Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

我が長男の最終章を振り返って! 2015年3月8日

2015-03-08 13:51:14 | 日記・エッセイ・コラム

3月1日日曜日未明3時、長男が階段を降りる足音が聞こえ、エンジンのかかる音が聞こえて、門が開かれ、鳥取の海岸へ出かける様子が、寝床の中でも手に取るように見えていた、何時ものなら仲間たちと一緒に行くことが多いが、その前日、今日は一人で行くので3時か4時頃帰ってくると言っていた、その日、次男もだが、小生、何故か何やら胸騒ぎがしていた、夜になっても帰ってこないので、9時頃、家内が彼の携帯に電話を入れた、普段と変わらない元気な長男の声が帰って来た『帰る途中だが、少し風邪気味で、しんどいので今、病院で点滴を打って貰っている!』と何時もの明るい長男の声が返って来て電話が切れた、それが彼の生の声を聴く最後となるとは誰も知る由もなかった!・・・

その夜中の12時頃、最初に立ち寄った岩美病院で倒れて、救急車で搬送され、脳神経外科と救命救急センターのある鳥取県立中央病院から電話が入った、「お宅の息子さんが最重症度5の“くも膜下出血”で、当病院のER(Emergency Room、緊急救命室)に搬送されてきたが、すでに意識はなく危ない状態である、直ぐに来てください!」と電話が入った!小生と家内は直ぐ、ナビのある次男の車で、次男が運転して暗闇の中、鳥取に向かった、2日に日は変わり、夜中の3時頃にERに入ると、心拍数・血圧・血中酸素数・1秒間の呼吸回数のモニタリング器機、人工呼吸器、心室細動・心室頻拍に電気的刺激を与え異常な拍動を取り除くAED(Automated External Defibrillator、自動体外式除細動器)、食塩水や点滴剤液、高圧剤注入器などのICU(Intensive Care Unit、集中治療医療機器)に繋がれた意識のない長男がベッドに横たわり、門脇主治医とERスタッフの手厚い救命処置が施(ほどこ)されていた!・・・

   

主治医が非造影剤使用と造影剤使用の脳内画像を見せてくれた、CT(Computed Tomography、コンピューター断層撮影画像)か、MRA(Magnetic Resonance Angiography、磁気共鳴血管画像)のどちらかは定かでないが、造影剤使用の三次元カラー付画像には、大きな動脈瘤が映り、その一部が破れて、くも膜下へ広がっていた!長男の病状は動脈瘤を取り除くなどの手術が出来るものでなく、絶対安静にせねばならない段階に来ていた!・・・

到着時、心拍数120、拡張期142/収縮期80あった血圧が徐々に下がって、心肺機能・脳機能が危弱にならないよう、ドーパミン、ノルアドレナリンなどの高圧剤・血圧コントロール剤が注入され血圧値を高く保つ設定がなされていた、血中の酸素量は99%と、1分間の呼吸数は12に保たれるよう設定されていた、1分間の酸素吸入回数も12から15へあげられた、加湿しながら送られる空気の水抜きも警報が鳴れば除水しなければならない、2日の夜、10時24分、血圧を高めるコントロール剤の注入量が目盛0.6から0.8に上げられた、高圧剤は効き目が出るまで5分から10分位かかる、3月3日未明目盛0.8からMAX1.6に上げられた、これで血圧が降下するようではなすすべがなくなる!血圧は154/86に上がったが心拍数が心臓に負荷が更にかかる150にも上がった!体温も不安定になり37.8から40℃を行き来するようになった!・・・

長男には10年来付き合っていたボード仲間の女性が居たらしい、しかし家内には愛称だけが伝わり本名が分からなかった、それを知るため、明石市二見の、ボード仲間が集まるショップ“エミュー”からのダイレクトメールを観て電話した、そしてオーナーに願い出てボード仲間に連絡して頂き、その女性の名前と電話番号を聞いて欲しいと依頼した、やがて一人のボード仲間から小生の携帯に電話が入った!彼は、その女性は分からないが、出来るだけ多くの仲間にラインで連絡すると言ってくれた、長男の容態がジリジリ悪化を辿って行った、我々3人は病院の家族控室で寝泊まりしていたが、その夜9時頃、今夜が山場であると医師から知らされた!・・・

その3日の午後1時から、次男は、彼女の名前をボード仲間から訊くためと、家内に着替えや毛布など持ってくるよう頼まれた物をとりに、一次、加古川の自宅に帰っていたが、直ぐ次男に電話を入れ、直ぐ病院に戻ってくるように伝えた、3日22時30分、長男の容態が急変した!上の血圧値が40を切り始めた!22時35分、急遽ドーパミンとノルアドレナリンに加えて、心臓増強剤イノバンとピトレシンが加えられた!しかし、日が4日変わった1時過ぎ、長男に“脳死”の判定が下った!ここから医師と4人のERスタッフの懸命なる心肺蘇生が5分以上続けられた!・・・

その時、家内が思い出した!10年前、家族四人が集まって、4人全員で、臓器提供意思表示カードに、“私は脳死の判定に従い、脳死後、〇で囲んだ全臓器、また心臓が停止した死後、移植のために〇で囲んだ腎臓、角膜を含む眼球、膵臓、その他全部を提供します!”と署名していたことを家内が思い出してくれた!直ぐに家内の財布に入れていたドナーカードを主治医に提出して、臓器提供の意思表示を主治医に申し出た!血圧が80以上の脳死の場合は全臓器が提供できたが、40以下に下がれば、両眼球と両腎臓に限られた!直ちに救命センターから近くの臓器提供コーディネーターへその旨の連絡が行った、夜中3時頃だったろうか、米子から島根大学医学部内“鳥取県臓器・アイバンク”から2人、島根県から、島根県まごころバンク“ヘルス・サイエンスセンター島根”から一人、3人のコーディネーターが駆けつけ、医師側との話し合いが始まったようだった!・・・

その未明4時ごろ、小生、家内、次男は婦長さんが同伴して別室に呼ばれた、その部屋には3人の臓器提供コーディネーターが待っていた、”ご家族の皆様方に、ご確認いただきたいこと”とタイトルの着いた、公益社団法人・日本臓器移植ネットワーク編纂(へんさん)の小冊子が各自に手渡された、その中身が3人のコーディネーターから噛み砕くように説明された、そして長男の一対の角膜と一対の腎臓の臓器提供を我々3人が最終承諾し、書面に署名して臓器提供の手続きが成立した!腎臓移植の場合、白血球数が多い方が良いとのこと、血液マッチ度などの検査のため長男から採血された血液が“広島血液センター”へ送られた!・・・

脳死判定が下った後すぐに、主治医とERスタッフによる懸命なる心肺蘇生処置とAED蘇生が施されていたが、一時は血圧が154/86と上がったが、再び心拍が150に上がり血圧は次第に下がり始めた、そして遂に心臓が停止し、両眼瞳孔の開きが確認され、4日朝7時01分、長男は38年と1週間の生涯を終え、帰らぬ人となった!1月31日に亡くなり、彼がこよなく愛した愛犬サクラのあとを追うようにして、長男は敢え無く天に召されていった!その後、いよいよ旅立ちの準備がなされていった、小生は電気カミソリで長男のヒゲを剃ってやり、家内は長男の顔を拭いてやり、二人で首や腕などを拭いてやった、そして看護士さんの手によって綺麗に薄化粧されて長男の顔が、口元に微笑みが浮かび、まるで生きているように蘇(よみがえ)った!・・・

 

最初にかかった岩美病院で意識が薄れていく中、『こんなところで死にたくない!』、さぞ悔しかったろう!さぞ遣る瀬(やるせ)無かったろう!さぞ虚(むな)しかったろう!彼にも、これから目指す夢があったろう!生きて加古川に帰りかったろう!その頃、広島血液センターへ送られていた長男の血液検査の結果が届き、全て堂々合格していた!3月4日朝7時30分に鳥取大学医学部の執刀医によって腎臓が綺麗な状態で摘出手術され縫合された!その9時30分過ぎに別の眼科医師によって眼球の摘出手術が終わり、義眼の埋め込み手術が終わっていた!やがて、それぞれの臓器は、一日千秋の思いで待ち続けた患者の元へ届き、やがて移植された長男の臓器は生き続けていくだろう!・・・

4日午後1時頃、次男が一足先に帰り、遺体受け入れ準備にかかってくれた、2時頃、鳥取市地元の葬儀社の霊柩車に長男の遺体がストレッチャーに乗せられた、地下道出口まで見送ってくれた門脇医師を始めとするICUスタッフと、臓器提供コーディネーターに深く謝意を述べて鳥取県立中央病院を後にして帰路に着いた ! 地下道スロープを上がると、家内はそのまま霊柩車の長男に側に寄り添った、小生だけ霊柩車から降り、外来駐車場に停めていた長男の車に乗り換えた!・・・

 

小生は長男の車を運転して霊柩車のあとに着いた、長男の遺体は、鳥取自動車道をした走り、佐用インターから中国縦貫道へ、福崎インターから播但道へ、播但道姫路東ジャンクションから姫路・加古川バイパスへ、4本の高速道を乗り継いで、2時間半かけて、長男がさぞ生きて帰りたかったろう住み慣れた加古川の我が家に帰還した、彼は如何にも安住の場所に帰って来て、ホッとリラックスして、くつろいでいるように居間に横たわった!長男は1日、我が家に過ごしてから翌日5日午後4時、その夜7時開始のお通夜と、6日10時20分開始の家族葬が行われる“JAやすらぎ会館”からお迎えの車が来て長男の遺体はそこへ移されていった!やすらぎ会館に着くと、遺族・親族の控えの“蘭の間”で、長男の遺体は二人の係員によって、丁寧に棺(ひつぎ)に入れられ飾りつけされ、遺影とともに仮祭壇に安置された!・・・

    

故郷は遠く離れて、その良さが分かるもの!生きて帰りたかった!その長男の強い思いを、彼が好きだったBeeGeesのメイン・ボーカルのロブ・ギブが切々と歌い上げる70年代のオールディーズ“愛(いと)しのマサチュセッツ”の歌に託して、小生からの旅立ちの曲として長男へ贈ることにした、5日夜7時開始、JAやすらぎ会館でのお通夜の席には、何と50人ものボーダー・サァーフィン仲間が集まってくれた!長年、長男がトラック整備士の主任として務めた栗山運輸から、専務夫婦を始めとしする多くの会社関係者が参列して下さった、長男は会社のこと、従業員の事、特に女性事務員達と、彼女らが可愛がっている犬達のことを話してくれた、長男の話から、その会社が一つの家族のような温かい雰囲気がいっぱいの職場であることが強く伝わっていた!実際、彼等、彼女達に会って、その通り!そのことを更に強く実感した!・・・

小生、ふと、式場入り口に目をやると、長男が最後に身に着けていたウエットスーツがフックに掛けられ、そのそばには長男愛用のサーフボードなどが台の上に展示してあった、それは次男が彼の意思で会場まで運んで来ていたものだった、次男よ、でかした、あっぱれ!その夜7時、家内が選んだアメージング・グレイスの曲が流れて、無宗教の形でお通夜の式典が始まった、会場の全員が泣いていた、何と次男が号泣していた!全員の献花が終わったあと、喪主を務めた小生の挨拶の最後に、司会の筏さんに頼んでいた、小生選曲のCD“Massachusetts”を流して貰い、参列してくれた全員に聴いて貰った!あちこちから大きなすすり泣きの声が鳴りやまなかった!長男がリーダー!リーダー!と慕われた由縁を知った思いに満たされ嬉しかった!長男本人が一番喜んでいただろう!その夜遅くまでサーフ仲間が長男の展示品を囲んで観ていた!その夜中、名古屋など遠方から来てくれた親族を含め5人ほどで蘭の間で寝ていると、インターフォンが鳴り、夜勤でこれなかったと、二人のボード仲間が駆けつけ長男の遺体に手を合わせてくれた!・・・

             

また6日10時30分開始の親族・家族葬の後、6日午前11時、長男は日光山墓園の奥に広がる加古川市斎場兼火葬場で荼毘(ダビ)に付された、2時間近く経ったあと、ロビーから火葬窯の部屋に呼ばれ、850℃の高温で焼かれ骨と灰と化した長男に会った、職員は「この様に、神の様にすべて包み込む、慈愛に満ちた姿の”第2頸椎(じくつい、axis)”は観たことがない、立派だ!」と言ってくれた、丁寧に御骨拾いをした後、現地解散となり、大きな骨壺と小さな骨壺に納められた長男の遺骨は帰宅し、愛犬サクラの遺影とともに並べられた!・・・

何時か喪が明けてから、鳥取からお通夜に参列してくれた現地のサーフィン仲間達が教えてくれた長男のホームグランド“東浜海岸”に、その一部を蒔きに行ってやろう!秋ごろが良いだろう、また彼等の話によれば、2,3週間前から長男は頭と首周辺の痛みを訴えていたらしい!小生、無理するなよ!と日頃から言っていたが、そのことがもっと早く我々に伝わって居れば・・・、否、それは言うまい、また他の現地仲間の一人が伝えてくれた、3月1日当日、長男は朝方少し海に入っただけで、ほとんど車の中で休んでいたらしい!その頃から、長男はさぞ、生きて我が家に帰りたいと願い焦がれていたことだろう!・・・

  

先ほどお昼前に臓器バンクから電話かかって来て、長男の一つの腎臓が5日未明2時に無事移植が完了し、その5日未明5時には、もう一つの腎臓移植が終了したと連絡があった!また、明日9日には、2つの眼球が別々の患者に移植されることが決まったと連絡されてきた!長男よ、臓器移植レシピエントのなかで末永く生き続けてくれ!余りの突然の出来事で、長男の死が未だに信じられない!主(あるじ)が居なくなりポッカリ空虚になった彼の部屋を観るたびに、長男が、まだ生きているよう思えて仕方ない!また、お通夜の夜、仕事で遠方に出ていたトラック運転手の代表二人が我が家に来てくれて、御骨と遺影に手を合わせ、「よく我々の無理を聞いてくれました!」と言ってくれ、感謝の手記と御霊前の心づけを置いて言ってくれた!感謝感謝・・・

         

小生、長男の死から脳ドック受診の大切さを実感した、小生に一度受けておくように ! との長男からのメッセージと受け止めた ! 早いうちに受けとかなくっちゃ、読者の皆さん、少なくても四十九日の喪が明けるまで、小生のブログはお休みにしたいと思います、悪しからず、何時かまた、お目見え出来るのを楽しみに、暫しお別れ致します、さようなら~~~!(T_T)/~~~・・・

 

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