フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月29日(火) 曇り

2020-09-30 11:14:19 | Weblog

8時半、起床。

トースト、ベーコン&エッグ、サラダ、ヨーグルト+グラノーラ、牛乳、紅茶の朝食。

ナツの墓の水入れを洗う。「水澄む」が秋の季語だということがわかる。

近所のドラッグストアーで風邪薬(常備薬)を購入。秋という季節自体は好きだが、だんだん肌寒くなっていく過程を苦手としている。着るものが後手後手に回りやすいからだ。

東口のみずほ銀行に行って、振込と引き出し。機械がたくさん並んでいるから急かされずに出来るのがよい。第一勧銀時代から使っているキャッシュカードにヒビが入っていることに気づく。使えるのだが、いつなんどき割れてしまうかもしれない。第一勧銀がみずほ銀行になったのは2002年のことだから、少なくとも20年以上使っていることになる。それは劣化もするだろう。

アロマスケアビルに入っている郵便局に行って、学会費(4件)を振り込む。合計で3万4千円。まとめて払うとそれなりの出費である。

多摩川線に乗って下丸子へ。

今年のお会式は万灯練行列が中止だそうである。いたしかたあるまい。

東急沿線の情報誌『サルース』。「沿線街さんぽ」は奥沢が取り上げらている。特集は「みんなの餃子」だ。

雑誌『リー』の広告が載っていた。表紙は竹内結子さんである。『ランチの女王』以来のファンだったので、先日の訃報には驚いた。「どう迎える?どう生きる?『40歳の地図』の描き方」という特集の中でインタビューに応えていた。本屋で立ち読みをしたが、終始ポジティブな語りだった。しかし、多くの場合、外部に向けてのポジティブな語りは内部のネガティブな気持と呼応していることが多い。雑誌に載っている彼女の語りは、彼女がどう生きたいかを語っているのであって、実際にどう生きているか(どんな日常を送っているか)を語っているわけではない。雑誌の表紙の写真の彼女は笑顔だが、いつも笑顔でいるわけでない。むしろ笑顔の時間は例外的だろう。それは私たちも同じことである。

「喜楽亭」には月に一度のペースで昼食を食べに行く。

いろいろなメニューが並んでいるが、注文するのはいつも同じものである。

チキンカツ定食(850円)である。

私が「チキンカツ定食を」という前にご主人が「いつものですね」と言った。(自分から「いつものを」という注文の仕方をすることはない)。

いつものように、客は私だけで、ご主人と世間話をしながら食事をしたが、そのときご主人が、「先週、大久保さんのブログを見てやってきたという女性のお客さんがいました。池上にお住まいだそうで、「パン日和あをや」さんにも行かれたそうです」と教えてくれた。一瞬、つい先日「ティースプーン」で遭遇した「ピーチメルバのクイーン」の方かと思ったが、お住まいの場所が違うから、また別の読者の方のようである。

蒲田に戻ってくる。

食後のコーヒーは「テラス・ドルチェ」で。

電車の中やカフェでチビチビ読んでいた沢木耕太郎『旅のつばくろ』をとうとう読み終わってしまった。もっと読んでいたかったが。

裏の見返しの隅に「66才秋」と読み終わったときの年齢と季節を書き込むのはいつものことである。部分的に参照しただけの本にはこういう書き込みはしない。最初のページから最後のページまで読んだ本だけである。

駅前のドラッグストアーで耳栓を購入。耳鳴り用ではなく(耳鳴りは外部からの音ではないので耳栓をしても聞こえる)、聴覚過敏用である。おそらく耳鳴りと連動しているのだろうが、食器と食器がぶつかるようない高い音が耳に触るのである。だからカウンターの中でいつも食器をガチャガチャやっている店が苦手である。耳栓はそういうときのための予防策である。

夕食はモツ鍋。

早めに風呂に入ってから、今週の木曜からスタートするオンデマンド授業「ライフスト―リーの社会学」の初回の収録をする。いつもは書斎でするのであるが、今日はテレビ(DVD)の音を使うので、居間で行った。妻が風呂に入っている時間に収録を済ませた。

「ジョットストリーム」と「トウキョウ・スピークイージー」を聴きながら、今日の日記とブログ。

1時半、就寝。


9月28日(月) 晴れ

2020-09-29 12:16:15 | Weblog

8時半、起床。

雲一つない秋晴れ。

トースト、ベーコン&エッグ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

わが家の冷蔵庫にはアーモンドチョコレートが常備されている。ちょっと糖分を補充したいときに一粒二粒摘まむのにちょうどいい。まさに「甘すぎなくてクセになる」。

区から高齢者インフルエンザ予防接種のお知らせが届いた。例年は補助が出るだけだが、今年度はコロナのこともあり、自己負担免除とのこと。実施医療機関のリストに私のかかりつけの耳鼻咽喉科の名前もあったので、電話をして予約をしようとしたら、とくに予約はとっておらず、普通に来院したときに言っていただければいたしますとのこと。では、今度、薬を出してもらいにいったときにしてもらうことにしよう。

昼食はコープヌードル(カップヌードルと生協のコラボ商品)ですませる。

2時から卒業生のM君とzoomで1時間ほど話をする。オンラインカフェというよりも、オンライン人生相談。

人生には晴れの日もあれば、雨の日もある。

晴れの日には散歩に出よう。

隣町大森のジャーマン通りを歩く。

商店会の掲示板に神社庁のポスターが貼られている。

「ssnno2198」に顔を出す。前回来た時は満席で入れなかった。最近は2回に1回はそういうことがある。

今日はカウンターに先客は二人(椅子は4つ)。無事、着席できた。

開け放たれたドアから西日がカウンターに差し込んでいる。

日差しが苦手な人、カウンターでのおしゃべりが苦手な人、カップルで親密な時間を過ごしたい人には、穴倉部屋も用意されている。

カボチャのプリンを注文。この時点で胡桃とバナナのケーキは完売で、プリンも残り3つであった。もう少し来るのが遅かったらありつけないところだった。

初めてアイスコーヒーを注文した。アイスコーヒーはホットコーヒーより手間がかかるので(ネルドリップで淹れてからカキ氷に使うブロック氷の上に容器を置いて外側から冷やすのだ)、注文が立て混んでいる時は注文しずらかったのである。氷で薄めないアイスコーヒーである。

カウンターの中をリフォームされたとかで、見せていただいたが、いろいろなものが合理的に配置されて、使い勝手が格段によくなったそうである。

1時間ほど滞在して店を出る。

蒲田に戻ってきた。だいぶ雲が出て来ている(散歩に出かけるときの同じ場所からの写真と比べられたい)。

「ティースプーン」の前を通ると、本日は定休日だが、シャッターが上げられて灯りが点いている。島田さんが仕込みのためにいらしているのだろう。でも、明日も定休日ですよね。二日前から準備されているのだろうか。

夕食は焼き鮭、ベーコンと空芯菜と卵の炒め、さつま芋ご飯、キャベツと卵のスープ。

さつま芋のほかに人参やシメジも入っている。

デザートは梨。

土曜日のブログ(観劇篇)をアップしてから、近所をウォーキング&ジョギング(3キロほど)。

風呂浴びてから、『ジェットストリーム』を後半をライブ、前半をradikoで聴きながら、今日の日記とブログ。

1時半、就寝。


9月27日(日) 曇りのち晴れ

2020-09-29 11:09:54 | Weblog

7時半、起床。

トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

8時半に家を出て、大学へ。

今日は大学院の修士課程の入試の二次試験(面接)の日。

9時半から始まった業務は、途中に30分ほどの昼食休憩を挟んで、3時半までかかった。ヘトヘトになる。

大学に来たときは曇り空だったが、返るときはよく晴れていた。

帰りに丸の内の「丸善」に寄って買物。「丸善」に寄ったときは地表に出て東京駅には丸の内北口から入ることになる。

蒲田に着いて、「スリック」に寄って行く。今日はカキ氷の最後の日で、それを食べに昼間はたくさんお客さんが来たそうだ。

私は、もうカキ氷はいいかな。紅茶のシフォンケーキとグレープフルーツのセパレートティーを注文。

ルイ君がやってきた。今日は満一歳の誕生日で、お祝いに買ってもらった服を着て来店だ。

マダムが氷の旗を仕舞う。来年まで棚の奥でお休みだ。

常連さんとおしゃべりをして、6時過ぎに店を出る。

夕食は鶏肉とブロッコリーの炒め、スペイン風オムレツ、味噌汁、ご飯。

風呂に入ってから、『半沢直樹』の最終回をリアルタイムで観る。

『山下達郎のサンデーソングブック』を聴きながら、今日の日記とブログ。

1時、就寝。


9月26日(土)小雨 *観劇篇

2020-09-28 21:47:43 | Weblog

(承前)

6時半、帰宅。

秋刀魚の塩焼き、サラダ、茄子の味噌汁、ごはん。

今年の秋刀魚は細身だ。

今日のカフェめぐりの最後に神楽坂の「梅花亭」でチアキさんにお土産に買っていただいた栗蒸し羊羹を食べる。栗がこれでもかというほどのっている。作り立ての蒸し羊羹はウイロウのような食感。

劇団獣の仕業の芝居『タイトル』をユーチューブで観る。24時間生配信フェス「シアトロン2ー電脳空間演劇市」の参加作品である。所定の時間に一回限りの配信だが(つまりオンデマンドではない)、舞台(スタジオ)からの実況中継ではなく、あらかじめ収録した芝居を配信するのである。

芝居が始まる前に出演の二人、立夏と小林龍二が挨拶。

「タイトル」と題された芝居である。「本作は2016年に立夏が執筆した未上演戯曲「(タイトル未定)」を演劇の現在地から見つめなおし改稿・改題した作品である。シアトロン2で初演」と立夏のブログで説明があった。原作の戯曲は→こちら

「演劇の現在地」とはコロナ的日常の中で劇場でのライブ上演ができない現状のことを直接には指しているのだろうが、芝居のテーマそのものは、もっと普遍的なもの(コロナ的日常になる以前から存在しているもの)、立夏の言葉でいえば「演劇というフォーマットそのものを問い直す」ということ、言い換えれば、「演劇する」ことの意味という演劇人にとっての基本問題を問うたものである。すでに立夏は『THE BEAST』(獣の仕業第13回公演、1918.12.22-24、吉祥寺魁スタジオ)で演劇人にとっての切実な問題、学生時代に足を踏み入れた演劇の世界から社会人になって一人二人と去っていく仲間たちを見送りながら自分がこの世界に踏みとどまっていることの意味を問うていた。今回の『タイトル』も同じ系列に属する作品ということができるだろう。コロナ的日常はそうした通奏低音的なテーマに演劇人が向き合うことを後押ししたといえるだろう。

ネットに事前にアップされていたポスターでは、小林龍二は作務衣を着ていたが、本番では立夏と同じ白いTシャツを着ていた。そして二人とも白いマスクと手袋をしていた。稽古の過程でそうなったのだろう。下の2枚の写真は私がパソコンの画面をデジカメで撮ったものではなく、立夏から送ってもらったスチル写真(撮影は、かとうはるひTwitter@muhuhuhuhuuu)。

芝居は、立夏演じる演劇人と小林龍二演じる「演劇」(演劇神のようなもの?)の対話で展開される。対話といっても二人が椅子に座って対談をするわけではなく、獣の仕業らしい身体的パフォーマンスを絡ませながらの対話である。

対話は演劇人が苦悩を語り、「演劇」がそれにクールに答えるという形で進行する。(以下に引用するのは公開されている元の戯曲からである)。

「私がここに立っているのは私がみんなを呼んだから。メールをして電話をして呟いて顔と顔を見合わせて本を書いて、それで集まったのがこの人達。今日は最初の日。明日はすぐに最後の日。今日と明日で合計4回。100人。もうちょっと調子が良く伸びたとしても200人。ねえこれはとても多いと思う? それとも少ないと思う? あなたはどう思うだろう。ねえ、あなた。みんなってあなたのことよ。あなたの判断をして、あなたの意見を聞かせて。」

「違うまずは君が自分の話をすることだ。先に君が。」

「私はもう言葉を尽くして同じテーマをずっと繰り返しているだけじゃない何年も何年もずっと。それが真実だと思わない?私はいつまで先出しを続ければ良いんだろう。後出しじゃんけんでみんなは何だって言いたい放題なのに。しかもそれは私が望んだことなのだ。そしてそれはサービスと言われる。ああ、ねえ、私は大切にしているたったひとつのことだけがあって同じテーマを、海辺にして病院にして家の中にしたり親子にしてみたり恋人だったり手を品を変え続けてタネを100年前に明かした手品をずっと披露しているような気持ち。」

演劇人の苦悶はさらに続くが、「演劇」冷たく言う。

「だったら辞めてしまえばいい今すぐに。」

演劇人は「演劇」への愛を語り始める。

「どうしてそんな言い方しかしないんだろう。どうして私のやることをすべて否定するのだろう。あなたには私が辞めたいように見えるの。逆よ。私はこれを続けたくてどうしようもないから苦しい。私はこれをくだらないと言ったことは一度もない。思ったこともない。・・・私はあなたが好き。何故だと思う。あなたが私を救ってくれたから。あなたが私を救ってくれたからあなたは他の人も救えると思うから。」

しかし、演劇人は自身の「演劇」への愛に、いや、その愛し方に、疑問を感じてもいる。それを「演劇」にぶつけてみる。

「私はもうあなたの影を追うことを辞めようと思っている。あなたの抜け殻を、まるでこのプロセスさえ踏めば自動的にあなたになれるだろうと思われている架空のものをすべて捨てようと思う。明日から私は、明かりがついても何も喋らないかも知れない。大きな声を出さないかも知れない。名前はなくなるだろう。スクリプトは停止するだろう。あなたの、あなたの本質ではない、まるであなたの仕組みを構築してる振りをしているかのようなシステムを、すべて停止して、何が残ると思う? 」

「演劇」はその質問には答えない。しかし、反語的に答える。そして、その語りは熱を帯びている。

「質問をしないで欲しい。キミにそんな権利はない。まずはやることだ。私がそれを見ている。そうして視線が残る。まずはやってみることだ。私は実践することでしか現れない。・・・明かりはとっくについている。これは私の光だ。唐突に停電するかも。それもまた私の暗闇だ。気まぐれに音楽は鳴るかも知れない。それは私の音だ。キミの名前をまだ誰も知らない。それは最後まで分からないだろう。壁がある。この壁は私の壁だ。椅子がある。床がある。私の床だ。すべてキミのものではない。みんながキミを見ているようだが、しかしその実みんなが見ているのは私だ、キミではない。視線は反射するから。・・・まさか90分で辞めるつもりじゃないだろうな? 始まればやがて90分かそこらで自動的に終わることができるなんてそんな甘いことは言わないだろうな。それこそキミが心底うんざりしている擦られ続けてきた私の架空っていうやつかなにかのプロセスの一つだろう。キミはキミが自分自身にうんざりしないためにこのうんざりする静寂から逃げてはならない。これで最後だ。絶対に途中でキミを助けたりはしない。 私はもう二度と喋らない。」

最後に演劇人はこう語る。

「私、ずっとあなたのことを見ていた。私が表現したかったのは私ではなくあなたのことだった。失敗だとしても。これを始まりとして。またやっていけばいい。あなたは黙っていた。みんなも黙っていた。みんな何かを考えていた。思考していた。それはここでしか考えられなかったこと。ここでしか産まれなかったあなただけの思考。私たちは人間だ。一生あなたの奴隷だとしても。あなたの中で、私は思考している。あなたの意識。これがはじまり。だから早く幕を閉めて欲しい。」

演劇人はマスクをとって「演劇」に口づけをする。そしてカメラ(観客)に向かってほほ笑む。(終)

一つの芝居の終りは、次の芝居の初まりを予告するものである。

句会仲間の月白さんと渺さんが今回の芝居を観た感想を句会LINEに書いていた。

「見ました。立夏さん、熱演!小劇場を熱心に見ていた若い頃を思い出しました(歳が💦)。最初はどうなるかと思ったけど😅抽象化された演劇との対話、切なく面白かったです。そういう葛藤というかジレンマは他の芸術でもあるかもしれない。途中、マスクで呼吸困難になるんじゃないかと心配になりましたが、これも2020年ならではですね。 」(月白)

「見ました。芝居って苦手で、映画ほど見に行く気にならないんだけど、そのあたりの違和感に意識的な話で最後まで楽しめました。でも、これってお芝居?映像作品?無機的なイントロも良かったです。 」(渺)

渺さんの質問に対して立夏はこう書いている。

「演劇が無観客配信で映像化を強いられる中、映像になった演劇は、演劇なのか?というかつてからあった問いがさらに顕在化しています。これは演劇だ、と言い張る人も、いや、映像になったら演劇じゃなくて映像でしょという人も、いますね。」

これはまるで「演劇」の答えのようだ(笑)。立夏本人はどうなのだろう。たぶん「これは演劇だ、と言い張る人」なのではないかしら。 

「演劇する」人たちを撮った映像は、演劇している人からすれば演劇だし、その映像を見ている人たちからすれば映像である。実際、劇場で座席という固定した視点から演劇を観ているときとは違って、複数のハンディカムで撮った映像は視点が複数あり、しかも複数の視点はそれぞれに移動し、出来上がって映像には編集作業が加わっている。劇場で公演される芝居を固定カメラで撮ってテレビで放送するというのとは違う。最初から演劇と映像のハイブリッドを意図した作品だ。考えてみれば「従来の演劇」というのはその殻を破ろうとする演劇人たちによって常に破られてきた歴史がある。舞台と客席の境界を取っ払うとか、劇場の外に飛び出して街中で演劇をするとか。コロナ的日常の中での「無観客演劇」(のオンライン配信)というのもその歴史の一頁である。演劇の実践、「演劇する」というのは「従来の演劇」(立夏の言い方では「演劇のフォーマット」)との緊張関係を常に内在したものであり、違和感と解放感とは紙一重というか、表裏一体のものである。私はそれを楽しんだ。

風呂を浴びてから、『桑田佳祐のやさしい夜遊び』をrahikoで聴きながら、今日の日記とブログ。

1時15分、就寝。明日は日曜日だが午前中から大学で仕事がある。


9月26日(土) 小雨 *社交篇

2020-09-27 13:56:31 | Weblog

9時半、起床。

トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

昨日のブログを書いてアップする。

11時に家を出て大学へ。

研究室に卒業生のチアキさん(論系ゼミ9期生)がやってくる。4月にオンラインカフェをしたが、リアルカフェをするのは去年の11月以来だから、10ヵ月ぶりである。

研究室で少し話をしてから「たかはし」に食事に行く。

私は甘塩鮭定食、彼女は豚肉生姜焼き定食を注文。

甘塩鮭も美味しいが、大根煮、鮪の中落ち、玉子焼きなどの付け合せも楽しい。

食後のお茶は「カフェゴト―」で。チアキさんはここは初めて。

混んでいたが、ちょうど一組が店を出るところで、右手奥の落ち着ける席に座ることができた。お店の方が「先生、ラッキーです!」とおっしゃった。

タルトタタン(私のチョイス)とリンゴとさつま芋のタルト(彼女のチョイス)をハーフ&ハーフで。

お茶は私がアップルティ(ホット)を注文したら、彼女もそれに倣った。リンゴ尽くしだが、彼女は「美味しいです!」と感激していた。

小雨が降っていなければ戸山公園を散歩したいところだが、キャンパス散歩にする。

ベンチはたくさんある。

中庭を見下ろす33号館低層棟の2階廊下を歩いている人を見て、「ここの支配者のように見えます」と彼女が言った。支配者? 皇居の一般参賀のイメージだろうか、それとも刑務所の監視員のイメージだろうか。彼女にその場所に上がってもらって、中庭から撮る。

一般参賀なら片手を小さく振るところ。これは支配者のポーズか(笑)。

支配者になった気分はどうでしたか?(笑)

33号館高層棟1階のロビーは美術館の趣。照明がスポットライトのように点在している。

彫刻家・辻晉堂氏によるタイルレリーフ『陶壁 三点-2』。

床のタイルに使われているのは旧33号館高層棟1階のエレベーターホールに設置されていた長谷川路可(1897~1967)のデザインによる『杜のモザイク』。

長谷川路可が1931(昭和6)年に制作したフレスコ画『アフロディーテ』。

大きな銀杏の木の下で。

さて、もう一軒、カフェに行きましょう。

神楽坂の「トンボロ」に行く。

週末は満席で入れないこともよくあるのだが、今日は小雨が幸いしたようである。

私はAブレンド(浅炒り)。彼女は初めてのチャイ。

彼女のお目当てのプリンは残念ながら完売だった(世の中、プリンがブームのようである)。

ホットケーキを注文してシェアする。

仕事が多忙で、でも、帰宅してすぐに寝るのは嫌で(自分の時間が欲しいのだ)、2時頃まで起きている日が多いという。それなら、そういう時間に日記を付けたらいいんじゃないのと勧めてみる。ただ起きているだけではなくて、一日を振り返り、自分と向き合う時間にしたらいいと。彼女、大いにやる気になったようである。

時刻は5時半。今日のカフェめぐりはここまでにしておきましょう。

神楽坂から地下鉄に乗り、彼女は九段下で降りた。次は蒲田辺りでカフェをしましょう。SGS達成まであと2店(「まやんち」と「ポッタリー」)であるが、「まやんち」がいつ店内飲食を再開するかは未定である。

*観劇篇に続く