-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

関嶺和尚にまつわるもの

2013-07-14 20:48:40 | 歴史

前日に続いて、関嶺和尚のお話です。今回は、伝説ではなく物的な資料です。

 

1 地名と石仏

 

 関嶺和尚にまつわると思われる地名が畑沢に残っています。中畑沢の西側の沢にある「寺田沢」です。小字名になっています。「関嶺和尚というお寺に関係した人の実家が作っていた田んぼなどがあった沢」という意味であろうかと言われています。その沢の入口にあたる場所には、「カンレイサマ」と呼ばれて拝まれている石仏が立っています。この場所は、その和尚の実家の墓地であったとも、そうでないとも言われていますが、確認はされていません。また、その石仏は風化が激しくて、地蔵なのかその他の仏であるかも判別できなくなっています。ただ、この石仏の左手で支えている物は、まっすぐでなく曲線を描いているように見えます。普通、地蔵が持っている錫杖は直線的です。

 ところで、はるか昔からから続いている古い墓地では、墓石の隣に建っている地蔵の石仏がよく見られます。例えば上畑沢の墓地や荒町のマツボの墓地です。その点に着目すると、「カンレイサマ」と言われている石仏は、墓地の一部だった可能性が高くなります

 いろいろ推察しても、ここいらが素人の限界かと思いますので、これ以上は玄人さんにお願いします。

 

2 墓石

 

 もう一つ関嶺和尚にまつわるものがあります。「関嶺大和尚墓」と書いてあります。

 昔、背炙り古道が盛んだったころ、畑沢から背炙り峠を越えて中沢に入り、さらに次の集落が新山(にやま)に入ります。その新山の入口に、たくさんの石碑とともに関嶺和尚の墓というものが建っています。墓石からは、「延享二年 関嶺大和尚墓 一月十八日」と読めます。墓の年号が正しいとすれば、没年は西暦1745年になります。テレビの「暴れん坊将軍」徳川吉宗のころです。

 関嶺和尚は尾花沢市丹生の巣林寺の住職でしたから、墓も巣林寺にありそうですが、何故、遠く離れた新山に墓が立てられているのかが不思議な話です。また、大変に有名な高僧の墓にしては、字体が貧弱な感じもします。私の推測では、関嶺和尚の墓と明記することにより、関嶺和尚の陣痛力で新山村へ入ろうとする邪気を払って、村を守ろうとしたのではないかと思います。背炙り古道は多くの人が出入りしました。その出入りする人物からいつどんな災禍が訪れるかもしれません。この新山と中沢は背炙り古道の沿線上にありました。同じ古道沿いにある畑沢出身の偉人についてはよく知っていたので、その御威光にあやかろうとしたのではないでしょうか。

 それでは巣林寺で確認すべきですが、素人である私はスビタレコエデいます。正しくは、ヘヤミコエデいると言うべきでしょうか。真面目などなたかに確認をお願いします。



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