Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

歴史秘話ヒストリア“龍馬暗殺の瞬間に迫る”~最終章! 2013年5月13日

2013-05-13 15:05:30 | 日記・エッセイ・コラム

坂本龍馬 暗殺事件の悲劇の夜に、近江屋二階奥の8畳間で何が起こったのか?その核心に迫ってみる!床の間の左隅に架かっている掛け軸の底部に、即ち低い位置に右から左へ跳び散った血痕が残っていた、その痕跡から推測すれば、掛け軸を背にして座っていた龍馬は、立ち上がる前に、座ったままの低い姿勢の位置で、いきなり左から右へ暗殺者の刀が龍馬の額辺りを払ったことになる!捕縛優先ではなかったのか?・・・

龍馬暗殺に詳しい霊山歴史館学芸課長の木村幸比古氏は、捕縛隊は龍馬と中岡慎太郎に警戒されぬよう、また怪しまれぬように、客を装って極少人数の一人か二人で奥の間に入って行ったと推察した!また、そのメンバーは誰であったのか?それこそ今回、佐々木が抜擢した小太刀の名手・桂早之助だと木村学芸員は推定した!『京町屋のような狭い空間での接近戦では小太刀で闘うのが有利になる、小太刀の達人・桂が龍馬を襲うシナリオがすでに出来ていた!』と木村学芸員は言う!・・・

襖を開ける前に『ごめん!』と断りを入れて、桂一人が8畳の間に入って行った、桂は長太刀を右に置き、敵意が無いポーズで龍馬に進み寄り正座して向かい合ったと考えられる、桂は龍馬が懐に忍ばせたピストルで何時でも応戦して来てもいいように警戒した、『おぬしあ?・・・』、籐吉が持ってきていた十津川勤皇党の手札と桂の顔を見比べた、龍馬にとって目の前の桂は見知らぬ男だった、先ほどの籐吉が立てた物音で龍馬も桂を警戒した!・・・

「ここで再び龍馬を取り逃がすと幕府の権威が地に落ちることになる!」と考え、桂は焦った、極度の緊張が桂を襲った!その時、次に桂が取った瞬時の行動は!?小太刀を抜き放ち!龍馬の額を右へ払った!龍馬は顔を左へ振って避けようとするも一瞬、間に合わず!血が掛け軸の底部に飛び散った!右手で振(ふ)るった桂の小太刀は確実に龍馬の額を捉え!致命傷を負わせていた!・・・

更に桂は立ち上がり肩より背に掛け、2度も切り付けた!龍馬は床の間の刀を取るも鞘のまままで応戦しようとした!つぎの桂の上段からの一振りを、龍馬は鞘で受け止めた!しかしその一撃は防いだ龍馬の鞘の板を斬り割り、なかの刀心を削り取るほどの激しいものだった!その時、バンッと!襖が開き!そこへ今井信朗と渡辺篤と思われる二人が雪崩れ込んで来て!刀を取ろうとした中岡の背中と腰に斬りつけた!直も腹に!背中に!何回もめった刺しにした!すべて一瞬の出来事であった!・・・

桂の刃(やいば)に倒れた龍馬は即死状態であった!そこに隊長の佐々木只三郎が入ってきて、トドメをさそうとした3人の隊士に『もう良い!』と咎(とが)めた、3人は刀を鞘に納め、佐々木と共に部屋を出て行った、そのあと、血に染まった畳の上には、うつ伏せに倒れたまま動かない龍馬と中岡が残された!龍馬暗殺の実行犯の一人、渡邊篤の証言に寄れば、7人の男たちは土佐藩士の追撃を恐れて、犯行後直ぐ近江屋を去って行ったと言う!・・・

佐々木等七人の侍が、二条城の北に屯所としていた松林寺(しょうりんじ)に辿り着いたのは、その日の日付が変る頃だった、『一同ご苦労であった!』、当初の龍馬捕縛はならなかったが、佐々木の音頭で龍馬暗殺計画の成功を祝って、一同は祝いの盃を挙げて、労をねぎらった!その時まで人を手にかけたことの無かった桂早之助だったが、酒が飲めない下戸(げこ)を忘れて、この夜だけはシタタカに酒に酔いつぶれた、のちになって、そう桂家の家族が語った!・・・

この夜、本懐を遂げた佐々木は桂に謎めいた歌を贈った、『影やとき 月やは遅き 山の端(は)を いずれはうつる 谷川の水』、“影は速く動き、月は遅く動く、しかし、やがては、月も谷川の水に映ることになる!”、もっと砕いて解釈すれば、“いつかは、自分たちの行いが認められる時がきっと来る!”そんな思いを、佐々木はこの歌に込めたのかも知れない!・・・

龍馬が殺されたあと、朝廷の中では徳川家を新政府から排除しようとする動きが急速に強まった!龍馬暗殺から1ヵ月半が経った慶応4(1868)年1月3日、“鳥羽・伏見の戦い”が勃発し、新政府軍と旧幕府軍が衝突した、この戦いで、佐々木只三郎も桂早之助も暗殺に係わった隊士の多くが命を落としていった!静岡文化芸術大学准教授・磯田道史氏に寄れば、龍馬暗殺は結果的に、徳川家の滅亡を早めたと語った!・・・

龍馬は慶喜を新しい政府の中に位置づける役目をやってくれていた!ゆえに龍馬は危険に見えて、徳川家を守ってくれる人物であった!やった~~!龍馬を斬ったぞ!と喜んだものの、実は非常に皮肉な結果をもたらしていた!徳川家の命脈を縮め!むしろ、味方を討ってしまったという“誤爆”だった!と、龍馬暗殺が日本の歴史のマイナスの汚点を作ったと磯田准教授は惜しむ!・・・

今回は見廻り組み実行犯説を観てきたが、龍馬暗殺を巡っては謎めいていて、他にも実行犯説、黒幕説が色々議論されている、その説の多さが坂本龍馬と言う存在の大きさを物語っているのだ!龍馬は京都・東山の霊山護国神社にある坂本龍馬の墓所に、近江屋でともに命を落とした2人、山田籐吉(享年19歳)と、中岡慎太郎(享年30歳)とともに、今も静かに眠っている!・・・

アナタの意見がアニメになる!大人気の「うさぎのモフィ」アニメ化記念アンケート

最後に、龍馬にはもう一つの秘話がある、今からちょうど150年前の文久3(1863)年6月29日に、龍馬の郷土・土佐に住む龍馬の姉、乙女に宛てた書簡のなかに、自らの死を覚悟していた龍馬はあの有名な言葉を書き贈っていた!“日本を今ひとたび、洗濯いたし申し候!”である、日本の改革宣言をするこの言葉のあとには、余り知られていない、こんな続きがあった!・・・

『私を決して長生きするものと思ってはいけません!私が死ぬ日は天下が大きく変わるときでしょう!生きていてもいなくてもよい!そんな役立たずとなるまでは死ねません!すずめ貝のように、何時も鼻の先に土を着け、頭に砂をかぶって、目立たぬように潜んで居ります!ご安心ください!』と乙女への書簡にこう綴っていた!日本を洗濯する決意と同時に、龍馬が固めていた死の覚悟の先には、日本が明治と言う新しい時代の一歩を印すということだった!そのことが実現したのは、龍馬がこの世を去ってから半年後のことだった!・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする