帆船模型で遊ぼう!!

1から始める木造帆船

知らなんだ!!

2020-08-14 09:15:59 | グルメ

最近嵌った袋麺。

先日、在庫が残り少なくなったため、買い物ついでにあの麺も とお願いします。

こっちは車でノンビリ音楽番組堪能!!

買い物終わり、帰って来て

「あの袋麺、セットも売り切れ、単品も売り切れ!! 他の麺は残っているのに・・・」

そんなに人気?

今一度、確認してみよう!!

こんな麺です。

 

                 

 

そーCOOPの味一番白湯味、まーオーソドックスな豚骨味!!

そんな認識しか持っていなかった、いわゆる普通のインスタントラーメン?

最近うちのがこれを注文、この味知ってこりゃーと開眼!!

先ずは、どんな内容?

至ってシンプル、そんなに特徴ありません。

 

                 

 

いろいろ書かれているが、多分にCOOP、他社に比べて食品安全管理がちょい厳しい程度かな?

中身の良し悪し分かりません、ただただCOOPと云う会社のイメージ。

当然委託生産、愛知県の会社の様です。

 

中身を取り出し、見てみましょう!!

 

                 

 

麺にスープ、そして調味料、まー一般のインスタントより食材少ない感じ。

麺はノンフライの細身縮れ麺、スープは粉末、調味料も油って感じのオーソドックス。

出来上がりもこんな感じで、シンプルな豚骨スープラーメン。

作って思った感じは麺の茹で時間が、普通のラーメンより心持長いかな?

この辺りは調理器の火力や麺に対する好みの硬さもあるため、一概には決められません。

出来上がりはこんなところ

 

                 

 

トッピングもなしで、せいぜい胡椒を掛けただけ。

これを啜ると、あーらまー ズルズル麺がお腹に、途中で噛むと、程よい噛み応えに加えて麺に絡みついてるスープの旨さ。

麺とスープのハーモニーが、のど越しの余韻として響いてきます。

途中で飲み込むスープも程よい塩加減。

麺とスープ、どっちもどっち、互いの良さを引き立てます。

 

当然今まで食べたインスタントラーメンの中で5本の指、いや3本、ひょっとしたら・・のラーメン。

 

どんな歴史か、ちょい調べました。

この種のラーメン、COOPの販売、なんと30年も前! 知らなんだー!!!

味一番シリーズとして、この「白湯」、これ以外にも「しょうゆ」、「みそ」、「しお」、「しょうゆとんこつ」がある様です。

他は当然食べたことないが、多分に麺はこのノンフライ麺と思われます。

一度販売中止?で、2013年、7年前に再販売した様です。

実際COOPのインスタント麺のため、いわゆる普通のスーパーでは入手できない?

結果、隠れた名品、マボロシの名品、そんな評価を挙げたい麺かな?オラッチャ的には。

ネット情報では、この5種類の食べ比べ評価でも「白湯」がダントツ1番の様です。

 

ただ、マイナスポイントとして、ちょい高いのコメントも。

5食1袋で定価?¥475の表示。

高い、安いはちょっと不明だが、そんなに ってところかな、普通のラーメンと価格的には遜色ない?

安全面でもCOOPと云うブランド考えれば、まーまー?

 

興味ある方、一度はぜひ!!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はてさてどこか?(その13)

2020-08-11 07:21:41 | 歴史

次はここです。

「東南、奴国に至る。百里。官は兕馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有り。」

僅か百里、隣町って感じかな、奴国は?

そーすると、この辺しかない様です、方向、距離から見て。

図面は盗用につき、既に国名入っています。(ごめんなさい!!)

と云っても、今までも同様の盗用してはいますが・・・

 

                      

 

戸数は二万余戸、かなり大きな国になります。

実際それに呼応する形で各種の遺跡や青銅器類が出土しています。また、その鋳型類も県内で一番多く発見と、この一帯での中心地的存在の国の様です。

その国の王墓と考えられている遺跡が、ここ須玖岡本遺跡です。

これらの資料も同様につき悪しからず です。

 

                       

 

支石墓になるのかな、この石の下から甕棺やその中にこんな青銅器、鏡等が出土した様です。

 

                      

 

あの金印、この遺跡からでも出土すれば、ホンモノとの思いも強いのですが、この遺跡の発見が明治時代、残念ですね。

当時、この辺りに遺跡があるとの思いはなかったのかな?

周辺各所で甕棺墓や 青銅器の鋳型等、いろいろな遺物が出土しています。

 

                      

 

これらから見てかなりの規模の国、万戸の数字も頷けます。

 

須玖岡本遺跡:           

福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置し、南北2Km、東西 1Kmの範囲に弥生時代中期~後期の大規模な遺跡群(墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡の遺跡等)

を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。

 この遺跡の中の巨石下甕棺墓は明治期に発見されたもので、その後遺物は散逸していて、正確な数値は不明である 。

昭和54~55年(1979~80)の調査では、遺跡の最高所の標高36.3m地点を中心に、弥生時代中期~後期初頭の116基以上の甕棺墓群、木棺墓、中期後半の祭祀遺構など、

あわせて約300基の墓壙が確認された。

また、少し低い西側平坦地で9軒の住居跡が検出され、さらに片磨岩製小銅鐸の鋳型が出土した。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盛夏の園芸(その1)

2020-08-08 07:04:18 | 日曜菜園

何とか梅雨が明け、夏本番です。

とはいえ、まだまだ湿度高くも少しカラッとならないものか と日々木陰で過ごしながら夢想しています。

そんな思いとは関係なく、植えた草花しっかり夏満喫、梅雨の雨も水分補給と、良い塩梅になっています。

この域はそんなところで、大きな被害はなかった訳ですが、ちょっと離れるとこれでもかと云う洪水災害発生しています。

こっちは、被害に遭われた方々に、お見舞いの言葉、また、ボランティアの人々にも頭を下げ頑張って下さいと云うくらいしか出来ません。

そーいや、同期の人間が会社と個人で義援金各々・・円、寄付、頭が下がります。

 

この災害、人によっては人災では との意見も。

なかなか難しいところです、ダムの可否?、ダムあれば、あれだけの洪水防げたかは、後だしジャンケンの感否めません。

日本の場合、ダムの管理、いろいろ違う様で、またその貯水の権利、所謂水利権、これまたいろんな絡みがあり、簡単には放流も出来ない様です。

一秒を争う際に、それぞれの権利者に承諾取ることも難しければ、またその後の責任の所在等考えると、何もしない事、残念ながらそれが一番

水管理の関係者にも安全策になります。

現に中国の三峡ダム、ダムのお陰で洪水発生って感じです。ダムの崩壊云々はさておいて、貯水と放流、その駆け引きそこそこ技術的にも大変かな?

いずれいろんな検証記事で報告あるでしょうから、それを読むしか、浅学オラッチャ出来ません。

 

せいぜいこんな草花で、今を眺めます。

何とか、今年はここまで成長、ただ思っていた花と違う感じ?

今後の変化待ちましょう。

 

                       

 

しっかり天に伸びて咲いて来ています。今暫らく待てばもう少し大輪に かな?

ただ、このヒマワリ、予定じゃこれじゃなくこっちだった?

 

                       

 

同じヒマワリでもこれだけの差、今後再度このヒマワリについても撮影、問題点を。

 

こっちはあちこちに植えて、しっかり咲いてくれます。

 

                         

 

これらは、全て昨年のアサガオの花のタネからです。

 

以上、何とか咲いてはくれました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はてさてどこか?(その12)

2020-08-05 12:20:37 | 歴史

末盧国よりどこに向かったか、倭人伝にはこう書かれています。

「東南陸行。五百里。伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。」

末盧国からはそんなにの距離、今でも同様の読み方がある町、間違いなく伊都ですね。

実際この周辺多くの遺跡、古墳が分布している様です。

 

                                                                                         

 

当時は、千余戸、対馬と同程度と戸数的には少ない感じだが、いろんな国(町)が、周辺に広がっていたのか?

ある方は表記ミスで万余戸の間違い?との意見も。

ここで初めて「王有り。皆、女王国に統属す。」と書かれており、女王国=邪馬台国と考えると、やっぱ近い所に女王国?

さらには「郡使往来し常に駐する所。」と、今までとは破格の描写、かなり開けた国の様子が伺えます。

実際いろんな遺跡がこの一帯に分布しており、主だったモノ挙げてみましょう。

・三雲南小路遺跡  :方形周溝墓で甕棺を2器添える様に設置した墓

    副葬品   1号:銅矛2本、銅鏡31面以上 他ガラス製品等

              銅鏡:16~27.3cm 連弧文銘帯鏡がうち26面以上と大半

               2号:銅鏡22面以上 他ガラス製品等

              銅鏡:6~11.4cm  連弧文「日光」銘鏡がうち16面以上と大半       

・井原鑓溝遺跡    :三雲南小路遺跡の周辺にあるが、近年の調査ではその所在は確認されていない。天明年間(1781~1788年)に、この遺跡から

                  21面の鏡が出土している。拓本から全てが方格規矩四神鏡である。後漢尺で6寸のものが多く、王奔の新時代から後漢の時代

                  にかけての鏡であり、その他巴形銅器3、鉄刀、鉄剣類が発見されているが細形銅剣、銅矛などが出ていない。

                  昭和49~50年の調査では所在は確認されていないが、甕棺墓があったことは間違いないとされている。

・平原遺跡        :三雲南小路遺跡遺跡の西側の曽根段丘上に存在する、弥生時代後期~晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称。

                 昭和40年(1956)に1号墓が偶然に発見され、昭和63~平成11年(1988~1999)に1号墓周辺に調査範囲を広げて、

                 最終的に5基の墳丘墓が発見されている。1号墓から直径46.5cmの鏡(大型内行花文鏡)5面を含む40面をはじめ、

                 多数の出土があった。他に

                 内行花文鏡   2面

                 方格規矩鏡 32面

                           四螭文鏡         1面 

                 他に各種ガラス製品等が多く、武器類は少ない。副葬品から埋葬者は女性とも考えられている。

                 1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出される。

・端山古墳        :古墳時代前期(4世紀初め頃)築造と推定される前方後円墳、 全長78.5mと推定されるが、前方部は完全に消滅していて、

                 大きな円墳状態になっている。前方部は二段築成、後円部は三段築成で、斜面には葺石が施されている。

                 前方部の長さ約38m、後円部の直径は約42m、高さ約8m。盾形の周濠が廻らされており、周濠を含むと全長は約99mとなる。

・築山古墳       :端山古墳の南100mに位置する同様の前方後円墳である。上記の古墳が先に築かれたと考えらえている。

               古い記録には付近に茶臼塚と呼ばれる古墳も存在したことが記されているが、その位置は現在確認されていない。

               これらの古墳は共に埋葬施設の発掘調査は未実施である。

これらの古墳に葬られた人物は、伊都国王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深い関係を持つ豪族であろうと考えられている。

 

特にこの平原遺跡、いろいろ特徴ある遺跡の様です。

 

                                                                                  

 

見た目はさほどって感じですが、上記した様に各種差あります。

しかし、実際発見されたのは、ごく最近?

昭和40年まで発見されなかったってこと、ちょい不思議。

どんな経緯があったのか?

昭和40年、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。偶然の発見で あったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、

調査・発掘が実施された。結果、 遺構は東西18m、南北14mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。

 

                                                                                       

 

原田大六 は、2世紀中頃であるとしている。遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、 破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数として は我が国最多であった。

又、復元された内行花文鏡は下記写真の様に直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等 武具の少なさ、装飾品の豪華さ、

それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。

 

                                                                           

 

ある資料からは、どーも農作業と云えばそーですが、畑や田での作業ではなく、上記現場写真からはミカン畑の開墾中での出来事の様です。

また、掲示板にある様に、墓の周辺には殉死墓もあった様で、この辺りの墓ではかなり格式高い?

また、墓の東側には直径70センチメートルの大柱が立てられていました。この柱は長さが20mにも及ぶと推定される巨大なものです。

この柱は長野県の諏訪大社の御柱と同じ方法で立てられていた様です。

ところでこの大柱が何のために立てられたのかは、今のところはっきりとわかっていません。

大柱は墓から見て東に位置するところから、日の出の方向を意識していると考えられ、太陽信仰に関係するものとみる専門家もいます。

 

                      

 

上記の如く、周溝墓3遺跡から出土した鏡、質・量ともに圧巻です。実物は残念ながらですが、そのうち行ってみたいです

 

いろいろ謎の多い墓であるにも関わらず、思った程には世間の注目集めていません、何でかなー?

と云うより、知らないのはオラッチャ1人?

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんなモノ(その1)

2020-08-02 07:37:09 | その他

ある方からの情報で、1セット¥・・・、それで数日時間潰せるグッズあり。

その程度ならオラッチャでもと。

早速探しに向かいます。

どの棚にあったかまでは、その方も記憶にないため、どこから探すか、考えます。

3階の日曜大工? 道具使わないから、ちょい違う。

2階の日用品? これも生活用品でないため、うーん?です。

1階の事務用品? 鉛筆、消しゴムとはちょい違うなー。

と、どこから探す?

店に入って、考えましょう!!

 

3階に上がって、ゆっくり降りながらと、エスカレーターに向かいます。

そこに飛び込ん出来た事務用品棚の特別棚!!

しっかり3段に分かれて鎮座しています、この集団!!

種類は10種以上はある様です。

どれを選ぶか、センスが問われ、あれこれ選んで遊ぶかな?と数種類手に。

しかし、そこまで、時間を掛けるか?と考え、先ずは小手先調べ、オーソードックスからいこう!!

最も売れ筋? 1セット残っている商品選択。

こんなモノ!!

 

                  

 

「スクラッチアート」

頭使わず、手先のみ動かせば製品に。しかもそこそこ時間は必要!!

今の巣ごもりにはうってつけ!!

と、思いながらも、買って・・日、なかなか作業進みません。

 

どんなモノか、ちょこっと調べましょう!!

裏面見ると

 

                   

 

1セットで4枚入っていると、書いています。

どんな4枚かは、裏面にその画面が。

ただスクラッチ後、どーなるかは分かりません。

試しに1枚引き出してみましょう。

 

             

 

スクラッチする竹棒も、1本付いています。

ちょこっと、削ってみましょう!!

 

             

 

ボヤーっと、色彩浮かび上がります。

全て剥いでどーなるか、まだまだ先の話です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする