尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」には、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」として調査した内容が記載されています。
これまでと同様に「郷土調査」の表では、漢数字を用いていましたが、算用数字に置き換え、列の順序も左右を逆にしました。
今回は、この中から常盤村の「時計と楽器調」を見てみましょう。
いろんな種類の時計を併せると、ほぼ全戸がどれかを所有していたようです。時計は生活必需品のようです。
ヴァィオリンという現代でも珍しいものが見えます。古殿を除く総ての集落で、1~3戸が保有しているのが分かります。ヴァイオリンと聞けば、私には「いい所のお坊ちゃんか、お嬢ちゃんが持っているもの」と連想していますが、約90年も前の常盤地区の12軒で所有していたとは驚きです。私の妬みと偏見と思われるかもしれませんが、私の音楽に対する関心が人一倍薄いので、全くヴァイオリンを羨ましいとは思いません。それでも、これほどまでに保有しているのは、何かの社会現象を物語るような気がします。当時、全国的に大きな貧富の差がありました。特に農家の間のそれは大きかったようです。江戸時代に何度もの飢饉などを引き起こした不順な天候と武士階級などからの搾取による重圧は農家を疲弊させ、農地の所有権は極、少数の大地主層に集約されていきました。明日の米さえも確保できない農民は、土地を担保にして高利の借金をしました。しかし、とても借金を返済されるものではなくて、担保の土地はどんどん大地主のものとなったのです。言わば、大地主となる原動力は高利の金貸しによるものです。その観点から言えば恥ずかしい話になりますですが、私の家にも明治や大正時代の土地譲り渡しの契約書がいくらかあります。貸したお金の代わりに担保の土地が譲渡されたようです。私の家は地主階級ではないので、そのような契約書は少ないのですが、村の名主などを務めた大地主などは想像できないほどの契約書があったことでしょう。そのように貧富の差が大きいままで明治維新を迎えましたが、その貧富の差はそのまま残りました。しかも、明治になると江戸時代と比べものにならないくらいに「貨幣経済」が進行しましたので、貧富の差も拡大したものと思います。
つまり、常盤村でもヴァイオリンを持つことができるほどに富裕な一握りの人たちがいたのです。ヴァイオリンは私のような者に与えられても、ギーコギーコと鋸のような音しか出せません。ちゃんとした演奏ができるまでは、ちゃんとした指導者が必要です。しかし、とても当時の常盤村にそのような指導者がいたとは思えません。ヴァイオリンは、富裕な人々の単なるステータスシンボルみたいなものではなかったかと思います。つまり、私流の嫌みでひねくれた言い方をすれば、「俺の家では、ヴァイオリンがあるんだぞ。いいだろう」と見せびらかすために用いられたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。琴もその類かと思うのですが、どんなものでしょう。
それに対して、尺八はどうも様子が違うようです。今では尺八はマイナーな楽器ですが、当時はまだ民謡などが広く歌われていましたので、尺八の需要も結構、あったかと思います。しかも、例えば九日町を見ますと、28軒もが所有しています。2.6戸に1戸の割合になりますので、かなり普及していたようです。地域差は大きいようです。
これらを各集落の戸数当たりの所有数の百分率にしてみました。
グラフにすると地域の特徴が見えます。ハーモニカと尺八で九日町と荒町が抜きん出ています。この両集落では音楽を練習する愛好会でもあったのではないかとさえ思えます。きっと音楽好きだったのでしょう。それに対して、我が畑沢はその傾向がありません。私はその伝統を立派に引き継いでおり、さらに最先端の「音痴」ともいえるほどです。