-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

沼沢の奥に巨石がゴロゴロと

2017-07-13 18:33:59 | 自然

 畑沢の最上流部は、沼沢(畑沢の言葉では「ぬまさ」)です。読んで字のごとくに「沢」になっています。この沼沢には、さらに小さな沢があり、それぞれが別の名前で呼ばれていますが、今回は「沼沢」そのもののお話です。沼沢の中ほどは東側の立石山の尾根が千鳥川の方向へ張り出していて、谷が狭隘になっています。その直ぐ上流部の右岸(「うがん」と読み、下流に向かって右側の岸のことです。)に、高さが2m以上も巨石がゴロゴロと杉林の中に転がっています。岩石としての種類は流紋岩角閃石とはいうもので、畑沢で「立石石(たてすいし)」と呼んでいます。非常に硬い石で、墓石などに使う御影石(花崗岩)よりも硬いものです。硬すぎるので、昔から石材としては不向きですが、畑沢には二体の石仏にも使われたことがあります。そのゴロゴロ振りと大きさを写真で感じ取って下さい。その巨石の数は、数え切れませんでしたので、「ゴロゴロ」で表現しております。

 普通、このような巨石は、川の石がゴロゴロと数ある中の谷川の流れにあります。ところが、これは川から少し離れた林の中です。巨石が比較的平坦な地面に転がっているのです。しかも、巨石が全く埋もれないで、全体をさらけ出しています。それだけに、山菜取りなどの際に突然、数多くの巨石たちに出くわすと、実に不気味なものです。実際、私も小学校1年生のころに経験しました。その印象は強烈でした。あれから何十年も経ちましたが、今でも覚えています。襲い掛かられるような恐怖さえありました。

 この巨石はどこから来たのでしょう。まず、巨石が全く土に埋もれていないことから、既に地面ができて固まってから巨石が何らかの理由でこの場所に来ました。ここへ「来た」のが、川の水で運ばれたものだとすると、角が丸くなっていなければなりませんが、角は尖ったままです。外にも角が取れた川の石もあるはずですがありません。巨石の一部も埋もれていなければなりませんが、埋もれていません。かといって人が持ち運べるものではありませんし、持ち運ぶ理由もありません。

 その謎を解く鍵は、大平山の山頂近くにありました。山頂近くには、大獅子岩や烏帽子岩と言ったさらに途轍もなく大きな岩が残っています。

昭和49年撮影の大獅子岩

 

平成28年撮影の烏帽子岩

 大平山と立石山の中腹から上は、先ほどの流紋岩角閃石で覆われています。硬い岩は浸食されにくくて巨岩の形で地表に残されましたが、その岩の周囲が浸食されて足場を失うと、やがて谷へ落下していったことでしょう。それが「沼沢の巨石群」の正体と思います。

 ところで、歴史のど素人である私は、この巨石を沼沢の伝説と結びつけた「沼澤(ヌマサ)の伝説」というブログを投稿したことがあります。伝説は旧尾花沢高校郷土研究部がまとめたものです。6年程も前のブログになりますが、関心をお持ちになりましたらお探しください。また、背中炙り峠の楯との関係で推論したものもあります。かなりいい加減と言うか、大胆と言うか、まあそんなものです。


畑沢へ行く途中で徳良湖に寄りました。

2017-07-13 15:10:10 | 近況報告

 牛房野で用事を済ませて畑沢へ行くときに、いつもと違う道を通りたくなりました。尾花沢の町に入らないで尾花沢警察署の前を東に向かい、途中で南東方向の徳良湖に出ました。徳良湖は畑沢からかなりの距離がありますが、私には結構、思い出がある場所です。常盤小学校2年生での遠足が最初です。当時、私は川と言えば、畑沢の千鳥川と通学コース上の朧気川(花の木川)しか知りませんでした。また、湖沼では、五十沢から土生田へ行く途中の湯船沢の溜池を知っているだけでした。あのころ、村山市内に出かけるときは、畑沢から五十沢へ山道を通り、さらにそこから山を越えて湯船沢を通っていました。

 さて、初めて朧気川を見た時は、歩いて渡れないほどの途轍(とてつ)もない大河と思いましたし、湯船沢の溜池を見た時は、そこに飛び魚がいるものと思っていました。そんな私が小2の時に徳良湖で取った行動は、実に可愛いものです。先ずは徳良湖を今まで見たことがない「海」だと思いました。海だとすれば塩辛いはずだと考えて、手で掬って舐めたのです。その時、見ていた同級生が言いました。「あれー、〇〇は水舐めっだ」。できればそっとしてほしかったのですが、言われてしまいました。「んねー、臭いかえっだんだー」と言い逃れました。まあ、言いたいことは、徳良湖は海とも思える広い広い存在でしたということです。中学生の時は、私の「ざっこしぇめ」の場所でした。小学生と違い中学生になると、自転車を自由に操れる体力がありますので、片道約6㎞の砂利道など軽いものです。畑沢には生息していない魚などを追いかけました。鮒、鯉、オイカワ、蝦、メダカです。特にメダカは、畑沢だけでなく、荒町でも延沢でも見ることができませんでした。そして、中学校最後の思い出は3年生での徳良湖の芋煮会です。クラスのグループ単位に調理して食べました。下の写真に見える対岸が芋煮会の場所です。今は満水状態ですが、秋に水位を下げると、松の木林の脇に広い平地が現れます。

 長々と思い出話になりました。さて、徳良湖に着くと、南側に多くの人が集まっての賑やかな光景を見ました。主催者側らしき人からお聞きしましたら、JA関係の大会で、尾花沢市内の人が集まってグランドゴルフをやっているとのことでした。ゲームが終わっての閉会式を眺めていましたら、最初に「ホールインワン」賞の表彰でした。ゴルフの場合は滅多にホールインワンできないと聞いていましたので、せいぜい一人かと思いきや7人の名前が次々と呼び出されていました。今回参加された皆さんは、かなりの腕前が集まったようです。球技が苦手な私には、とても羨ましく思えます。そして、私はは将来もグランドゴルフをせずに、眺めているだけだと思います。

 青少年自然研修センターの前に、白鳥がいました。冬鳥なのに夏もいるのです。普通、夏に見られる白鳥は、飼育されているコブハクチョウですが、この白鳥は、冬には北へ帰るはずのオオハクチョウかコハクチョウのようです。冬に徳良湖には沢山、飛来します。しかし、何らかの事情によって北へ帰れなくなったのでしょう。

 夏でもこの白鳥はそれなりに様になっています。

 徳良湖での道草も終わり、いよいよ畑沢へ向かおうとしましたが、ナビの中に「袖原分校」の文字が見えました。どうせここまで来たのだから見て行こうと立ち寄ることにしました。しかし、ナビが示す場所には何の建物もありません。しかし、学校跡らしく、大きなタイヤでできた門らしきものと、桜と杉の大木がありました。袖原地区の小学生は、冬季だけ3年生まで分校で勉強しました。袖原の小学生は、私たち畑沢の小学生とはスキーのライバルでした。いつも、両地区の小学生は、常盤小学校のスキー大会で1位を争いました。けっして、2位を争うのではないのです。そして、袖原の人たちは成績が良いのも印象的でした。

 袖原から畑沢へ向かう途中、延沢へ出ます。その時、小高い丘を一つ越えます。何の変哲もない道路を通るのですが、この日の私はちょっといつもと違いました。いくらでも道草の種を見つけられます。丘を下る時に、左の崖が白くなっていることに気付きました。一見、崩落防止のモルタル吹付のようですが、どうも様子が変です。そして、古殿地内の朧気川右岸に見える白い崖を思い出しました。もしや、あれと同じ物ではないかと想像していました。

 車を降りて、ぐっと近づいて観察すると、モルタルではありません。天然の岩です。岩を構成している物質は、肌理が細かい土のような物でした。所謂、泥岩の類(たぐい)です。ただ、本をめくるように剥離する頁岩(けつがん)かどうかと言うと、私には何とも断定できません。でも、写真でも見えるように薄く剥離しているなような感じもあります。この泥岩は大変、脆くて、直ぐに風化して粘土になりそうです。