フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月27日(日) 晴れ

2011-02-28 10:59:46 | Weblog

  7時半、起床。今日は地元の蒲田宝塚で『僕と妻の1778の物語』で見ようと決めていた。「テラスドルチェ」で昼食をとってから映画を見るつもりで、11時過ぎに家を出たが、「テラスドルチェ」は年中無休のはずが本日休業の貼紙が出ていた。それで「你好」に変更。ランチメニューの中からレバニラ炒めとギョーザの定食を注文。朝食抜きでお腹は減っていたものの、けっこうなボリュームである。フロアー係の女性が「ご飯のお替りは無料です」と言ってくれたが、これで十分である。

  11時55分からの回に合わせて店を出る。映画館の窓口で正規料金(1800円)を払ってチケットを購入。普段なら駅前の金券ショップで前売り券を購入するのだが、日曜日はやっていないのだ。場内に入ると、なんと映画がもう始まっている。しかも妻役の竹内結子が車椅子に乗って病院の敷地の中にいる。話がずいぶんと先の方へ進んでいる。もしかしてと思ってチケット売り場のところへ行って確認すると、2回目の上映は11時55分からではなく、12時55分からだった。いまやっているのは1回目の上映の後半部分なのだ。係の人に時間を間違えたので次の回まで外で時間をつぶしたいと言うと、はい、かまいませんよと言って、チケットの裏に外出時刻を示す判子を押してくれた。

  というわけで「シャノアール」で食後のコーヒーを飲みながら、海原純子『ツイッター幸福論 ネットワークサイズと日本人』(角川ワンテーマ21)を読む。海原の専門は心療内科だが、ツイッターの持つセルフカウンセリング機能(自分の気持ちを140字で表現する際に「自己を客観視する」時間が存在する)に着目して、角川書店のホームページを通じてツイッター利用者約800名に対してアンケート調査を行った。本書はそのデータの分析がメインになっている。読みながら傍線を引いた箇所をいくつか紹介しておく。

  ツイッターは「意見」を語るより、「気持ち」を表現する場であり、ツールである(36頁)

  現実の人間関係でほとんど満足している人は、ツイッターをしてもさほど充足感を感じない。逆に現実の人間関係で不満だらけの人もツイッターで充足感を感じない。ツイッターで充足感を最も感じるのは、現実の人間関係でほぼ満足はしているものの、もうちょっと何かほしいなあ、という人ということになる。(76頁)

  ほぼ自分のありのままをツイートする人は全体の約64%である一方、自分のありのままではなくフォロワーを意識して好かれる人間像を演じることもあると答えた人は約3%である。ややいい格好をする人は約18%。〈中略)半数以上の人は、ほぼ等身大の自分をツイートしているが、格好をつける人も約2割にのぼっている。(中略)予想では、正直にツイートする方が自己表現のサポートとなり充足感を感じることが多いのではないかと想定していたが、予想とは違って、むしろ格好をつけるグループが充足感が高めなのである。これはどいう理由だろうか?(中略)全くの虚構ではなく、現実の世界ではそうできなかったがそうすべきであった自分、少しだけ背のびした自分、近未来の自分などの姿でツイートしている可能性が高い。(中略)いい格好するなら「ちょっとだけ現実よりもポジティブ」「現実よりもちょっとだけ相手に親切で受容的」に背伸びしてシャドウトレーニングをし現実生活に生かせると、ツイッターは効果的なツールとなる。(78-80頁)

  自分が辛い思いをしたり、病気になったり、壁にぶつかったりした時、「自分だけでなく、みな大変」と思う気持ちが生まれると、その重荷をうけいれやすくなる。その客観性とコントロール感覚が生じるかどうかが、ツイッターを使用することで充足感を感じるか否かのカギとなるといえる。(82-83頁)

  「いつも元気」でいなければならない立場の人が、少々疲れたなとチラリ言える場がツイッターだともいえる。ただし、あまりヘビーな問題になってしまうとその重さにひいてしまうのがフォロワーの心理だ。どの程度の自己開示が自分とフォロワーとのwellbeingにとって適度なのか、その距離感が大切になってくる。その距離感に関してだが、私は、「疲れた時に、誰も自分のことを知らない土地にいき、その土地の人とちょっとした話をするような」距離ではないかと思う(88-89頁)。

  様々なネットワークをもち、その問題についてまず広く浅くサポートしてくれる場をもち(私はそれをプライマリーネットワークと名づけることにする)、そこから次第に専門的なサポートネットワークに移行するシステムがあると問題解決はスムースにすすむ。アメリカ社会ではネットワークとしての様々なコミュニティが存在する。アメリカ人は何らかのコミュニティに属しているなどという言葉もある位で、教会の集まりなどもそのひとつだろう。深いつながりではないかもしれない。しかし、プライマリーネットワークとしての機能を果たしていることは間違いない。(中略)日本社会にはこのようなネットワークが見当たらない。かつての町内会的なネットワークも少なくなった。ツイッターは、そうしたプライマリーネットワークとして発展する可能性もあるだろう。(124-125頁)

  12時55分に映画館に戻る。『僕と妻の1778の物語』はSF作家の眉村卓が大腸がんで余命1年を宣告された妻のために原稿用紙で3枚程度のショート・ショートを毎日書いて4年以上に及んだという実話に基づいた作品である。TVドラマ『僕の生きる道』『僕と彼女と彼女の生きる道』『僕の歩く道』の草剛の主演、スタッフも同じということで、期待していたのだが、期待したほどの出来栄えではなかった。2時間20分は長い。長いと感じさせるということは演出が冗長ということである。おそらくフタッフの気持ちとしては「丹念に描く」ということだったろうと思う。とくに原作が実話であればそういう気持ちになるのは理解できる。しかし、その上で、やはり編集の段階で冗長な部分を冷静にカットすべきだったと思う。1778篇のショート・ショートの中の何篇かを劇中劇のように挿入するという手法は面白かった。同じSF作家でも星新一のショート・ショートとはテイストの違う眉村卓の世界を楽しんだ。できればあと2作品ほど追加してほしかった。実話とSFの組み合わせの効果によって、『僕と妻の1778の物語』はファンタジックな色調の作品に仕上がっている。その結果、妻に先立たれる男の哀しみはソフトなベールにくるまれることになる。悲痛ではあるが甘味な哀しみ。竹内結子が最後まで変わらずに美しかったことも、ファンタジックな雰囲気をかもし出していたと思う。

  映画館を出て、その足でジムへ行く。筋トレ2セットと有酸素運動35分。いつもの通りのメニューだが、今日は外の気温を反映して室温が高く、筋肉のこわばりはない。いい感じで汗を流した。
  東口の「カフェ・ド・キネマ」の2階で一服しながら『ツイッター幸福論』を最後まで読む。窓の下をたくさんの人が行き交う。映画館のスクリーンの中のエキストラのようだが、実際は、ひとりひとりがそれぞれの人生の主人公である。けれど、この先、私が彼らの人生の物語を知ることはないだろう。少なくともリアルな世界の中では。


2月26日(土) 晴れ

2011-02-27 10:40:07 | Weblog

  7時、起床。パンとバターと牛乳の朝食。ブログの更新を済ませたから、もう一眠りする。
  昼食は妻がジム帰りに買ってきた握り鮨。それを食べてから池上散歩に出かける。私にとって蒲田は日常的世界であるが、目蒲線で2つ隣の池上は、日常的世界と隣接してそこから半歩踏み出した亜日常的世界である。半歩ではあっても脱日常の感覚が伴い、同時に親密感は保持されている。この絶妙なバランスが池上散歩(一般化していえば隣町散歩)の特徴である。親密感の源泉は馴染みの店である。今日は昼食は済ませているので、「薫風」の前は素通りして、「甘味あらい」に直行する。天気のよい週末の午後の「甘味あらい」は混んでいる。店内で席が空くのを少し待つ。久しぶりでこの店の看板メニューの贅沢あんみつを注文した。いきなり黒蜜はかけずに、白玉やフルーツにあんを付けて食べ、寒天が見えてきてから黒蜜をかけて食べる。これ、地元のケーブルTVにご主人が出演したときに推奨していた食べ方である。あんの甘さと黒蜜の甘さを別々に楽しむ趣向である。


久しぶりで贅沢あんみつを注文

  店を出て、池上梅園へ足を延ばす。いよいよ見頃である。入園料は百円。ただ同然であるが、まったくのただではないから、梅を見たいと思う人しかいない。それが百円の効果である。閉園時間は午後4時半。桜には夜桜見物があるが、池上梅園の梅は昼間でないと見物できない。昼間は暖かくても夕方は冷えるし、見物人は高齢者が多いから、ちょうどいい閉園時間の設定だと思う。

  梅園を4時頃に出て、池上駅までの道をぶらぶら歩く。

  池上駅前商店街の「コロラド」で一服。持参した『atプラス』の最新号(07)に載っている大澤真幸「可能なる革命 第1回 「幸福だ」と答える若者たちの時代」を読む。NHK放送文化研究所が1973年から5年ごとに実施している「日本人の意識」調査によれば、日本人の生活満足度は時代と共に上昇してきた。それはバブル崩壊以後の長期化する不況の時代でも変わらない。とくに若者たちの生活満足度の上昇が目立つ。これほど社会経済的な低迷や困難が叫ばれる時代にあって、その混迷や困難の影響を強く受けているはずの若者たちの生活満足度が高いのはなぜなのか。いろんな人がいろんな説明をしている。大澤は既存の説明を検証しながら、自説を展開していく。大澤らしさが随所に見られる興味深い考察だが、いま、ここでそれを紹介することはしない(新学期の授業でとりあげようと思うので)。ここでは別の2つのことを述べておきたい。
  第一は、大澤に限らず、社会学者は一般に社会現象を危機的なものとして解釈する傾向があるということ。単純に考えれば、人々の生活満足度が高いというのはよいことである。しかし、社会学者はそうは考えない。高い生活満足度=よい社会、ということでは社会学者の出る幕がない。商売上がったりだ。客観的にはひどい状況に置かれている人々が生活に満足していると答えているのには、何か訳があるに違いない、裏があるはずだと考えるのである。その意味で、社会学者は素直じゃない。ひねくれている。そして社会学者の多くは大学で教えている。学生は青年期にある人間がほとんどで、青年期は人間の一生の中では危機的な(不安定な)時期だから、社会学者と学生の間で社会学の危機的性格は相乗効果を生んでいるといってよいだろう。
  第二は、社会学者は学生の目からみておじさん、おばさん、つまり大人であるが、その大人たちの書いた若者論を若者が読んで、若者は自分たちのことを「理解してしまう」傾向がある。大学生の「若者」をテーマにしたレポートにはおじさん、おばさんの書いた本が参考文献として使われるが、それが批判的な使われ方をすることはめったになくて、「○○がこういっている通り・・・」と自分の考察の妥当性の根拠として使われるのである。とても素直なのだ。「大人に自分たち若者のことがわかってたまるか」的な文章に出会うことはめったにない。もしかしたら、レポートで考察の対象になっている「若者」の中にレポートを書いている学生本人は含まれていないのではないかといぶかしく思うときがある。「ここでいう若者たちは若者一般のことで、私自身はその若者の一部でありません」とどこかに注釈が書かれているのではないかと思ってしまうほど、学生は大人が書いた若者論を素直に受け入れている。今回の大澤の論文も授業で教材として取り上げたら同じことが起きるだろう(と、あらかじめいっておけば、そうはならないのはないかという期待を込めて)。  

  「大黒」で百円均一の古本を6冊購入して、蒲田に帰る。「くまざわ書店」で新書を4冊購入。

  瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)
  豊田義博『就活エリートの迷走』(ちくま新書)
  海原純子『ツイッター幸福論 ネットワークサイズと日本人』(角川ワンテーマ21)
  山脇伸介『Facebook 世界を征服するソーシャルプラットフォーム』(ソフトバンク新書)
  


2月25日(金) 晴れ

2011-02-26 09:27:48 | Weblog

  7時、起床。パン(トゥルニュ)とバターとホットミルクの朝食。9時半に家を出て、大学へ。今日はずいぶんと暖かい。マフラーは不要。コートも不要だが、夜はまた寒くなるようなので着てゆかざるをえない。冬から春へ、これからはこういう日が増えてゆくだろう。

  10時半から拡大人事委員会。12時から人事委員会。昼食を「たかはし」に食べにいく。途中でゼミ4年生のOさんと遇ったので、一緒に「たかはし」に行く。私は豚肉生姜焼き定食、Oさんは肉豆腐定食を注文。Oさんは「たかはし」は初めてなので、ご飯はけっこう量があるから少なめで注文した方がよいのではとアドバイスしたが、いえ、大丈夫ですとのこと。事実、残さずきれいに食べた。しかも私の方が先に食べ始めたのに、食べ終わったのはほぼ一緒だった。小柄なOさんだが、人はみかけによらぬものである。社会人になってもしっかり食事をとることを忘れないでほしい。


定食の王道

  2時から運営主任会。3時間かかった。ふぅ。引き続いて来週の教授会へ向けての教務・事務の打合せを7時頃までやる。出席を予定していた現代人間論系の教室会議には出られず。教務になると自分の論系の会議にはなかなか出られない。
  メールをチェックすると、エクステンションセンターから夏の公開講座の依頼が来ていた。貴重な夏休みはできるだけ自分のために使いたいので、断ろうと思ったが、メールの差出人の名前に見覚えがあったので、考え直す。これも何かの縁であろう。個人化の極度に進んだ現代社会では、縁(人との絆)と円(お金)は大切にしなくてはならない。
  8時に大学を出る。夕食は「五郎八」で。カツ丼とせいろのセットを注文。ご飯は軽めにしてもらう。「五郎八」は家族でやっている店だが、以前は(もう大分昔のことだが)、揚げ物屋さんをやっていた。カツやカキフライがメニューにあるのはその頃の名残である。一人客は私だけだったからだろう、女将さんが話の相手をしてくれる。この週末は久方ぶりで何の予定も入っていない週末だ。これが本来の週末だ。うれしさがこみ上げてきて、思わず、デザートにあんみつを注文した。

  帰りの電車の中で、「今日の感謝」を考える(1週間続けてみる)。

  ○人事委員長の源先生のご苦労に感謝。
  ○適切な御意見をいただいた運営主任会の先生方に感謝。
  ○昼食につきあってくれたOさんに感謝。
  ○公開講座の依頼をいただいたYさんに感謝。
  ○おしゃべりにおつきあいいただいた「五郎八」の女将さんに感謝。


2月24日(木) 小雨のち晴れ

2011-02-24 23:55:37 | Weblog

  7時、起床。入試業務が続いていたときの早起きが持続している。もう1時間は寝ていてもかまわないのだが、この時間で一度目が覚めてしまうと、二度寝は無理。「早起きは三文の徳」と思いながら起きることにする。昨日、帰宅の途中で「神戸屋キッチン」で半額で購入したトゥルニュ(胡桃と無花果入りのパン)をバターで食べる。とても美味しい。妻も美味しいと言っていた。

  9時半に家を出て、大学へ。電車に乗って、吊り革につかまって、読書を始めてすぐに、目の前に座っている人が降りた。目の前の座席というものは、それが空くのを期待しているときはなかなか空かず、期待していないときは簡単に空くものである。
  10時半からカリキュラム委員会。「たはかし」のお弁当を食べながら12時半頃まで。2時から教授会。議題が少なかった割には2時間かかった。屋外に出て、深呼吸をする。高層棟の横には赤い首長竜のような機械が静止しており、仮設校舎の屋根の向うにはステゴザウルスの背中のようなメタセコイヤが並んでいる。

  必修基礎演習ガイドブックの二校が届いたので、自分の文章と、扉や目次や奥付等の箇所をチェックする。けっこう直すべき個所があるものである。納期は3月24日の予定で編集作業が進められているのだが、なかなかタイトなスケジュールである。
  大学を出たのは8時半ごろ。あゆみブックスで立ち読みしたタル・ベン・シャハー『ハーバードの人生を変える授業』(大和書房)の冒頭にいいことが書いてあった。「この1週間、感謝することを毎日5つ書きとめるようにしてください」。愚痴をこぼしたり、他人を非難したりするのではなく、感謝することを生活の中に見出す努力をしようということである。私は電車の中で今日一日を振り返り、感謝できることを5つ頭に思い浮かべてみた。けっこう簡単な作業だった。

 ○美味しいパンに感謝。
 ○会議の資料を準備してくれる事務所のみなさんに感謝
 ○必修基礎演習ガイドブックの作成にかかわってくれている方たちに感謝
 ○遅く帰宅しても夕食を作ってくれる妻に感謝
 ○よいことを教えてくれたタル・ベン・シャハーに感謝。

  本には思い浮かべるところまでしか書いていないが、私が思うに、もう一押しが必要だと思う。それはその感謝の気持ちを相手に言葉やジェスチャー(身体言語)でちゃんと伝えることである。感謝の気持ちを持つこと、そして、思いを伝えること。自分が好調のときにこれをするのは難しくない。それだけの精神的なゆとりがあるからだ。問題は不調のときにそれができるかどうかである。自己鍛錬とはそのためのものだろう。


2月23日(水) 晴れ

2011-02-24 08:22:58 | Weblog

  7時、起床。ブログを更新してから、バタートーストと紅茶の朝食。
  昼から大学へ。「たかはし」で昼食。刺身定食を食べていたら、バーダマン先生が入って来られ相席となった。「ようやく自分の時間がもてるようになりました」と開口一番バーダマン先生が言った。「それはうらやましい限りです」と私は応じた。それから、旅行の話、地元の商店の話、料理の話・・・ものの見方や考え方が似ていることに驚く。たぶん私が欧米的なためではなく、バーダマン先生が日本的なためでもなく、二人がコミュニタリアン的なためだろうと思う。ちなみにバーダマン先生はブリのカマ焼きを注文された。

  1時から基本構想委員会。1時間半ほど。そのあと教務的会議。3時から事務との打合せがしばらく続く。それが一段落したところで、「maruharu」に一息入れに行く。スイーツとコーヒーのつもりでいたが、本日のサンドウィッチ(ソーセージとキャベツの炒め)をついつい注文してしまう。


本来のお目当てであるスイーツ(ブルーベリーのタルト)はデザートで注文

  早めの夕食をとった感じになったので、それから10時近くまで教務室で明日の会議のための資料作り。静かだ。今日も世界中でいろいろなことが起こっている。遠いところで、身近なところで、失われてしまった命のことを考える。


部屋の最後の灯りを消す前に