次はここです。
「東南、奴国に至る。百里。官は兕馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有り。」
僅か百里、隣町って感じかな、奴国は?
そーすると、この辺しかない様です、方向、距離から見て。
図面は盗用につき、既に国名入っています。(ごめんなさい!!)
と云っても、今までも同様の盗用してはいますが・・・
戸数は二万余戸、かなり大きな国になります。
実際それに呼応する形で各種の遺跡や青銅器類が出土しています。また、その鋳型類も県内で一番多く発見と、この一帯での中心地的存在の国の様です。
その国の王墓と考えられている遺跡が、ここ須玖岡本遺跡です。
これらの資料も同様につき悪しからず です。
支石墓になるのかな、この石の下から甕棺やその中にこんな青銅器、鏡等が出土した様です。
あの金印、この遺跡からでも出土すれば、ホンモノとの思いも強いのですが、この遺跡の発見が明治時代、残念ですね。
当時、この辺りに遺跡があるとの思いはなかったのかな?
周辺各所で甕棺墓や 青銅器の鋳型等、いろいろな遺物が出土しています。
これらから見てかなりの規模の国、万戸の数字も頷けます。
須玖岡本遺跡:
福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置し、南北2Km、東西 1Kmの範囲に弥生時代中期~後期の大規模な遺跡群(墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡の遺跡等)
を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。
この遺跡の中の巨石下甕棺墓は明治期に発見されたもので、その後遺物は散逸していて、正確な数値は不明である 。
昭和54~55年(1979~80)の調査では、遺跡の最高所の標高36.3m地点を中心に、弥生時代中期~後期初頭の116基以上の甕棺墓群、木棺墓、中期後半の祭祀遺構など、
あわせて約300基の墓壙が確認された。
また、少し低い西側平坦地で9軒の住居跡が検出され、さらに片磨岩製小銅鐸の鋳型が出土した。