フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月28日(水) 晴れ

2007-02-28 23:59:07 | Weblog
  9時、起床。朝食は塩鮭、茄子の味噌汁、御飯。新学部の基礎演習のガイドブックの最終校正。じっくりと読み返す。1箇所、明らかなミスを発見。ああ、よかった。ミスではないが、直すか、削除するかした方がよい箇所も2つ、3つあった。たぶんこれだけやっても、製本されて納品されたものを手にとってパラパラと見たときに、必ず「ギャッ」と飛び上がることになるのであるが、不完全な人間の宿命として受け入れるしかない。
  昼食は中村屋の中華まんをせいろで蒸かして(息子の担当)食べる。私はあんまん2個と肉まん1個(息子と娘は、あんまん、肉まん、ピザまんを各1個)。あんまん→肉まん→あんまん、の順序で食べる。中華まんはいろいろな種類のものが出ているが、私はあんまんが一番好きで、しかし、あんまん3個では飽きてしまうので、口直しに肉まんを間にはさむのである。釣りが「鮒に始まって鮒に終わる」ように、中華まんも「あんまんに始まってあんまんに終わる」のである。
  4月6日に現代人間論系の非常勤の先生方(ただし全員ではなく2007年度に開講する科目の担当者のみ)をお招きして、教員懇親会を企画しているのだが、その案内状を発送する。通常、この種の仕事は助手がやるものだが、助手の嘱任は4月1日で、現時点では現代人間論系には助手はおらず、TAも使えず、運営準備委員長である私が、近所の郵便局へ行って切手とハガキを購入するところから始まって、案内状の作成・印刷、返信用ハガキの作成・印刷、封筒の宛名書き、切手貼り、封入といった一連の作業を一人でやらないとならないのである。しかし、私には強い味方がいた。家族である。封筒の宛名書きは娘に頼んだ。案内状と返信用ハガキを封入する作業には妻と息子を動員した。マルクスもびっくりの家内制手工業である。21世紀の新学部もその土台を支えるものは前世紀的な家族の絆なのである。
  夕食は鶏鍋。サイドメニューは、夕方、案内状を投函するために外出したついでにテイクアウトの寿司屋で買い求めた握り寿司を1人4貫(サーモン、イクラ、平目のエンガワ、ネギトロ)。これはさきほどの労働への感謝の印である。家庭内の愛情に基づく労働にもそれなりの対価は必要なのである。 

2月27日(火) 晴れ

2007-02-28 03:16:05 | Weblog
  9時、起床。夕べはフィールドノートの更新をせずに就寝したので(眠かったので)、朝飯前に更新。よく人から「毎日ブログの更新は大変じゃありませんか。よくできますね」と言われる。確かにそれなりの時間はかかるが、日課になってしまっているので、それほど大変ではない。風呂に入るのが大変ではないのと同じことだ。逆に言えば、大変ではないから(少なくとも心理的には)、毎日続けられるのである。おそらく「書かない日があってもいい。書きたいことがある日に書けばいい」と思ってやっていると、かえって大変なのではなかろうか。「書きたいこと」なんて温泉みたいに自然に湧き上がってくるものではないからだ。気が向こうが向くまいが、農民が毎日田畑を耕すように、ピアニストが毎日鍵盤に向かって練習するように、ブログというものは毎日書くものであるというのが、ちょっと気取った言い方をすれば、私のブログ哲学である。「書きたいこと」があるからブログを書くのではなくて、ブログを書くから「書きたいこと」が生まれるのだ。でも、やっぱり、毎日書くのは大変だとあなたは言うだろう(「あなた」って誰?)。しかし、勘違いしてはいけない。大変なのは毎日書こうとするからではなくて、毎日たくさん書こうとするからか、あるいは、毎日新しいことを書こうとするからか、さもなければ、毎日すっきりとまとまった(起承転結のある)ことを書こうとするからである。そんなの大変に決まっている。われわれは売れっ子の作家ではないし、感受性豊かな詩人でもないし、「天声人語」の担当者でもない。短くてもかまわないし、同じようなことでもかまわないし、思索の断片みたいなものでもかまわない。肝腎なのは、毎日書くことだ。そして、繰り返して言うが、毎日書くことは決して大変ではない。なぜならわれわれは毎日生きているからである。
  朝食は鰺の干物、生卵、御飯。午後2時まで原稿書き。昼食は日清のチキンラーメン。実は、昨日の昼、ジムから帰ってきた妻がチキンラーメンを食べていた。私はそのときすでに昼食(テイクアウトの寿司)を済ませていたのだが、スープを一口だけ飲ませてもらった。懐かしい味がした。スープだけではもの足りなくなり、麺も一口所望したが、「麺はダメ」と拒絶されてしまった。悲しかった。その思いが、今日のチキンラーメンにつながったのである。チキンラーメン専用のどんぶりに麺の固まりを入れ、その中央の窪みに生卵を落とし、熱湯を注ぎ、蓋をして、待つこと3分、チキンラーメンの出来上がりである。チキンラーメンの旨さは生卵を溶かしたスープの旨さである。麺自体は決して褒められた代物ではない。しかしその麺がスープとからまることによって、その独特の香ばしさが生きるのである。

          
               チキンラーメン専用のどんぶり

  食後、録画してあった先週の『拝啓、父上様』を観てから、散歩に出る。有隣堂で以下の本と雑誌を購入し、シャノアールで読む。

  齋藤孝『教育力』(岩波新書)
  齋藤孝『質問力』(ちくま文庫)
  齋藤孝『段取り力』(ちくま文庫)
  『yom yom』vol.1(新潮社)
  『yom yom』vol.2(新潮社)

  人間力の教祖、齋藤孝の本をまとめ買いしたのは、昨日の本田由紀さんの論文に刺激されたからである。『小説新潮』別冊の『yom yom』を購入したのは、2号に載っている石井桃子へのインタビュー「一世紀という時の中で」を読みたくて(1号が隣にあったので、デザインの斬新さに惹かれて一緒に購入してしまった)。石井桃子は『ノンちゃん雲に乗る』で知られる作家だが、清水幾太郎と同じ、1907年(明治40年)の生まれである。この3月10日で満百歳(!)になる。百歳というのもびっくりだが、インタビューにしっかり答えているのにはもっとびっくりである。「石井さんにとって本を読むとはどういうことですか?」という質問に彼女はこう答えている。

  「本を読むことが自分にとって何か、なんて考えたことがないくらい、あって当たり前のことです。
  本だけでなく、字を見ているのがたのしみ。新聞でも雑誌でも、字を見ていると心が安らぎます。それと、歳をとると物事に無関心になるというけれど、私にはそういう変化が訪れません。好奇心、でしょうか。新聞の書評や広告で気になる本を見つけると読みたくなって買ってきてもらっています。字を見ない日なんて、一日もなかったのではないかしら。」

       
                 文芸誌とは思えぬデザイン

  夕食は豚肉の生姜焼き、ほうれん草の卵とじ、茄子の味噌汁、御飯。今日は卵を3個も摂取してしまった。

2月26日(月) 晴れ

2007-02-27 09:26:45 | Weblog
  9時、起床。朝食はハム&レタス・トースト、紅茶。午前中に銀行と電気屋に用事があって出たついでに、くまざわ書店で以下の本を購入。

  伊園旬『ブレイクスルー・トライアル』(宝島社)
  海堂尊『螺鈿迷宮』(角川書店)
  『数字でみる日本の100年(改訂第5版)』(矢野恒太記念会)
  『論座』3月号

  『ブレイクスルー・トライアル』は現代版金庫破りといった話で、第5回(2007年)「このミステリーがすこい!」大賞受賞作。
  『螺鈿迷宮』は第4回『このミス』大賞受賞作家の新作。「螺鈿」(らでん)とは、オウムガイなどの貝殻の真珠色の部分を磨いて薄片にし、いろいろな形に切って漆器などの表面にはめ込み、あるいは貼り付けておく技法。
  『数字でみる日本の100年』は清水研究の資料として。
  『論座』3月号は、本田由紀さんの「苛烈化する『平成学歴社会』」を読みたかったのと、「『人文書』の復興を!」という特集テーマに惹かれて。
  帰宅して、昼食(テイクアウトの寿司)を食べてから、『論座』をパラパラと読む。本田さんは現代の「学歴社会」論を70~80年代の「学歴社会」論と比較して、①社会的競争から降りる人々の増加、②出身階層と社会的格差の関連への注目、③学卒後の若者の職業経歴の変化(非正社員や失業者や無業者の増加)の3点をあげた上で、もう一つ重要な点があるという。

  「現代においては、これまで競争のターゲットとされてきた学力・受験・学歴などにさらに付け加わる形で、別種の基準が新しい支配力をもつようになっている。それは、コミュニケーションスキルや意欲、創造性、問題解決能力など、感情や人格の深部に根ざすような曖昧で柔軟な諸能力-いわゆる「人間力」-である。このような能力の重要性は社会の至るところで主張されるようになっている。…(中略)…むろん、「人間力」などという概念そのものがあやしげなものであり、相対的に有利な社会集団が、「ゲームのルール」を自らにとって都合のよいものにするために打ち出した恣意的な選抜基準をそう名づけているにすぎない可能性があることについては、十分に注意する必要がある。このよくわからない基準を、あまり真に受けてそれに振り回されすぎてはならない。ただ少なくとも、「いまや学歴だけでは足りない」という感覚が、多くの人々に分け持たれるようになっていることだけは確かである。」(p.228)

  学歴のほかに資格が必要だと焚き付けられる。それだけでなく○○力が必要だと焚き付けられる(○○力は齋藤孝の十八番だが、最近では渡辺淳一の「鈍感力」なんていうのもある。それから「場の空気を読む」力なんていうのも盛んに言われている)。まさに現代の競争は総力戦である。かつて学歴で出世が決まると思われていたときには、出世できないことは、学歴という自己の社会的属性の一つに不備があったからだと解釈された。自己はそうやって自身を保護してきた。ところがさまざまな○○力が出世に影響を与えるとなると、出世できないことは自己の存在の全否定につながる。これが総力戦の厳しいところである。庄司薫が『狼なんかこわくない』(1971年)を書いたとき、そこに「若々しさのまっただ中で犬死にしないための方法序説」という副題をつけたが、いま、人間力という名の新たな狼を「こわくない」と言い切るための方法序説が必要とされている。

2月25日(日) 晴れ

2007-02-26 02:29:16 | Weblog
  10時、起床。かなりの冷え込み。冬はやっぱりこうでなきゃ、と思ったりする。朝食は夕べの残りのヒレカツ、トースト、オレンジ・マーマレード、紅茶。新聞の書評欄に目を通してから、散歩に出る。くまざわ書店で以下の本を購入し、ルノアールで読む。

  藤村信『ヨーロッパで現代世界を読む』(岩波書店)
  イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』(岩波書店)
  岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書)
  貴田庄『小津安二郎文壇交友録』(中公新書)

  『ヨーロッパで現代世界を読む』は藤村信の遺著である(彼は昨夏、82歳で亡くなった)。藤村信という名前を聞いてもいまの大学生は知らないであろうが、1970年代に大学生であった者には、岩波書店の総合雑誌『世界』にときどき掲載される「パリ通信」の著者として記憶されているジャーナリストである。本書の巻末に赤川次郎が「わが青春の〈パリ通信〉」というエッセーを寄せている。

  「正直のところ、政治、経済の基礎的な知識を欠いている私にとって、『世界』は到底隅々まで読める雑誌ではなかった(今でもそうだが)。毎号、ページをめくっては、理解できそうな記事を捜す有様だったのである。
  その中で、〈パリ通信〉は明るく大きく開かれた窓のようなページだった。
  他の多くの論文は、読者が「これぐらいのことは当然知っている」という前提で書かれていたが、〈パリ通信〉はそうではない。複雑なヨーロッパの歴史を背景に、何がどう今の出来事へつながるかを、ほとんど予備知識のない読み手でも戸惑うことのない明快さで描き出す。
  その簡潔な文体の美しさ。-「分かりやすさ」と共に〈パリ通信〉の魅力となっていたのはエッセイ文学としてのレベルの高さだった。」(p.256-257)

  『何が社会的に構成されるのか』は社会構成主義の批判的検討の書。社会構成主義(あるいは社会構築主義)というのは、一見「客観的」と思われる事物が実は一定の社会のあり方とは独立に実在するものでなく、社会によって構成されたものに過ぎないという考え方で、現代社会学の基礎理論の1つとなっているものである。文化構想学部と文学部のブリッジ科目にも「ソーシャル・コンストラクショニズム入門」という科目が用意されているので、文化構想学部の現代人間論系や、文学部の社会学コースに進級を希望する学生は履修することを勧める(一文・二文の学生も履修することができる)。講師は千葉大学の片桐雅隆先生である。

  「岩波ジュニア新書」でいう「ジュニア」とは何か。中学生を中心にその前後を対象にしているのだろうと思っていたが、『ヨーロッパ思想入門』はとてもそういう水準の本ではない。「はじめに」からしてすでに並々ならぬものを感じる。

  「『ヨーロッパ思想入門』と銘打ったこの本で、筆者が意図したことは、ヨーロッパ思想の本質を語ることである。
  ヨーロッパ思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシャの思想とヘブライの信仰である。この二つの礎石があらゆるヨーロッパ思想の源泉であり、二〇〇〇年にわたって華麗な展開を遂げるヨーロッパ哲学は、これら二つの源泉の、あるいは深化発展であり、あるいはそれらに対する反逆であり、あるいはさまざまな形態におけるそれらの化合変容である。
  …(中略)…
  この二つの源泉から、ヨーロッパ思想はその活力を汲み出している。その展開がヨーロッパ哲学である。このことができるだけ明晰に見えるように、筆者は、この本の第3部でヨーロッパ哲学のわずかな、しかし重要な節目を歌った。それは華麗な大交響曲からの、筆者の好みによって選び出された、ほんの数小節である。しかし、それで、ヨーロッパ哲学の本質は伝わると筆者は確信している。」

  アメリカの4年制大学でジュニアというと3年生のことだが、本書に限っては、「ジュニア」もその用法に従っているのかもしれない。

  私は小津安二郎が好きで、志賀直哉も好きである。だから小津が志賀の小説を好み、志賀も小津の映画を好んでいたという事実を知ることは、気持ちがいい。『小津安二郎文壇交友録』の帯には志賀と小津が並んで歩いているところを正面から撮った写真が載っている。志賀の方が小津よりも背が高かったことを私はこの写真で初めて知って、ちょっと驚いた。

  昼食は東口の「万豚記(ワンツーチー)」のたまごとレタスの炒飯。初めて入った店で、アッサリ塩味を期待して注文したのだが、アッサリは期待通りだったものの、塩味が少し足りないように思った。それと「お水はセフルサービスでお願いします」と貼り紙がしてあったが、お代わりはそれでもいいとして、最初の一杯はコップに注いで出してくれるのが接客というものではなかろうか。オフィスでの「お茶汲み」というと屈辱的な労働の代名詞のようになってしまったが、飲食業では基本中の基本であり、それを「セルフサービス」という横文字を掲げて放棄し、恥じるところがないという風潮を嘆かわしく思う。それから、炒飯を食べるのに使う蓮華も自分でカウンターに置いてあるのを取らないとならないのだ。お冷の場合は不要という人もいるだろうが、蓮華を使わずに炒飯やスープを食す客はいないだろうから、当然、炒飯と一緒に持ってきてほしい。「万豚記」はチェーン店のようなので、どれもこれも本部が決めたマニュアル通りなのであろうが、改めた方がいいと思うけどな…。
  早朝からバスで河津に花見に出かけていた母は、夜の9時過ぎに帰ってきて、「帰りのバスが一時間くらい遅れて…」と言いながら、部屋に入るなりTVを点けて『華麗なる一族』をかけた。川沿いの桜並木はきれいだったが、とにかく風が冷たかったそうだ。
  深夜、円楽引退のニュースを知る。

2月24日(土) 晴れ

2007-02-25 02:13:25 | Weblog
  10時、起床。朝食は自家製コロッケパン。トーストに千切りキャベツを敷き、マヨネーズを掛け、その上に熱々のコロッケを置き、トンカツソースを掛け、オープンサンドで食べる。
  昼から大学へ。科研費に続いて、特別研究費も本日で残額0円になる。研究費というのは基本的に1年単位で、翌年への繰り越しはできないことになっている。年度末までにきちんと消化しなければならないのだ。残額をきちんと0円にするためには、多少の工夫がいる。残額よりも多少高めの本とか消耗品を現金で購入して、その領収証を提出すれば、残額相当のお金が戻ってきて(足りない分は自費で補ったということになる)、残額0円となる。ただし、この方法は残額が1万円未満のときでないと使えない。たとえば残額が2万円のときに、2万5千円の本を購入して、オーバーした5千円は自腹で、という使い方は認めてもらえない。だから、研究費の支出の最後の段階では、2つのことに気を付けなくてはならない。第一に、とりあえず残額を1万円未満にすること。第二に、その1万円未満の残額を少しばかり上回る金額の本や消耗品を購入すること。さて、後は個人研究費が1万円弱残っているのみである。
  1時から教授会。本日の主役は英文学の小田島先生。難題を、コロンブスの卵というか、コペルニクス的発想の転換によって、明快に解いてみせてくれた。よし、それでいきましょう。目の前の席に長谷先生が座っていたので、昨日の車中での会話をフィールドノートで使わせていただきましたと告げると、頭を掻きむしって喜んでいただけた。そのフィールドノートを書いているときに、長谷先生が奥さんのことを「嫁さん」と言ったか、「カミさん」と言ったか記憶があいまいだったので(とりあえず「嫁さん」としておいた)、その点を確認したところ、「カミさんです」とのことだったので、会議が終わってから、研究室のPCからその箇所を訂正した。かようにフィールドノートは実証的なのである。『刑事コロンボ』がヒットしてから「カミさん」派が増えたという印象があるのだが、実際はどうなのだろう。関西のお笑い芸人は「嫁」という言い方を好んでするようだが、あれはなぜなのだろう。私自身は、「嫁さん」でも「カミさん」でもなく、「妻」を使う。こうした呼称の違いは何と関係しているのであろう。
  7時、帰宅。夕食はミックスフライ(ヒレ、鶏モモ、ウィンナー、玉葱、ジャガイモ)、なめこの味噌汁、御飯。9時頃、川越から妹がやってくる。明日、母と河津に日帰りのバスツアーに行くのだ。桜が見頃を迎えているそうだが、今日明日はこの冬にしては冷え込みがきつい。あまり寒いようだったらバスの中にいた方がよいと言っておく。