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まらずもうの歴史(10) 

2015-04-06 10:00:00 | まらずもうの歴史

・まらずもうの歴史(10) 金太郎のモデルとなった平安時代の伝説的力士・下毛野

 『金太郎』という昔話は、タイトルこそ非常に有名ですが、「あらすじを説明してみろ」と言われると、うまく説明できない人が多いのではないでしょうか。一般的に知られているのは「まさかりを担いだ金太郎という元気なこどもが、熊と相撲をとったり、熊にまたがって乗馬の練習をしたりした」。昔話に詳しいひとでも「大人になったあと、坂田金時という立派なさむらいになって、大江山の酒呑童子をやっつけた」を知っているのがせいぜい。絵本を読んでもストーリーははっきりしませんし、昭和の伝説的アニメ・『まんが日本昔ばなし』でも「悪い熊と戦う」「熊は仲間、悪い猪と戦う」と2種類の作品があるくらいに混乱しています。

 「金太郎」や成人後の「坂田金時」は、現代の感覚でいえば『ハローキティ』あたりの立ち位置に近く、お話というよりはキャラクター。元気な男の子の象徴として、金太郎飴五月人形・金時豆・金時芋・きんぴらごぼう(=金太郎の息子の「金平」から名前がつきました)などさまざまにグッズ展開されますが、キティちゃん同様、べつにストーリーが固まったお話ではないのです。

 金太郎は平安時代中期のまらずもう少年・下毛野公時(しもつけの・の・きんとき)がモデルとされています。きょうは、平安時代を代表する早熟の天才・下毛野公時についての話をしましょう。

 

(1)生涯について

 下毛野は西暦1000年に下級役人の子として生まれました。幼児のころから人並み外れた巨根で、性欲も強く、いつもまらをいじっていないと気がすまないこどもでした。7歳ころ、まらずもうの才能を見出されて、まらずもう力士としてデビューします。この時代、朝廷の上級貴族はまらずもうを野蛮な風習と考えるようになったこともあり、まらずもうは衰退傾向にありました。宮中での相撲節会が行われることも少なくなっていましたが、下毛野は天才少年として相撲ぶりが際立っていたため、わざわざ特別に開催されたほどです。幼いながらも豪快で破天荒な相撲ぶりは宮中の話題を集めましたが、1017年、九州に新弟子をスカウトに行ったときに、18歳の若さで病死。男色を好んでいたため、旅先の売春宿で性病をもらってしまったらしいです。

 時の権力者・藤原道長は下毛野のパトロンで、稚児のような扱いで男色関係にありました。道長はかれの死を知った悲しみのあまり重病を得て、1019年にはそのまま東大寺で受戒してしまったほどです。道長が仏門に入る際に、藤原氏の氏寺である興福寺ではなく、まらずもうの中心地である東大寺を選んだのも、下毛野を悼んでとのことだと言われています。

 

(2)下毛野の相撲ぶり

 下毛野の相撲は、獣姦・男色などそれまでタブーとされていた大技を積極的に取り入れた自由な取り口が持ち味でした。(→これは、空海によるまらずもう封じ込め政策のせいで、女性相手に興奮するオーソドックスなまらずもうがやりにくかった、という理由もあります。第9回参照。)現代まらずもう力士と比較すると、ちょうど毛呂乃の相撲に近かったようです。1000年後を先取りするような下毛野の革新的な相撲には、文化人の隠れファンも多く、かの有名な紫式部も、

  たづきなき旅の空なるすまひをば 雨もよにとふ人もあらじな 

(巡業で遠くまで旅にでかけている相撲とり。外は雨がふっているが、まるで力士の精液のように見えて、遠い旅先から力士が訪ねてきてくれているような気がする。実際はいないのに)

という歌で下毛野の相撲をたたえています。天候まで左右して、精液を雨のように降らせるところなども、やはり現代の毛呂乃に通じるところがありますね。

 

 また、古代のまらずもうは呪術や占いとして発展してきたという歴史がありますが、下毛野にも呪術師的な側面があり、他人の性的エネルギーを自分のまらに吸収したり、逆に自分のエネルギーを他人に分け与えたり、性的エネルギーの出し入れが自由にできるという特殊能力がありました。現代の毛呂乃もときどき似たような技を使いますが、下毛野の技はより洗練されており、狙ったまらを狙ったタイミングで勃起させることができたと言います。

 この能力を最大限に利用したのが、パトロンである藤原道長です。道長は自分の娘(=彰子)に将来の天皇を産ませ、天皇の祖父として政治の実権を握ることを狙っていました。一条天皇の後宮での、道長の娘・彰子と、ライバルの定子との主導権争いは有名ですが、この際に、下毛野の他人の勃起を自由に操れる能力が大いに役に立ちます。入内してから9年間、なかなかこどもに恵まれなかった彰子ですが、下毛野が一条天皇に秘術を使うと、たちまち懐妊。こうして、彰子の産んだこども(=後一条天皇)のもとで道長は絶大な権力を振るうことができました。下毛野は摂関政治全盛の影の立役者とも言われています。

 下毛野の死後、藤原摂関家の娘たちは男児に恵まれないという不運が続き、道長の一族を中心とした摂関政治はしだいに衰えていきます。道長が世をはかなんで受戒したのも、そのあたりのことを予期していたからかもしれません。

 

 下毛野(しもつけの)というしこ名は、下の毛、つまり陰毛に由来しています。現在のまらずもうでも、摩羅の川(まらの皮)、蒼狼(早漏)、播潟(張形)など、まらずもうに関連のある言葉からしこ名をもってくることが多いのですが、こういったしこ名を使う風習はこの時期からはじまったと言われており、そういった意味でも現代を先取りした力士と言えるでしょう。

 

(3)金太郎というキャラクターの成立

 下毛野の死後、かれのような破天荒なまらずもうをとる力士は現れず、その非常識なまでにスケールの大きな相撲ぶりはしだいに伝説化していき、伝説化の過程で話がすこしづつ変質していきます。ふつう、伝説化すると話がどんどん大げさになるのですが、下毛野の場合は、もともとが非常識にスケールの大きい相撲をとっていたため、ぎゃくに話が小さくなり

 ・まらずもうの力士だった→(ふつうの)相撲が好きだった

 ・獣姦を好んだ→山の動物たちを相手に相撲の稽古をした

 ・熊系の男性と後背位で交わるのを好んだ→熊にのって乗馬の練習をした

 ・ペニスが勃起すると先端が肩の位置まできた→肩にまさかりを担いでいた

 ・若くして亡くなった→永遠の少年としてのイメージ

など、一般人にも理解しやすい形になっていったようです。

 こうした下毛野の伝説化は、鎌倉時代に書かれた『今昔物語集』からはじまり、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃などでイメージが固定化、しまいには「こどもの健やかな成長を願うキャラクター」というもともとの原型をとどめない形にまで矮小化されてしまいました。

 ようするに、昔話『金太郎』のストーリーがいまいちわかりにくいのは、こども相手に獣姦だの男色だのといった話ができないため、ぼかしているうちになんだかわけのわからないことになってしまった、というわけなのです。

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