8時、起床。5週間ぶりに何の予定も入っていない土曜日。鮎の甘露煮でお茶漬けの朝食。実に美味しい。
10時過ぎに家を出て、恵比寿の写真美術館へ行く。
友の会の会員資格を更新してから、江成常夫写真展「昭和のかたち」を観る。戦争を始めたこと、そして戦争を忘れたこと、これが日本の二重の過ちであると江成は言う。そして彼は戦争を忘れないために一貫してかつての戦場(南洋の島々、旧満州国)や戦争の犠牲者たち(中国残留孤児、広島・長崎の被爆者)を撮り続けてきた。普通、ひとわたり作品を観た後に、もう一度最初から印象的だった作品を観るのだが、今回は、重い作品が多かったので、二巡することはせずに会場を出た。母の兄がテニヤン島で戦死をしているのだが、戦死した日は8月3日となっている。8月3日は玉砕の日で、実際はもっと前に戦死した可能性が高い。テニヤン島の日本軍の玉砕から間もなく、広島と長崎に原爆を投下したB29はこのテニヤン島から飛び立ったのである。
館内のカフェで昼食をとる。クロックムッシュ(サラダ付)とオレンジジュース。
写真美術館を出て、ガーデンプレイスの中を歩いていると、前方に「ふくさ」らしきものが落ちている。まさか祝儀袋が入っていたりしないだろうねと思いつつ拾い上げてみると、本当に祝儀袋が入っていたのでびっくりした。結婚披露宴に向かう途中の人(〇〇清作と名前が書いてある)が落としたものだろう。面倒なものを拾ってしまったなというのが最初の感想で、まさかドッキリカメラとかじゃあないだろうなというのが続いての感想。落とし主が引き返して(路上を探しながら)来るかもしれないので、しばらく近くのベンチで待ってみる。礼服を着てキョロキョロしている人がいたら〇〇清作さんに違いない。しかし、現われる気配がないので、交番に届けようかと思ったが、それよりも結婚披露宴なら十中八九目と鼻の先にあるウェスティンホテルに違いないと思い、そちらに行ってみることにした。清作という名前から判断するに年配の方であろう(清作は野口英世の改名前の名前である)。おそらく甥か姪の結婚披露宴ではなかろうか。袋の厚味から推し量るに祝儀は5万円であろう。5万円を落としたら痛いよな。そんなことを考えながら歩く。ホテルの受付で事情を話して、これから始まる結婚披露宴を調べてもらったところ、〇〇家・△△家両家の結婚披露宴というのがあって、〇〇清作という人が招待客のリストにいることがわかった。しばらく待っていると〇〇清作さんが現われて(年配の方だ)、礼を言いつつ、私に五千円札を渡そうとした。お礼はいいから、一応祝儀袋の中身を確認してくださいと私が言うと、いや、それには及びませんと言いながら、これは受け取ってもらわないと困りますと、私のワイシャツの胸ポケットに5千円札を差し込んだ。まあ、私が彼の立場でも謝礼を受け取ってもらわないと困るだろうと考え、ではありがたく頂戴しておきますと答える。私は思わぬ臨時収入よりも、自分の勘がどんぴしゃりと当たったことが嬉しかった。この調子なら、通りすがりの美しい女性に声をかけても上手くいくんじゃないかと思えたが、調子に乗りすぎるとろくなことはないので、それはやめておく。
下の写真は「ふくさ」を拾う直前に撮ったもの。家に帰ってから拡大してみたら、中央の3人家族の女性の足元に「ふくさ」が写っていて、ベビーカーを押す男性がそれに視線を向けているのがわかった。しかし、彼はそれを拾わなかった。もし彼がそれを拾っていたら、どういう行動をとったであろうか。おそらく私とは別の行動をとり、世界は別のストーリー展開をしていただろうと思う。
恵比寿から有楽町まで山の手線で移動する。日比谷のスカラ座で『コクリコ坂から』を観るためである。上映まで時間があったので、日比谷公園を散策する。
『コクリコ坂から』はよくできた作品だと思う。「佳作」だと思う。「佳作」を作ろうと思って作ったような作品といったら、少々意地の悪い言い方だろうか。しかし、私にはどうしてもそのように観えてしまうのだ。「佳作」であるための条件というか、要素というか、アイテムというか、そういうものをみんなで相談して、組み合わせて作ったような作品のような気がしてしまうのだ。高校生たちはひたむきで、大人には礼儀正しく、大人たちもものわかりがよくて、若い頃の純粋な気持ちを忘れていない。ここには世代の断絶なんてどこにもない。それが1963年、戦後18年目、東京オリンピックの前年の頃の日本の社会の現実だったとは到底思えないが、『ALWAYS三丁目の夕日』パート3も1963年の東京を舞台にするそうだから、1963年はそういう時代だったとみんなが思いたがっていることは間違いないようだ。『クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!大人帝国の逆襲』の中で、秘密組織イエスタディ・ワンス・モアのリーダー、ケンが言っていたように、「みんな、戻りたいのさ。未来が輝いていたあの頃に」。当時、私は9歳だった。当然、未来は輝いていた。それはあの時代のせいではなくて、私の年齢のせいである。きっといまの子どもたちにも未来は輝いているはずだ。大人たちは未来が不安定で不透明だという。大人がそう思うのはしかたないが、だからといって子どもたちにもそう思わせようとしてはならないだろう。微妙なのは若者で、彼らはそう思ってしまっているところがある。自分がまだ生まれてはいなかった時代を大人と一緒になって懐かしんでいる。世代の対立がないという点では作品の世界と同じかもしれない。