盆休みも終わったが、まだまだ続くコロナ禍に残暑、酷暑への対応必要です。
今後も台風等の災害に注意、準備し、過ごし易い秋の訪れ待ちましょう!!
ここでは、訪れる国問題、この辺りからです。
奴国までは、多くの人の意見一致しています。
この辺りからの描写が今一って感じで、いろんな変化が。
どんな表現か、先ずは原文から。
「東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。」
まー奴国に近いってことで、さほど意見の違いはないのか、この国?
戸数も千余家と、比較的小さな国の様です、この「不弥(ふみ)国」。
前回の地図に示している奴国の東域で、大きな問題ない?
しかし、東域と云っても、そこそこ範囲は広い様で、近くは福岡市宇美町から図面の様に津屋崎町付近となり、さほどその場所固定はされていない。
と、思っていると、そーでもなくまだまだこの位置、いろいろあっても少し広い域が候補地なのか?
「不弥国」の候補地は、大別すると、大宰府付近、粕屋郡一帯、古賀市周辺、飯塚市一帯に分かれる様で、まー奴国の東域と云えばってところか?
この区域で、どんな遺跡があるか、先ずは見てみましょう!!
大宰府市付近:
・奴国の位置から見ると、東域というより南域?
・7世紀の大宰府造営で、弥生時代の遺跡の多くは破壊された可能性も。
・高雄の吉ヶ浦遺跡から弥生中期~後期の木棺墓10余基、甕棺墓70余基、鉄鏃、斧、鉋等の鉄製品が出土。
・筑紫野市側で江戸時代発掘の二日市峰畑遺跡、永岡遺跡、道場山遺跡など、多数弥生遺跡が分布。
二日市峰畑遺跡:前漢鏡と中細形銅剣を副葬した甕棺墓、弥生中期後半の首長墓
永岡遺跡 :甕棺墓を主体とする弥生中期の墓地
甕棺墓153基(成人44、小人・幼児109)
木棺墓9基
土壙墓21基
銅戈鋳型1基
道場山遺跡 :弥生中期後半~後期初頭の甕棺112基が出土した墓地群。この地域にも首長が居たと想定される。
各種の出土品、規模等見ると、それなりの首長の存在も推定されるが、「不弥国」を奴国の東域と考えた場合、この域を「不弥国」とするには無理がある?
粕屋郡一帯:
・福岡平野の一部と、奴国域に近い。
・扇状地で焼畑農業が主体の地域。
・弥生遺跡が少ない。
・志免町に日本最大級の箱式石棺墓の亀山墳丘墓がある。ただ、副葬品は管玉のみ。
・粕屋町酒殿の石棺墓数基のうち、一つから舶載中国製獣首鏡、小型仿製鏡が出土。
・粕屋町に平塚古墳(大隈石棺墓)があり、内行花文鏡片や管玉が出土している。
・投馬国への出航地と考えるには無理がある。
国レベルの首長墓としては、やや規模の小さい墓等の分布しか見られず、「不弥国」と考えるにはインパクトが弱い。
古賀市周辺
・馬渡・束ヶ浦遺跡
甕棺墓から銅剣、銅戈、銅矛の三点セットが出土し、弥生時代前期末~中期前半の首長墓と思われる。
副葬品は細形青銅武器の銅剣3、銅戈1、銅矛、銅釧5、勾玉1、管玉30、鉄剣1が出土。
この地域は、奴国の春日丘陵同様の青銅器生産が行われていたらしく、銅戈鎔笵・銅釧の鋳型なども出土。
飯塚市一帯
・立岩遺跡(下ノ方、焼ノ正、堀田各遺跡の総称)
甕棺墓43基、貯蔵穴26基出土
前漢鏡(連弧紋鏡、重弧紋鏡)10面、細形銅矛、鉄剣などの副葬品
ゴウホラ貝の腕輪をつけた男性遺体、この付近を支配していた王墓の出土
石包丁(笠置山採取岩石)の一大産地、石剣、石鎌、石戈等の石製品の製造産地
これらから考えた場合、「不弥国」は、飯塚市が妥当かな?、この域、遠賀川上流に位置し、あの遠賀川式土器にも関与?
を考えると、この域一帯がそれなりの各種製品交流市場としても発展していた可能性も。