政民営化是非」は“別の議論”』の再認識を

2009-06-15 | ニュース雑感
大騒ぎをしていた日本郵政西川社長の進退問題は、鳩山大臣の実質更迭により一応の決着を見ました。しかしながらこの結末、なんともスッキリしない気分です。という訳で、この問題の「本質」を今一度まじめに考えてみたいと思います。

鳩山氏の肩を持つつもりは毛頭ありませんが、問題視されるべきは今回の西川続投の結論に導いたものが、“郵政民営化路線の堅持”であった点です。確かに、西川社長は銀行界から鳴り物入りで招聘した“民営化の象徴”であったのかもしれませんが、氏の運営上の責任問題と民営化の是非は全く別の議論であってしかるべきではないでしょうか。「かんぽの宿問題」にしても、問われるべきはその売却の是非ではなく、杜撰な売却価格の決定プロセスや特定先との癒着の有無の問題です。

このような問題は言ってみれば、昨日の厚生労働省女性局長逮捕の一件にも相通じる、官業の“お上風土”にこそ起因した問題点であり、民営化によってもっとも正さなくてはならない部分であるのです。西川社長の管理責任の有無が問われるのは、当然のことではありますが、それがイコール民営化の是非を問うことになると言うのは見当違いも甚だしいのです。西川社長が、郵政民営化を強引ともいえるやり口で押し進めた小泉元首相の“肝煎り人事”だったとしても、その進退問題が元首相の民営化政策そのものまで否定することになるというのは全く筋違いの議論であると、今一度マスメディアも国民も正しく認識する必要があると思います。

その意味では鳩山氏の西川責任追及発言は、そのエキセントリックな物言いは感心しませんが、郵政民営化路線の与党および内閣への背信行為ではなく、総理の考え方に合致するか否かは別として、問題発言ではなかった訳です。問題だったのは太郎総理。結局、小泉一派や反麻生勢力の反発を受けて、「西川氏更迭は郵政民営化路線の否定」という誤った論理を受け入れ、「総選挙前の内閣として郵政民営化は後退させられない。主張を曲げないなら辞めてくれ」と鳩山氏を更迭した訳ですから。

本来最高責任者たるもの、事の「本質」を捉えた発言と判断をしなくてはいけないハズです。首相が自身の考えで西川氏の続投を望んでいたのなら、例えば「今なすべきはトップの責任追及ではなく、問題の根源たる日本郵政が引きずる官業的悪弊をいかに建て直すかだ」と明快な論理で事の「本質」を説く対応方針を世間に明らかにした上で、鳩山氏には「風土改革に民間人の西川氏は必要。私の考えの「本質」に反対するのなら、担当大臣を辞めてもらう以外にない」とでも言うべきだったのです。

結局、首相は自分の考え方を外に“見える化”できなかったばかりか、外野の声に惑わされ自ら「本質」を見失い誤った判断を下した訳で、一国のリーダーとしての資質の面で大いに問題ありを露呈したのです。結果は「西川続投」で同じであったとしても、自らの確固たる論理展開でことを行うのと、人に言われた誤った論理展開に従うのとでは大違い。後者が信頼感を大きく損なうのは当たり前の流れでしょう。

人の判断を誤らせるものは「邪心」です。太郎首相は「選挙」という大いなる「邪心」の前に物事の「本質」を見失い、「西川更迭=郵政民営化後退」という誤った判断に流されました。その片棒をかついだのは、誰に吹き込まれたのか分かりませんが、「西川更迭=郵政民営化後退」を陽動したマスメディアでもあります。マスメディアは時として、政治がらみで誰かの意図的誘導に乗せられ誤った論理展開をするものです。今回首相が早期に「西川進退と郵政民営化是非問題は無関係」の議論を投げ掛けられなかった時点で、首相はメディアをも動かした反首相勢力に負けていたのです。

今回の件で麻生内閣の支持率は再び急下降だそうです。判断に時間がかかる上に肝心のその判断すら間違ってしまう、挙げ句に国民からはソッポを向かれるでは、確かに政権末期症状と言わざるを得ない状況かもしれません。次に誰がなるのかは分かりませんが、現総理に欠けている物事の「本質」を捉える能力は、総理を目指す人間に求められる資質の中でも「最低限レベル」のものであることだけは確かです。

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