昨夜のNHK“その時歴史が動いた『日本外交力誕生~伊藤博文・神戸事件解決~』”を観て、今まで身近なことながら全然知らなかったことを1大発見して驚嘆した☆☆ななぁぁぁ~~~と☆あの日本国初代内閣総理大臣・伊藤博文が初代兵庫県知事として神戸と兵庫県の発展のために大いに係わり貢献していたのだ☆☆
永~~~い鎖国の眠りから覚めようとしていた幕末の頃、イギリス・アメリカ・フランス・スペイン・ポルトガル・オランダ・ロシアなどの列強諸国が産業革命の近代化文明から物質的富を、市民革命から自由を勝ち取った!!やがて安い原料を求めて、自国の経済的基盤を築き世界に市場を拡げるためアフリカ、アジア、カナダへ進出していった、また巨大大砲を備える軍艦艦隊を率いる軍事力が猛威をふるわせていった、領土拡大の欲望を膨らませ次々と植民地を獲得して行き世界陸土の35%にも至って行った・・・
やがてインドをそして東アジアへそして清から明王朝に変わった中国を征して、幕末の動乱や王政復古で弱体化し空洞化していたジリジリ末期江戸幕府に迫っていた・・・
下田沖にペリー率いる4隻の“黒船が来航”し開港を迫る空砲を轟かされて、震え上がり下田を開港し1854年に日米和親条約を結んでいる、また少し遅れてやってきたロシア艦隊のプチャーチン総督とも同じく日露和親条約をも交わしている、
薩摩藩主・島津久光が江戸からの帰国途中相州・生麦村(今の川崎と横浜との間の宿場)で英商人が行列に割り込み4人が手打ちにされた生麦事件に端を発した1863年の“薩英戦争”、7隻の艦隊で鹿児島湾を攻撃して遺族への賠償金2万5000ポンドを払い和議が成立している、
この戦いで鹿児島市街は大破したものの薩摩藩は80門もの陸上砲台をぶっ放しての善戦してイギリスの方にも大きなダメージを与えている、艦船大破1隻・中破2隻の他、旗艦艦長・副長の戦死を含む死傷者63人・・・
1864年には4国列強“下関砲撃事件”があった、攘夷色の強い長州軍が下関沖を航行するイギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊に向けて砲弾を放つチョッカイを出してが反対に砲撃されあげくの果てに上陸されコテンパンにやられている、さらに激怒した列強はそこら中、瀬戸内沿岸に点在する砲台と言う砲台は全て破壊し、手のつけられない状態に也った、
急遽イギリス留学中の長州藩士・伊藤博文(当時24才)と井上馨(かおる30才)が帰国して列強を交渉してなだめさとした、同じ長州の高杉晋作(26)も加わり賠償金300万ドル付きの停戦協定に持ち込んでいる(~_~;)やれやれ
この頃軍艦奉行・勝海舟が建てた“神戸海軍操錬所”と“神戸海軍塾”があったが世界への見聞に広く列強の強さを熟知していた、開国推奨幕臣達は無駄な抵抗はせずやがて訪れる日本の夜明けの未来図を描いていた、この神戸海軍塾で訓練を受けたのち土佐藩の後押しで坂本竜馬は“海援隊”を立ち上げ練習艦“咸(かん)臨丸”で万次郎らと渡米して西洋先進文明に時下に触れて吸収していった、
1868年鳥羽伏見の戦いで尊王攘夷を掲げる長州・土佐・薩摩連合の新政符軍が幕府軍を打ちのめした後、徳川方の尼崎藩の見張り役・備前藩部隊が三宮神社に差し掛かった折、列を横切ろうとした2人のイギリス水兵を傷つけてしまった“神戸事件”、それに怒(いか)った英仏軍隊は備前隊を銃で蹴散らしたが怒りが治まらず、日本新政府に抗議文を出し臨戦態勢に入ると脅した、
そこでまたもや我等、伊藤博文の出番ととなり、政権が朝廷から日本新政府に移ったことを表明し、列強連合艦隊と交渉に入った、天皇の権威を損なわぬよう万国法(今の国際法)に従い備前藩家老を謹慎処分とし、備前隊隊長・滝善三郎を兵庫・永福時にて列強各外交官の目の前で切腹処刑に応じて事態の決着に至っている・・・
1868年(明治元年)5月伊藤博文は初代兵庫県知事に任命され、開港された神戸港と外国人居留地区の発展に貢献している、その後財務調査のため渡米し、憲法や議会政治調査のためヨーロッパを訪れて、次のような名言を残している、
『日本はまだ誇れるような能力があるわけではない。しかし今まさに他の文明諸国の歴史に鑑(かんが)み、誤りを避けてその良い所のみを採り入れたいと願っている。
我が国の国旗の中央にある赤い丸は、本来、昇る朝日を象徴している。
日本はこれから世界の文明諸国に肩を並べ、そしてついには抜きんでて、この朝日のように天高くのぼっていくだろう。』
そして1885年(明治18年)12月枢密院は伊藤博文を日本国初代内閣総理大臣に任命した、そして彼は4期に渡り伊藤内閣を組閣する長期政権に君臨したヽ(^。^)ノ☆☆