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1から始める木造帆船

はてさてどこか?(その12)

2020-08-05 12:20:37 | 歴史

末盧国よりどこに向かったか、倭人伝にはこう書かれています。

「東南陸行。五百里。伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。」

末盧国からはそんなにの距離、今でも同様の読み方がある町、間違いなく伊都ですね。

実際この周辺多くの遺跡、古墳が分布している様です。

 

                                                                                         

 

当時は、千余戸、対馬と同程度と戸数的には少ない感じだが、いろんな国(町)が、周辺に広がっていたのか?

ある方は表記ミスで万余戸の間違い?との意見も。

ここで初めて「王有り。皆、女王国に統属す。」と書かれており、女王国=邪馬台国と考えると、やっぱ近い所に女王国?

さらには「郡使往来し常に駐する所。」と、今までとは破格の描写、かなり開けた国の様子が伺えます。

実際いろんな遺跡がこの一帯に分布しており、主だったモノ挙げてみましょう。

・三雲南小路遺跡  :方形周溝墓で甕棺を2器添える様に設置した墓

    副葬品   1号:銅矛2本、銅鏡31面以上 他ガラス製品等

              銅鏡:16~27.3cm 連弧文銘帯鏡がうち26面以上と大半

               2号:銅鏡22面以上 他ガラス製品等

              銅鏡:6~11.4cm  連弧文「日光」銘鏡がうち16面以上と大半       

・井原鑓溝遺跡    :三雲南小路遺跡の周辺にあるが、近年の調査ではその所在は確認されていない。天明年間(1781~1788年)に、この遺跡から

                  21面の鏡が出土している。拓本から全てが方格規矩四神鏡である。後漢尺で6寸のものが多く、王奔の新時代から後漢の時代

                  にかけての鏡であり、その他巴形銅器3、鉄刀、鉄剣類が発見されているが細形銅剣、銅矛などが出ていない。

                  昭和49~50年の調査では所在は確認されていないが、甕棺墓があったことは間違いないとされている。

・平原遺跡        :三雲南小路遺跡遺跡の西側の曽根段丘上に存在する、弥生時代後期~晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称。

                 昭和40年(1956)に1号墓が偶然に発見され、昭和63~平成11年(1988~1999)に1号墓周辺に調査範囲を広げて、

                 最終的に5基の墳丘墓が発見されている。1号墓から直径46.5cmの鏡(大型内行花文鏡)5面を含む40面をはじめ、

                 多数の出土があった。他に

                 内行花文鏡   2面

                 方格規矩鏡 32面

                           四螭文鏡         1面 

                 他に各種ガラス製品等が多く、武器類は少ない。副葬品から埋葬者は女性とも考えられている。

                 1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出される。

・端山古墳        :古墳時代前期(4世紀初め頃)築造と推定される前方後円墳、 全長78.5mと推定されるが、前方部は完全に消滅していて、

                 大きな円墳状態になっている。前方部は二段築成、後円部は三段築成で、斜面には葺石が施されている。

                 前方部の長さ約38m、後円部の直径は約42m、高さ約8m。盾形の周濠が廻らされており、周濠を含むと全長は約99mとなる。

・築山古墳       :端山古墳の南100mに位置する同様の前方後円墳である。上記の古墳が先に築かれたと考えらえている。

               古い記録には付近に茶臼塚と呼ばれる古墳も存在したことが記されているが、その位置は現在確認されていない。

               これらの古墳は共に埋葬施設の発掘調査は未実施である。

これらの古墳に葬られた人物は、伊都国王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深い関係を持つ豪族であろうと考えられている。

 

特にこの平原遺跡、いろいろ特徴ある遺跡の様です。

 

                                                                                  

 

見た目はさほどって感じですが、上記した様に各種差あります。

しかし、実際発見されたのは、ごく最近?

昭和40年まで発見されなかったってこと、ちょい不思議。

どんな経緯があったのか?

昭和40年、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。偶然の発見で あったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、

調査・発掘が実施された。結果、 遺構は東西18m、南北14mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。

 

                                                                                       

 

原田大六 は、2世紀中頃であるとしている。遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、 破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数として は我が国最多であった。

又、復元された内行花文鏡は下記写真の様に直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等 武具の少なさ、装飾品の豪華さ、

それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。

 

                                                                           

 

ある資料からは、どーも農作業と云えばそーですが、畑や田での作業ではなく、上記現場写真からはミカン畑の開墾中での出来事の様です。

また、掲示板にある様に、墓の周辺には殉死墓もあった様で、この辺りの墓ではかなり格式高い?

また、墓の東側には直径70センチメートルの大柱が立てられていました。この柱は長さが20mにも及ぶと推定される巨大なものです。

この柱は長野県の諏訪大社の御柱と同じ方法で立てられていた様です。

ところでこの大柱が何のために立てられたのかは、今のところはっきりとわかっていません。

大柱は墓から見て東に位置するところから、日の出の方向を意識していると考えられ、太陽信仰に関係するものとみる専門家もいます。

 

                      

 

上記の如く、周溝墓3遺跡から出土した鏡、質・量ともに圧巻です。実物は残念ながらですが、そのうち行ってみたいです

 

いろいろ謎の多い墓であるにも関わらず、思った程には世間の注目集めていません、何でかなー?

と云うより、知らないのはオラッチャ1人?

 

 

 

コメント
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