1.16(日)
この3月で卒業してちょうど5年になる社会学専修の卒業生8名と渋谷の「ぷん楽」で新年会。卒業生は毎年送り出しているわけだが、卒業生との関係には年度によって濃淡がある。この代は1年生のときの基礎演習からの付き合いという学生が多く、関係は濃い方である。とはいっても、個人的に研究室に顔を出すといった感じの付き合いが多く、今日のように集団で会うのは珍しい。男性5名、女性3名であったが、男性5名のうち3名は既婚で(うち2名は子供がいる)、未婚の2名のうち1名は近々結婚の予定である。一方、女性3名は全員独身で、近々結婚という話もないようである(言わないだけかもしれませんけどね)。もっともこれは女性陣の婚期が遅れているということではなく、男性陣が早婚なのである(2002年の平均初婚年齢は男性が29.1歳、女性が27.4歳)。仕事については、卒業して就いた仕事を継続している者が6名だが、うち1名は近々退職の予定である。彼らの話を聞きながら思ったのは、みんな、学生時代の面影を残しながらも、社会人として、家庭人として、ずいぶんと成長しているなということであった。男子三日会わざれば刮目して待つべし、と昔の人は言った。現代はそれが男子に限らない。彼ら彼女らから今日はエネルギーを分けてもらったような気がする。
1.17(月)
今月末締切の論文に取りかかる。400字詰原稿用紙換算で40枚から50枚。試験の採点や卒論・修論の審査の合間を縫っての執筆であるが、途中で週末が2回入るからなんとかなるであろう。今日は10枚ほど書いた。
昼飯は散歩のときにシャノアールでとった(タマゴトーストと珈琲)。昼食を外で食べるのは、自宅に籠もって原稿を書いているときの息抜きである。決して妻が昼飯を作ってくれないからではない。もっとも本当にエンジンがかかってきたときには、パソコンの前を離れずに(離れると頭が再び温まるのに時間がかかる)、おにぎりでも食べながらキーボードを打ち続けるのがよいのだが、そこまで調子はあがっていない。「書かなくちゃ」という気持とパソコンの前を離れたいという気持が綱引きをしている感じで、助走段階では、いつものことである。
TSUTAYAに『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』(2003)を返却して(これは名作。『ラスト・サムライ』より面白かった)、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル』(2000)、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』(2003)、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ』(2004)を借りる。いい年をした男がアニメを借りて恥ずかしくないのかとお思いの方もいるであろうが、そういうことはまったくない。これがアダルトビデオだったら恥ずかしいだろうが、こちらには「ポピュラー文化研究」という大義名分がある上に、たぶん店員さんは子ども(孫か?)のために借りているのだと思っているに違いないからである。
南天堂書店で、『少年小説体系 別館5 少年小説研究』(三一書房、1997)、伊丹十三・岸田秀・福島章『幼女連続殺人事件と妄想の時代 倒錯』(NESCO、1990)、鷲田小彌太『倫理学講義』(三一書房、1994)を購入。
1.18(火)
午前中から夕方まで会議、会議、会議。会議の合間に、ときに会議の最中に、来年度の講義要項や明日の試験問題の校正をする。夜、原稿を書こうと机に向かって、はじめてかなり疲れていることに気がつく。会議というのは、とりわけ今日のように舵を失った船が海を渡っているような行く先の見えない会議は、知らず知らずに疲労がたまるもののようである。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ』を観て、就寝。
1.19(水)
3限の社会学研究10の教場試験を終えて、「メルシー」に昼飯を食べに行く。法学部の学生とおぼしき2人組みと相席になる。チャーシュー麺を食べながら、2人の話を聞くともなく聞いていると、試験の話をしている。、○○先生の試験は楽勝だとか、△△先生の試験は手強いとかの当たり障りのない話をしているうちはよかったのだが、試験を受ける科目の全部の先生に嘆願のメールを出したら全員から返信がもらえてしめしめみたいな話をしている。星一徹なら、テーブルをひっくり返して、「馬鹿者!」と一喝するところだ。よっぽど、「私は文学部の教員だが、○○先生も△△先生もよく存じ上げている(嘘だけど)」と言ってやろうかと思いましたね。そういえば、さきほどの私の試験でも、答案用紙に「出席状況もこの試験の出来も悪いと思いますが、私は4年生で、この科目を落とすと・・・・」という類の泣き言を書いてきた者がいた(おまけに本人のメールアドレスまで書いてあった)。どうせダメモトで書いているのだろうと思うが、この手の学生には「世間はそんなに甘くない」ということをちゃんと教えてやるのが教師の役目だと私は考えている。再試験、頑張りなさい。
1.20(木)
午後、研究室で試験の採点。まず、およそ180枚の答案を学籍番号順に並べ替えるのが一仕事。試験を受けなかった学生が何人かいる。授業にちゃんと出ていない学生が試験を受けないのはわかるが、真面目に出席していた学生が試験を受けないとどうしたのだろうと気になる。とりあえず卒業のかかっている4年生の答案(数は多くない)の採点を終わらせる。内容はピン(A)からキリ(F)まで。大学の入口ではこんなバラツキはなかったはずだ。出口までの4年間に、これほどの差が生じたのかと思うと、感慨深いものがあった。
7限の基礎演習は最後の班の報告。テーマは「セックスレス」。これまでの報告の中で質問や意見が一番たくさん出た。有終の美を飾れてよかったのではなかろうか。再来週、学年末試験が終わったところで、最後のコンパをする予定。
生協に来年度の基礎演習の教科書を発注する。ギデンズ『社会学(第4版)』(而立書房)。年末に出たばかりの本である。これまでテキストに指定した本の中で一番分厚く(800頁超)、一番高い(3600円)。生協に来たついでに、『日本近代文学評論選 昭和篇』(岩波文庫)と、岩波の「シリーズ・哲学のエッセンス」の中から『マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?』と『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』を購入。
1.21(金)
3限の大学院の演習はF君が内田隆三『国土論』(2002)の中から「郊外の光景」の章について報告。多摩ニュータウンを取り上げて、そこに見られる過剰な都市化の様相をフーコーの「混在郷」(エテロトピ)という概念や、「身体」や、「性愛」や、「高齢化」をキーワードに分析した論文。示唆に富んだ華麗な文章だが、本人はこういう文章を書くことに少々飽きてしまっているのではないかという気もする。気のせいだろうか。ほとんどの演習は今週で終わりのようだが、私のところは来週が最終回。担当はN君で、重松清『スポーツを「読む」』(集英社新書、2004)を取り上げるとのことなので、帰りに有隣堂で購入。
床屋に寄って散髪をしてから帰宅。K君(娘の彼氏)が遊びに来ていて、夕食の鍋を一緒に囲む。やはり私の前だと緊張している様子だが、それを娘にからかわれたりしているうちに、しだいに緊張もほぐれてきたのか、二人でクスクス笑いをしているので、「私の前でいちゃつくんじゃない!」と(もちろん冗談めかした口調で)釘を刺すと、K君、急に背筋を伸ばして、「ハイ!」と答えた(娘は笑っている)。
1.22(土)
年末に刊行された富永健一『戦後日本の社会学 一つの同時代史』(東大出版)は面白い本だ。清水幾太郎の思索と行動の軌跡について調べている私にとって日本社会学史は必須の学問領域だが、そういう個人的事情を離れて読んでも、実に面白い本だ。
『戦後日本の社会学』と題する本書は、戦後日本の社会学の展開の中から、私が一定のストーリーを「構築」し、それに適合する重要な社会学書を選び出して、それらの一つ一つと対話を重ねることにより、社会学というディシプリンが形成してきた戦後史を、興味ある一つの物語として描き出すことを目的とする。
この物語のテーマの一つはマルクス主義社会学との対決である。戦前から戦後のある時期まで、社会科学とマルクス主義は不可分の関係にあった。しかし、富永はマルクス主義に親しみを感じてではなく、むしろそれを嫌って社会学の門をくぐったのである。
2年生の1951年9月に、(東京大学の)教養課程から専門学部学科への進学振り分けがあった。ここで、私は、自分とマルクス主義との関係をはっきりさせておかねばならないと考えた。(中略)マルクス主義をとるなら経済学、とらないなら社会学と私は考え、自分はマルクス主義には入らないと心に決めた上で、社会学を選択した。(中略)私がマルクス主義から離れる決意をした大きな理由は、父から5年間の「ラーゲル」抑留生活について聞き、ソ連について暗いイメージをもったことにあった。
しかし、実際に入ってみると、当時の東大社会学研究室はマルクス主義者の世界だった。
私は社会学専攻を選んだのは、上述したように社会学がマルクス主義を含まないという結論を出した上でのものだったから、その後の日本社会学に「マルクス主義社会学」が形成された時、私は自分の著書や論文でそれらには言及しないという態度をとり続けた。マルクスは社会学者ではなく、マルクス主義は社会学ではない、と私は考えてきたからである。このことの「ダブル・コンティンジェンシー」効果として、日本のマルクス主義社会学者たちとそれに親近感をもつ人びともまた、私の書いたものには言及しないという態度をとるようになった。(中略)とくに1965年という年は、「マルクス主義社会学」を全面的に標榜した最初の講座である『講座現代社会学』と、マルクス主義と対決しながらリベラル社会学の立場から近代化理論を構築しようとした私の『社会変動の理論』とが、同時に出た年であった。『社会変動の理論』はさいわいよく売れた本であったが、マルクス主義者の早瀬利雄はこの本の書評を引き受けておきながらこれを握りつぶしたので、彼の死までの二十数年間『社会学評論』誌にこの本の書評が出なかった。
凄い。名指しである。私もこのフィールドノードで文学部の同僚の先生の実名をあげることがあるが、それはその先生の人柄や業績に親しみや尊敬の念を覚えているときに限る。『戦後日本の社会学 一つの同時代史』の面白さの少なくとも一部は、こうしたゴシップ的記述の面白さである。
私は自分のゼミでは深く心の触れ合った研究仲間を形成することができ、研究プロジェクトの形成においても優秀なグループに恵まれて、幸福な研究生活を過ごして来たと思っている。しかし東大の学科および日本社会学会の中でマルクス主義系の人びとは集団的に行動し、それが裏面で人事などを動かしているという問題に、私はたえず直面せざるを得なかった。私は同僚諸氏が学科や学会を動かすやり方に同調することができず、そうかといってそれに断固として対決する勇気ももちあわせなかったので、しだいに暗い日々を送るようになった。齢を重ねるにつれて、私はこのような「断絶」を放置しておいてはならないと反省するようになった。本書で私が、リベラル理論とマルクス理論の両方を含めて、戦後60年のあいだに書かれた数多くの本と「対話」することを心がけたのは、そのような断絶をできるだけつくりたくないという反省から来ている。
ここにおいて「対話」は「対決」の同義語である。「黙殺(断絶)」から「対話(対決)」へ。たとえば細谷昴の『マルクス社会理論の研究』(1979)について、富永は次のようにコメントしている。
マルクスは、自分では社会学という語を使ったことがなく、そういう題名の本を書いたこともなく、彼の同世代者であるコントとスペンサーが彼の時代に社会学という学問をつくったが、それにはまったく関心を示さなかった。だからマルクスの死後百年近くたってから、それまでマルクスの読者にとって馴染みのなかった社会学者という人種があらわれて、マルクスを研究して本を書くならば、「なぜ自分がマルクスについて本を書くのか」「なぜマルクスを社会学者だとするのか」「何をマルクスの社会学と呼ぶのか」などについて語ることは不可欠である。しかるに細谷は、それらの義務をすべて放棄してしまった。細谷のマルクス研究は、彼が社会学者たることを放棄したことを示すだけに終わった。
一般の方のために注釈をしておくと、細谷昴は日本社会学会の現会長である。つまり富永は日本の社会学者コミュニティの長に向かって「あなたは社会学者ではない」と啖呵を切っているのである。この迫力は尋常のものではない。私のようなマルクス主義社会学とも東大社会学研究室とも無縁な、日本社会学会の周辺的会員は、対岸の火事を見物しているような気楽な興奮を覚える。しかし、「対話」の相手にされた人びと(およびその弟子たち)は身に降りかかってきた火の粉をどうやって払うのであろうか。あいかわらずの「黙殺」を決め込むのであろうか。まさかそういうわけにもいくまい。『戦後日本の社会学 一つの同時代史』は一種の公開質問状であり、無回答は「おっしゃるとおりです」という意味に受け取られてしまうからである。さて、「対話」の第二幕を開けるのは誰であろうか。
1.23(日)
夜、パソコンに向かって月末締切の原稿を書いていると、調査実習の学生から報告書に載せる原稿がメールで送られてくる。その場で目を通して改善点を指示するメールを返し、再び自分の原稿に向かう。するとまた別の学生から原稿が送られてくる。その場で目を通して・・・・、ということを5時間ほどの間に5回繰り返していたら、頭がショートしそうになった。「書く」ことと「読む」ことの両立、「研究」と「教育」の両立がいかに難しいかを実感した。明日は、学生からのメールの比較的少ない昼間の時間帯に原稿書きに専念することにしよう。
1.24(月)
中央教育審議会が現在の助手を、研究者として教授を目指す「助教」と教育研究の補助を職務とする「助手」に分離することを決めた。私もかつて助手をしていたが、専修の諸々の雑用をこなしながら、論文作成に励んでいた。どちらか一方に偏するということはなかったように思うが、人によって、あるいは専修によっては、バランスの問題で悩んだり、苦言を呈されたりしていた助手もいたようだ。今回の制度改革(案)は、従来の助手がもっていた2つの機能を分離しようとするものだが、そうすんなり分離できるものだろうかという問題は措くとして、「助教」という名称がいかにも苦し紛れという感を否めない。どうしたって従来の助教授(こちらも「准教授」に改称することがすでに決まっている)の略称のように見えてしまう。「ジョキョウ」と発音した感じも座りが悪い。「大久保助手」はピタリと来るが、「大久保助教」は落ち着かない。「女狂」を連想してしまう人もいるだろう(いないか?)。助教授を「准教授」としたように、研究者としての助手を「准講師」と呼ぶ手もあったのではないか。もっとも「准」という字(「準」の俗字)も、「批准」とかで使われるほかは、ふだん馴染みのない字で、あまりいいとは思いませんが。まあ、名称というのは難しいですよ。新学部の名称も簡単には決まりそうにないしね。
1.25(火)
午後2時から始まった会議は、延々6時間続き、午後8時に終わった。新学部のカリキュラムを話し合う会議だったが、ドタバタしているうちに6時間が経ってしまったという感じで、あまり充実感はない。一応形らしいものは出来上がったが、正真正銘の「たたき台」である。小さな女の子がたたいても簡単に壊れそうな代物である。でも、何もないよりはまし。さあ、議論よ興れ。
1. 26(水)
午前、原稿書き。午後、読書会と調査実習のケース報告会。夜、実習の学生から送られてくる原稿のチェック。時間が足りない。しかし睡眠時間は削れない。削って頑張ってもそれは一時しのぎで、翌日の仕事の能率が落ちるので、トータルではマイナスなのだ。
1.27(木)
午前中から昼過ぎに自宅を出るまでずっとパソコンの前に座って、実習の学生から次から次に送られてくる原稿のチェック。午後、調査実習のケース報告会。夜、修士論文を読む。唯一の息抜きはTVドラマ『優しい時間』を観ること。
1.29(土)
昨日(28日)、妻の父親が亡くなった。その4日前に自宅で倒れ、すぐに救急車で昭和医大横浜市北部病院に運ばれたが、脳梗塞で左脳の大部分が致命的なダメージを受けており、「ここ一週間」が山であると医者から宣告されていた。それが一昨日の夕方の段階で「ここ24時間」に変わったので、入院初日から病院に詰めている妻や義母・義姉と合流すべく、私も予定をすべてキャンセルして、病院に向かった。
私が病院に着いたのが午前11時。義父が亡くなったのはそれから8時間後だった。その間、義父の意識が戻ることは一度もなかった。ただ、ベッドの側に置かれたディスプレイに表示される心拍、血圧、呼吸の数値だけが、義父の生命が緩慢ではあるが不可逆的な過程にあることをわれわれに告げていた。われわれは予想される事態の到来を待ちながら、病室内の折り畳み式の椅子に座って話をしたり、最上階の見晴らしのいいレストランのテーブルで話をしたりしながら、経過していく時間をやり過ごしていた。夕方、予告されていた「24時間」が経過した。ディスプレイの数値は午前中より悪くなってはいたものの、義父はそんなに苦しげではなく、予想される事態は明日に持ち越されるかもしれないとわれわれは思った。しかし、それから4時間後、われわれが今夜はいったん引き上げようかと相談していたときに、すべての数値が急激な変化を始めた。当初、落ち着いて対処をしていた看護師がしだいに落ち着きを失い、様子を見に来た別の看護師と相談して、主治医が呼ばれた。医師は義父の眼をペンライトで照らしてから、すでに瞳孔が開いていることを告げた。医師と看護師がベッドの脇に為す術なくたたずむ姿勢に入ったのを見て、それまで椅子に座っていた妻・義母・義姉も立ち上がって、同じ姿勢に入った。ただ、私ひとりだけが、立ち上がらずにいた。不謹慎だろうかと思いつつ、まだ立ち上がるのは早いように思えて、心拍を示す数字が20を切ったら立ち上がろうとじっとディスプレイをにらんでいた。呼吸はすでに停止していたが、心臓は動き続けていた。生と死の境界が不確かな時間帯である。やがて立ち上がるべきときがきた。19、18、17・・・・下降のスピードは緩慢で、医師は息苦しさを紛らわすためだけに、途中で何度か聴診器を胸に当てたり、ペンライトで眼を照らしたりした。10、9、8・・・・心拍を示す数字が10を切ったとき、私は義父に初めて会ったときのことを思い返した。妻(当時はまだ妻ではなかったが)を家まで送っていって、玄関先でご挨拶をした。口数の少ない方だったが、笑顔で迎えてくれた。将来の不確かな大学院生の私が、結婚を前提とした交際をしていますと告げたときも、笑顔で頷いてくれた。心中、さぞかしご心配であったに違いない。「どうかご心配なく。貴方の娘や孫たちは私が・・・・」と心の中で語りかけたときに、心拍を示す数字が0になり、ピーという機械音が鳴ったので、あわてて「・・・・必ず守りますから」と言葉を足した。医師が臨終を告げ、看護師が時刻を医師に伝えた。義父は大正11年8月15日の生まれで、享年82歳だった。
1.30(日)
昨日が友引だったため、今日(先負)は斎場が混んでいるというので、通夜は明日、告別式は明後日という段取りになった。今日はエアポケットのような一日となり、自宅でずっと修士論文(3本)を読んでいた。
1.31(月)
午前10時から修士論文の面接試験。私は3人担当して、一人平均1時間で、午後1時ごろまでかかった。「たかはし」で昼食をとり、午後の会議は失礼して、帰宅。それから義父の通夜に出かける。場所は横浜市営地下鉄のセンター北駅そばの長徳寺。私一人ならば1時間ほどの道程だが、今日は両親と子どもたち同伴である。一番足の遅い父のペースに合わるほかはなく、1時間半かかった。JR横浜駅から横浜市営地下鉄への乗り換えは足の弱った老人にはしんどいものがある。横浜市営地下鉄といえば「全席優先席」宣言で有名である。今日はそれほど混んでいなかったので、父はすんなり座ることができた。私としては杖を突きながら車内に入ってきた父が誰かに席を譲ってもらところを参与観察したかったのだが。通夜には、義父母の家のご近所の方が多数来て下さり(そのために近場の斎場を選んだのであるが)、ありがたかった。読経の始まる前に読経の時間は40分ですと葬儀社の人から説明があった。焼香の時間が1時間設定されているのになぜ40分なのだろうと思ったが、長い読経に閉口することが多いので、まあいいかと思ったが、途中で、読経がえらく早口になったのに驚いた。どうやら普通にやると50分かかるところを早口の読経で40分に短縮するつもりらしいと気づいた。私はてっきりお経にはロングバージョンとショートバージョンがあるのだと思っていたのだが、そうではなくて、読む速度で調節するんですね。しかし、早口の読経というのはどうも聞いていて気忙しい気分になる。落語の「寿限無」みたいだ。読経は予定通り40分で終わった。お坊さんが少しばかり話をしてから退席すると、静寂の中にわれわれ親戚一同が残された(一般の方はみんなお清めの席の方へ移っている)。まだ弔問の方が来るかもしれないので、しばらく席についたままでいたのだが、読経がないと何だか間が抜けている。そこに最後の一人となった方がやってきた。われわれ親戚一同の視線を一身に浴びながら焼香をされていた。若い女性であったが、さぞかし緊張したことだろう。通夜に遅れていくとしばしばこういう羽目になる。