フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2004年11月(後半)

2004-11-30 23:59:59 | Weblog

11.15(土)

 今週は慢性的な寝不足状態が続いていたので、今日はひたすら眠る。

 

11.16(日)

 小春日和というよりも小夏日和というべき陽気。この陽気の一番の被害者は高橋尚子である。女子マラソンの代表選考はどうして毎度毎度こうも悩ましいことになるのであろう。それにしても、優勝者アレムへのインタビューの最後に、インタビュアーの女子アナが「高橋尚子さんへエールをお願いします」と要求したのには唖然とした。失礼にもほどがある。

 

11.17(月)

 『社会学年誌』の60枚の原稿がようやく書き上がるかと思いきや、道場氏と入江氏が予定より短い原稿になりそうだと連絡してきたので、急遽、私の原稿を20枚ほど増やすことになった。長距離走でラスト一周の鐘を聞いて最後の力を振り絞って走っていたら、係員に「ごめん、まだ一周残っていた」と告げられたみたいな感じだが、おかげで当初の構想に近いものに仕上がりそうだ。あと少し、頑張ろう。

 家で一日中仕事をするときは、気分転換を兼ねて、昼食は外に食べに出ることにしている。数日前、新聞のチラシで入っていた「喜多方ラーメン」の割引券を財布に入れて出かける。空が青く、高い。期間限定復古メニューの塩ラーメンを頼んだが、いまひとつの味だった。いつものねぎラーメンにすべきだった。栄松堂に寄って、丸谷才一『絵具屋の女房』(文藝春秋)、川本三郎『東京の空の下、今日も町歩き』(講談社)、三浦弘行『鉄壁!トーチカ戦法』(日本将棋連盟)を購入。コージーコーナのチョコレートケーキ(980円)を買って帰る。これは家族4人で食べるのにちょうどいい大きさで、値段も手頃。

 

11.18(火)

 社会学専修の教室会議、そして教授会。午前中から夜までずっと会議の一日。途中で会議室を抜け出し、ミルクホールでメロンパンと珈琲で休憩していたら、ドイツ文学専修の私と同じ苗字の先生もやってこられ、目が合ってお互いニヤニヤ。ですよね、ずっと座ってなんかいられませんよね。会議室に戻ると、ロシア文学専修の草野先生が、「今日は文カフェにケーキを食べに行かれないのですか?」と聞いてきたので、「実は、いま、ミルクホールでメロンパンを食べてきたところで・・・・」と答えると、「次は誘ってください」と言われた。やっぱり、みんな、思うことは同じなんだ。どうでしょうか、学術院長殿、次回の教授会から、途中で公式の珈琲ブレイクの時間を設けるというのは。

 夜、会議が終わって、研究室にいると、二文の教務副主任の嶋崎先生がやってきた。教授会の途中で抜け出してケーキなんか食べてることをホームページに書いたりしちゃダメだと叱られるのかと思ったら、『社会学年誌』の特集原稿の催促だった(彼女は編集委員長)。「まだ書けてないのです」と正直に言ったところ、桜の木を切ったことを正直に話して誉められたワシントンのようなわけにはいかず、「だめじゃないですか!」と叱られる(やっぱり叱りに来たのだ)。

 生協文学部店で小島亮『ハンガリー事件と日本』(現代思潮新社)を、「あゆみブックス」で『子犬に語る社会学・入門』(羊泉社)を購入。前者は15年ほど前に中公新書の一冊として刊行され長らく絶版状態になっていたものの再版。副題が「一九五六年・思想史的考察」。もちろん清水幾太郎研究の参考書として。後者はいわゆるムック本の類だが、「子犬に語る」というフレーズに半分呆れて(半分は感心して)購入してしまった。ちょっと前なら「サルでもわかる」としたところだ。サル、犬と来れば、次はキジに決まっている。「キジも鳴かずば撃たれまいの社会学」なんてどうだろう。

 

11.19(水)

 ずっとしゃべっていた感じの一日だった。3限の「社会学研究10」の後、「高田牧舎」で遅い昼食(オムライス、スープ、珈琲)をとり、研究室に戻って調査実習のグループ発表の相談を1件。5限の調査実習の授業は6限まで延長して行い、文カフェで夕食(鶏の唐揚の甘酢あんかけ、おでん、インゲンの胡麻和え、ご飯)をとってから、研究室で調査実習のグループ発表の相談をもう1件。大学を出たのは午後10時をちょっと回った頃だった(2件目の相談は雑談をしていた時間の方が長かったもしれない)。帰宅してメールを開くと道場氏と入江氏からメールが届いていて、原稿枚数はやはり当初の予定通りになりそうだとのこと。ナ、ナンデスト?!

 

11.20(木)

 昨日、文カフェで調査実習の学生たちと夕食をとったとき、隣の女子学生の塩カルビ焼肉がかなりのボリュームであることに驚いたので、今夜、同じものを注文してみたところ、昨日のとは全然違って、少量である。これはどういうことかと考えて、もしかしたら彼女は「大盛」あるいは「二人前」を注文したのではないかと思い至り、彼女にメールで問い合わせところ、特別の注文はしていないとのことだった。ただし、盛り付けていたのは彼女の友人であったとのこと。そ、そうであったか。

 帰りがけに生協文学部店で文庫本の新刊を5冊購入。吉村昭『私の好きな悪い癖』(講談社文庫)、山本夏彦『編集者兼発行人』(中公文庫)、片岡義男『ホームタウン東京』(ちくま文庫)、出久根達郎『古本夜話』(ちくま文庫)、『田中小実昌エッセイコレクション6 自伝』(ちくま文庫)。

 

11.21(金)

 4限の大学院の演習では今月から桜井厚編『ライフストーリーとジェンダー』(セリカ書房、2003年)を読んでいる。今日は軽度の知的障害のある男性のライフストーリーと、不妊治療の経験を経て出産をした女性たちのライフストーリーを扱った2篇の論文を読んだ。前者では、(男性の対象者に対して)調査員が女性であることが、インタビューという相互作用に及ぼす影響について、真摯に(しかしいささか硬直的な思考ではないかという印象を与えつつ)分析がなされていた。後者では、子供がなかなかできないというつらい経験は子供ができることで解消されるという一般人の思い込みが見事に裏切られ、子供ができた後も「不妊」の問題は相変わらず、あるいは別の形で続くものであることを教えられた。

 帰りがけに「あゆみブックス」で橋爪大三郎『永遠の吉本隆明』(羊泉社y新書)を購入。電車の中で読む。吉本は60年安保世代や団塊の世代の知的青年たちに大きな影響を与えた思想家であるが、私個人は彼らより世代が下ということもあって(あるいはあまり知的な青年ではなかったこともあって)、吉本の本をまともに読んだことがない。しかし、大学院の学生だった頃、院生読書室(というものが当時の文学部にはあった)のTAをやっていた学年がずっと上の院生(牢名主のような感じであった)がさかんに「リュウメイの場合は・・・・」と仲間と話している姿はいまでも印象に残っていて、「タカアキ」ではなく「リュウメイ」とわざと音読みにしているところに吉本隆明の思想を自家薬籠中のものにしている感じが漂っていた。私はいま60年安保闘争のときに吉本と同じく全学連主流派のシンパであった清水幾太郎について論文を書いているが、「幾太郎」(イクタロウ)を決して「キタロウ」と発音しない。「西田幾多郎」(キタロウ)や「ゲゲゲのキタロウ」のことかと勘違いする人がいるからである。ちなみに清水の娘(礼子)は青山学院大学の哲学の教授になったが、吉本の娘(真秀子)は作家(ばなな)になった。吉本の著作を読まなかった私だが、娘の書く小説はけっこう好きである。

 

11.22(土)

 終日、自宅で原稿書き。

 

11.23(日)

 今日も、終日、自宅で原稿書き。昨日も今日も一歩も外に出ていない。もちろん髭も剃っていない。髭を剃らないのは、髭を剃る時間が惜しいからではなく(そこまで追い詰められてはいない)、無精髭が伸びていると、散歩に出にくいからである。いったん散歩に出てしまうと、どうしても1時間や2時間は浪費してしまう。さすがにそれは大きい。それだけの時間があれば、うまくすると原稿用紙の1、2枚は書ける。たとえ書けなくても、パソコンの前に座ってウンウン唸っていれば、書き進めていくためのヒントくらいは思いつくものである。散歩に出てしまうと、せっかく温まった脳細胞がヒートダウンしてしまう。散歩の途中でいいアイデアがひらめくことはーそういうことが巷ではよく言われるがーまずないのである。苦しくても、辛くても、現場(パソコンの前)を離れてはいけないのである。

 

11.24(月)

 娘の18歳の誕生日を祝う。本当は明日が誕生日なのだが、私が大学の会議で帰りが遅くなるため1日繰り上げてのお祝いとなった。18歳・・・・昔、岡崎有紀主演の「奥様は18歳」というTVドラマがあったが、そういう年齢になったのである。光陰矢の如し。

 深夜、原稿、書き終わる。400字詰め原稿用紙に換算して73枚。ちょっと短めの卒論くらいある(実際、私の卒論はそのくらいだった)。道場氏、入江氏からもメールの添付ファイルで原稿が送られてきた。道場氏の原稿は71枚、入江氏の原稿は52枚、3人合わせて196枚は規定枚数(200枚)内にちょうど納まっている。あとは2人の原稿を読んで、特集全体のイントロダクションを書けばよい。それは明日の仕事だ。

 

11.25(火)

 午後6時からの会議があり、冷たい雨の中、夕方から大学へ行く。1時間ばかり前に到着し、中央図書館で調べもの。『婦人公論』1954年5月号を見ようと思ったら、なんと、『婦人公論』のバックナンバーは全部本庄の分館に移されていた。『婦人公論』ってけっこう利用する人多いように思うけれど、そうでもないのだろうか。取り寄せには2、3日かかる。それでは間に合わないので、今回の利用はあきらめる。ところで今日気づいたのだが、バックナンバー書庫の中の机は「パソコン利用可」なんですね(ただし電源のみで、バックボーンネットワーク接続はできない)。ここで調べものをしつつ、ノートパソコンを持ち込んで原稿も書けるわけだ。会議の方は7時半ころに終わり、外に出ると雨も上がっていたので、研究室に寄って雑用を少々。

 

11.26(水)

 事故の影響で京浜東北線が遅れ、あやうく3限の「社会学研究10」に遅刻しそうなった。おかげで今日は朝食が早かったにもかかわらず、昼食をとらずに授業に臨むことになり、終わったときは腹ペコであった。「ごんべえ」でカツ丼を食べる。今日の授業では、「プロジェクトX」でやった男女雇用機会均等法の作成に携わった女性たちの物語を私が編集(スタジオでのトーク場面をカット)したものを流したのだが、出席カードの裏に「感動した」という内容のコメントを書いた学生が多かった。そのほとんどは女子学生で、やはり女子学生の方が自分の問題として見ていたのだなと思ったが、よく見ると、コメントを書いていない出席カードもやはり女子学生に多く、要するに、この授業は女子学生が多い(少なくとも出席しているのは)という単純な事実に気づく。いままで漠然と男女半々くらいだと思っていたが、そうではなかったのだ。実は、私、大教室の講義のときは、うつむいてしゃべったり、板書をしながらしゃべったりで、あまり学生の顔を見ていないのである。

 

11.27(木)

 3限、本部の1号館の3階の教室で公開講座の授業をやっていたら、終わり頃、窓の外がなんだか騒がしい。窓を開けると、目と鼻の先の住宅が火事である。消防車や野次馬で大変な騒ぎになっていた。

 生協文学部店で小熊英治『清水幾太郎 ある戦後知識人の軌跡』(御茶の水書房)が平積みになっているのを見つけてびっくりする。「えっ、もう出たのか」と手に取ると、これまでの彼の著作と違って100頁足らずの薄い本であることにもう一度驚く。実は、去年の秋に出た彼の1000頁に近い大作『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズム』(新曜社)を読んでいて、そこで清水幾太郎が取り上げられていないことを不可解に感じていたら、注の部分に、「なお、清水幾太郎の思想については、本書では十分に論じることができなかったが、別稿で検証することとしたい」とあるのに気づき、「小熊が清水幾太郎で一冊の本を書こうとしているのか・・・・」と驚いた。なにしろ『単一民族神話の起源』(1995)、『〈日本人〉の境界』(1998)、そして『〈民主〉と〈愛国〉』(2002)と数年間隔で立て続けに大作を著している小熊である。その「別稿」というのもやはり大作であるに違いない。私は清水の生誕百年にあたる2007年を目標に清水についての一冊の本を書き上げるつもりでいるのだが、小熊が清水についての本(それも大作)を準備しているとなると、そうのんびりとはしていられない。自然科学や数学の分野では研究をめぐる先陣争いが日常茶飯だが、「忘れられつつある思想家」である清水幾太郎研究でそういう事態が起ころうとは考えていなかった。先日書き上げたばかりの論文「清水幾太郎の『内灘』」は、来年3月刊行予定の『社会学年誌』に載るのだが、まさかそれより先に小熊の本が出るとは予想していなかった。しかし、同じく予想していなかったのは、「別稿」というのがパンフレットのように薄い本であったことだ。「はじめに」によると、当初、この原稿は『〈民主〉と〈愛国〉』を構成する章の1つになるはずであったのが、入稿の段階で本の分量が大きくなりすぎて価格が高くなることを避けるために削除され、『神奈川大学評論』に投稿されたが、今度は雑誌に掲載する論文としては分量が多すぎるため、「神奈川大学ブックレット」の一冊として出版されることになったのだそうだ。そういうことか・・・・。私が予想していたような大作ではなかったことには、ちょっと拍子抜けのような、安堵したような気分である。ちなみに小熊は今回の本の中で私が4年前に書いた論文「忘れられつつある思想家―清水幾太郎論の系譜」について、「主として清水に対する同時代の評価を通時的に追った論考である。これは清水が同時代にどう評価されていたのか、またその評価に清水がどう反応したかを知るうえで貴重な論考だが、清水そのものの思想的変遷の検証はやや弱いと考える」と書いている。その通りである。あの論文は、清水がどう論じられてきたかを論じたものである。そして、今回書いた「清水幾太郎の『内灘』」は、清水自身の言動を分析して清水の思索と行動の軌跡をいわば「内側から」理解しようとしたものである。

 

11.28(金)

 妻の誕生日。夕食はレストランで。「何か欲しいものは?」と尋ねると、「ブーツ」と言って、一呼吸おき、「もう買っちゃったから」。「あっ、そうなの。ちなみに、いかほどのものを?」 「う~んとね・・・・3万円ちょっと」 「3万円ちょっとね・・・・。それはブーツとしては普通の値段なの?」 「普通よりも高いと思う。長いブーツだから」 「な、なるほどね・・・・」 結婚20年目の夫婦の会話である。帰りに、栄松堂で、江國香織『号泣する準備はできていた』(新潮社)、川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』(新潮社)、屋名池誠『横書き登場―日本語表記の近代』(岩波新書)を購入。

 午前4時までかかって、『社会学年誌』の「特集概要」の原稿(400字詰め原稿用紙換算で13枚)を書き上げる。明日の午前10時半に嶋崎先生の研究室に持参しなくてはならない(手描きの図が貼ってあるため、添付ファイルでは遅れないのである)。

 

11.29(土)

 目が覚めて枕もとの時計を見ると9時40分だった。目覚まし時計を8時半にセットしたはずなのに・・・・。あわてて跳び起きるが、すでにこの時点で遅刻が確定である。15分で支度をすませ(髭剃りと着替えのみ。朝食は抜き)、家を出る。嶋崎先生の研究室には11時に到着。ご、ごめんなさい。早稲田社会学会事務局のOさんに原稿を渡す。研究室でいくつか雑用を片づけてから、「五郎八」に食事に行く。茄子のみぞれおろしうどんが腹ペコの胃に温かい。お稲荷さんも注文したが、お稲荷さんは平日のみとのこと。そうなんだ、知らなかった。ゆかりご飯を付けてもらう。成文堂で『岩波茂雄への手紙』(岩波書店)と神尾行三『父有島武郎と私』(右文書院)を購入。再び研究室に戻り、学生がメールで送ってきた卒論の草稿に目を通し、指導のメールを返す。雨、夕方にはあがる。

 

11.30(日)

 『社会学年誌』の特集概要「社会学者と社会―高田保馬、新明正道、清水幾太郎の場合」と自分の論文「清水幾太郎の『内灘』の英文サマリーを書いて添付ファイルで担当者に送信。これで特集関連の原稿はすべて入稿。やれやれ。このところずっと平日は授業および授業の準備、週末は原稿書きの生活が続いていたが、これで一段落だ。

「書林大黒」が閉店全品2割引セールを始めたと妻に知らされ(散歩を自粛していたので知らなかった!)、押っ取り刀で駆けつける。蒲田で一番大きな古本屋だったのに、閉店とは・・・・。きっとドラッグストアーとか、コンビニとか、「またか」という店があとに入るのであろう。そういえばイトーヨーカ堂も閉店だそうで、スーパーはいいとして、そこに入っている2軒の映画館がなくなると、かつての映画の街蒲田から映画館が完全に消滅することになる。こうやって街の文化レベルというものはどんどん低下していくのだ。「書林大黒」では以下の6冊を購入。

 (1)『浮世絵体系12 清親』(集英社)*1500円×0.8

 小林清親ほかの明治時代の浮世絵師の作品を集めた巻。A3版の大型本で大判錦絵を原寸で眺めることができる。清親の作品はもちろん素晴らしいが、私が本書を購入した一番の決め手は、井上安治の「蛎殻町川岸の図」が原寸で入っていること。初めてこの絵を画集で見たときは、「これが本当に明治14年の作品か?!」とわが目を疑った。しかもこのとき井上は若干18歳で、デビュー2年目であったという。もし彼が26歳の若さで亡くならなかったら、きっと師の清親と肩を並べる、いや、彼を凌ぐ近代浮世絵の巨匠になっていたことであろう。

 (2)山本健吉『狐の提灯』(集英社、1979年)*2000円×0.8

 2000円とはちょっと高いなと思ったら、「石川七郎先生 山本健吉」と毛筆のサインがあった。達筆である。「石川七郎先生」とはどういう人か(石川三四郎ならアナキストだが)。自宅に戻ってからインターネットで調べたら、「国立がんセンター第6代総長」らしいことがわかった。

 (3)加藤民男『大革命以後』(小沢書店、1981年)*1000円×0.8

 3月に文学部を定年退職されたフランス文学の加藤民男名誉教授が22年前に出された本。副題が「ロマン主義の精神」となっているが、「はじめに」の冒頭で「フランス・ロマン主義とはなにか、という大問題について語るつもりはない。そういう問いにたいする回答は、手近にあるどの文学史を開いてみても手際よく提出されている」と啖呵を切っている。最後の教授会での挨拶も、他の先生方が工夫を凝らした、そしていささか長めのものが多かった中で、実にシンプルでかっこよかった。

 (4)和辻照『和辻哲郎とともに』(新潮社、1967年)*800円×0.8

 あの『風土』を書いた哲学者の妻が書いた本である。彼女が兄の友人の口から同じクラスの秀才和辻哲郎の名前を初めて聞いたのは17歳の夏休みのときだった。それから彼女は校友会雑誌に載っている和辻の文章の幾つかを読み、兄たちが彼の噂をするのをじっと聞き入るようになった。そう、彼女は会ったこともない和辻に恋をしたのだ。そして来る縁談、来る縁談を全部断り、「私はいつまでもあの人を待っていよう。いつかはきっと来てもらえる」と夢のようなことを考えていた。2人が結婚したのは、明治45年6月27日、彼女が始めて彼の名前を聞いた日から5年後のことだった。こういう恋もある。

 (5)中野利子『父中野好夫のこと』(岩波書店、1992年)*1000円×0.8

 あの『徳富蘆花健次郎』の著者であり、あのギボン『ローマ帝国衰亡史』の訳者である中野好夫の娘が書いた本である。中野好夫は1950年代の平和運動における清水幾太郎の盟友でもあった。スキンヘッドで、怪優殿山泰司とミッシェル・フーコーを足して2で割ったような風貌の持主であった。娘曰く、「いろいろ社会運動についての新聞テレビで見聞きする『知識人代表中野好夫氏』という表現の、知識人の部分に、いつも私は何か引っかかりを感じたものだった。(中略)父はあの顔と男っぽい姿勢とで、得をしているようで損もしていたのではないだろうか」。

 (6)西部邁『思想史の相貌』(世界文化社、1991年)*800円×0.8

 副題は「近代日本の思想家たち」。福沢諭吉から福田恆存まで。最後の福田を西部は「戦後最大の思想家」とみなしている。確かにそうかもしれない。竹刀を正眼に構えて微動だにしない剣士の趣が福田にはある。ところで、西部はよく「五郎八」に来るそうだけれど(女将さんがそう言っていた)、まだ一度も見かけたことがない。


2004年11月(前半)

2004-11-14 23:59:59 | Weblog

11.1(土)

 去年の11月1日から始めた「フィールドノート」が今日で1周年を迎えた。われながらよく続いたものである。いまでは1日の終わりに(あるいは1日の始まりに)、今日という日を(あるいは昨日という日を)、振り返ることが生活の一部になっている。「今日はこのような1日だった」あるいは「昨日はこのような1日だった」と、連続的に過ぎ去っていく日々の1つ1つに明確な輪郭を与えること、それが日記をつけるという行為であろう。もちろん「今日は昨日と同じような1日だった」あるいは「今日は先週の今日と同じような1日だった」という一行の記述で済んでしまうようなところがわれわれの生活にはある。単調さこそは日常生活の特徴であろう。しかし、「フィールドノート」となると、そういうわけにはいかない。おのずから昨日とは違う今日、先週の今日とは違う今日に目を向けるようになる。今日という1日が人生を構成するたくさんの他の1日のどれとも違う1日であることを意識するようになる。1日の生活のあらすじではなく、生活の細部に観察の目が行くようになる。神は細部に宿るというが、人生の意味もまた生活の細部に宿るのではなかろうか。これが「フィールドノート」の思想である。

 

11.2(日)

 8月4日の「フィールドノート」で私の中学校時代の同級生のH君の話をした。6月に25年間勤めて会社を辞めて、再就職先を探しているH君だが、49歳の男性の再就職は容易でない。そこでH君、つい最近、シンガポールに語学留学をすることを思い立ったのである。私、感動しましたね。詳しくはH君のホームページの「note」をご覧あれ。

 9月20日の「フィールドノート」で拝郷メイコという歌手の話をした。その彼女が、明日(11月3日)の14:00から、私の自宅の近所の日本工学院の学園祭(かまた祭)でライブを行う。3号館前の水上ステージでのライブで、無料である。もちろん私は聴きにいくつもりだ。でも、明日は雨が降るらしい。川崎のチネチッタでのフリーライブのときも雨だったが、彼女、雨女なのだろうか。

 

11.3(月)

 日本工学院の学園祭(蒲田祭)で拝郷メイコのライブを楽しむ。「あめふり」、「トマトスープ」、「ソイトゲヨウ」、「メロディー」、「ゆうぐれ」の5曲。生憎、雨が降ったり止んだりの空模様であったが、彼女が歌い始めると、誰もがその場所にたたずんで、その中低音部は甘くハスキーで、高音部は切ないほどに透明感のある声にじっと聴き入る。彼女の魅力の最大のものがこの中低音部から高音部への声の切り替わりで、聴き手はその瞬間、落葉が風に巻かれて空に吸い込まれるように、彼女の歌の世界の中心に入っていく。この吸引力はすごい。

 

11.4(火)

 昨日、雨の中、ライブを聴いていたせいだろうか、ちょっと寒気がする。以前、風邪のときに医者からもらって残っていた薬を飲む。『社会学年誌』の原稿、はかどらず。いや、枚数はいっているのだが、清水が内灘闘争にたどりつくまでの話のところで全体の枚数の半分以上をすでに使ってしまっているのだ。どうやら設定したテーマが60枚では収まらないものであることが次第に明らかになってきている。テーマを縮小せずに全体の記述を簡略にするか、記述の精度を落とさずにテーマを縮小するか、決めねばならない。

 

11.5(水)

 3限の「社会学研究10」では、1960年代における「若者文化」の変容を映画と歌を素材に論じた。映画は1961年の加山雄三主演の『大学の若大将』で、1971年の『若大将対青大将』まで続く全17本の「若大将シリーズ」(1981年に加山の芸能生活20周年を記念して作られた『帰ってきた若大将』を加えると18本になる)の第一作である。内容は、「恋」「スポーツ」「音楽」の3要素から構成され(これはシリーズ全体を通して変ることがなかった)、主人公は明るくさわやかな好青年である(照れるときに頭を掻くのが好青年であることを印象付ける身体所作であった)。当時、大学進学率は男子で20%弱、女子では(短大を入れても)5%程度であった。つまり映画の中に登場する大学生たちは少数派の有閑階級(レジャークラス)であった。60年代を通して高学歴化が進行していくが、「若大将シリーズ」は高学歴化の結果ではなく、むしろ促進要因の1つであったといえるだろう。怪獣映画との2本立てで上映されることの多かった「若大将シリーズ」を見た当時の少年少女たちは、そこに「楽しいキャンパスライフ」を見た。かくいう私もその一人で、加山雄三の人気のピークであった1966年(「君といつまでも」の大ヒット)に12歳であった私は、自分も加山雄三のようになろうと決意し(!)、中学に入るや、モーリス社製のフォークギターを購入し、自分で作詞・作曲した歌を自室の窓辺で空を見上げながら歌ったのであった。

 

11.6(木)

 木曜は7限の授業(社会・人間系基礎演習4)があるのだが、夕食を授業の前にするか後にするかが微妙な問題である。通常、自宅で夕食をとるとき(週のうち5日はそうです)は午後7時から7時半のあたりなので、午後7時40分から始まる7限の授業の前にとればいいようにもみえるが、夕食の直後に授業というのは消化に悪いし、眠くもなる。かといって、何もとらずに授業に臨むと腹に力が入らない。だから、授業前に軽く食べて、授業後にまた軽く食べるというパターンになることが多い。今日もそのパターンで、授業前に「シャノアール」でハムトーストと珈琲、帰宅してから玉子かけご飯。ところで、二文の学生たちはどうしているのだろう? 7限の授業を終えて地下鉄の駅に向かう途中の飲食店(ごんべえ・オトボケ・松屋など)は学生たちで賑わっているから、「授業後派」がけっこう多いのかもしれない。ちなみに私の7限の授業で「授業中派」をみかけたことは一度もない。飲み物はOKでも食べ物はNGというのが教室内での暗黙の規範のようである。今日のグループ発表で、空いている電車内(りんかい線)で宴会(酒盛り)を始めてみたら、それを見ていた他の乗客たちも、それに非難のまなざしを浴びせるのではなく、自分たちも飲食や化粧やらの「逸脱行為」を始めたという興味深い報告があった。これが混んでいる山手線であれば、同じ現象は起きなかったであろう。「空いている」(一車両に10名以下の乗客)ことで逸脱者たちがマイノリティーにならずにすんだこと、「りんかい線」には行楽列車的性質が内在していること、この2つの要因が効いているのであろう。一方、別のグループの発表では、東西線の車内で4人の実験者が「かえるの歌」を輪唱し、5人目に一般乗客へ輪唱への参加を促すという実験の報告がなされたが、実験はわずか3回しか行えず、しかもそのうち一般乗客へ参加を促す段階まで行けたのは1回だけであったそうだ(後の2回は4人目までのところでいたたまれなくなり電車を降りてしまった)。実験としては明らかに失敗であるが、車内という空間がいかに「規範の檻」であるか、自分がいかに「規範の鎧」を身にまとっているかを実感できたことは実験の成果である。

 

11.7(金)

 『東海林さだお自選 なんたって「ショージ君」 東海林さだお入門』が文春文庫の今月の新刊として発売された。1340頁、厚さ5センチ、豆腐のような形の文庫本である(定価1238円)。東海林さだおは漫画界のアーウィン・ゴフマンであると私は常々学生たちに言っている。個人が他者の視線を意識しながら行為するときのその微妙な心理を彼ほど巧みに描写できる者はいない。私は彼の文章を教材として何度か用いた。そして東海林さだおの文章をもっと読みたい学生には迷わず本書を薦めてきた。ただし、2500円はちょっと高いかなと思っていた。今回、文庫化されたことで、価格は半分になった。これで買わなかったら、社会学の学生とはいえない。

 卒論ゼミは本日で終了。これからは必要に応じての個人指導となる。提出締切日の12月19日まで、寝ても起きても、電車に乗っているときも街を歩いているときも、幸せなときも病めるときも、卒論のことを考えることです。

 母、退院し、帰宅。元気なり。

 

11.8(土)

 終日、『社会学年誌』の原稿(清水幾太郎の「内灘」)を書く。A4判印字(40字×33行)で18頁になるはずの原稿の13頁目にさしかかっている。しかし、清水はまだ「内灘」に到着していない。当初の構想とは少々違うものになってきているので、タイトルも再考せねばならないだろう。清水と内灘闘争のかかわりを示した年表(縮小コピーにして2頁分相当)は、手間暇をかけて作成したものだが、紙幅を考えると割愛せねばなるまい。そういうものである。それと「トリビアの泉」のような「注」の多くも削除することになるだろう。面白いんだけどね。何処かに、「枚数のことは気にしないで、書きたいだけ書いて下さい」と言ってくれる出版社はないものだろうか。

 

11.9(日)

 投票に出かけ、帰りに床屋に寄る。隣のシートの女性客(女性も高齢になると床屋に来るのだ)と女性の理髪師が最高裁判所判事の信任投票について話しているのが耳に入る。どの裁判官がダメかなんて自分にはわからないから、棄権をしたと女性客は話しているのだが、白紙のまま投票箱に入れたことを「棄権」と勘違いしているようだったので、それは「全員信任」という意味だと注意してさしあげようかどうしようか迷ったが、いまさら言ってみてもしかたがないのでやめた。なんでも、棄権したいと係りの人に言ったら、では何も書かずに箱に入れてくださいと言われたらしく、それが本当だとしたら問題である。もっとも信任投票で罷免された判事はこれまでに1人もいないのだから、信任投票という制度自体がナンセンスなものになっているわけだけれども。夜、開票速報番組を見る。各党の獲得議席のことよりも、あいかわらず低い投票率が気になった。年金の掛け金を納めていない者は投票率も低いのではないかと推測する。

 

11.10(月)

 遅い昼食を近所の蕎麦屋「やぶ久」でとっていたら、息子と彼の友人のN君が入ってきた。「やぶ久」はN君のおじさんがやっている店で、N君の母親はここで働いている。N君は中学校からの帰り途、必ずここに立ち寄り、暑い日などはコップ一杯の冷水をぐいと飲み干すことを習慣にしている。息子はN君とクラスが同じで、家が近所ということもあり、登校も下校も2人はいつも一緒で、息子も冷水のご相伴に与っている。天ぷらうどん(きしめん)を食べている私に気づいたN君は、西郷隆盛が驚いたときのような顔になり、息子もそれにつられてちょっと困ったように驚いてみせ、私が「おまえも何か食べていくか」と聞くと、「いや、いいです」と答えた。彼らもあと3ヶ月で高校受験である。腹ごなしに「有隣堂」に寄って、土屋賢二『ツチヤ学部長の弁明』(講談社)、安藤寛『「唱歌」という奇跡 十二の物語』(文春新書)、丹治愛編『批判理論』(講談社選書メチエ)、『小林秀雄全作品13 歴史と文学』(新潮社)を購入。

 

11.11(火)

 寒い雨の降る一日。専攻・専修主任会があり、午後から大学へ出る。会議を終えて、研究室であれこれの雑用を片付けていたらいつのまにか夜になる。帰りがけに生協文学部店に寄って、金子勇編著『高田保馬リカバリー』(ミネルヴァ書房)を購入。清水幾太郎は81年の生涯に96冊の著作を出版したが、高田保馬は88年の生涯に100冊を越える著作を出版した。いやはや、上には上がいるものである。

 

11.12(水)

 昼間は暖かかったが、夕方から急速に冷える。こういうのが一番困る。3限の「社会学研究10」では、60年代後半のフォークソングと70年代前半のフォークソング及びニューミュージックを比較して、ベビーブーマーが大人の社会に参入していくのに伴って生じた若者の歌の変容を論じた。学生たちはけっこう当時の歌を知っていて、しかも好きらしい。知っているのは彼らの親がベビーブーマーであるためで、好きなのは喪失感を漂わせた回顧調の歌詞とシンプルで美しい旋律のためである。その一方で、彼らはいま流行している歌が30年後の若者たちの共感を呼ぶかどうかについては懐疑的である。ヒットチャートにあっという間に現れて、あっという間に消えていく歌には、「愛唱歌」として結晶するために必要な時間が不足しているのであろう。5限の「社会学演習Ⅲ」は各班の報告書の構想が今日から始まった。最初は定位家族班。16時半から始めて休憩なしで19時近くまでかかった(途中でちょっとした地震があった)。しかし、長いと感じなかったのは、報告内容がよく準備された密度の濃いものだったからである。次回以降の班のよい刺激になったに違いない。授業を終わり、研究室で帰り支度をしていると、3週間先に報告の生殖家族班の面々が相談にやってきた。どうやら方向性が見出せずにいるようす。アポなしではあるが、まさか追い返すわけにもいかないので、そのまま研究室で小一時間ほど相談に応じる。夕食は「ごんべえ」のカツ丼。最近、メニューに「辛口カツ丼」というのが加わったが、通常の甘口のカツ丼を注文。22時、帰宅。

 

11.13(木)

 財布を家に忘れて大学に来てしまった。銀行のカードは財布の中だ。こういうこときのためにいつもは定期入れの中に千円札を数枚入れてあるのだが、それも切らしている。幸い(というべきかどうか・・・・)研究室の机の引き出しの中に50円玉がたくさんあった。それで昼食(早稲田軒のワンタンメン)と夕食(文カフェの鶏の竜田揚丼)の支払いは50円玉ですることになった。600円の代金を1万円札で支払うのもいやだが、600円の代金を50円玉12個で支払うのもつらいものである。50円玉がたくさん混じっているというのではなくて、全部50円玉というところが異様である。早稲田軒のおばさんは「小銭が不足しているのでかえって助かります」とお愛想を言ってくれたが、文カフェのレジの女の子は不思議なものを見るような目をした。プロとアマチュアの差というべきだろう。

 6限の「社会・人間系基礎演習4」の授業中に、男女の学生が口喧嘩を始めた。私が「どうしたんだい?」と尋ねると、男子学生は、先生には関係のないことです、みたいな感じで私を睨む。そのうち激昂した彼が何か捨て台詞を吐いて、ドアの音も荒々しく教室を出て行ってしまった。一同、唖然。・・・・というところで、その男子学生、ニヤリとしながら教室のドアを開け、「すいみませんでした」と言いながら戻る。私、「はい、ここまで」。教室という空間の暗黙の規範(授業中に騒いではいけない)を破ってみせ、そのときのみんなの反応を観察するという寸劇に私も付き合わされたのである。私としては、「ヤンキー母校に帰る」の竹野内豊のように、熱いカラミ(机を拳で叩き、「人の話を聞け!」と唸り、顔と顔との距離が10センチくらいまで接近するとか・・・・)がしたかったのだが、ごくごく普通のカラミを要求されていたので、そのとおりにしたのである。いまや、このゼミは、映像演劇専修のゼミのようになっている。

 

11.14(金)

 夜、竹橋の如水会館で行われた生命保険文化センター主催の中学生作文コンクールの表彰式に出席。審査委員を代表して講評を述べる。中学に入学してすぐにオーダーメードの制服のズボンに穴を開けて母親に叱られたと書いていたM君には、母親は子供を叱るものであり、妻は夫をなじるものである、と諭してあげた。家中の無駄に点いている電気のスイッチを消して歩くと書いていたTさんには、節約は結構だが夫がトイレに入っているのにトイレのスイッチを消すような妻になってはいけない、と忠告してあげた。表彰式の後のパーティーでは、中年男性たちが次々に私のところにやってきては、「すばらしいお話でした」と言ってくれた。パーティーの後、主催者がタクシーを手配してくれた。私はタクシーが苦手なので、本当は電車で帰りたいのだが(時間も同じくらいなのだ)、せっかく手配してくれたタクシーを断るのは失礼かと思い、乗って帰ることにした。案の定、ちょっと気分が悪くなる。家の少し手前で降ろしてもらい、冷たい夜気を吸い込みながら、歩いて帰宅。女子バレーの日本対キューバの第4・第5セットを見てから、、風呂を浴び、「ヤンキー母校に帰る」を見る。結局、今期は「白い巨塔」と「ヤンキー母校に帰る」の2本が残った。