日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

追悼オグリキャップ~その本当の功績

2010-07-07 | その他あれこれ
一昨日の三題話でネタ枯れ気味ですので、今日は一休み的話題で。

7月3日に平成の名馬オグリキャップが亡くなったとの報道がありました。25歳。地方出身馬として第二次競馬ブームを支えた人気馬であり、競馬ファンでなくともその名を知る存在という意味では、第一次競馬ブームを支えた同じ地方出身の昭和の名馬ハイセイコーと並び評される偉大な競走馬であったと思います。

中央のエリートたちを地方出身の“雑草馬”が次々なぎ倒す姿に、世のサラリーマン諸氏は自身の姿をダブらせて応援をし、両馬は時代は違えども共に歴史に残る空前の競馬ブームを巻き起こしたと記憶しております。戦績に関して見てみると、確かにハイセイコーは無敗で中央入りし無敗のまま今のGⅠ皐月賞を勝ったので「怪物」と言われたのですが、実は生涯成績でGⅠレベルのレースを勝ったのはこの皐月賞と宝塚記念のみ。GⅠ2勝はもちろん立派な記録でありますが、成績だけで「名馬」と言うには少々物足りないのも事実であります。対するオグリキャップは、GⅠ4勝。「芦毛の怪物」は、「名馬」の形容に十分足りる戦績でもあったのでした。

見方を変えて、地方競馬出身のヒーローとしてどちらがより本当の“雑草”であったかと言う部分ですが、これは断然オグリキャップでした。ハイセイコーの父は数多くの名馬を生んだ“性豪”チャイナロックでありましたが、一方のオグリキャップの父はダンシングキャップという少なくとも中央では全く無名の種牡馬だったのです。それと両馬は、同じ地方競馬出身馬であるとは言え、片やハイセイコーは大都会東京は大井競馬出身の“シティボーイ”であるのに対し、オグリキャップは岐阜の笠松競馬場という、当時では地元民かよほどの競馬ファンでない限り、その存在さえ知らなかったような競馬場出身の“田舎者”でもありました(当時笠松所属の安藤勝己騎手が主戦を務め、オグリの後を追うように中央入りし成功したのも、広く知られた付随的物語であります)。

また、ハイセイコーが中央入り時点で既に大注目馬であり、考えようによっては既にこの段階でエリート路線に乗り換わっていたとも言えるのに対して(移籍初戦は、12万人のファンを集め圧倒的1番人気)、オグリは中央入り時点ですでに2敗を喫しており(中央デビュー戦は2番人気)その後の6連勝で一気に注目を集めたという点に真の雑草根性を見る思いがするのです。さらにオグリキャップに関しては、そのおよそエリート扱いではない使われ方にも世のコキ使われるお父さんたちの同情が集まったのでした。「天皇賞」2着から中2週で「マイルチャンピオンシップ」を勝利、さらに翌週に「ジャパンカップ」を使って世界レコードの2着するという、当時でも異常と言えるハード・ローテーションにも実績を残しつつこなすけなげな姿は本当に涙ぐましいモノがあったのです。

そしてあの引退レース「有馬記念」での奇跡の大復活劇。件のハードローテーションの翌年は、使われ過ぎの疲労蓄積からか期待を裏切る敗戦が続き、「天皇賞」6着「ジャパンカップ」に至っては11着に大敗し、「オグリは終わった」と言われたのでした。そんな中で迎えた引退レース、暮れのグランプリ「有馬記念」。鞍上は当時“天才”ともてはやされ人気急上昇中の武豊。レースは常識では考えられないスローペースになり、このペースを味方に引き寄せ武に導かれたオグリは見事ラストランに勝利したのでした。一大ブームを作ったアイドル・ホースの花道を飾る苦難からの大復活劇に、日本中が「感動した」「泣いた」とメディア各紙に題字が躍ったことを昨日のことのように良く覚えています。

ハイセイコーは「競馬=ギャンブル=悪」と言う世間の穿った先入観に一石を投じ、スポーツ的な娯楽として市民権を得るきっかけをつくってくれた偉大なる「名馬」であったと思います。一方のオグリキャップは、その市民権を得た競馬の主役である競走馬にファンが自身の想いをダブらせ、アスリートと同じように競争を通じて感動を与えるという、競馬に競技観戦として新たな楽しみを与えてくれた偉大な馬であったと思うのです。オグリキャップがいなければ、その後登場したディープインパクトも、ウォッカも、ここまで世の人々に幅広く愛され話題にされることはなかったでしょう。タケシバオーの時代から40年以上にわたるベテラン競馬ファンのひとりとして、オグリキャップのスポーツとしての競馬への偉大なる功績をたたえつつ心より追悼の意を表したいと思います。合掌。

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