-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

関嶺和尚(巣林寺)4…巣林寺を訪問してのまとめです。

2013-12-04 16:00:00 | 歴史

 巣林寺の後ろの墓地には、歴代住職の墓が右から順序良く建っています。住職の墓は昔から「無縫塔」と言う特別な形をしています。その中でも、関嶺(寒嶺)和尚の墓は特別、大きく目立っていました。関嶺(寒嶺)和尚は、何もかにもが破格の扱いになっています。

 

以上が巣林寺で私がお世話になって取材した内容です。

 

 ここで、関嶺(寒嶺)和尚について、私なりのまとめをします。資料は、畑沢に伝わる伝説、尾花沢高校がまとめた「尾花沢の伝説」そして巣林寺の看板です。

 先ず、名前です。畑沢の伝説、村山市新山に建っている墓、尾花沢高校がまとめた「尾花沢の伝説」等では「関嶺和尚」の文字が使われています。一方、巣林寺の看板では「寒嶺和尚」となっていました。二種類の文字が充てられています。先日、巣林寺でお聞きした時は、「そうですねえ、どちらも使われていますねえ」とおおらかな雰囲気で話されていました。どちらが正しいなどの狭い料簡はお持ちでなく、どちらもお認めになるような広いお心が感じられました。私も御住職御夫妻の寛大な対応に甘えまして、「関嶺(寒嶺)和尚」と両方を併記させていただきます。

 関嶺(寒嶺)和尚は、西暦1656年に畑沢の真ん中である「中畑沢」に生まれました。西暦1603年に徳川幕府が開かれましたが、畑沢を含む野辺沢領は1622年に最上家の改易とともに領地を没収されて、関嶺(寒嶺)和尚が生まれた年には、畑沢は天領になっていました。このころ、延沢銀山は、既に最盛期を過ぎていますが、それでもまだ盛んに採掘されていたものと思います。当然、畑沢を通って背中炙り峠を行き来する荷駄と旅人で、畑沢の道は賑わっていたでしょう。

 関嶺(寒嶺)和尚の生家がどこにあったかについては、二つの説があります。一つ目の説は、稲荷神社から県道に降りた場所で、二つ目の説では、もっと東へ千鳥川に近い場所だそうです。元々、当時の道は今とは異なり、別のルートだという伝説もありますので、より詳しい調査が必要かと思います。ただ、証拠とまでは言えないのですが、千鳥川に近い水田の中から大きな栗の木で作られた土台らしきものが出土したことがありますので、千鳥川に近い場所に生家があったというのも、十分に可能性があります。生家の墓は、現在、中畑沢で「関嶺さま」と言って拝まれている地蔵像がある場所だと言われています。

 西暦1660年ごろ、関嶺(寒嶺)和尚がまだ10歳にもならないある日、畑沢の街道を通っていた巣林寺の関係者があること気づきました。いつも通るたびに、手を合わせて頭を垂れる年端もいかない幼子がいたのです。不思議に思いその子に訳を聞くと、その子はお寺の人が通っているので拝んでいたと言うのです。巣林寺の関係者は、こんな幼子がそこまで見通していたことに感心し、寺で幼子を育てることしました。その子は大変に利発で、やがて大変な名僧に成長しました。特に地下水脈を当てる能力に優れ、いくつもの湧水を見つけたと伝えられています。名僧の場合は尾ひれが沢山、付きますので、関嶺(寒嶺)和尚の場合もそのことが十分に考えられますが、仮に関嶺(寒嶺)和尚の湧水を発見する能力が真実だったとした場合は、科学的なことよりも和尚の並外れた行動力を示すものだと考えられます。

 和尚が33歳ごろの西暦1689年には、松尾芭蕉が尾花沢に来ています。芭蕉は宮城県から赤倉を過ぎ、山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越えて尾花沢に入ったと言われていますので、和尚が住職を務める巣林寺の近くを旅した可能性が高いものと思います。昔の街道が今の道路とまったく同じとは言えませんので、「近く」と言ってもかなり曖昧なものです。もしも、そのころ既に関嶺(寒嶺)和尚の名が知れ渡っていたら、芭蕉も巣林寺を訪れていたかもしれませんが、奥の細道には書かれていたと聞いたことがありません。でも、芭蕉と関嶺(寒嶺)和尚の対談でもあれば、面白かったでしょうね。

 和尚は住職として、数々の活躍があったようですが、やがて西暦1746年に90歳の生涯を閉じました。その頃の畑沢では、1724年に中畑沢に「青面金剛」、1744年に上畑沢に「山の神」が建てられています。そして、和尚が亡くなったころは、畑沢の域を越えて名声を博した傑物である「古瀬吉右衛門」が生まれたものと思います。

 和尚が没してからの時代は、大変に厳しい状況が続きます。飢饉が相次いだのです。宝暦の飢饉(1753年~1757年)、天明の飢饉(1782年~1787年)では、畑沢も大きな打撃を受けています。嘉永6年(1853年)には大干ばつが襲いました。その時、丹生地区では関嶺(寒嶺)和尚の像を水に浸けて天候の回復を願っていたのでしょう。

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