フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2005年1月(後半)

2005-01-31 23:59:50 | Weblog

1.16(日)

 この3月で卒業してちょうど5年になる社会学専修の卒業生8名と渋谷の「ぷん楽」で新年会。卒業生は毎年送り出しているわけだが、卒業生との関係には年度によって濃淡がある。この代は1年生のときの基礎演習からの付き合いという学生が多く、関係は濃い方である。とはいっても、個人的に研究室に顔を出すといった感じの付き合いが多く、今日のように集団で会うのは珍しい。男性5名、女性3名であったが、男性5名のうち3名は既婚で(うち2名は子供がいる)、未婚の2名のうち1名は近々結婚の予定である。一方、女性3名は全員独身で、近々結婚という話もないようである(言わないだけかもしれませんけどね)。もっともこれは女性陣の婚期が遅れているということではなく、男性陣が早婚なのである(2002年の平均初婚年齢は男性が29.1歳、女性が27.4歳)。仕事については、卒業して就いた仕事を継続している者が6名だが、うち1名は近々退職の予定である。彼らの話を聞きながら思ったのは、みんな、学生時代の面影を残しながらも、社会人として、家庭人として、ずいぶんと成長しているなということであった。男子三日会わざれば刮目して待つべし、と昔の人は言った。現代はそれが男子に限らない。彼ら彼女らから今日はエネルギーを分けてもらったような気がする。

 

1.17(月)

 今月末締切の論文に取りかかる。400字詰原稿用紙換算で40枚から50枚。試験の採点や卒論・修論の審査の合間を縫っての執筆であるが、途中で週末が2回入るからなんとかなるであろう。今日は10枚ほど書いた。

 昼飯は散歩のときにシャノアールでとった(タマゴトーストと珈琲)。昼食を外で食べるのは、自宅に籠もって原稿を書いているときの息抜きである。決して妻が昼飯を作ってくれないからではない。もっとも本当にエンジンがかかってきたときには、パソコンの前を離れずに(離れると頭が再び温まるのに時間がかかる)、おにぎりでも食べながらキーボードを打ち続けるのがよいのだが、そこまで調子はあがっていない。「書かなくちゃ」という気持とパソコンの前を離れたいという気持が綱引きをしている感じで、助走段階では、いつものことである。

 TSUTAYAに『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』(2003)を返却して(これは名作。『ラスト・サムライ』より面白かった)、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル』(2000)、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』(2003)、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ』(2004)を借りる。いい年をした男がアニメを借りて恥ずかしくないのかとお思いの方もいるであろうが、そういうことはまったくない。これがアダルトビデオだったら恥ずかしいだろうが、こちらには「ポピュラー文化研究」という大義名分がある上に、たぶん店員さんは子ども(孫か?)のために借りているのだと思っているに違いないからである。

 南天堂書店で、『少年小説体系 別館5 少年小説研究』(三一書房、1997)、伊丹十三・岸田秀・福島章『幼女連続殺人事件と妄想の時代 倒錯』(NESCO、1990)、鷲田小彌太『倫理学講義』(三一書房、1994)を購入。

 

1.18(火)

 午前中から夕方まで会議、会議、会議。会議の合間に、ときに会議の最中に、来年度の講義要項や明日の試験問題の校正をする。夜、原稿を書こうと机に向かって、はじめてかなり疲れていることに気がつく。会議というのは、とりわけ今日のように舵を失った船が海を渡っているような行く先の見えない会議は、知らず知らずに疲労がたまるもののようである。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ』を観て、就寝。

 

1.19(水)

 3限の社会学研究10の教場試験を終えて、「メルシー」に昼飯を食べに行く。法学部の学生とおぼしき2人組みと相席になる。チャーシュー麺を食べながら、2人の話を聞くともなく聞いていると、試験の話をしている。、○○先生の試験は楽勝だとか、△△先生の試験は手強いとかの当たり障りのない話をしているうちはよかったのだが、試験を受ける科目の全部の先生に嘆願のメールを出したら全員から返信がもらえてしめしめみたいな話をしている。星一徹なら、テーブルをひっくり返して、「馬鹿者!」と一喝するところだ。よっぽど、「私は文学部の教員だが、○○先生も△△先生もよく存じ上げている(嘘だけど)」と言ってやろうかと思いましたね。そういえば、さきほどの私の試験でも、答案用紙に「出席状況もこの試験の出来も悪いと思いますが、私は4年生で、この科目を落とすと・・・・」という類の泣き言を書いてきた者がいた(おまけに本人のメールアドレスまで書いてあった)。どうせダメモトで書いているのだろうと思うが、この手の学生には「世間はそんなに甘くない」ということをちゃんと教えてやるのが教師の役目だと私は考えている。再試験、頑張りなさい。

 

1.20(木)

 午後、研究室で試験の採点。まず、およそ180枚の答案を学籍番号順に並べ替えるのが一仕事。試験を受けなかった学生が何人かいる。授業にちゃんと出ていない学生が試験を受けないのはわかるが、真面目に出席していた学生が試験を受けないとどうしたのだろうと気になる。とりあえず卒業のかかっている4年生の答案(数は多くない)の採点を終わらせる。内容はピン(A)からキリ(F)まで。大学の入口ではこんなバラツキはなかったはずだ。出口までの4年間に、これほどの差が生じたのかと思うと、感慨深いものがあった。

 7限の基礎演習は最後の班の報告。テーマは「セックスレス」。これまでの報告の中で質問や意見が一番たくさん出た。有終の美を飾れてよかったのではなかろうか。再来週、学年末試験が終わったところで、最後のコンパをする予定。

 生協に来年度の基礎演習の教科書を発注する。ギデンズ『社会学(第4版)』(而立書房)。年末に出たばかりの本である。これまでテキストに指定した本の中で一番分厚く(800頁超)、一番高い(3600円)。生協に来たついでに、『日本近代文学評論選 昭和篇』(岩波文庫)と、岩波の「シリーズ・哲学のエッセンス」の中から『マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?』と『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』を購入。

 

1.21(金)

 3限の大学院の演習はF君が内田隆三『国土論』(2002)の中から「郊外の光景」の章について報告。多摩ニュータウンを取り上げて、そこに見られる過剰な都市化の様相をフーコーの「混在郷」(エテロトピ)という概念や、「身体」や、「性愛」や、「高齢化」をキーワードに分析した論文。示唆に富んだ華麗な文章だが、本人はこういう文章を書くことに少々飽きてしまっているのではないかという気もする。気のせいだろうか。ほとんどの演習は今週で終わりのようだが、私のところは来週が最終回。担当はN君で、重松清『スポーツを「読む」』(集英社新書、2004)を取り上げるとのことなので、帰りに有隣堂で購入。

 床屋に寄って散髪をしてから帰宅。K君(娘の彼氏)が遊びに来ていて、夕食の鍋を一緒に囲む。やはり私の前だと緊張している様子だが、それを娘にからかわれたりしているうちに、しだいに緊張もほぐれてきたのか、二人でクスクス笑いをしているので、「私の前でいちゃつくんじゃない!」と(もちろん冗談めかした口調で)釘を刺すと、K君、急に背筋を伸ばして、「ハイ!」と答えた(娘は笑っている)。

 

1.22(土)

 年末に刊行された富永健一『戦後日本の社会学 一つの同時代史』(東大出版)は面白い本だ。清水幾太郎の思索と行動の軌跡について調べている私にとって日本社会学史は必須の学問領域だが、そういう個人的事情を離れて読んでも、実に面白い本だ。

 

『戦後日本の社会学』と題する本書は、戦後日本の社会学の展開の中から、私が一定のストーリーを「構築」し、それに適合する重要な社会学書を選び出して、それらの一つ一つと対話を重ねることにより、社会学というディシプリンが形成してきた戦後史を、興味ある一つの物語として描き出すことを目的とする。

 この物語のテーマの一つはマルクス主義社会学との対決である。戦前から戦後のある時期まで、社会科学とマルクス主義は不可分の関係にあった。しかし、富永はマルクス主義に親しみを感じてではなく、むしろそれを嫌って社会学の門をくぐったのである。

 2年生の1951年9月に、(東京大学の)教養課程から専門学部学科への進学振り分けがあった。ここで、私は、自分とマルクス主義との関係をはっきりさせておかねばならないと考えた。(中略)マルクス主義をとるなら経済学、とらないなら社会学と私は考え、自分はマルクス主義には入らないと心に決めた上で、社会学を選択した。(中略)私がマルクス主義から離れる決意をした大きな理由は、父から5年間の「ラーゲル」抑留生活について聞き、ソ連について暗いイメージをもったことにあった。

 しかし、実際に入ってみると、当時の東大社会学研究室はマルクス主義者の世界だった。

 私は社会学専攻を選んだのは、上述したように社会学がマルクス主義を含まないという結論を出した上でのものだったから、その後の日本社会学に「マルクス主義社会学」が形成された時、私は自分の著書や論文でそれらには言及しないという態度をとり続けた。マルクスは社会学者ではなく、マルクス主義は社会学ではない、と私は考えてきたからである。このことの「ダブル・コンティンジェンシー」効果として、日本のマルクス主義社会学者たちとそれに親近感をもつ人びともまた、私の書いたものには言及しないという態度をとるようになった。(中略)とくに1965年という年は、「マルクス主義社会学」を全面的に標榜した最初の講座である『講座現代社会学』と、マルクス主義と対決しながらリベラル社会学の立場から近代化理論を構築しようとした私の『社会変動の理論』とが、同時に出た年であった。『社会変動の理論』はさいわいよく売れた本であったが、マルクス主義者の早瀬利雄はこの本の書評を引き受けておきながらこれを握りつぶしたので、彼の死までの二十数年間『社会学評論』誌にこの本の書評が出なかった。

 凄い。名指しである。私もこのフィールドノードで文学部の同僚の先生の実名をあげることがあるが、それはその先生の人柄や業績に親しみや尊敬の念を覚えているときに限る。『戦後日本の社会学 一つの同時代史』の面白さの少なくとも一部は、こうしたゴシップ的記述の面白さである。

 私は自分のゼミでは深く心の触れ合った研究仲間を形成することができ、研究プロジェクトの形成においても優秀なグループに恵まれて、幸福な研究生活を過ごして来たと思っている。しかし東大の学科および日本社会学会の中でマルクス主義系の人びとは集団的に行動し、それが裏面で人事などを動かしているという問題に、私はたえず直面せざるを得なかった。私は同僚諸氏が学科や学会を動かすやり方に同調することができず、そうかといってそれに断固として対決する勇気ももちあわせなかったので、しだいに暗い日々を送るようになった。齢を重ねるにつれて、私はこのような「断絶」を放置しておいてはならないと反省するようになった。本書で私が、リベラル理論とマルクス理論の両方を含めて、戦後60年のあいだに書かれた数多くの本と「対話」することを心がけたのは、そのような断絶をできるだけつくりたくないという反省から来ている。

 ここにおいて「対話」は「対決」の同義語である。「黙殺(断絶)」から「対話(対決)」へ。たとえば細谷昴の『マルクス社会理論の研究』(1979)について、富永は次のようにコメントしている。

 マルクスは、自分では社会学という語を使ったことがなく、そういう題名の本を書いたこともなく、彼の同世代者であるコントとスペンサーが彼の時代に社会学という学問をつくったが、それにはまったく関心を示さなかった。だからマルクスの死後百年近くたってから、それまでマルクスの読者にとって馴染みのなかった社会学者という人種があらわれて、マルクスを研究して本を書くならば、「なぜ自分がマルクスについて本を書くのか」「なぜマルクスを社会学者だとするのか」「何をマルクスの社会学と呼ぶのか」などについて語ることは不可欠である。しかるに細谷は、それらの義務をすべて放棄してしまった。細谷のマルクス研究は、彼が社会学者たることを放棄したことを示すだけに終わった。

 一般の方のために注釈をしておくと、細谷昴は日本社会学会の現会長である。つまり富永は日本の社会学者コミュニティの長に向かって「あなたは社会学者ではない」と啖呵を切っているのである。この迫力は尋常のものではない。私のようなマルクス主義社会学とも東大社会学研究室とも無縁な、日本社会学会の周辺的会員は、対岸の火事を見物しているような気楽な興奮を覚える。しかし、「対話」の相手にされた人びと(およびその弟子たち)は身に降りかかってきた火の粉をどうやって払うのであろうか。あいかわらずの「黙殺」を決め込むのであろうか。まさかそういうわけにもいくまい。『戦後日本の社会学 一つの同時代史』は一種の公開質問状であり、無回答は「おっしゃるとおりです」という意味に受け取られてしまうからである。さて、「対話」の第二幕を開けるのは誰であろうか。

 

1.23(日)

 夜、パソコンに向かって月末締切の原稿を書いていると、調査実習の学生から報告書に載せる原稿がメールで送られてくる。その場で目を通して改善点を指示するメールを返し、再び自分の原稿に向かう。するとまた別の学生から原稿が送られてくる。その場で目を通して・・・・、ということを5時間ほどの間に5回繰り返していたら、頭がショートしそうになった。「書く」ことと「読む」ことの両立、「研究」と「教育」の両立がいかに難しいかを実感した。明日は、学生からのメールの比較的少ない昼間の時間帯に原稿書きに専念することにしよう。

 

1.24(月)

 中央教育審議会が現在の助手を、研究者として教授を目指す「助教」と教育研究の補助を職務とする「助手」に分離することを決めた。私もかつて助手をしていたが、専修の諸々の雑用をこなしながら、論文作成に励んでいた。どちらか一方に偏するということはなかったように思うが、人によって、あるいは専修によっては、バランスの問題で悩んだり、苦言を呈されたりしていた助手もいたようだ。今回の制度改革(案)は、従来の助手がもっていた2つの機能を分離しようとするものだが、そうすんなり分離できるものだろうかという問題は措くとして、「助教」という名称がいかにも苦し紛れという感を否めない。どうしたって従来の助教授(こちらも「准教授」に改称することがすでに決まっている)の略称のように見えてしまう。「ジョキョウ」と発音した感じも座りが悪い。「大久保助手」はピタリと来るが、「大久保助教」は落ち着かない。「女狂」を連想してしまう人もいるだろう(いないか?)。助教授を「准教授」としたように、研究者としての助手を「准講師」と呼ぶ手もあったのではないか。もっとも「准」という字(「準」の俗字)も、「批准」とかで使われるほかは、ふだん馴染みのない字で、あまりいいとは思いませんが。まあ、名称というのは難しいですよ。新学部の名称も簡単には決まりそうにないしね。

 

1.25(火)

 午後2時から始まった会議は、延々6時間続き、午後8時に終わった。新学部のカリキュラムを話し合う会議だったが、ドタバタしているうちに6時間が経ってしまったという感じで、あまり充実感はない。一応形らしいものは出来上がったが、正真正銘の「たたき台」である。小さな女の子がたたいても簡単に壊れそうな代物である。でも、何もないよりはまし。さあ、議論よ興れ。

 

1. 26(水)

 午前、原稿書き。午後、読書会と調査実習のケース報告会。夜、実習の学生から送られてくる原稿のチェック。時間が足りない。しかし睡眠時間は削れない。削って頑張ってもそれは一時しのぎで、翌日の仕事の能率が落ちるので、トータルではマイナスなのだ。

 

1.27(木)

 午前中から昼過ぎに自宅を出るまでずっとパソコンの前に座って、実習の学生から次から次に送られてくる原稿のチェック。午後、調査実習のケース報告会。夜、修士論文を読む。唯一の息抜きはTVドラマ『優しい時間』を観ること。

 

1.29(土)

 昨日(28日)、妻の父親が亡くなった。その4日前に自宅で倒れ、すぐに救急車で昭和医大横浜市北部病院に運ばれたが、脳梗塞で左脳の大部分が致命的なダメージを受けており、「ここ一週間」が山であると医者から宣告されていた。それが一昨日の夕方の段階で「ここ24時間」に変わったので、入院初日から病院に詰めている妻や義母・義姉と合流すべく、私も予定をすべてキャンセルして、病院に向かった。

私が病院に着いたのが午前11時。義父が亡くなったのはそれから8時間後だった。その間、義父の意識が戻ることは一度もなかった。ただ、ベッドの側に置かれたディスプレイに表示される心拍、血圧、呼吸の数値だけが、義父の生命が緩慢ではあるが不可逆的な過程にあることをわれわれに告げていた。われわれは予想される事態の到来を待ちながら、病室内の折り畳み式の椅子に座って話をしたり、最上階の見晴らしのいいレストランのテーブルで話をしたりしながら、経過していく時間をやり過ごしていた。夕方、予告されていた「24時間」が経過した。ディスプレイの数値は午前中より悪くなってはいたものの、義父はそんなに苦しげではなく、予想される事態は明日に持ち越されるかもしれないとわれわれは思った。しかし、それから4時間後、われわれが今夜はいったん引き上げようかと相談していたときに、すべての数値が急激な変化を始めた。当初、落ち着いて対処をしていた看護師がしだいに落ち着きを失い、様子を見に来た別の看護師と相談して、主治医が呼ばれた。医師は義父の眼をペンライトで照らしてから、すでに瞳孔が開いていることを告げた。医師と看護師がベッドの脇に為す術なくたたずむ姿勢に入ったのを見て、それまで椅子に座っていた妻・義母・義姉も立ち上がって、同じ姿勢に入った。ただ、私ひとりだけが、立ち上がらずにいた。不謹慎だろうかと思いつつ、まだ立ち上がるのは早いように思えて、心拍を示す数字が20を切ったら立ち上がろうとじっとディスプレイをにらんでいた。呼吸はすでに停止していたが、心臓は動き続けていた。生と死の境界が不確かな時間帯である。やがて立ち上がるべきときがきた。19、18、17・・・・下降のスピードは緩慢で、医師は息苦しさを紛らわすためだけに、途中で何度か聴診器を胸に当てたり、ペンライトで眼を照らしたりした。10、9、8・・・・心拍を示す数字が10を切ったとき、私は義父に初めて会ったときのことを思い返した。妻(当時はまだ妻ではなかったが)を家まで送っていって、玄関先でご挨拶をした。口数の少ない方だったが、笑顔で迎えてくれた。将来の不確かな大学院生の私が、結婚を前提とした交際をしていますと告げたときも、笑顔で頷いてくれた。心中、さぞかしご心配であったに違いない。「どうかご心配なく。貴方の娘や孫たちは私が・・・・」と心の中で語りかけたときに、心拍を示す数字が0になり、ピーという機械音が鳴ったので、あわてて「・・・・必ず守りますから」と言葉を足した。医師が臨終を告げ、看護師が時刻を医師に伝えた。義父は大正11年8月15日の生まれで、享年82歳だった。

 

1.30(日)

 昨日が友引だったため、今日(先負)は斎場が混んでいるというので、通夜は明日、告別式は明後日という段取りになった。今日はエアポケットのような一日となり、自宅でずっと修士論文(3本)を読んでいた。

 

1.31(月)

 午前10時から修士論文の面接試験。私は3人担当して、一人平均1時間で、午後1時ごろまでかかった。「たかはし」で昼食をとり、午後の会議は失礼して、帰宅。それから義父の通夜に出かける。場所は横浜市営地下鉄のセンター北駅そばの長徳寺。私一人ならば1時間ほどの道程だが、今日は両親と子どもたち同伴である。一番足の遅い父のペースに合わるほかはなく、1時間半かかった。JR横浜駅から横浜市営地下鉄への乗り換えは足の弱った老人にはしんどいものがある。横浜市営地下鉄といえば「全席優先席」宣言で有名である。今日はそれほど混んでいなかったので、父はすんなり座ることができた。私としては杖を突きながら車内に入ってきた父が誰かに席を譲ってもらところを参与観察したかったのだが。通夜には、義父母の家のご近所の方が多数来て下さり(そのために近場の斎場を選んだのであるが)、ありがたかった。読経の始まる前に読経の時間は40分ですと葬儀社の人から説明があった。焼香の時間が1時間設定されているのになぜ40分なのだろうと思ったが、長い読経に閉口することが多いので、まあいいかと思ったが、途中で、読経がえらく早口になったのに驚いた。どうやら普通にやると50分かかるところを早口の読経で40分に短縮するつもりらしいと気づいた。私はてっきりお経にはロングバージョンとショートバージョンがあるのだと思っていたのだが、そうではなくて、読む速度で調節するんですね。しかし、早口の読経というのはどうも聞いていて気忙しい気分になる。落語の「寿限無」みたいだ。読経は予定通り40分で終わった。お坊さんが少しばかり話をしてから退席すると、静寂の中にわれわれ親戚一同が残された(一般の方はみんなお清めの席の方へ移っている)。まだ弔問の方が来るかもしれないので、しばらく席についたままでいたのだが、読経がないと何だか間が抜けている。そこに最後の一人となった方がやってきた。われわれ親戚一同の視線を一身に浴びながら焼香をされていた。若い女性であったが、さぞかし緊張したことだろう。通夜に遅れていくとしばしばこういう羽目になる。


2005年1月(前半)

2005-01-15 23:59:59 | Weblog

1.1(土)

 新年のご挨拶。(音声)

 いつも元旦というのは、遅い朝食(お節料理)を食べ、年賀状の返信を書き、だらだらとTVを見て終わるのだが、今日は年賀状を投函しに外出したついでに蒲田宝塚で『ゴジラ FINAL WARS』を観た。今日は映画の日で料金が1000円だったからというのと、同い年のよしみ(ゴジラ映画50周年)ということもあり、「最後のゴジラ映画」(28作目)を観ておいてやろうという気になったのである。15:20からの回であったが、客は30人ほど。場末の映画館のうらぶれた雰囲気がいい。小さな子供がときおり場内を走り回ったりしていたが、正月だし、そもそも子供向けの映画なのだから、大目に見てやることにする。さて、映画の内容だが、「最後のゴジラ映画」(ホントか?)にしては怪獣より人間が主役の映画であった。地球防衛軍vs宇宙人(X星人)の戦いの合間に、ゴジラ(+モスラ)vsさまざまな怪獣のバトルが挿入されているという印象であった。たぶん純粋なというか、一途なゴジラファンからはブーイングが出そうな映画である。しかし、そういう思い入れを排して観るならば、『マトリクス』や『キル・ビル』や『インディペンデスンス・デイ』や『宇宙戦艦ヤマト』などのパロディがふんだんに盛り込まれたよく出来たB級娯楽作品である。お屠蘇気分で楽しむ映画としてよろしいのではないだろうか。なお、こんなフィギアをもらいました。

 

1.2(日)

 今年から二日も年賀状の配達がある。昔もそうだったと記憶しているが、ある時期から、新聞同様、二日の配達はなくなった(たぶん労働組合がそれを求めたのであろう)。しかし正月の真っ最中に「空白の一日」があるのは拍子抜けがする。メールに押されて年賀状の先行きが懸念されるいま、てこ入れとして、昔の制度が復活したのであろう。元日よりも枚数はずっと少ないが何枚か返信を書いて、ポストに出しに行く途中で自分の名前と住所を書き忘れていることに気づいて家に戻る。このとき私は、昨日書いた返信(大部分が卒業生と現役の学生宛のものである)もそうだったことに思い至った。こちらはもう取り返しがつかない。新年早々のチョンボである。差出人の名前と住所の書かれていないこんな年賀状がとどきましたら、それは私からの返信です。ごめんなさい。

 年賀状を投函して、その足で栄松堂へ行って(街は今日から始動している)、ジャスパー・フォード『文学刑事サーズデイ・ネクスト 1 ジェイン・エアを探せ』(ソニー・マガジンハウス、2003)を購入。ある書評サイトでこのシリーズの2が非常に高い評価を得ているのを知り、しかし、1を読まずに2から読み始めるのもどうかと思い、まず1を購入した次第。さっそくシャノアールで読み始める。外国の小説というのは人名が頭に入るまでに少々時間がかかる。巻頭の「主な登場人物」のリスト(日本の小説ではめったに見かけない)を何度も見返さないとならない。1章を読んで小説の世界に片足を入れ、2章を読んでもう片方の足を入れ、3章を読んで腰を下ろして肩まで浸かった。うん、いい湯だ。500頁の長編だが、主人公の上司「ページ・ターナー」(頁をめくる人=巻措く能わず)さながらに、最後まで楽しめそうだ。英米文学の伝統の上に成り立つ荒唐無稽なお話(SFと冒険譚と推理小説の融合というか・・・・)。お正月の読書にはもってこいだろう。

 私が本を読んでいる近くの席で、女の子の2人連れがシャノアール名物のジャンボ・チョコレートパフェを食べていた。あれは恋人同士が2人で1つを注文して、イチャイチャしながら食べるものだと思いこんでいた私にはショッキングな光景であった。よくあんな馬鹿でかいものを1人で1つ食べられるなと感心して眺めていたら、2人ともしっかり完食した。でも、絶対に後でお腹が痛くなると思いますね。間違いない(・・・・はもう古いでしょうか)。

 

1.3(月)

 鷺沼の妻の実家を一家で訪問。一堂そろって(義姉と甥っ子も来ている)新年の挨拶をし、昼食(出前の寿司)を食べ、ビールが回ってちょっと居眠りをし、箱根駅伝で早稲田大学がまたしてもシード権を取り逃がしたことを確認してから、近所の神社に詣で、戻る途中でスーパー「丸正」でジュースとアイスキャンデーを買い、居間の炬燵で持参した本を読んだりTVの正月番組を観たりしているうちにいつしか夜になり、夕食(海老・鮭・玉葱のフライ)をいただいて、9時半頃に帰宅。・・・・妻の実家を訪問することは我が家における(多くの家でも)正月の行事の1つであり、すべては型通りに進行する。型通りに進行することが行事の行事たる所以である。型の遂行のためにはそれを危うくする諸要素(メンバーの病気や勝手な振る舞い)が回避され、抑制されねばならない。従って、型の遂行は共同体の安泰を意味する。行事そのものが目出度いのではなく、行事をいつも通り遂行できたことが共同体にとって目出度い意味を持つのである。「お節料理」を作ることも、「年賀状」を書くことも、「初詣」をすることも、「お正月」を構成する行為の型である。「大晦日に家族そろって紅白歌合戦を観る」ことも長らく「お正月」関連の行為の型の1つであったが、今回の紅白は視聴率がついに40%を切ったと報じられている。年始も2日から平常通り営業をする店が増えてきている。従来の「お正月」の型は確実に崩れてきている。しかしそれに変わる新しい「お正月」の型が台頭して来ているようには見えない。そのうち「お正月」はTVの正月番組の中だけのバーチャルな存在になってしまうのかもしれない。

 

1. 4(火)

 年末に投函した年賀状が2枚、「転居先不明」と「転送期間経過」により返送されてきた。確か昨年もこの2人に出した年賀状が同じ理由で返送されてきたような気がする。住所録(ソフト)の管理がいい加減だからこういうことになる。鉄は熱いうちに打て。反省して、今日までに届いた年賀状で住所変更があったものについて、住所録を更新する。ついでに、ここ数年、継続して年賀状を送って下さっている方で住所録に未登録の方を新規登録する。年賀状を頂戴してから返信を書くのはエラソーなので、できれば避けたい。しかし、こちらが目上の立場である場合、こちらから出して相手が出さなかったりすると、相手に気まずい思いをさせることになるので、それも避けたい。このあたりが年賀状の厄介なところである。仕事上の関係で、しかし、もう何年も会っていない方から、「昨年はお世話になりました。本年もよろしくお願いします」という紋切り型の年賀状が届くと、「何もお世話をしていないし、よろしくと言われてもなあ・・・・」と白けた気分になる。こういう儀礼的なやりとりはやめにしたいと思う。しかし、本来、年賀状とは儀礼的なものではないのか、儀礼に徹すればよいのではないかとも考える。実際、住所録に登録してある方をいざ削除するとなると、小さな勇気がいる。そしてたいていは気持が挫けて、「今年も出しておくか」ということになる。たぶん先方も同じ気持ちなのであろう。

 

1.5(水)

 近所の内科医院が今日から診療を再開したので、父を連れて行く。大晦日から風邪で寝込んでいて、高い熱が出る→解熱剤で一旦は収まる→しばらくしてまた熱が上がる、という過程を数日間繰り返していたのである。昨日あたりからようやく高い熱は収まったものの、まだ微熱があり、いまひとつ食欲がない。それ以上に気力がない。なにしろ今年で82歳だから、「がんばる」という未来志向的な行為を強いることにそもそも無理がある。抗生物質と消炎剤と解熱剤、それに高カロリー飲料を処方してもらう。ついでに私も風邪が喉と鼻に来たみたいなので抗生物質と消炎剤を処方してもらった。

 来年度の講義要項(明後日が締め切り)をワセダネット・ポータルで入力する。来年度は今年度担当している科目に加えて、一文の「社会学基礎講義A・B」と二文の「社会と文化」も担当することになったので(ちょっと働き過ぎではないでしょうか?)、講義要項の作成も一苦労である。「もう冬休みも終わりか~」と低いテンションで取りかかった作業だが、書いているうちにだんだんとやる気が出てきた。教師の性ってやつでしょうか。学期中、風邪で体調が悪くても授業をやるとしゃきっとしたりしますからね。数年前、私にしては珍しく高い熱が出て、悪寒と吐き気に苦しみつつ寝込んでいるときに、どうしてもキャンセルできない高校への出張講義が入っていて、青息吐息で出かけていったことがある。しかし、自分でも驚いたことに、なんとかなりましたから。ちなみにそのときのことを書いた文章、「品川女子学院訪問記」は文学部のホームページに掲載されています。

 

1.6(木)

 年末の雪の降った日、母が近所の野良猫を家に連れてきた。衰弱した老猫で、水や餌も口にせず、死ぬのは時間の問題と思われたが、雪の降り積もる中で死なせるのは可哀想だと、布切れを敷き詰めた段ボール箱に入れて、さらに上から布を掛け、物置の中においてやった。それから今日までの一週間、その猫は水も餌も口にしないまま、物置の段ボール箱の中でじっと横になっていた。母は一日に何度も猫の様子を見に行っては、水を含ませた脱脂綿で猫の口を拭ってやったり、垂れ流した尿で汚れた布切れを新しいのと交換したり、天気のいい昼間は段ボール箱を日向に出したりしていた。私もときどきそれを手伝いながら、これは一種の延命治療のようなものではないか、あの雪の日に死なせてやった方が野良猫にとっては楽だったのではないかと思った。その猫が、今日の夕方、自分から姿を消した。母は家の周りや猫が元いた辺りを捜して回ったが、猫の姿はなかった。猫は死ぬときに人前から姿を消すといわれており、私も経験上そのことを知っているが、もはや脱水症状で死の間際にある猫にそんな力が残っていたとは考えもしなかった。猫は物置の中の段ボール箱を死に場所に決めたのだと思っていた。最後の力を振り絞って、段ボール箱から出て、物置の引き戸をこじ開けて、ヨタヨタと冷たい夜気の中に消えていく猫の姿を、私は想像した。私はその姿に哀れみではなく、むしろ野良猫の尊厳のようなものを感じた。

 

1.7(金)

 授業はまだ始まっていないが、家族社会学会関係の会合があり、新年の墓参りをすませてから、大学に出る。昼食は「五郎八」で揚げ茄子のみぞれおろし蕎麦。久しぶりの暖かな陽射しに冷たい蕎麦が旨い。教員ロビーのメールボックスに何通か年賀状が届いていた。私の自宅の住所をご存じない方(4年前に転居をした)からのものだ。今日で松の内も終わる。返信はメールか寒中見舞いの葉書にしよう。事務所に提出する書類で、今日が締め切りのものや、すでに締め切りを過ぎているものがいくつかあり、会合を途中で抜け出して、処理をする。廊下でロシア文学専修の草野先生に声をかけられ、しばし立ち話。ロシア文学専修への進級希望者が少ないことに話が及び、私がうっかり、「今回は基礎講義がうまくいかなかったんじゃないですか」と言ったら、彼女、ちょっとムッとした顔になり、「大久保先生までそんなことをおっしゃるんですか」と言う。し、しまった、ロシア文学基礎講義は彼女の担当だったのを忘れていた。「あっ、いや、その、草野先生が基礎講義を担当しても学生が集まらないのだから、これはもう時代の流れというほかはなく・・・・」と慌ててフォローに回るのもどうかと思い、「ところで、新年の甘味同好会の会合はどこでやりましょうか?」と話題を切り替える。窮すれば甘味である。帰りがけにあゆみブックスで、川本三郎『我もまた渚を枕 東京近郊ひとり旅』(晶文社)と、『an an』1月12日号(特集:恋愛至上主義)を購入。女性雑誌は私にとっては「資料」であり、購入することに抵抗はないが、電車内で読むのは度胸がいる。川本の本を取り出して、4年前まで近くに住んでいて土地勘のある「船橋」と「市川」の章を読む。本八幡あたりの古本屋や中山の法華経寺を久しぶりに訪れてみたくなった。

 

1.8(土)

 松の内も明けた。気分を日常モードに切り替えねばならない。年末の講義記録と来週の講義資料の作成。調査実習の1月の授業スケジュールの作成と学生への伝達(メールで)。次回の大学院の演習の課題図書(山田昌弘『希望格差社会』)のチェック。

夜、ケーブルテレビ(衛星劇場)で韓国映画『殺人の追憶』(2003年)を観た。1986年にソウル近郊の農村で実際に起きた連続婦女暴行殺人事件を題材としたサスペンス映画。迷宮入りになった事件なので、映画でも真犯人は最後までわからないままなのだが、その闇の深さが作品に奥行きを与えている。地元の刑事とソウル市警から派遣されてきた刑事が、衝突をくり返しながら、村の人々の生活の中に入り込んで捜査を続ける姿は、フォークロア的といってよいもので、ハリウッド映画(犯人との知恵比べが多い)にも、日本映画(犯罪の背後に社会問題が存在する場合が多い)にも、類似する作品がないように思う。韓国映画の水準の高さを示した作品ではないだろうか。

深夜、一文事務所のMさんから講義要項の件で連絡のメールが入る。こんな時間(送信時刻は0:50)にまだ事務所で仕事をされているのだろうか(そのメールに返信したら、2:53に返信への返信があった!)。これから新年度の科目登録終了まで(ゴールデンウィーク前まで)事務所の方々は、超多忙な日々が続く。われわれ教員も学部再編問題で忙しくなるが、四の五の言わずに(言ってもいいけど、言ってるだけじゃなくて)、山積する案件に取り組もう。

 

1.9(日)

『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!大人帝国の逆襲』の短縮版(93分→30分)を教材用に作成。これまでこうした編集作業はVHSレコーダーを2台つなげてやっていたのだが、今回は年末に購入した一台三役(HD、DVD、VSH)のレコーダーを使って行った。レンタルビデオをハードディスクに丸ごとダビングしてから、ハードディスクからVHSに選択的なダビングを行う。最初は解説書を読みながらの作業だったが、馴れるのにそんなに時間はかからない。VHSからVHSへのダビングよりも、始点をピンポイントで設定できるので気持ちがいい。で、これを一体何の教材に使うのかというと、現代社会を覆っている懐古的気分(昔はよかった)と「集合的記憶」(アルバックス)の概念、そして家族の行く末について考えるためである。編集作業は1時間ほどで終わったが、その後、ハードディスクに録画してあった小田和正や中島みゆきの番組を見ていたら夕方になってしまった。CDで聴くよりも音質は劣るが、映像のある音楽は臨場感がある。歌は口で歌うものではなく、全身で歌うものだということがよくわかる。

 

1.10(月)

 成人の日。街を歩いていると、振り袖の女の子たちが目に付く。どの女の子も一様に幼く見えるのは、私が年を取ったせいもあろうが、それだけではなくて、彼女たちの身体所作(歩き方や仕草)が着物姿とアンバランスだからである。晴れ着は七五三以来という子がほとんどであろうし、浴衣を着る機会もそんなに多くはないのであろう。日本舞踊を習っていますなんて子は、まあ、いないでしょうね。

 明日から一ヶ月の「蒲田―東京」間の定期券を購入。2月11日以降は、大学に出るのは入試関連が主なので、定期券を購入するほどではない(いや、もしかしたら、学部再編関連の会議が頻繁にあるかも・・・・)。TSUTAYAで深田恭子主演の『下妻物語』を借りる。年末に飯田橋ギンレイホールにかかったのだが、時間のやりくりができず、観に行けなかった。6日に発表された「キネマ旬報ベストテン」の日本映画部門で第3位、8日に発表されたヨコハマ映画祭の日本映画ベストテンでは堂々第1位となった作品である。『下妻物語』のDVDをレジにもっていこうとしていたとき、全部貸出中となっていた『世界の中心で、愛をさけぶ』のDVDが店員さんの手で一枚棚に戻された。社会学で飯を食っている者として、大ヒットした映画は一応観ておくかと、こちらも借りることにした。夜、『下妻物語』を観る。ロリータ(深田)とヤンキー(土屋アンナ)の友情物語。原作は『世界の終わりという名の雑貨店』の嶽本野ばら、脚本と監督の中島哲也はあのサッポロ黒ラベルの山崎努と豊川悦司が温泉卓球をするCMを撮った人(というのは映画を見終わってからインターネットで調べて知った事実)。最初、脚本や監督が誰かを知らずに観ていたときは、てっきり『木更津キャッツアイ』や『ピンポン』の宮藤官九郎が一枚噛んでいるものと思いこんでいた。登場人物一人一人のキャラが尖っていて、映像で思い切り遊んでいる感覚が似ていたからだが、こういうのは宮藤一人の特徴ではなく、同時代的特徴なのかもしれない。面白いのは確かだが、今後、センスに乏しい人がスタイルだけをまねた、下妻のジャスコみたいにあか抜けない作品が続出しはしないかと心配だ。

 自宅に晴れ着のダイレクトメールがよく届く。貸衣装屋からの電話もよく入る。うちに来年成人式を迎える娘がいることをどこから調べてくるのだろう。いま手元に「丸昌」のカタログがあるのだが、深田恭子がモデルをやっている。『下妻物語』ではフリフリのロリータファッション、こちらでは振り袖姿。まるで着せ替え人形のようである。おまけにどちらもよく似合っている。

 

1.11(火)

 午後、大学。生協文学部店で『ユリイカ』1月号(特集*翻訳作法)を購入し、「フェニックス」で昼食(サラミピザと珈琲)を取りながら柴田元幸へのインタビュー記事を読む。どういう分野であれ、名人・達人の話を聴くのは面白い。たとえば、こんな話。

 

 ミルハウザーの場合は、オースターより気をつけることははっきりしています。とにかく、「視覚的な緻密さを殺さないこと」。ミルハウザーの作品には物の描写がすごくたくさん出てきます。まさにカメラで撮影しているみたいにね。で、英語と日本語は基本的に語順が違うんだけど、語順を変えて訳しちゃうと、ミルハウザーのカメラワークが台無しになっちゃうわけで、これはマズい。だからとにかく、なるべく「原文の語順で訳す」ことですね。だけど英語の語順で訳すと、どうしても文章がぶつぶつ切れがちになってしまいます。受験英語的に、長いセンテンスもうしろのほうから訳すようにすれば、一応一つのセンテンスで訳すことができますが、そうしてしまうとカメラワークは変わってしまいます。だから、カメラワークを変えずに原文の語順で訳すことを優先しつつ、さらに文章の流れの良さも再現することが大事なんだけど、それがなかなか(笑)。

 

 明日の講義の配布資料を印刷し終えて、3時からの新学部の準備委員会(の1つ)に臨む。これから正味2ヶ月ほどの間にあきれるほどあれこれのことを決めていかなくてはならない。最低でも毎週一度はみんなが顔をそろえて話し合いを重ねていかなくてはならないだろう。

 

1.12(水)

 「社会学研究10」は今日が最終回。残り時間が30分の辺りで用意してきた短縮版『クレヨンしんちゃん 嵐をよぶ モーレツ!大人帝国の逆襲』を流す予定であったが、それまでの話が少々長引いて、残り20分から流し始めた。短縮版は30分なので、最後まで観ることはできなかった。講義の資料としては必ずしも最後まで観る必要はないのだが、当然、学生たちは結末が気になるわけで、出席カードの裏に、「続きが気になります」「帰りにビデオをレンタルしようと思います」と書いてあるものが目立った。いまごろTSUTAYAの本部では、「どうして今日は『クレヨンしんちゃん 嵐をよぶ モーレツ!大人帝国の逆襲』があちこちの店舗で一斉にレンタルされているのだ?」と首をひねっているのではなかろうか。

 講義を終えて、小腹が空いたので、ミルクホールにパンを求めにいく。私は餡ドーナツが好きなのだが、最近見かけない。売れ行き不振で(カロリー高そうだしね)、販売を止めたのだろうか。何にしようか迷ったが、久しぶりにメロンパンを試してみることにした。メロンパンはファンが多い。我が家でも妻と娘がそうである。しかし、正直言って、私はメロンパンを食べて「美味しい」と思ったことがあまりない。表面がパサパサ、カリカリしていて、中には何も入っていない。好きな人にとっては、表面のカリカリ感と中身のふんわり感、そしてほのかな甘さがいいのであろうが、本当にそんなに美味しいですか? メロンパンが好きなんじゃなくて、「メロンパンが好きな私」(という自己イメージ)が好きなだけなんじゃないですか? こんなことを言うと、「それはおまえが美味しいメロンパンが食べたことがないからだ。一度、本当に美味しいメロンパンを食べたら絶対にメロンパンのファンになるはずだ」という声が聞こえてきそうだ。しかし、揚げ足を取るようで申し訳ないが、「美味しいメロンパン」という表現は認識論的にはおかしいのであって、私の経験とは独立に、先験的に、「美味しいメロンパン」なるものが存在するわけはないのである。「美味しいメロンパン」は私と或るメロンパンとの出会いの後で、私がそのメロンパンに対して行う意味付与である。したがって「それはおまえが美味しいメロンパンを食べたことがないからだ」という言い方は、「私はメロンパンを食べて美味しいと思ったことがない」という私の発言を言い換えただけで、実質的に同じことを言っているに過ぎないのである。「美味しいメロンパン」ではなく、「たくさんの人が美味しいと言っているメロンパン」なら話は別ですけど。で、本日のメロンパンの味であるが、大きなカルメラ焼きのようであった(多くは語るまい)。

 5限の調査実習はインタビュー調査のケース報告会。時間を延長して8時までやった。来週の授業もそうなるであろう。そして再来週はもう一般の授業期間は終わって試験期間に入っているのであるが、26日、27日、28日の3日連続で毎日3時間のケース報告会を行う予定である(そうしないとロックアウト期間に入る前までに全部のケース報告を終わらせることができない)。箱根駅伝の往路にたとえれば、最後の第5区(山登り)にこれからさしかかるところである。

 

1.13(木)

 大学に出る途中、九段下の駅から歩いて15分ほどのところ(三番町)にある山種美術館に行ってみた。以前は日本橋の山種証券(現SMBCフレンド証券)のビルの中にあったが、建物が老朽化したため、何年か前にこちらに移転してきた、ワンフロアーだけのこぢんまりとした日本画専門の美術館である。「新春の日本画」という展覧会を開催中で、富士山、松竹梅、鶴、鶏、鯉などの正月らしい題材を扱った作品で構成されている。いろいろな画家が描いた富士山を眺めていると、日本画の自由さというものに気づく。富士山の形が実にさまざまなのだ。見る場所の違いということではない。写実を離れ、縦横の寸法を自在に伸縮して、尖った富士山や、平べったい富士山や、ごっつい富士山を描いている。「意匠を凝らす」というのはこういうことを言うのだろう。

 夕方、「すず金」に入ったら、二組の客がいた。一組は教員と女子学生。お名前は存じ上げないが、おそらく文学部で非常勤をされている先生で、いましがた終えたばかりの授業が今年度最後の授業であると同時に、70歳が定年という規定により文学部での最後の授業でもあったらしい。女子学生は先生のファンで、先生にとってその女子学生はかわいい孫のようなものである様子が見てとれた。もう一組は老夫婦。店主とは顔なじみのようで、カウンター席に座って、キモ焼きを肴にビールを飲みながら、世間話をしている。やがて運ばれてきた鰻重の最初の一口を食べた奥さんが、「本当にここの鰻重は美味しいわ」としみじみした口調で言うと、「ありがとうございます」と店主が丁寧に礼を言った。

 7限の基礎演習は学校班の研究発表。大教室(38号館AV教室)での授業のときに学生たちが教壇から見て「前方」「真ん中」「両端」「後方」のどこに座るかを観察し、同時に彼らにアンケートを行い、「人と話をするときの相手との距離の取り方」に関するデータを収集し、二つの変数(座席と対人的距離)の関係を分析したところ、対人的距離の平均値は「前方」<「真ん中」<「両端」<「後方」という順で大きくなっていることが明らかになった。通常、複雑な要因のからみあう社会的行動が単一の要因ときれいな相関を示すことはめずらしいのであるが、今回は非常にクリアーな結果が出た。調査の手法は先行研究を参考にしたものだが、そこで示されていたデータより、今回のデータの方がよりクリアーである。おそらくそれは観察を行った教室が今回の方がより大きいためであろう(横幅があった故に「両端」と「中央」の違いがより顕著に出た)。要するに、空間的距離と心理的距離はパラレルな関係にある。「すず金」で見かけた老夫婦がカウンター席に座っていたのは店主と親しいからである。あの女子学生は先生の授業のときいつも「前方」に座っていたのであろう。

 帰宅して、ビデオに録っておいた今夜スタートの『優しい時間』を観る。久々の倉本聰のドラマである。「戦友」山田太一の『ふぞろいの林檎たち』で夫婦役を演じている時任三郎と手塚理美が同じ夫婦役でゲスト出演していた。

 

1.14(金)

 6日の「フィールドノート」で老衰した猫の話を書いた。実は、あの猫、生きていたのである。今日、母が近所を歩いているときに見つけて、連れて帰ってきて、物置の段ボール箱の中にいれてあるというので、見に行くと、箱から顔を出して、私を見て、「ニャー」と鳴いた。元気なのである。どうも外に出たがっているような感じだったので、物置の戸を閉めずに、私がその場から少し離れると、箱から出て、物置の外にひょいと飛び出して、私の方をちょっと見てから(挨拶でもするように)、立ち去った。その足取りは決してヨタヨタといった感じではなかった。その後、母はやはり気になるらしく、猫を見つけた場所にもう一度行ってみると、あるアパートの玄関のところで、缶詰のキャットフードをもらって食べているその猫を見つけた。母が猫の近くに行くとアパートの住人が出てきたので、話を聞いたところ、この猫はこのアパートにときどきやってきて、その人と別の部屋の住人が餌をやっていて、体調の悪そうなときは病院にも連れて行ってやっているのだという。私のところから姿を消した日も、おそらくその足でここにやってきて、そのまま病院に連れて行ってもらったらしい。あの衰弱した老猫を病院に連れて行ってやったとは驚いた。しかもあの状態から回復したとはさらに驚きである。なにしろ私の家にいたときには一週間飲まず食わずだったのであるから。もしあのまま私の家の物置に監禁されていたら、間違いなく死んだであろう。あの日の夕方、猫は自分の死期を悟って出て行ったのではなかったのだ。「このままここにいたら死んでしまう」と逃げ出した、というのが真相のようである。やれやれ。

 

1.15(土)

 篠原哲雄監督の『深呼吸の必要』をDVDで観た。沖縄のある離島にさとうきびの収穫のアルバイト(きび刈隊)募集に応じて本土からやってきたそれぞれワケありの7人の若者たちが、35日間の共同生活を通じて、しだいに心を通わせ、再びそれぞれの日常に戻っていくまでを描いたハートフルな物語。ヨコハマ映画祭の日本映画ベストテンで第9位に入った作品である。予想通り、後味のさわやかな作品である。しかし、そのさわやかさは「軽さ」を伴っている。この種の群像劇(最近では『ホテルビーナス』がそうである)には宿命的に伴う問題だが、限られた時間の中に、多数の登場人物の物語を詰め込もうとすると、必然的に一人一人の物語に割り当てられる時間は短いものになり、それぞれの人物が抱えているワケの説明も、それぞれの人物が回復へと向かう契機の描写も、簡略になりやすい。簡略であることは必ずしも悪いことではないが(たとえば俳句の魅力)、多くの場合、簡略であることはリアリティの希薄さにつながる。7人の若者たちが抱えるワケは類型的なもの(よくある話)であり、彼らが回復(一致団結)へと向かう契機もご都合主義的なもの(具体的には、若者の一人が交通事故で負傷すること)である。もちろん、わざわざ沖縄の離島までさとうきびを刈りに来るくらいだから、潜在的に回復へのエネルギーを強く持った人たちであることは明らかで、だからこそちょっとした契機で回復へと向かうことができたのであろうが、本当に大変なのは、「その後」であろう。その意味で、この作品は7人の若者の回復の物語の序章である。しかし、7つの物語の二章以降を想像するにはそれぞれの人物のリアリティがやはり希薄なのである。人物のリアリティということに関しては、作品中それが一番あったのは7人の若者を迎え入れる平良さん夫婦。この二人の役者の演技は素晴らしい。最初、役者さんでなく、実際のご夫婦なのかと思ったくらいである。