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まらずもうの歴史(12)

2017-12-06 06:00:00 | まらずもうの歴史

まらずもうの歴史(12) ちんぽおばけ~白河院

 さいきん、大相撲の横綱・日馬富士がモンゴル人の後輩力士・貴ノ岩にリンチを加え、貴ノ岩の師匠の貴乃花親方がそれを警察に訴えたため、日馬富士が引退に追い込まれるというニュースがありました。連日、ワイドショーでは、相撲協会の隠蔽体質や貴乃花親方の対応の是非などについてさまざまな報道がなされ、テレビで貴乃花親方の顔を見ない日はないほどです。

 いっぽう、ネット上では貴乃花親方の出生の秘密についてもまことしやかな噂が流れています。この噂はだいぶ以前からちらほらと流れてはいて、三代目若乃花との絶縁の原因になったとか、へんな宗教にのめりこむきっかけになったとか、いろいろと言われています。当ブログは名誉棄損で訴えられたくはないので、噂の内容については詳しいことは書きません。気になる方はgoogleかなんかで『貴乃花 輪島 家系図』などと検索をかけていただければ、初代若乃花を中心とした複雑な家系図がでてくるかと思いますので、そちらをご参照ください。

 このブログは「まらずもうブログ」なので、まらずもうに話をもどしますと、平安時代後期のまらずもう界でも、似たような下半身スキャンダルが起きていました。というわけで今回のテーマは、例の家系図とそっくりな、初代若乃花にあたる白河院を中心に、鳥羽院、崇徳院、後白河院の4人の関係について、話をしようかと思います。

 

 中学校の社会科の時間に「院政」という言葉をきいたことがあるとおもいます。皇室のなかでいちばん立場の強い人物が天皇を退位したあとも自分の子や孫を天皇にすえて、後見人という立場で政治に影響力を保持しつづける、というあれです。社会科の成績がよかったひとは、白河院という人物が院政をはじめた、ということまで覚えているかもしれません。

 白河院の言葉として、最も有名なのが「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」というものでしょう。当時、圧倒的な権力者として権力をふるった白河院が三つだけ自分の思い通りにならないものとして、あげたものとされています。このうち、「双六の賽」とは博打で勝てないこと。「山法師」とは比叡山にいるまらずもう力士たちのこと。そして、「賀茂川の水」とは京都市内を流れる賀茂川の流れに自分の精液をなぞらえ、性欲があふれて自分では抑えられないことを述べているといわれています。この言葉からもわかるように、白河院は激しい性欲の持ち主としてしられていました。それでも若いうちは正妻一本槍だったのですが、正妻に先立たれ、また政治的にも絶対的な権力を握るようになると、歯止めがきかなくなったかのように、手当たりしだいに女性に手をつけはじめ、そして、手をつけた女性を身近な家来などにおしつけるのです。というわけで、あちこちに白河院のご落胤がいたようですが、いちばん有名なケースは平清盛でしょうか。まあ、これは愛人を押しつけられた平忠盛(清盛の義理の父)も「出世の糸口になる」と喜んでいましたし、実際にのちに平家が政界進出するきっかけにもなったので、ウィンウィンといったところでしょう。しかし、こうした幸せなケースばかりではなく、自分の孫の鳥羽院に愛人を押しつけたケースでは、鳥羽院はだいぶ嫌がっていたようです。

 かわいそうな鳥羽院。役どころでいえば、元大関の貴ノ花ということになるでしょうか。鳥羽院の父にあたる堀河天皇は非常に優秀な人物で、白河院も息子の堀河天皇には目をかけてかわいがっていたのですが、身体が弱く29歳の若さで死んでしまいまいます。しかたなく、まだ幼かった鳥羽院が皇位をつぐことになったのですが、当然、政務をみることはできず、祖父・白河院が後見人として政治の実権をにぎることになります。そういった事情で即位したこともあり、のちに鳥羽院が成長したあとも、白河院には逆らえなかったようです。

 幼い鳥羽院を傀儡にして政治の実権を握り、やりたい放題の白河院。あるとき、とある貴族の娘である藤原璋子という5歳の幼女がかわいいという噂をきくと、その5歳児に興味をそそられます。まだ幼い璋子を養女という形でひきとり、性欲のおもむくままに手をつけました。璋子は幼いころから白河院に性のてほどきをうけ、48歳差という年齢差にも関わらず、それはそれは仲睦まじい愛人関係だったといいます。璋子が16歳になるころには、宮中では白河院と璋子の愛人関係はなかば周知の事実となっていました。それでもどこかに嫁に出さなくてはならない年齢です。身分の低い愛人なら適当な家来に押しつけてもよかったのでしょうが、名目上は白河院の養女という立場上、ちゃんとした家柄のところに嫁に出したいところ。しかし、そういう噂があっては、どこでも嫁にもらうのを嫌がられてしまいます。こまった白河院は、璋子を自分の孫の鳥羽天皇ところに嫁がせることにしたというわけです。相手が天皇なら身分に不足はありませんし、自分の孫のところなら、だれに気兼ねすることもなく自由に会いに行けるので、一石二鳥です。

 白河院は嫁に出したあとも、以前とかわらず璋子へ手をだしつづけます。璋子としても2歳下でなんだか頼りない鳥羽天皇よりも、歳上で頼りがいのある白河院のほうが好み。白河院とばかりいちゃついて、鳥羽天皇のことなど見向きもしません。いっぽう、嫁だと思っていた女に相手にされない鳥羽天皇はおもしろくありません。結婚後しばらくして璋子に男の子が生まれましたが、身に覚えのない鳥羽天皇は赤ちゃんを見ても「俺の子じゃねーよ。じーさんのこどもなんだから、叔父さんじゃん」と知らん顔。この三代目若乃花みたいな赤ちゃんがのちの崇徳院になります。

 当然のことながら、璋子と鳥羽院の夫婦関係は新婚当初から冷え切っていました。それでも白河院が生きているうちは、別な女性に手をださなかった鳥羽院ですが、白河院が死ぬと璋子を放置して玉藻前という女性を寵愛するようになります。

 藤原璋子のほうも鳥羽院には不満をもっていました。晩年の白河院は、高齢になって勃起力が衰え、性交能力を失ってしまったあと、「璋子が別の男とやってるのを見ると、ちょっと興奮する」などと言いだすようになります。幼いころから白河院にセックスを仕込まれて、セックス中毒ぎみだった璋子、白河院が勃起しないのでは……と、手当たりしだいにいろんな男を引っぱりこんでは、白河院に見せつけるようにセックス三昧の日々をおくります。そのときに生まれたのがのちの後白河天皇。貴乃花親方みたいな役どころでしょうか。まあ、後白河院の父親については、鳥羽院も璋子に誘われるまま手をだした覚えはあるので、崇徳院のときのようにあからさまに「こいつは自分の子ではない」とは言いませんが、実際のところ誰の子かよくわからないこともあり、そこまで良好な親子関係ではなかったようです。

 このような荒んだ家庭環境では、崇徳院も後白河院もだいぶ性格がゆがんでしまいました。三代目若乃花と貴乃花が不仲だったように、崇徳院と後白河院ものちに激しく仲違いをして保元の乱という大戦争になります。まらずもう史的にも重要な戦争ですが、やたら長くなるのでこのあたりの話はまたこんどにしましょう。

 

 

 

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