フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月29日(火) 曇り

2011-11-30 01:59:57 | Weblog

  8時半、起床。コロッケとご飯の朝食。

  朝食を食べ終えたあと、お茶を飲みながら、食卓で日誌をつける。始まったばかりの今日の日誌ではなく、昨日の日誌である。日誌をつけることは自分と向き合うことであるが、一日の初めにそうしたひと時を持つこと朝の座禅に似た効果があるように思う。

  昼から大学へ。3限は選択基礎演習。今日のグループ発表はレジュメの構成やプレゼンテーションの仕方にかなり工夫がみられた。相当な時間をかけて準備されたものであることはレジュメを一目みてわかる。こういうレジュメを見たのは久しぶりである。
  発表のタイトルは「均質化される自己・変質を志向する自己―「わたし」からわたしを解き放つ営為―」。内容は電車やカフェにおける人々の行為を、社会という舞台における「演技」とみなすゴフマンのドラマツルギーの考え方を使って、考察したものである。ただし、発表者たちは、演技=嘘・偽りという連想が働いたようで、演技をしないで本当の自分、素の自分を表出することがよいと考えているふしがあった。しかし、ドラマツルギーの考え方では、人間の行為は本質的に演技であり、演技をしていることを自覚しているかしていないかの違いがあるだけで、公共的な場面だけでなく、家庭という私的な場所でも人間は演技をしているのである。すなわち家庭という演劇=ホームドラマを演じているのである。
  発表の終わりに、今回の発表グループの班長であるA君がクラスコンパをしませんかとみんなに呼びかけ、やろうということになった。

  4限は演習「ケーススタディの方法」。今日のグループ発表は、家族を描いたTVドラマ、『冬の運動会』(1977)、『ホームドラマ!』(2004)、『フリーター、家を買う』(2010)の3つをとりあげて、そこで描かれる家族の変遷を論じたもの。近代社会は「暖かな家庭」と「冷たい社会」という図式で家庭をやすらぎの場所、愛情の場所として位置づけている。しかし、現実の家族は必ずしもそうではないので、自分の家族に不満を持つ人々は多い。現実の家族に不満のある人の一部は擬似家族に本当の家族を見出す。家族の現実が描かれても家族の理想は変ることなく、人々はあいかわらず家族的なるものを求めている。

  今日は夜間当番の日。早めの夕食を「ごんべえ」でとる。久しぶりに釜揚げうどんを注文する。やっぱり釜揚げうどんは旨い。つけ汁と薬味だけで十分旨い。

  生協で以下の文庫本を購入。当番をしながら読む。

  吉野源三郎『人間を信じる』(岩波現代文庫)
  吉田篤弘『小さな男*静かな声』(中公文庫)
  有川浩『阪急電車』(幻冬舎文庫)
  『小林賢太郎戯曲集 椿 鯨 雀』(幻冬舎文庫)

  『人間を信じる』の「解説1編集者としての吉野さん」(緑川亨)の中に、偶然、ドラマツルギー的なエピソードが出てきたので紹介しておく。

  「かつて、吉野さんが、ふと口にされ、その瞬間、奇異に感じたことがあった。
  『ぼくは、毎朝、家をでがけに、さあ、これから一日の演技がはじまるのだ、と自分に言いきかせるんですよ』
   朝、玄関先で靴をはくときを境にして、個人としての吉野さんは姿を消し、公人としての演技が始まる。私人と公人との二元的な存在、しかし編集者としての公的存在は、たんに演技であることにしか過ぎないのか? 当時、仕事に埋没して個人を見失いがちであった私は、一瞬その言葉にとまどったわけだが、しかし、それが皮相なうけとり方であることは、真意を確かめるまでもなく、すぐにわかってきた。つまり、毎朝そうした意識のおきかえを行うことによって、個人としての思索は、編集者としての機能の中で客観化され、公的な関心におきかえられる。しかも、編集者としての機能は、取組むべき課題について、どのような台本を用意し、配役を設定し、どのような舞台を構成するか、その中で、編集者としての役割を自らに、どのように課し、十分な演技をするか。そうしたすべての計画を吟味し、決意することを意味しているのである。個人と公人としての役割の間に、主体と課題との間に、厳しい緊張関係があって、はじめてこの『演技』は成立するのである。」(312頁)

  『世界』の初代編集長、吉野源三郎にとって、役割とは自己を抑圧するものではなく、自分に対する他者たちの期待(要請)を調整しつつ、社会的な場で自己を表現するためのチャンネルであった。