明治新政府は徴兵制に踏み切り、旧体制の武士階級の禄高を無くすなど、次々と士族階級をお払い箱にする新政策を断行し、その歪(ひず)みは次第に大きくなっていった、遂に、明治9年(1876)10月、松下村塾塾生の仲では一番温厚な前原一誠が、奥平謙輔らと組んで、藩校・明倫館に不平士族200名を募り、“殉国軍”なるものを決起しようとしていた、そして山口県庁の襲撃と、天皇に直訴せんがための企てを目論んで居った、いわゆる“萩の乱”である!民治と美和が駆けつけてみると、その殉国軍志望者の中には、その1年前から明倫館で学んでいた楫取素彦の次男・久米次郎と、罪が許され再興を認められた吉田松陰の養子先・吉田家の家督を継いだ杉民治の長男吉田小太郎も居た!・・・
杉家に戻った民治と美和がその様子を滝と亀に話していると、そこへ小太郎と久米次郎が帰って来た、彼等の姿を観るなり、亀が駆け寄り怒って言った「小太郎!おめえは、そねな処に行って!何を考えとる!」、すると彼等の背後から、松陰先生の遺影に会いたいと言って前原一誠が立っていた、前原は黙って松陰の遺影を眺めていた、外では久米次郎が美和に言った「わたしは死しても志しを貫き通された松陰先生を尊敬て居ります、今の政府は武士たる我等を卑しめ、民の事など何も考えて居りません、そんな政府を正すためにも、断固ことを起こすべし!」、美和「それは闘うと云う事ですか?」、「わたしの志しを世に問うて、何が悪いんです?どうせ私には継ぐべき家も無い!」、「・・・」美和は返す言葉見つからなかった・・・
民治が傍に来て言った『気にするな、久坂家には秀次郎が居るんじゃ!嫡男に家を継がせるんは当然のこと!』、美和「だけど元々は久米次郎が養子になって、久坂家を継いでくれることになって居たのに、久米次郎を追い込んでしもうた!」、民治『それとこれとは別じゃ、小太郎にも意見したが、聞く耳持たん!』・・・前原の後ろに小太郎と久米次郎が松陰の遺影の前に正座していた、そこへ玉木文之進がやって来て前原に訊いた『とうとう立ち上がるんか?今の政府のやり方は、なっとらん!何処まで武士を馬鹿にすれば気が済むんだ!西洋に被(かぶ)れた腑抜けどもには、鉄槌(てっつい)を食らわしてやらねばならん!』その時、文之進は、部屋を覗いている滝に気付いた、うん、どねした?、風呂が沸いたんです!、風呂?何で今、風呂じゃ?、如何ですか、前原さま?、前原は滝の暖かい心遣いに心打たれた・・・
滝は優しく前原の背中を流していった、前原『かたじけない、先生のお母上にこの様なことを!』、遠慮せんで!、『以前にも風呂を勧めて下さったことが在りましたね?』、前原が思い出していた、“風呂は仕事をしたもんから入るんですよ!遠慮せんで、さあ!” と滝が勧めてくれた若き日の事を思い出していた、良き思い出です、今の私が在るのは、松陰先生や仲間達に出会えたからじゃと思うて居ります!日本と異国との係わりを、熱心に議論する塾生たちの中、私は如何して飢える者がのうならんのかと、それが知りとうて!先生はそねな私の疑問を受け入れて下さいました!』、松陰 “ 今一度、日本国の歴史から学びましょう!”、『温かい眼差しでした、貧しい村で育ち、己を卑屈に観て居った私にとって、先生こそ、未来に希望を持たせてくれた方だったんです!』、滝は満面の笑みで頷(うなず)いて居た・・・
風呂上がりの前原に美和がお茶を勧めた、美和は黙って座っていた、前原『何も聞かんのですね?』、美和「今日は寅兄様にお会いに来られたお客様!母もそんな気持ちで、持成(もてなし)したんです、ですので、わたしも!」、『変わって居られませんね、母上様も、あなたも!あの頃と少しも!』、「そねなことは在りません!大分、年を取りました!うっふふふ」、飲み干した茶碗を置き、立ち上がって前原が言った『越後で判事をして居りました、聞いて居られますか?』、はい!、『民の暮らしが余りに苦しく、年貢半減令を出しました、そして、職を追われました、もし、先生が生きて居られたら、きっと新政府に対して命がけの意見をされることでしょう!行動を起こすのみと!』、美和「それが唯一の道なんでしょうか?」、えっ?、「御維新のあと、まだ山口の奥勤めをしていた時、諸隊の皆さんが城を取り囲みました!」・・・
美和は続けた「覚えておいでのことと思います、お国のために命がけで戦うた百姓や町人を、藩は見捨てようとしたんです!やけど、力で事を起こせば、力で押し返されます!多くの人達が死にました!望みに満ちていた若者までが!力では、何も動かせん!もし、動かせるもんが在るとすれば、それは心ではないんでしょうか?」・・・そして前原は、杉家の者達に見送られて、独り去る時に美和に言った『わたしは士族達のためだけに、立ち上がろうとしとるわけではないんです!士族も百姓も町人も、皆が、ちいとでも暮らしやすい世をと、願うだけなんです!』、はい!、『じゃが、あなたが云う通り、力では何も解決せんのかもしれん!もう一度、私を信じて集まってくれたもん達と、よう話し合います!では!』前原は深く頭を下げて去って行こうとした、小太郎と久米次郎が後を追うとしたが『こんでもええ!』と前原は二人を突き放した!・・・じゃが、美和!前原にあねえにくどく言わんでも!・・・
その頃、新政府では、鹿児島の西郷の周りでも不穏な動きが在った、木戸孝允は伊藤博文に言った『そんなことより、今進めんといけんのは産業じゃ、産業を興し、一刻も早う西洋諸国に肩を並べる国力を持たにゃならん!』・・・そこで政府が目を着けたのは生糸であった、日本の生糸は品質も良く、開国以来、海外に飛ぶように売れていた!政府は明治五年 (1872)に富岡製糸場を建設し、北関東の群馬・西毛(せいもう)の上野にその拠点を置いた、これから群馬は日本の重要な県と成ろうとしていた、だが、その地を治めるには厄介な難問が在った、この地は戦国の世から、要(かなめ)の地として、いくつもの諸藩に分かれ、分裂、乱立を繰り返してきた土地であった!伊藤『その様な地を治める適任者が居るかどうか?』、木戸は明言した『一人居る!』・・・
それから暫くして、木戸は部下を従えてある農村を訪れ、楫取素彦の住家を探し出した、そして野良着姿で庭の畑を耕している楫取に出くわした、木戸も楫取の野良着姿に驚いたが、楫取も、まるで西洋かぶれしたかの様に立派なスーツ姿の木戸を観て驚いた、そこへ畑の手伝いをしてもろとる敏三郎が茶を持って現れた、二階の屋根裏部屋では病に伏せた妻の寿が寝込んでいた、木戸『御加減がようないんですか?』、楫取『医者にも診せて居るんじゃが、どうも、ようならんで、それより、幾松様を妻に向かい入れられたとか?』、はい、ようやく!、『それはよかった、では、要件を覗おう!』、木戸は正座し改まって言った『今日は政府の代表としてやって参りました、楫取さんに断(た)っての頼みが在るんです!』、私に?、『群馬の県令(知事)と成って頂きたいんです!』、群馬の?、『あなたしか居らんのです!何卒、お願い致します!』木戸は頭を下げて頼んだ・・・
しかし、木戸らが帰った後、庭で野良仕事をする楫取の姿が在った、木戸は山口官庁を訪れ、楫取が群馬県令の話を断っと井上磬と高杉小忠太に話した、井上『やはり、政府の参与にまでなられたお人が、地方の役人なんぞ出来んとのお考えか?』、高杉『そうではなかろう!楫取殿があの地で、百姓として生きることを決めたんとすれば、もう、まつり事には愛想が尽きたんかも知れん!』、木戸『だとしても、あれほどの人物を放って置く訳には行きません!何とか、説得し続ける積りです!』・・・
そんな折、美和が久米次郎を連れ、二条大窪にやって来た、久米次郎は畑の開墾の様子を観に行った、美和は寿が寝ている二階部屋へ上がって行った、寿は寝間で身を起こして美和を迎えた、寿「やけど、悪いねえ、また来てもろうて!」、美和は手桶の水で絞った手ぬぐいを寿に渡した、寿は首筋を拭きながら言った「わたしが、こんなんやから、あんたも、萩と二条大窪を行ったり来たりで、落ち着いてやりたいことも出来んやろ?」、美和「気にせんでも、今は姉上の身体が、ようなることが一番ですから!」、寿「でも、何時に成ったら・・・」、『寿、大丈夫か?無理をするな!』と下の座敷で書き物をしていた楫取が声をかけた、はい!・・・
美和は階段を下り「何をなさっとるんです?」と声をかけた、『県に提出する擁護(人権庇護)書を書いとる、水田を造るためには、まず水路を造らねばならん!そうすれば、この村は将来、必ず豊かになる!』、その隣では敏三郎が田畑の図面を引いてした、「敏も手伝うとるんやね?」と美和は手話混じりに聞いた、敏は笑顔で返した、楫取『ああ、村のために頑張ってくれ執る!』、そこへ、御免くだせぇませ!と復亮(またすけ)が村人を10人ほど連れてやって来た、復亮は楫取に一礼して言った「楫取さん、二条大窪から出て行ってもらえませんか?」、美和も敏も、二階の寿にも緊張が走った・・・
楫取『如何云う事じゃ?』、「この村の事は、わし等、村のもんが何とかします、やから、楫取さんには、お国のために働いて貰いたいんです!役場で聞きました、群馬の県令に成ると云う政府の頼みを断ったと!それで、わし等、皆で話し合って、皆、楫取さんには、ここに残ってもらいたいんです、やけど、あんたは、わし等とは違う!日本の未来を創られる人なんじゃ!我等に、未来を見せてくれたように、日本中の人達にも、見せてやって欲しいんです!わし等の気持ちを受け取ってつかわさい!」復亮一同が手を着いて頼んだ、楫取は良く考えた、果たしてその決断は如何に?・・・