-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「背中炙り峠の楯」によって街道(古道)は付け替えられた。

2018-01-06 14:22:46 | 歴史

 とうとう、今度こそ背中炙り峠の楯跡シリーズが一段落します。文字数が多くて恐縮ですが、ここを我慢すれば明日からはゆっくりできます。頑張りましょう。と言うのは、年末から今日までの内容は、私が本にするべく、まとめておいた文章をブログ用に調整したものです。その在庫がなくなりましたので、しばらくの間はこのシリーズがないということです。

 さて、昔の山越えの街道は、尾根に作られていました。しかし、その原則に照らし合わせて考えると、背中炙り越えの古道のルートでは、大きく原則から逸脱して、尾根でない所を道にしている場所が二か所あります。しかし、その二か所とも尾根筋とすることができるはずだった場所です。

 

 先ずは、姥地蔵堂(峠)から村山へ向かう道筋で、尾根を外れて急な斜面の側面を進んでいます。ところが、その急な斜面の上には、なだらかな尾根が続いていますので、そこに道があれば、あえて急斜面をトラバースする必要ないはずです。上の図の太いピンクの破線にそのルートを示しています。昔の街道が獣道(けものみち)や杣人(そまびと)の作業道から自然発生的に生じたものであるとすれば、歩行が楽で安全な尾根を避けるはずがありません。現在、残っている急斜面をトラバースしている道は、自然発生的なものではなくて、無理やり急斜面を削って造られた道です。尾根上にあった道を斜面に移動させて尾根に楯の主要部を造り、さらに街道を楯の一画に組み込んで防衛を強化したものと思われます。楯そのものも大掛かりな工事を要したものと思われますが、道の付け替えもかなりの労力を要したことでしょう。付け替え後の街道は峠から二筋造られました。背中炙り峠の楯跡(主要部)の図中古道(上段)と古道(下段)と書かれているルートです。付け替えられた街道の谷側は、足を誤ると標高差50m下に滑り落ちます。この街道は野辺沢銀山からの金銀を搬出する産業道路、野辺沢軍が南へ進軍する軍道の幹線ですので、交通量も多かったことでしょう。しかし、急斜面ですので十分な幅に拡げることは困難です。そこで、下りと上りの専用に二本のルートを確保したものと思われます。尾根筋にある街道では考えられない発想です。付け替えた街道の中ほどには、「弘法清水」が湧出しました。湧水は楯の兵にとっても街道を通る旅人にもありがたいものです。

 楯と街道付け替えの工事の年代について、S.H氏は、楯の構築された年代を関ヶ原の戦いに備えたころと推察されています。その説に沿った考え方をしますと、西暦1600年の少し前あたりになります。背中炙り越え街道は関ヶ原の戦いのずっと以前から、銀山の金銀を運ばせた道であることはもちろんのこと、その千年ぐらい前ごろからも使われていたであろうことを考えると、「急斜面に付け替えさせられるよりも前の道」が残されていることが想像されました。そこで姥地蔵堂から南へ尾根を調べてみましたが、楯の跡である曲輪や堀切ばかりで道の跡は一切残されていません。「楯」自体が尾根を中心に作られていますので、道の跡が残されていないのは無理からぬことです。しかし、切岸Aの南端の外側に道の跡が二筋、現われました。上図で「より古い古道跡」と書いてある所です。楯の主要部がある尾根へ登る方向を向いています。元々はこの古道の跡が尾根筋へ向かう道だったのでしょうが、楯を造るために閉鎖されて、切岸の下を北上するルートに付け替えられました。その証拠が切岸Aへ向かう楯跡(主要部)の上図中⑧の道です。図ではまるで百足が身を捩(ねじ)っているかのような姿になりましたが、沢山の足を出しているような描き方は土地の起伏を表わしたもので、それなりの労作です。

 この道の断面は、上の図Bのとおりです。普通、古道は旅人、牛馬による踏圧を受けた路面は裸地にされて、降水によって浸食されます。長い年月の間に、図Aのように路面だけがU字型に凹んでしまいます。しかし、この古道の両側は周囲の地面よりも盛り上がっています。これは道を造る時に路面となる地面の土を掘り、土を両側に積み上げたことを意味します。この盛り上がった部分については、楯の土塁かとも疑いましたが、土塁にしては低過ぎますし、ここに土塁を造る意味がありません。これは峠へ登るそれまでの道を強引に切岸Aの下へ持っていくために、地面を掘り下げた結果であることが分かりました。

 もう一か所、古道が尾根に作られる原則から逸脱する場所があります。ここも村山市側です。「背中炙り峠の楯跡(位置図)」を御覧ください。道は楯の主要部を過ぎると、普通の古道らしく緩やかな尾根の上を西にほぼ一直線に下りますが、切通しを過ぎると、大きくカーブしながら急な斜面をつづら折りしながら南下します。切通しは自然に生じたものではなくて、尾根をV字型に鋭く人手によって切られたものです。切通しによる敵軍の侵入を防ぐ方法は、鎌倉七口(かまくらななくち)が有名です。しかし鎌倉の場合は、外部からに入る時に山を越える必要があったので、通路の利便性を考えると切通しが必要ですが、この背中炙り峠から降りてくるこの場所は、尾根から単に下るだけなので、どうしても切通しが必要な場所ではありません。あくまでも軍事上の目的と考えられます。私の推察どおり軍事上の目的で切通しが作られ、元の街道を変更させられたものだとした場合は、「切通しを通らない元の道」が存在しなければなりません。残念ながら、その確認は行っておりません。ここは村山市側になっていますので、正直なところ手を抜きました。今後、それを確認する必要があります。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「背中炙り峠の楯」にまつわ... | トップ | 畑沢で「お家再興」を俟った... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事