フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月30日(月) 晴れ

2012-01-31 02:04:04 | Weblog

  7時、起床。豚肉生姜焼き、レタス、トースト、紅茶の朝食。

  今週はテスト・レポートの採点と、ゼミ論集の編集が主たる仕事である。とりあえず午前中は「ライフストーリーの社会学」のテストの採点。

  午後、散歩に出る。「テラス・ドルチェ」で昼食。ハンバーグ・ライスと珈琲。五木寛之『下山の思想』(幻冬舎新書)を読みながら。

  腹ごなしに散歩。東急線の線路沿いの飲食店街は昔ながらの蒲田らしい雰囲気が漂っている。

  ディスカウントチケット店で韓国映画『哀しき獣』の前売り券(すでに1月7日から上映されている)を購入。『週刊文春』の映画評で大変に評価の高かった作品である。

  一度家に戻ってから、川崎のトーホーシネマに『哀しき獣』を観に行く。韓国系中国人のタクシードライバーが借金帳消しの代わりに韓国に密入国して人一人を殺すことを依頼される。韓国に出稼ぎで密入国したまま音信不通の妻を捜す理由もあって、彼はその依頼を引き受ける。ところがターゲットは彼が殺害を実行する前に別のグループによって殺されてしまい、現場にかけつけた警官たちから殺人の犯人として追われるはめになる。いや、警察からだけでなく、殺害を実行した一味からも、彼に殺害を依頼した一味からも追われることになるのだ。その凄まじい追跡ー逃亡の合間に、彼は妻の行方を追い、自分をはめた人物の謎にも迫ることになる。追われる者は同時に追う者でもあり、命を狙う者は同時に命を狙われる者でもあるという、安定したポジションに身を置く者は一人もいない状況の中でストーリーは展開する。そういうこともあって、また、脚本に荒っぽいところがあるせいもあって、ストーリー自体は分かりにくい。『週刊文春』の批評家たちはストーリーをちゃんと理解した上であの批評を書いたのだろうか。そうだとすればとても明晰な頭脳の持ち主たちだと感心するが、たぶんそうではないのではないかと思う。暴力と悲哀のシーンに圧倒されて、「なんだかよくわからなかったけれど、とにかくすごい」という印象をもって、あまり時間を費やさずに、あの映画評を書いたのではないかと想像する。

  


1月29日(日) 晴れ

2012-01-30 07:50:33 | Weblog

  8時、起床。寒い。この冬の寒さの底らしい。

  コンビニにパンを買いに出たときに郵便受けを見たら、メール便で2週間前に受診した人間ドックの結果が届いていた。届くのは明日か明後日あたりだろうと思っていたので、ドキッとする。たぶん何もないだろうとは思ってはいても、それを確認するまでは不安である。封筒から取り出して、レポートの最後の総合所見から先に見る。うん、とくに問題はないようである。もちろんまったく問題がないわけではなくて、胃に軽度の異常(萎縮性胃炎)や、胆嚢ポリープ、胆石、脂肪肝、腎のう胞などが指摘されている。ただし、これらはほぼ毎回指摘されること(要経過観察)である。体脂肪率が去年より2.6ポイント増えている。体重は変らないのに体脂肪率は増えているということは、運動不足で体脂肪が増えて筋肉が落ちているということを意味するだろう。このところずっとジムをさぼっていて、体重コントロールは食事だけでやっている。これから春先にかけて体を動かそうと思う。バタートースト、マカロニサラダ、紅茶の朝食。

  11時過ぎに家を出て、鶯谷に墓参りに行く。本当に今日は風が冷たい。墓参りの後に上野辺りを散歩するつもりでいたが、やめた方がよさそうである。こんな日に墓参りに来る人はいないだろうと思っていたが、実際、私だけだった。母が腕を骨折したため今日は来られないことを告げると、大奥さんも「私もです」と言って、左手首の包帯を示した。自転車が転倒しそうになるのを片手で無理して支えたときに折れてしまったのだそうだ。年を取ると本当に骨折がめずらしいことではなくなる。



   墓参りを済ませ、昼食を寺の近所の「河金」でとることにした。この店は知る人ぞ知るとんかつの店で、カツカレー(河金丼)が有名である。母を連れては入りにくいが、今日のように一人のときは気楽である。外観だけでなく、店の中もレトロなムードがいっぱいだ。カツカレーは丼に入っている。ご飯の上にキャベツを敷いて、そこに切ったカツを置いて、上からカレーをかけてある。カレーはコクがあってまろやかな和風テイスト。揚げる前にトントン叩かれた肉は柔らかで、衣はサクッと揚がっている。卓上のとんかつソースをかけて食べる。

 

   入谷の駅から地下鉄(日比谷線)に乗って2つ目の仲御徒町で降りて、上野広小路の甘味処「みはし」に行く。デザートを食べるつもりで入ったのだが、メニューを見ていて、おでん茶飯が食べたくなって、注文する。河金丼が思ったほどのボリュームではなかったせいで、お腹に余裕があったのと、数日前に観た『孤独のグルメ』の静岡おでんの印象が頭の中に残っていたからである。甘味処のご飯というのは小腹が空いたときにちょうどよいボリューム(軽く一膳)。でも、おでんはネタの数がしっかりとあって、さすがにお腹いっぱいになった。食後の甘味はこの店名物の小倉アイスをのせたあんみつ。小倉アイスとこしあんの甘さがかぶってしまった感じで、あんみつではなく、みつまめでよかったかもしれない。店内はほぼ満席だったが、近くの席の年配の男女4人客の中の男性が、「こういう店には男ひとりでは入れないからなあ」とはしゃいでいた。そう言われて改めて他のテーブルを見回してみると、男の一人客は私だけだった。いや、それ以前に、一人客は私だけだった。上野千鶴子さんの本のタイトル、『男おひとりさま道』が頭に浮かぶ。「おひとりさま」であることに抵抗がないのは、老後の生活に適応していくためにはよいことである。女性の領域(たとえば甘味)と世間からみなされている場所に足を踏み入れることに抵抗がないことも同じ。よかった、社会学をやっていて。

  夜、『大鹿村騒動記』をDVDで観る。原田芳雄の遺作。でも、彼の演技にはそうした悲愴なものは感じられなかった。単純に面白い映画として観た。ラスト、忌野清志郎の歌う「太陽の当たる場所」が流れた。いい曲だ。原田芳雄も忌野清志郎ももういないのだなと思って聞くと、いっそう心に染みた。

http://www.youtube.com/watch?v=9mU6x-ChRlw


1月28日(土) 晴れ

2012-01-29 10:56:25 | Weblog

   6時に目が覚める。書斎に行き、カーテンを上げると、外はまだ暗い。6時半を過ぎたあたりで、空が白んできた。そうか、いまの季節はこんな感じで夜が明けるのか。焼売と味噌汁の朝食。

  午前中に、二三度、地震があった。 そのせいで京浜東北線のダイヤが乱れているとの情報をネットで知る。今日は大学に行く前に墓参りをするつもりでいたのだが、明日にすることにした。

  12時から研究室で卒業研究の口述試験。対象の学生は1名だけなので、1時間たっぷりやる。論文を書いている途中で、当初は想定していなかった問題に気付き、構成を変更したのはよいことだった。問題に気付いても、時間がないことを理由に、それに言及しないで論文を書いたのでは何の成長もない。論文を書き始める時点と書き終わった時点の自己の考え方の変化を成長という。

  午後、卒業生の一人が研究室にやってくる。「最近、やさぐれているんです」と彼女は言った。仕事がなげやりになっているという意味のようである。彼女は一流企業の人事課で働いている。仕事の量がめちゃくちゃ多く、毎日、退社は11時。午前1時に帰宅して、風呂に入って、寝るだけの生活である(朝は6時前に起きねばならない)。達成感を伴わない仕事で、人から感謝されることもない。職場の同僚たちは、それぞれ自分のかかえる仕事をこなすのに精一杯で、他人を思いやる余裕がなく、上司は始終どなりまくっている。月曜日は憂鬱で、火曜日も「まだ火曜日か」と憂鬱で、水曜日も「まだ水曜日か」と憂鬱で、木曜日は週末が見えてきていくらか元気になり、金曜日が一番精神状態はよく、待ち焦がれたはずの土曜日は休み明けの月曜日のことを考えて憂鬱が頭をもたげる。

  彼女は仕事を変わることを考えている。「私は甘いでしょうか」と彼女が聞くので、「そんなことはないよ」と私は答えた。「仕事だから」の一言で何でも正当化する(不満を我慢する)考え方が私は大嫌いである。仕事と一口にいっても、まともな仕事もあれば、くだらない仕事もある。働いている当の本人が、その仕事に意味を見出せないのであれば、それはくだらない仕事である。ただし、くだらない仕事にも生活の糧を得るという意味はある。だから、仕事とはそういうものだと割り切って、我慢して働きつづけるという選択はあるが、その場合には、労働時間は短いほどよい。労働時間以外の時間の中に人生の意味を見出す必要があるからだ。けれど彼女の場合、労働時間が(平日の)生活のほとんどすべてである。くだらない仕事=くだらない生活になってしまっている。だから彼女はやさぐれているのだ。

  「五郎八」で食事をし、「カフェ・ゴトー」をお茶をした。あれこれを話をしているうちに、彼女の表情が明るくなっていくのが見て取れた。それは彼女が本来もっている明るさである。いまならまだ十分に回復できる。人間がすっかり変わってしまう前に(それを「成長」と呼ぶのは自己欺瞞のレトリックでしかない)、仕事を変わったほうがよい。石の上にも三年などと躊躇する必要はない。

 

 

  有隣堂で以下の本を購入。

   ジェフ・ダイヤー『バット・ビューティフル』(新潮社)

   山田太一『読んでいない絵本』(小学館)

   平川克美『小商いのすすめ』(ミシマ社)

   五木寛之『下山の思想』(幻冬舎新書)

  ペットの犬や猫は飼い主の前でゴロリとお腹を見せて寝る。無防備な体勢をあえてとることで、「私はあなたを信頼しています」「私はあなたに従います」というメッセージを伝えているのだろう。実は、チュンもそれをするのである。お腹を見せて寝る雀。もしかしたら世界初かもしれない。死んでいるようにみえるが、ちゃんと生きている。死んだように眠るとはこのことだ。


風邪を引くといけないので、掛け布団をかけてやる


1月27日(金) 晴れ

2012-01-28 08:15:24 | Weblog

  8時、起床。豚肉の味噌漬け焼き、トースト、紅茶の朝食。

  午前中、採点作業(のための下準備)。11時に家を出る。

  12時から本部キャンパスで芸術学校の管理委員会。いつもカレーライスが出るのだが、今日はサンドウィッチだった。朝から「今日の昼食はカレーライスだ」と思い込んでいたので、肩透かしを食った感じなり。もしわかっていたら朝はご飯にしただろう。でも、まさか、会議の開催通知のメールに食事のメニューの予告も盛り込んでくださいとは言えないしね。   

  戸山キャンパスに戻って、1時から教務-事務連絡会。

  3時から、再び本部キャンパスで、教務担当教務主任会。

  夕方、戸山キャンパスに戻る途中、「ごんべえ」で早めの夕食をとる。懸案事項が片付いて「やれやれ」といった気分で食べるカツ丼はうまい。 

  6・7限はゼミ。4年生のゼミ論報告会の3回目。今日で全員の報告が終った。さあ、来週はゼミ論集の編集作業を短期集中で終らせるぞ。そして2月3日の夜は追いコンだ。ゼミの終わりは、しんみりとではなく、バタバタと終るもののようである。 

本日のスイーツは盛りだくさん

  11時半、帰宅。風呂から出て、明太子のお茶漬けを食べる。禁断の夜食だが、夕食が早かったので腹が減った。『最後から二番目の恋』の第三話(録画)を観る。千明(小泉今日子)と和平(中井貴一)の恋はまだ始まらない。一体、どんなふうに始まるのだろう。


1月26日(木) 晴れ

2012-01-27 02:02:09 | Weblog

  6時半に目が覚めて、書斎で一仕事して、それからニ度寝をして、9時起床。ドライカレーの朝食。

  『新潮45』2月号に載っていた片岡義男の文章「めざすべき理想の日々」の中で、彼はこんなことを自問している。

  「なにに幸せを感じるのか。もっとも達成感を感じるのは、どんなときなのか。これさえあれば、という気持ちになれる状況は、どんなものなのか、自分で自分を削いでいき、もうこれ以上には削げません、という状態になった自分を想像して、その自分が求めることの出来るものがひとつだけあるとしたら、それはなにか。」

  なんだろう。家族? 健康? 仲間? 仕事?

  「ひょっとしてそれはお天気かな、と僕は思う。」

  お天気? 片岡の答えは予想外のものだった。

  「僕が言うお天気とは、狭義の意味である晴天のことだ。しかし晴天は曇り日や雨降りと一体となってこその晴天だから、晴天の日を中心にして、その場で体験することの出来る気象条件のすべてを受けとめることになる。晴天の日を中心にして、とたったいま僕は書いた。晴れた日はいくら多くても困らない、という意味だ。このあたりに、目ざしている状態、理想的な毎日、といった夢物語がひそんでいるような気がする。温帯の最南端ないしは亜熱帯で、微風の甘くさわやかな、どちらかと言えば暑い晴天の日の多い場所に住み、気象条件を様々に愛でることが毎日の主たる目的となる生活。目ざしている状態が僕にあるとするなら、それはこれしかない、といまの僕は言う。」

  考えてみれば、お天気はその日の気分を左右する。そして気分というものは人間存在の基盤である(たとえば、ボルノウ『気分の本質』)。和辻哲郎の『風土』は、時間という側面から人間存在の本質に迫ったハイデガーの『存在と時間』の向うを張って、空間(風土)という側面から人間存在を論じた本だが、そこで言われている風土とは気象条件のことである(風土の三類型は、モンスーン、砂漠、牧場だ)。だから片岡の「お天気第一主義」は和辻の系譜に属する哲学であるということもできる。  

  「なんだ、子供の頃とおなじではないか、と僕は思う。/「晴天の日は文句なしにうれしく、ほとんどの時間を外で過ごした。曇り日はあまり得意ではなく、自宅にいて本を読むというような、雨読に近いことをして過ごすことが多かった。雨の日はもっと嫌いだったかというとそうでもなく、雨の日は外と自宅で半々に過ごした、という記憶がある。お天気に関しては、子供の頃に決定的な影響を体内深くに植えつけられ、それは現在にいたっても消えてはいない。」

  う~む、幼児体験と結びつけて語られるか。片岡の「お天気第一主義」は空間論的人間学に留まらず、精神分析的側面も含んでいる。

  「子供の頃の体験が、大人になってからの自分の日々を支える。僕の人生とは、じつはそういうことなのか。僕とは、ひと言で言って、お天気の人なのか。/小説を書くにあたっては、その物語の背景となる季節とその気象条件をきちんときめておかないと、僕はその小説を書くことが出来ない、という内容の発言を、これまでに僕は何度か繰り返した。雨が降ればそこに物語がある、風が吹けばそこに小説が生まれる、という発言をしたこともある。すべての意味合いはおなじところに帰結する。/毎日の日常、という平凡な時間と空間の中での、気象条件の変化の連続が、子供の日々に記憶のなかに蓄積され、それが大人になってから書く小説の、物語の展開という論理の道筋に姿を変える。不思議と言うなら相当なところまで不思議な人生だが、基本的な素材だけでまかなった人生、というような表現も出来そうだし、きわめて単純な、したがってその範囲内で、きわめて健全な人生なのだ、とも言えるだろう。今日は晴れている、といううれしさが、僕とその僕が書く小説を支えている。」

  お天気の人! これは「お天気屋さん」に似ているが、意味は全然違う。朝、書斎の窓のカーテンを開けたときの気分がその日の気分の土台を決めるという意味では、私も片岡と同じくお天気の人である。日記にその日の天気を記すことにはそれなりの意味があるわけである。今日は久しぶりで安定した冬の青空が広がっていた。

  昼から大学へ。昼食は「五郎八」の力うどん。拍子木に切って揚げた餅がとろりと溶けて美味しい。 

 
花屋の店先のチューリップ

  午後はずっと教務室で仕事。夕方、「maruharu」に息抜きに行くと、こうちゃん(2歳)、あおいちゃん(1歳)、お母さんの3人家族がいた。こうちゃん相手に手品(子供だましともいう)を披露すると、こうちゃんは目を丸くして驚いていた。スフレチーズケーキと紅茶で一服。

  6限は「ライフストーリーの社会学」のテスト。158名(受講生の90%)が受験。頑張れば一日で採点できるだろう。

  試験を終えて、教員ロビーで小一時間ほど事務所のYさんとある案件の相談。

  9時に大学を出て、大手町の「屏南」で夕食をとる。豆板醤入りネギチャーシューメンと餃子。昼が麺、夜も麺というパターンはあまりないのだが、今日は朝が〈パンではなくて)ご飯だったので、夜のご飯は避けたのである。夕食として物足りない分は餃子で補った。 

 10時半、帰宅。二階の居間のTVで妻が「最後から二番目の恋」を見てるところだったので、画面を見ないようにして、すぐに風呂に入る。風呂から上がって、「最後から二番目の恋」を観ようかと思ったが、妻が居間のテーブルで仕事をしていたので、いましがた観たばりのドラマをもう一度観るのは面白くなかろうと、「最高の人生の終わり方」の方の録画を観る。「花をもらって嬉しくない女性はいない。女性に薔薇は鉄板」と登場人物の一人(栄倉奈々演じる女刑事)が言っていたが、それは本当なのか?本当に本当なのか?本当だとしてそれはなぜなのか?一方、「〇〇をもらって嬉しくない男性はいない」と言えるような〇〇に該当するプレゼントいうものはあるだろうか?ドラマの本筋を離れてそんなことを考えた。