吉右エ門は実在したようです。上畑沢の延命地蔵堂の周囲には数多くの石仏があります。その中の二体の石仏に、「願主 古瀬吉右エ門」の文字が刻まれています。一つは、既に「上畑沢の巨大な湯殿山碑」で紹介した湯殿山と象頭山の石仏(以前は石碑としていました。)です。もう一つは、「當村石橋数箇所造立供養塔」です。
今回は、この「當村石橋数箇所造立供養塔」からの考察を行います。石仏は高さ1.3m巾0.4mほどで、凝灰岩でできています。石材は畑沢の奥にあるローデンという石切り場だと思います。この石仏には、さらに表(おもて)の右側に「天明八 ○申○」、左側に「六月 ○○○…」を読み取ることができました。尾花沢市教育委員会の専門家が調べた内容ですと、さらに左側に「古瀬吉右衛門倶塔」の文字も読んでおられましたので、素人は専門家に従います。なお、伝説では「エ」、石仏では「衛」と異なっていますが、同一人物でしょう。
先ず、この石仏は、伝説にある「石橋をかけかえた」ことを供養した記念碑的なものと考えました。石仏では天明8年(西暦1788年)となっていますので、石橋を作った時期はそれ以前と思われます。ここで話が少し地球規模に広がって恐縮ですが、この時期の気象状況について、聞きかじったことを説明します。14世紀半ばから19世紀半ばは、間氷期の中の小氷期と言われる寒冷な時期だったそうです。ロンドンのテムズ川やオランダの運河においては冬の間中、ニューヨークにおいては湾全体が冬季に凍結したこともあったようです。日本でも隅田川や淀川が凍ったこともあったようで、寛永、享保、天明及び天保には、大飢饉がありました。中でも天明3年から7年(西暦1783~1787)の飢饉は、東北地方に大きな被害を与えたようです。天明3年に、アイスランドの火山が大爆発、日本でも浅間山が噴火を起こしました。火山の大量な噴出物が日射量を減らして、益々、寒冷になってしまいました。延沢領の記録からも人口と戸数の大幅な減少が記録されているそうです。実に大飢饉の最中に石橋の建設が行われたと思われます。飢饉で収入がなくなった人民を救済するために、建設事業を行ったと考えることはできないでしょうか。そのように考えると、古瀬吉右衛門という人物は、畑沢の救いの神のようです。畑沢は耕地面積が少ない割には、人口が多かったと思われるところがあります。恐らく背炙り峠に関わる仕事がかなりあったのではないでしょうか。そうであれば、飢饉による影響は他地区よりも深刻なものが想像されます。その意味でも石橋建設事業は大きな役割を果たしたことでしょう。
次に石仏に「古瀬」という苗字が使われていることを考察します。御存知のように、武士階級以外は苗字を使うことが許されていませんでした。天明という時代に、古瀬吉右衛門が苗字を使っている所を見ると、大きな財力があったことが窺われます。石仏に掘られている他の人物の名前には、苗字がありませんので、古瀬吉右衛門は特別な存在だったようです。それでも伝説では古瀬吉右衛門を「豪農」と表現していますが、それは無理があると思われます。畑沢の耕地面積は非常に少ないので、農業では豪農となるだけの余力は生じないでしょう。むしろ、背炙り峠の運搬などの営業を行って、富を蓄積したと考えることできないでしょうか。従って「豪農」ではなく、「旦那」が妥当な表現になるかもしれません。
長くなってしまいました。素人の考察は適切性を欠き、回りくどいようです。前回のブログでは、あと2回にわたってこのテーマについて投稿すると宣言しましたが、約束を撤回にします。とてもそれでは終わりそうもありません。気が済むまでやらせていただきます。それでは、残りは次回以降とさせていただきます。
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