フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2003年2月(後半)

2003-02-28 23:59:59 | Weblog

2.15(土)

 博士課程入試の二次試験(面接)。一人当たりの面接時間は30分ほど。最初に一次試験の出来について簡単にやりとりした後、本題(博士課程での研究課題)に入る。まず研究課題について説明してもらい、次にこちらから質問する。自分自身の研究課題について話すのだから簡単であろうと誰でも思うかもしれないが、これがさにあらずで、質疑応答はスムーズにいかないのが常である。理由は3つ考えられる。第1に、受験生は緊張しているということ。さほど広くない会議室のテーブルの向こう側に8名の教員がずらりと並び、すべての視線が凸レンズの焦点に注がれるという状況で心拍数が上がらない人がいたら不思議であろう。第2に、自分が「わかる」ことと他者に「わからせる」こととは同じではないということ。後者の方が数段難しい。自分ひとりの密室で「わかる」ことができても、他者との相互作用の中で「わからせる」訓練が不足していると面接で苦労する。第3に、面接する教員全員が個々の受験生の研究課題に詳しいわけではないということ。したがって面接者からの質問には的外れなものや、トンチンカンなものが含まれている場合がある。その場合、その的外れ具合を的確に把握して正しい脈絡に修正するような回答ができれば大したものなのだが、緊張のため、あるいは「わからせる」ことの訓練不足のため、往々にして不十分な回答をしてしまい、質疑応答の流れをますます乱してしまうことになるのである。私は、今日の面接の司会進行役を務めながら、なんども「やれやれ・・・・」と心の中で呟いた。

 

2.16(日)

 ちょと風邪気味。明日は朝から一文の入試監督をやらなければならない。大事をとって早く寝ようとしたのだが、夜型の習慣が身についているため、なかなか眠れない。結局、眠くなるまで本を読んでいたら、午前2時の就寝となった(これでもいつもよりは早い)。

 

2.17(月)

 朝のNHKのニュースで昨日の早稲田大学の入試でのミスが報じられていた。数学の試験のときに、ある教室の試験監督が予定より2分早く試験時間の終了を宣言してしまったというものである。振鈴を待たずに自分の腕時計で判断してしまったらしい。それにしてもたかが「2分」でNHKのニュースである。早稲田大学も大したものである。早稲田大学の教員たるもの、絶対に電車の中で痴漢に間違われないようにしないといけません。冗談はさておき、今日は一文の入試の試験監督をやらなくてはならない。もって他山の石とすべし。今年は、小論文を廃止して日本史・世界史を復活し、かつセンター入試を導入した効果で、一文の受験生は昨年の1.5倍である。そのため文学部キャンパスまで使っての入試となった。私の担当は文学部453教室(受験生180人)。1時間目の英語の試験のとき、開始10分前から解答用紙と問題冊子の配布を始めたところ、思ったより時間がかかり、全部配り終わったのが試験開始時刻の直前で、いきなり冷や汗をかいたが、後は問題なく終わる。さて、彼らの中から私の「社会学基礎講義A」を受講することになる1年生が何人出るだろうか。たぶん教室は今日と同じ453教室のはずである。

 夜、私の卒論ゼミの卒業生で、いまはリクルートで働いているAさんとKさんがやってくる。Aさんは96年度卒、Kさんは97年度卒で、いまはたまたま同じ部署で働いている(自分たちが同じ教師に卒論指導を受けたことをつい最近まで2人は知らなかった)。リクルートにはほかにも私の卒論ゼミの卒業生が3人いて、Mさん(95年度卒)はいま仙台支社勤務、Oさん(96年度卒)とT君(00年度卒)は今夜は仕事で来られない。私が早稲田大学で教えるようになって9年が経つが、同じ会社に5人も卒論ゼミの学生がいるというのは珍しい。ちょっとした社内派閥ではなかろうか。Aさん、Kさんとも会うのは卒業以来である。Aさんは学生時代よりも視線がやわらかくなり、Kさんは髪の毛が茶色くなっていた。「五郎八」で食事をしてから、「カフェ・ゴトー」でお茶を飲む。2人の在学中は「五郎八」はまだなかったが(同じ一家がコロッケ屋さんをしていた)、「カフェ・ゴトー」はすでにあった。学生には高級な店であったので、たまに奮発して、紅茶とベイクドチーズケーキを味わうのが楽しみであったという。しかし、いまは2人とも高給取りで(残業時間も半端ではないのだが)、年収は一千万円くらいあるらしい(!)。私が彼女たちくらいの年齢のときは、いまだ定職に就いておらず、したがってお金がなく、夏の暑い日、道端の自動販売機で冷たい飲物を買いたいのを我慢して、駅のホームの冷水機の水を飲んでいたものである。「カフェ・ゴトー」が閉店の時刻(午後10時)になったので、お開きとする。ふだんなら2人ともまだ会社で働いている時刻であるという。

 

2.18(火)

 DVDで昨年度のアカデミー賞作品『ビューティフル・マインド』を観る。途中から、3人の人物が、主人公だけにしか見えない幻覚であるということがわかり、ぞっとする。字幕では「schizophrenia」が「統合失調症」となっていたが、1950年代という時代背景を考えれば、ここはやはり「精神分裂病」でないとだめでしょう。「統合失調症」では感じが出ない。TVドラマの台詞で「お母さん、味の素をとって」を「お母さん、グルタミン酸ナトリウムをとって」と言うようなものだ。

 

2.19(水)

 ブロードバンド用に購入した新しいパソコンには、将棋・囲碁・麻雀の各ソフトがプレインストールされている。将棋のソフトはめちゃくちゃ弱く(私は有段者)、囲碁は私の方が超初心者で面白くないが、麻雀はその中間でけっこう楽しめる。大学院生の頃、よく同じ研究室の人たちと麻雀をした。西早稲田二丁目のバス停そばの「みよし」というパチンコ屋の2階の雀荘がホームグラウンドだった(ここはいまもある)。一番強いのはM教授で、なんでも学生の頃は雀荘に入りびたりだったそうだ。先月47歳の若さで亡くなった後輩のH君も場数を踏んだ打ち手で、煙草をふかしながら牌を切る姿がさまになっていた。そこへいくと私は大学院に入ってから麻雀を覚えたまったくの初心者で、麻雀の役は知っているものの、点数の数え方がわからないので、正しくは麻雀を知っているとはいえなかった(点数はM教授やH君に数えてもらっていた)。それでも阿佐田哲也の『麻雀放浪記』や『A級麻雀』なんかを読んでいて、気分だけはいっぱしの勝負師気取りであった。渋く、さりげなく「ロン」と言えるとかっこよいのだが、どうしても「ヤッター!」という気持ちが声に表れてしまうのが我ながら未熟だと思っていた。パソコンの麻雀ソフトでは山手線の駅名を苗字にもついろいろなタイプの相手(巣鴨駿とか鶯谷翔とか)と卓を囲むのだが、自分自身の名前も入力することができる。最初は「大久保孝治」と生真面目に本名でやっていたのだが、途中から「日暮里のロン」という名前に変えたところ、急に調子がよくなり、昇級・昇段を重ねて現在は「二段」である。しかし、点数の計算はパソコンが勝手にやってくれるので、あいかわらず自分ではできない。

 

2.20(木)

 夜、ふと思い立って「日本の古本屋」と「BOOK TOWN KANDA」いうインターネットサイトで『清水幾太郎著作集』全19巻(版元の講談社では品切れ)を検索したところ、神田神保町の田村書店と京都河原町の赤尾照文堂に在庫があることがわかった。前者は13万円、後者は9万円の値が付いていたので、迷わず赤尾照文堂に注文のメールを出す。神保町は日本一の古書店街で、欲しい本はたいてい見つかる代わりに、値段も高い。以前、『福田恆存全集』を田村書店で5万数千円で買った数日後に、地元(当時)の下総中山の駅のそばの小さな古本屋で同じものが2万数千円で出ているのを見つけ、悔しいやら嬉しいやらで、思わず購入してしまったことがある。そのため『福田恆存全集』は自宅の書庫と大学の研究室に一式ずつある。『福田恆存全集』を2セット所有していて、『清水幾太郎著作集』は1セットしか所有していないというのでは、清水に対して申し訳ないので(福田が「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」という文章で晩年の清水を痛烈に批判したことは有名)、今回、研究室用にもう一式購入したしだい。これまでも折にふれて探してきたのだが、なかなか市場に出て来なかった。ようやく手に入れることができて、清水幾太郎論を書いている者として安堵した気分である(後は入れ違いですでに売れてしまっていないことを祈るだけだ)。

 

2.21(金)

 昨日、『清水幾太郎著作集』をインターネット経由で京都の赤尾照文堂に注文したのだが、今日、折り返しメールがあって、「誠に申し訳ございませんが、御依頼の『清水幾太郎著作集』は既に店頭にて売り切れてしまいました。せっかくご注文賜りながら誠に申し訳なく存じますが、どうぞ悪しからずご了承下さいませ。」とのこと。やっぱりね。そんな気がしてました。これまでにも同様の経験を何度かした。思うに、Amazonやbk1などの新刊本・流通本のインターネットサイトと比べて、古書のサイトは在庫リストの更新がひどく緩慢である。売れて在庫がなくなったのなら、その時点ですぐに在庫リストから削除してもらいたいものだ。そうでないとネット上に出店している意味がない。さて、赤尾照文堂がだめとなると、やはり老舗の田村書店で購入するほかないのであろうか。しかし、13万円だからなぁ・・・・、4万円の違いは大きい。銀行で私個人の口座の残高を確認したら、思ったより少なく、55万円ほどだった(家計の口座は別で、そちらは妻が管理していて私は手が出せない)。暮れにパソコンを2台カード払いで購入したのが今月引き落とされたことをうっかりしていた。昨日もbk1で一冊7000円する『大正文学全集』(ゆまに書房)の11・12・13巻を気楽に注文してしまった。急に懐が頼りなくなる。今日の昼食は「すず金」の鰻重(1500円)の心算であったが、急遽、「なか卯」の肉うどん(380円)に変更する。関西風の汁でなかなか美味しかったが、いかんせんボリュームが足りない。結局、「シャノアール」で食後のコーヒー(280円)と一緒にハムトースト(250円)を注文することになり、本日の昼食の総額は910円。全然節約したことにならなかった。

 

2.22(土)

 麹町で会合があり、帰りに有楽町駅前の「ビッグピーカン」に初めて立ち寄る。ここはフランク永井の「有楽町で逢いましょう」で有名だったかつての「そごうデパート」である。子供の頃、両親に連れられて何度か来たことがあるが、まさかまるごとビッグカメラになるとは夢にも思わなかった。まさに栄枯盛衰の感あり。パソコンのソフトを買いに来たのだが、さすがに品揃えが充実していて、それに活気もある。発売されたばかりの「一太郎13」と「Kacisマイノート」を購入。それとついでに将棋のソフト「東大将棋5」も購入(蒲田の「ラオックス」にはいつまでも1つ前のバージョンである「東大将棋4」が置かれているのである)。さっそく「東大将棋5」をインストールして最強レベルの「マスター」と対局してみる。お手並み拝見と気楽に指していたら負かされた。強い。姿勢を正してもう一局。また負かされた。日本将棋連盟三段の免状にかけて真剣にやったらどうにか勝った。しかし、その後は勝ったり負けたり。いや、「勝ったり負けたり」と書くと互角みたいだから、正しくは「負けたり勝ったり負けたり」というべきだろう。この分でいくと「東大将棋10」が出る頃にはまったく歯が立たなくなっているかもしれない。コンピューター将棋恐るべし。

 

2.23(日)

 3年前に社会学専修を卒業して銀座のワシントン靴店で働いているMさんからひさしぶりのメールが届く。彼女は私とTVドラマの好みが似ていて、在学中はあれこれ感想を述べあったものである。いまは仕事が忙しくなって以前ほどは見ていないそうだが、今期は「僕の生きる道」がイチオシだと書いてあった(私も同意見)。SMAPの草彅剛が主人公で(相手役は矢田亜希子で私は彼女のファンである)、癌で余命一年を宣告された高校教師が残された人生を精一杯生きるという黒沢明監督の映画「生きる」を彷彿とさせる内容のドラマである。その中で、「読もう読もうと思って長い間読まずにいる本」になぞらえて、「そういう人は1年後も10年後も何も実行しないだろう」という意味のことを主人公が述べるくだりがあったが、Mさんはまるで自分のことを言われているようだと思ったそうだ。それで、ここがMさんらしいところなのだが、去年は私の研究室に顔を出そう出そうと思いながら忙しいさにかまけて実行せずにいた自分を反省し、「先生に近いうちにぜひともお会いしたいのですが、いかがでしょうか?」というメールを送ってきたというわけである。はい、もちろん大歓迎です。ちなみに「読もう読もうと思って長い間読まずにいる本」なら私にもある。それも研究室の壁いっぱいに天井まで届いています(ふぅ・・・・)。

 

2.24(月)

寒い一日。今日は二文の入試であるが、私には試験監督の依頼の手紙が届かなかった。そんなはずはない、他の郵便物に混じって見落としているのかもしれないと、土曜日に二文事務所に確認の電話を入れたが、「大久保先生には今回はご依頼しておりません」との返事。しかも小論文の採点作業にも来なくてよいとのことだった(これも当然やるものと思っていた)。素晴らしき哉人生! 2日間という自由な時間が突然空から舞い降りてきたのである。

 

2.25(火)

教授会。3月末をもって定年(70歳)退職される8名の先生方の挨拶があった。退職の挨拶はいってみれば教員としての一世一代のスピーチである。どなたも前々から練っておられたと思われる味わいのあるお話をされた。私は定年退職の挨拶を聞くのが好きで(それは去っていかれる方への礼儀でもある)、それは他の先生方も同じと思われ、いつもの教授会より出席者が多かった。

遠藤弘教授(西洋哲学):お若い頃は健康に問題をかかえていた先生が70歳の定年を迎えることができるにいたった健康法(たとえば塩分を控えるためにラーメン汁は捨てお湯を注いで食べる)についてのお話を軽妙な口調で話された。全然哲学的でないところが洒脱である。

 佐藤慶幸教授(社会学):最後だから言っておきたいこと、大学への注文(たとえば定年制度の廃止=完全選択定年制度の導入など)を、最終講義のときと同じく熱く語られた。

 大井邦夫教授(英文学):中学生のときにスキーで大怪我して数年間の療養生活を強いられているときに早稲田大学の講義録(当時はそういうものが市販されていた)を読んで学問の世界に目覚められた話から始まって、ご専門であるシェークスピアの話で終わられた。

 虎岩正純教授(英文学):これまでの人生でご自分がいかに「時間に遅れない」という規範を守れずにきたかというエピソードの数々を披露された。本日、一番長いお話だったが、同時に、一番面白い(笑える)お話だった。

 氷室美佐子教授(英文学):図書館的人生(日々の大部分を図書館の中で過ごす人生)のお話。『海辺のカフカ』の主人公の毎日みたいで、文学部の教員であれば誰でもそうした人生を夢見るはずだ。

 加藤民男教授(仏文学):思い出話は一切なさらず、教職員への感謝の気持ちを簡潔に述べられた本日一番短い挨拶。そのダンディズムに感心した。

 清水茂教授(仏文学):子供の頃からずっと朝起きるのは学校に行くためであったが、これからはそうではなくなり、いずれ目覚めることない日が来るであろうというお話。フランス的機知と日本的滋味の融合。

 由井正臣教授(日本史):「どうにか職務を果たすことができたと思っています」という一言に謙虚さと自信とが感じられた。

 林睦実教授(独文学):長島茂雄の引退の挨拶を真似て「早稲田大学文学部は永遠に不滅です!」で終わられた。

 ところで私は定年まであと22年あるが、70歳まで元気に勤め上げて、教授会で退職の挨拶を述べている自分というものを想像することはできない。しかし、もしそういうときが来たとしたら、どんな挨拶をするであろう。私のお隣には3年後に定年を迎えられる正岡寛司先生がいらしたが、先生はもう挨拶の具体的な内容を考えておられるのだろうか。

 

2.26(水)

 明後日が締め切りの原稿のための資料作り。SPSSとエクセルの操作に明け暮れる。

 

2.27(木)

 終日、明日が締め切りの原稿を書く。

 

2.28(金)

 今日が締め切りの原稿を徹夜で書き上げる。徹夜をすると仕事をしたような気になる。早朝のコンビニで買ってきたアイスコーヒーを居間のテーブルで飲んでいると、妻が起きてきて、「徹夜なんて体に悪いことはやめて」と言った(「もう若くないんだから」という余計な一言を添えて)。原稿を鞄に入れて家を出るとき、Amazonに注文しておいたHolsteinとGubriumのCONSTRUCTING THE LIFE COURSEが届いたので、さっそく電車の中で最初のところを読む。著者曰く、「本書は経過する時間の中での個人的経験についての社会構築主義者のパースペクティブを提供するものである。」なかなか面白そうな本だ。「書く」ことに集中しているときは「読む」ことはできない。もちろん新聞や雑誌くらいは読めるが、夢中になっての読書はできない。原稿を書き上げて、これでまたしばらくは「読む」ことに集中できる。


2003年2月(前半)

2003-02-14 23:59:59 | Weblog

2.1(土)

 二文の卒業記念誌「d」から依頼されていた原稿を書いて、編集者にメールで送る。

 

「1977年の三角ベースボール」

 僕が大学を卒業したのは、いまから26年前、1977年の3月だった。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」や狩人の「あずさ2号」が巷に流れていた。上野発の夜行列車に乗って、あるいは八時ちょうどのあずさ2号に乗って、東京=都市的日常から旅立つというセンチメンタルな行為に人々は憧れを感じていた。そういう時代だった。

 大学を卒業した僕は、4月から新たに所属する集団を持たなかった。大学院の入試に落ちたからである。もとより就職活動はしていなかった。僕はすでに大学生ではなく、しかし、他の何者でもない、ただの22歳の潜在的失業者だった(顕在的失業者になるためには求職活動という条件が欠けていた)。客観的に見れば、明るい材料は何もなかったが、僕は元気であった。これから一年間、思う存分、自分のペースで勉強ができると思うと、身体中にエネルギーが充ちてくるのがわかった。人生というものにあれほど楽観的であった時期を僕はほかに知らない。

 それからの1年間の僕の生活は実にシンプルなものだった。朝7時起床。庭先で縄跳びを中心とする運動で汗を流し、シャワーを浴びて、朝食。午前9時から午後3時まで、電車で2つ目の駅の側にある図書館で勉強(昼食は駅の立ち食いそば)。それから夕方まで、出身高校のバドミントン部で後輩の指導にあたるか、練習のない日は街の将棋クラブで将棋を指す。夕食後は、9時から12時まで勉強。そして就寝。僕はこの「自宅」→「図書館」→「バドミントン部or将棋クラブ」→「自宅」という三角ベースを、映画『サード』の主人公のように、毎日走り続けた。そして翌年の春、僕は大学院に入学し、将棋の有段者になり、将来の妻となる18歳の女の子とバドミントン・コートの上で出会った。僕にとっての1977年はそういう年だった。

みなさんの2003年に、グッド・ラック!

 

2.2(日)

 今月から、日付の新しいものを一番上に置くことにする。繰り返しアクセスしていただいている方のためにはやはりその方が親切だろう。(ただし、バックナンバーは従来どおり各月の1日始まり)。

 

2.3(月)

 卒論口述試験(10本)。今日の分で一番面白かったのは二文のIさんの卒論。田山花袋『蒲団』から江國香織『きらきらひかる』まで5本の小説をセクシャリティの視点から論じたもので、斉藤美奈子の評論と似たタッチの作品。Iさんは4月からJR系の食品会社に勤務するとかで、6月から品川駅構内のコーヒーショップで現場デビューするそうだ。「文筆とは全然関係ない職場で・・・・」と彼女は言うが、村上春樹はカフェバーを閉めた後の時間にデビュー作『風の歌を聴け』を書いたのだし、ヴィットゲンシュタインは第一次世界大戦の塹壕の中で『論理哲学論考』を書いたのである。書きたい気持ちさえあれば人はどこでも書けるものである。

 

2.4(火)

 金城一紀の新刊『フライ・ダディ・フライ』を読む。47歳の男が高校生の娘の信頼を取り戻すために闘う話。身につまされる話です。金城の文章は達者で、さすがに直木賞作家という感じ。ちなみに彼は今回もう一冊『対話篇』という短編小説集を同時出版した。『フライ・ダディ・フライ』を動とすれば、『対話篇』は静らしい。面白い試みだ。

 

2.5(水)

 自宅の無線LANの調子が悪い。あれこれやっていたら余計に悪くなる。しかたない、また業者の世話になるほかはない。出張費8千円、パソコン2台の設定費1万円、計1万8千円の出費だ。やれやれ。現代人の生活は依存のシステムで、お金がある限りにおいて維持されるが、お金がなくなったらアウトである。(後記:数日後、自然に復旧した。一瞬、1万8千円得した気分になったが、これからも常に不安を抱えながら使っていかなくてはならないというのはいい気分ではない)。

 

2.6(木)

 社会学研究10のテストの採点を始める。1時間で25枚として、全部で250枚あるので(学籍番号順に並べるだけで1時間かかった)、10時間はかかる作業だ。小説を10時間続けて読むことはできるが、答案を10時間続けて読むことはできない(絶対に頭がおかしくなる)。2、3日の仕事になるだろう。

 夕方から早稲田駅側の「つぼ八」で二文の基礎演習クラスのコンパ。冒頭、幹事のWさんから花束の贈呈を受ける。なんだか謝恩会みたいだ。

 長嶋有の新刊『タンノイのエジンバラ』(文藝春秋)を読む。奥行き感じさせる文体はやはり芥川賞作家のものだ。ちなみに「タンノイのエジンバラ」とは、「タンノイ社製のエジンバラという商品名のスピーカー」の意味で、「ソニーのウォークマン」というのと同じとのこと。あっ、そうなの。私は知らなかった。「タンノイ」というのはベトナムあたりの町の名前で、「エジンバラ」というのは人の名前かなと思ってました。

 

2.7(金)

 自宅にADSLを引いてからネット(Amazonやbk1)で本やCDをよく注文するようになった。注文して数日で商品が届く上に、送料が無料ときているから、ついつい商品をカートに入れて購入ボタンをクリックしてしまう。一般の書店やCDショップに置いてある本やCDは流通している本やCDのごく一部でしかない。散歩がてらに書店やCDショップをのぞく楽しみはこれからも私の生活からなくなることはないと思うが、購入ルートは大きくシフトしていきそうな予感がする。今日は妻の依頼で『魔法使いハウルと火の魔法』と『アラブダと空飛ぶ絨毯』という2冊の本をAmazonで注文した。代金は私のJCB早稲田カードから落とされるので、現金3360円をその場で妻から徴収する。「24時間以内の発送」とあったから、妻は明後日の日曜日にはこのハリーポッター風のタイトルの2冊の本を受け取るだろう。そして趣味室(妻の部屋)に一日中こもって最初の1冊を読破し、おかげで我が家の夕食の献立はあまり手のかからないものになるだろう。

 

2.8(土)

 研究室で「社会学研究10」のテストの採点をやっていたら、事務所の学務係のY氏から成績評価を一刻も早く出すようにとのメールが入る。すぐに「いまやってます。すいません。」という蕎麦屋の出前みたいなメールを返す。

 夜、DVDで『少林サッカー』を見る(人生には息抜きが必要なのだ)。いや、なかなか面白い映画です。何よりも娯楽作品に徹しているところがいい。饅頭屋の娘役の女優が美形なのには驚いたが、その彼女が、決勝戦で、ピンチヒッター(いや、ピンチゴールキーパー)で登場し、敵の火の玉シュートをやんわり捌いてしまったのにはもっと驚いた。

 

2.9(日)

 やっと「社会学研究10」のテストの採点が終わる。250名中、一番多いのは「C」評価で82名(33%)。「A」評価は51人(20%)だった。これって普通なのだろうか、厳しいのだろうか。まさか甘いってことはないよね。ぜひ一度、教授会のときにでも、全科目の成績評価の度数分布のデータを見せてもらえないだろうか。そうすればみんな自分の評価法というものを再考するいい機会になると思うのだが。ところで明日は何か手土産持参で事務所に出向かなくてはならないだろうな。「本高砂屋」のどら焼きがいいかもしれない(たんに自分が好物だからですけど)。

 

2.10(月)

 大学院の博士課程の一次試験(専門と外国語の筆記試験)の日。試験というものは嫌なものである。合格する人がいれば落ちる人がいるのは試験というものの性質上しかたのないことだが、その判定に自分が関与するとなると「しかたのないこと」とあっさり割り切れないものが残る。昔、私は修士課程の試験で落ちた経験がある。学部のときの専修(人文)とは違った専攻(社会学)を受けたのだからしかたがない・・・・というのが当時の自分に対する釈明であったが、もし2年目も落ちていたら、どうしていたであろう。いまでもよく覚えているが、2年目の英語の試験の文章はチャーチルの肖像画についてのものであった。チャーチルの死後、遺族が彼の肖像画にクレームをつけて云々という内容であったが、私はその話なら「ニューズ・ウィーク」を読んで知っていた。試験の文章は「ニューズ・ウィーク」の記事とは別のものであったが、それでも話の大筋を知っていることは大変に有利なことであった。もし別の文章であったら、というのはあまり意味のある仮定ではないかもしれないが、私は早稲田大学ではなく明治学院大学の大学院(すでにそちらは合格していた)へ進んでいたかもしれない。そしていまごろはあの白金台にある小奇麗なキャンパスで教鞭をとっていたかもしれない。授業の合間に近くのケーキの美味しい喫茶店で本を読むのを習慣にしていたかもしれない。う~ん、それも悪くなかったかもしれない・・・・と、私は自分が歩いたかもしれない「別の人生」を能天気に空想するのであった。

 

2.11(火)

 英文学専修の安藤文人先生はこのフィールドノートをときどきご覧になっているようで、昨日、大学院の入試の採点をしているときに私に声を掛けてきて、「試験の採点結果は2月3日が締切なのに、2月6日から採点を始めてちゃだめじゃないですか」と言った。彼は私が二文の教務主任をしていたときの一文の教務主任で、いわば戦友のようなものである。彼の恩師は小沼救先生(故人)だが、作家の小沼丹と言ったほうが話が通じやすいだろう。私は小沼丹の大ファンである。えっ? そんな作家知らない? まあ、しかたないですね、素人受けするタイプの作家ではありませんから。古本屋の主人には彼のファンが多い。たとえば神保町の田村書店のご主人奥平晃一さんは「私の店に来る人で小沼丹を知らない人がいたら、本なんか読まない方がいいと思うくらいです」と言っていた。う~ん、よくぞ言ってくれました。たとえば、私は村上春樹のファンで、彼の小説は全部読んでいて、新刊が出るとすぐに買って、『海辺のカフカ』のような長編であっても翌日までには読んでしまうのだが、そういう私でも、「小沼丹と村上春樹、どちらが好きか」と聞かれれば、「小沼丹」と答えるだろう。とにかく味わいのある文章なのだ。学部の学生の頃、彼の『椋鳥日記』(1974年)というロンドン滞在記を、毎晩、寝床で寝酒を味わうように少しずつ読んだことが思い出される。現在、彼の文章を読もうと思ったら、みすず書房の「大人の書棚」シリーズの中の1冊、『小さな手袋/珈琲挽き』がよいだろう。これは弟子の庄野潤三が小沼の二冊のエッセー集『小さな手袋』(1976年)と『珈琲挽き』(1994年)から編集したものである。私は前者は単行本で持っているのだが、後者はうっかり買い忘れてしまった(現在は品切れ)。昨日、そのことを安藤先生に話すと、ニヤリと笑って、「私はもちろん持っていますよ。ウン万円でどうですか」と言った。実際は「ウン」の部分は具体的な数字が入るのだが、安藤先生の品格を貶めることになるので、あえて「ウン」と表記しておく。小沼丹の弟子にもいろいろな人がいるものである。[後記:このフィールドノートを読まれた安藤先生から、庄野潤三は小沼丹の弟子ではなく友人であるとの指摘を受けた。]

 

2.12(水)

 今期のTVドラマは低調である。木村拓哉主演の「グッド・ラック」は見るに堪えず、松嶋奈々子主演の「美女か野獣」も2回で飽きた。今期、欠かさず見ている唯一のTVドラマは草彅剛主演の「僕の生きる道」である。

 

2.13(木)

 教員ロビーのドアを出たところでロシア文学専修の草野慶子先生とばったり合う。すると、彼女、何を思ったか、いきなり「今年はチョコレートはさしあげませんから」と言った。その一言で、ああ、明日はバレンタインデーだったなと気づく。しかし、それにしても、わざわざ「あげません」と宣言することはないでしょう。確かに去年と一昨年はチョコレートをいただきました(私だけでなく、一文・二文の教務全員に)。しかし、今年はもう教務の任期は終わったのだから義理チョコは差し上げません、という宣言なのであろう。私が、「はあ・・・・」と唖然としていると、彼女、「今度、また美味しいものを食べにいきましょうね」と言って立ち去った。帰宅すると、娘が妻に手伝ってもらいながらクッキーを焼いている。明日、学校にもっていくのであろう。娘の許しを得て一枚食べてみると、けっこう上手に出来上がっている。続けて数枚食べる。嬉しいような、悔しいような気分だった。

 大学からの帰りに「あゆみブックス」で買った『坂崎幸之助のJ-POPスクール』(岩波アクティブ新書)を読む。THE ALFEEの一員である坂崎幸之助が自らの音楽人生を語った本。彼は私と同じ1954年の生まれで、誕生月も一緒(4月)である。彼は東京都墨田区の出身で高校は都立墨田川高校、私は東京都大田区の出身で高校は都立小山台高校と、生まれ育った環境も似ている。私たちは同じ時代に同じような場所にいて同じような歌を聴いて育ったのである。そして彼とは比べるべくもなく低いレベルではあったものの、私も彼と同じようにフォークギターを弾き、自分で作詞作曲をした歌を歌っていた(恥ずかしいことに、それをテープに吹き込んで、遠くの町の学校へ転校していく女の子にプレゼントしたりした!)。だから、たとえば、彼がフォーク・クルセダーズや岡林信康や五つの赤い風船などについて語る言葉のひとつひとつが、私にはよく理解できる。そう、そう、あの頃はそういう時代だったねと。

 

2.14(金)

 D.エドモンドとJ.エーディナウの『ポパーとウィットゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』(筑摩書房)を読み始める。本当は今月末締切の原稿にそろそろと取り掛からねばならないのだが、そういうときに限ってこの種の本が読みたくなる。この本は訳者がいうように三通りに読むことができる。第一は「ウィーン出身の哲学者、ルートヴィッヒ・ウィットゲンシュタインとカール・ポパーの二重評伝」として。私は評伝を読むのが好きである。第二は「群雄割拠する二十世紀前半の哲学界をえがく、ぜいたくな絵巻もの」として。大学院の演習で読んでいる清水幾太郎の『倫理学ノート』に登場するケンブリッジの面々がここにも登場する。そして第三は「ウィーンとユダヤの民の近現代史」として。ウィーンという都市は、シカゴという都市が社会学において占めているような重要性を、現代思想において占めている