6時半に目が覚めて、書斎で一仕事して、それからニ度寝をして、9時起床。ドライカレーの朝食。
『新潮45』2月号に載っていた片岡義男の文章「めざすべき理想の日々」の中で、彼はこんなことを自問している。
「なにに幸せを感じるのか。もっとも達成感を感じるのは、どんなときなのか。これさえあれば、という気持ちになれる状況は、どんなものなのか、自分で自分を削いでいき、もうこれ以上には削げません、という状態になった自分を想像して、その自分が求めることの出来るものがひとつだけあるとしたら、それはなにか。」
なんだろう。家族? 健康? 仲間? 仕事?
「ひょっとしてそれはお天気かな、と僕は思う。」
お天気? 片岡の答えは予想外のものだった。
「僕が言うお天気とは、狭義の意味である晴天のことだ。しかし晴天は曇り日や雨降りと一体となってこその晴天だから、晴天の日を中心にして、その場で体験することの出来る気象条件のすべてを受けとめることになる。晴天の日を中心にして、とたったいま僕は書いた。晴れた日はいくら多くても困らない、という意味だ。このあたりに、目ざしている状態、理想的な毎日、といった夢物語がひそんでいるような気がする。温帯の最南端ないしは亜熱帯で、微風の甘くさわやかな、どちらかと言えば暑い晴天の日の多い場所に住み、気象条件を様々に愛でることが毎日の主たる目的となる生活。目ざしている状態が僕にあるとするなら、それはこれしかない、といまの僕は言う。」
考えてみれば、お天気はその日の気分を左右する。そして気分というものは人間存在の基盤である(たとえば、ボルノウ『気分の本質』)。和辻哲郎の『風土』は、時間という側面から人間存在の本質に迫ったハイデガーの『存在と時間』の向うを張って、空間(風土)という側面から人間存在を論じた本だが、そこで言われている風土とは気象条件のことである(風土の三類型は、モンスーン、砂漠、牧場だ)。だから片岡の「お天気第一主義」は和辻の系譜に属する哲学であるということもできる。
「なんだ、子供の頃とおなじではないか、と僕は思う。/「晴天の日は文句なしにうれしく、ほとんどの時間を外で過ごした。曇り日はあまり得意ではなく、自宅にいて本を読むというような、雨読に近いことをして過ごすことが多かった。雨の日はもっと嫌いだったかというとそうでもなく、雨の日は外と自宅で半々に過ごした、という記憶がある。お天気に関しては、子供の頃に決定的な影響を体内深くに植えつけられ、それは現在にいたっても消えてはいない。」
う~む、幼児体験と結びつけて語られるか。片岡の「お天気第一主義」は空間論的人間学に留まらず、精神分析的側面も含んでいる。
「子供の頃の体験が、大人になってからの自分の日々を支える。僕の人生とは、じつはそういうことなのか。僕とは、ひと言で言って、お天気の人なのか。/小説を書くにあたっては、その物語の背景となる季節とその気象条件をきちんときめておかないと、僕はその小説を書くことが出来ない、という内容の発言を、これまでに僕は何度か繰り返した。雨が降ればそこに物語がある、風が吹けばそこに小説が生まれる、という発言をしたこともある。すべての意味合いはおなじところに帰結する。/毎日の日常、という平凡な時間と空間の中での、気象条件の変化の連続が、子供の日々に記憶のなかに蓄積され、それが大人になってから書く小説の、物語の展開という論理の道筋に姿を変える。不思議と言うなら相当なところまで不思議な人生だが、基本的な素材だけでまかなった人生、というような表現も出来そうだし、きわめて単純な、したがってその範囲内で、きわめて健全な人生なのだ、とも言えるだろう。今日は晴れている、といううれしさが、僕とその僕が書く小説を支えている。」
お天気の人! これは「お天気屋さん」に似ているが、意味は全然違う。朝、書斎の窓のカーテンを開けたときの気分がその日の気分の土台を決めるという意味では、私も片岡と同じくお天気の人である。日記にその日の天気を記すことにはそれなりの意味があるわけである。今日は久しぶりで安定した冬の青空が広がっていた。
昼から大学へ。昼食は「五郎八」の力うどん。拍子木に切って揚げた餅がとろりと溶けて美味しい。
花屋の店先のチューリップ
午後はずっと教務室で仕事。夕方、「maruharu」に息抜きに行くと、こうちゃん(2歳)、あおいちゃん(1歳)、お母さんの3人家族がいた。こうちゃん相手に手品(子供だましともいう)を披露すると、こうちゃんは目を丸くして驚いていた。スフレチーズケーキと紅茶で一服。
6限は「ライフストーリーの社会学」のテスト。158名(受講生の90%)が受験。頑張れば一日で採点できるだろう。
試験を終えて、教員ロビーで小一時間ほど事務所のYさんとある案件の相談。
9時に大学を出て、大手町の「屏南」で夕食をとる。豆板醤入りネギチャーシューメンと餃子。昼が麺、夜も麺というパターンはあまりないのだが、今日は朝が〈パンではなくて)ご飯だったので、夜のご飯は避けたのである。夕食として物足りない分は餃子で補った。
10時半、帰宅。二階の居間のTVで妻が「最後から二番目の恋」を見てるところだったので、画面を見ないようにして、すぐに風呂に入る。風呂から上がって、「最後から二番目の恋」を観ようかと思ったが、妻が居間のテーブルで仕事をしていたので、いましがた観たばりのドラマをもう一度観るのは面白くなかろうと、「最高の人生の終わり方」の方の録画を観る。「花をもらって嬉しくない女性はいない。女性に薔薇は鉄板」と登場人物の一人(栄倉奈々演じる女刑事)が言っていたが、それは本当なのか?本当に本当なのか?本当だとしてそれはなぜなのか?一方、「〇〇をもらって嬉しくない男性はいない」と言えるような〇〇に該当するプレゼントいうものはあるだろうか?ドラマの本筋を離れてそんなことを考えた。