フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月30日(日) 雨

2007-09-30 11:59:23 | Weblog
  朝から雨の降る日曜日である。♪雨がしとしと日曜日、僕は一人で君の帰りを待っている~というザ・タイガースの1967年のヒット曲「モナリザの微笑み」の冒頭の一節を口ずさむ。これはもうパブロフの犬のようなもので、雨の日曜日→♪雨がしとしと日曜日~という条件反射の連鎖が私の内部に強固に存在しているのである。特定の状況で特定の歌詞が口をついて出るというパターンは、ザ・タイガースの曲ではほかにもう一曲あって、それは「落葉の物語」(1967年)という曲である。♪長い坂道の落葉の丘に、やさしいあの人は住んでいるのです~、というフレーズを坂道の落葉を踏みしめて歩くときに口ずさんでいる。そんなシテュエーションはそう頻繁にはないだろうと思われるかもしれないが、それがさにあらずで、戸山キャンパスのスロープにはメタセコイヤの枯葉が降り注ぐのである。晩秋の頃、スロープを歩いている私が何か独り言をいっているように見えたら、これだと思ってまず間違いありません。ウォーキング・ディクショナリーならぬウォーキング・ジュークボックスである。ただし一曲を通しで歌うわけではなく、冒頭の一節を繰り返すだけなので、壊れかけのジュークボックスである。近寄らないほうがよいと思う。

9月29日(土) 雨のち曇り

2007-09-30 11:48:36 | Weblog
  昨日の真夏日から一転して肌寒さを感じる朝の雨である。季節の移り変わりは、行きつ戻りつしながらも、こんなふうに一挙に進行するときがある。

  うそ寒の身をおしつける机かな  渡辺水巴

  午後になって雨が小止みになったので、東京都写真美術館で開催中の「昭和:写真の1945-1989」第三部「高度成長期」を見物に行く。東京都写真美術館は恵比寿ガーデンプレイスの一角にある。開館は1995年だが、開館前に仮施設で企画展をやっていたときに放送大学埼玉学習センターの遠足(美術館めぐり)で来たのが最初で、早稲田大学に移った翌年、1年生の基礎演習のクラスを引率して見物に来たのが2回目、以後、たまに思い出したように来ている。
  展示を見る前に、一階のカフェ「シャンブル・クレール」(明るい部屋)で遅い昼食をとる。このカフェに立ち寄ることは写真美術館に来たときの楽しみの1つで、とくに生ハムのオープンサンドがすこぶる美味である。飲み物はミルクティー(アッサム)を注文したが、茶葉の分量もお湯の温度も申し分なく、もちろんミルクは常温(むしろ人肌)で、心身ともに温まった。この間、丸善丸の内店内のカフェでミルクティーを注文したときは、ポットの中にティーバッグが、それもたった一つ入っていたのでびっくりした。これでは伝統ある丸善の名前が泣くと思った。百歩譲ってティーバッグは認めるとしても、せめて二つ入れておいてほしいと思った。ミルクティーというのは濃い目のお茶にミルクを入れてこそ美味しいのであって、茶葉が少ないとミルクでさらに薄まった紅茶は香りもなにもあったものではない。「シャンブル・クレール」のようにちゃんとしたオープンサンドを出すカフェはちゃんとした紅茶も出すのである。
  展覧会は複数開催中で、チケット売り場で「他の展覧会はいかがいたしますか」と訊かれたが、「いいです」と答えた。これは何もチケット代をけちったのではなく、私は二本立ての映画館(たとえば飯田橋ギンレイホール)で映画を観るときも、一度に観るのは一本だけである。もう一本の作品も観たければ、また別の日にする。印象が混じるのがいやなのである。そういうのは午前にA子とデートをして、午後にB子とデートをするようなもので、不純極まりない。今日はA子とデートをして、B子とのデートは別の日にする、これが誠意あるやり方である(違うかも・・・)。
  「昭和:写真の1945-1989」はワンフロアーだけの展示なので、作品の数はそれほど多くないが、観るものを立ち止まらせる力のある作品が多い。たとえば道で縄跳びに興じる少女たちの写真。診療所で性病の検査の順番を待つ娼婦たちの写真。60年安保闘争の集会が始まるのを地面に座って待っている若者たちの写真。「彼ら」の人生のある瞬間を鮮やかに切り取ったこれらの写真は、時間の流れの中で鮮度を失うことなく保存され、いま、「彼ら」とは縁もゆかりもない私と対峙している。私は「彼ら」の表情や動作に見入る。そしてそれまでの「彼ら」の人生や、それからの「彼ら」の人生に思いをめぐらす。どうしたってそうなってしまう。普段、道を歩いているときや電車に乗っているときに、そうしたことはめったに起きない。なぜ写真の中の「彼ら」に対してはそういうことが起きるのだろう。「彼ら」を凝視するから、凝視可能だからではないだろうか。普段の生活では他人を凝視することはタブーである。社会学の用語で言えば、他者に対して儀礼的無関心を払うことが、都市生活者のマナーである。いくら美人が目の前にいても、怪しげな人物がそばにいても、「彼ら」を凝視することははばかられる。いわんや別にどうってことない普通の人々を私は凝視したりはしない。儀礼的無関心というよりも、その堕落形態としてのただの無関心である。しかるに写真の中の「彼ら」に対しては、他人への儀礼的無関心を積極的に解除してしまった写真家というアナーキストの助力を得て、私は強いまなざしを向けることができる。私が「彼ら」を凝視しても「彼ら」は私を凝視したりはしない。「彼ら」を正面から撮った写真でさえも「彼ら」のまなざしは私にではなく写真家に向けられているのであって、私は「彼ら」のまなざしに圧迫感を覚えることはない(・・・はずなのだが、実際は覚えることもある)。写真家にしてみても、もし手にカメラをもっていなければ、「彼ら」をこれほど凝視することはできなかったはずだ。カメラの魔力といっていいだろう。
  東京都写真美術館は、多くの美術館同様、月曜が休館日だが、10月1日の月曜日は都民の日ということで開館し、しかも「無料」である。私の授業(とくに社会学演習ⅠBとライスフトーリーの社会学)を履修している学生諸君は、この展示会は一種の参考資料なので、行ってみることを勧める。
  帰りがけに美術館のショップで、絵葉書(正確には写真葉書)を数枚と以下のカタログ(過去の展覧会のもの)を購入。こんなに立派なカタログがどうしてこんなに安価なのであろう。市販品であったら絶対に丸の数が1つ違うはずだ。

  『アンドレ・ケルテス その生涯の鏡像』(1995)
  『光の言葉「ジョージ・イーストマン・ハウス・コレクション」展』(1995-96)

           

  蒲田に戻って、栄松堂で以下の本を購入。

  ジェフリー・ペイザント『グレン・グールド、音楽、精神』(音楽之友社)
  ジョン・ヴァンビル『海に帰る日』(新潮社クレストブックス)

  帰宅してメールをチェックすると、二文の卒業生(来年度から文学研究科の修士になる)K氏(私より10歳ほど年長の方で、面識はない)から、昨日のフィールドノートを読まれた感想が送られてきていた。万年筆にすごくお詳しい方で、ペリカンのスーベレーンを格安で入手する方法や無料でペン先の調整をしてもらう方法についてご教示いただいた(でもここでは公開しません)。詳しい方というものはいるものである。きっと今日のフィールドノートも写真論が専門の方や紅茶の専門家(?)の目に触れることであろう。ああ、恥ずかしい。でもそんなの・・・(中略)・・・オッパッピー!

9月28日(金) 晴れ

2007-09-29 02:49:28 | Weblog
  一日の中の気温の上下が大きいのがこの時期の特徴であるが、今日はもしかして今年最後の真夏日だったのかもしれない。夏の名残を惜しむように、午後、遅めの昼食をとりがてら散歩に出る。出がけにケータイが振動してメールの着信を知らせる。見ると、二文の3年生のY君からである。「社会と文化」(金曜6限)を履修しますのでよろしくお願いしますという挨拶メールだった。彼とは1年の基礎演習以来のつきあいだが、体は大きいが律儀でシャイな男である。「社交の練習を積むように」とメールを返しておいた。
  「Zoot」で味玉ラーメンを食べる。二回目だが、癖になりそうなスープである。ルノアールで読書。店内には年配の男女の客が多いが、男性は一人客がほとんどで、備え付けの新聞などを読んでいるのに対して、女性はグループ客がほとんで、にぎやかにおしゃべりをしている。読書と会話は人が喫茶店で行う代表的行為で、通常は両立するのだが、多人数の女性によるおしゃべりはしばしば読書の妨げとなる。そのとき私が読んでいた本は出口保夫『英国流、質素で豊かな暮らし方』(柏書房)だったのだが、そこにはこんなことが書かれていた。

  「人は年老いるとともに、孤独は避けられない運命にあるにちがいない。集団やコミュニティとの繋がりは大切ではあるが、年をとるにしたがって、その繋がりはしだいに薄れるし、しばしば孤独におちいるのは、自然なことであろう。そうであれば、その孤独の状態を嘆いたり、不安に思うのは、むしろ道理に反することになる。・・・(中略)・・・核家族が主流になった現代では、毎日をおおぜいの家族にかこまれて、安楽に暮らせる老人は、少数派にちがいない。われわれは、むしろ孤独の意味を積極的に考えたほうがよいだろう。」(113頁)

  定年後の男性は地域社会とのつながりが希薄なので、もっと女性に学んで地域の人間関係を構築するように努めなくてはなりません・・・という意見をいろいろなメディアで目にし耳にするが、私は全然そうは思わない。私は10年後も20年後も喫茶店で本を読む人でありたい。
  賑やかなルノアールを出て、電車に乗り、散歩の足を大井町まで延ばす。先日はたどりつけなかった万年筆専門店「フルハルター」に行ってみる。今度はすぐに見つかった。間口の狭い店である。しかも店内も狭い。店の奥の工房に店主の方はいるのであろう、店先には誰もいない。

           
                   フルハルターの外観

           
                   フルハルターの店内

  「敷居が高い」という言い方があるが、ここは間口が狭いために、そして店内が狭いために、中へ入りにくい。狭い店内の小さなテーブルで店主の方と差し向かいになった情景を想像すると、何か買わずには(万年筆に決まっているが)出てはこれないであろう。千円、二千円のものならばそれでもよい。普段、古本屋に入ったらたいてい何か買って出てくるのと同じである。しかし、ここは万年筆専門店である。千円、二千円で済む話ではない。一万円、二万円、いやそれでは済まないかもしれない。名人と呼ばれるペン先職人と直に話をして気分が高揚しないはずはない。なにしろもう53年も付き合っているのだ、私は私という人間についてはよく知っている。店主が「究極の万年筆」と呼ぶペリカンのスーベレーン1000(本体価格5万八千円)か、「総合評価ナンバーワン」と呼ぶ同じくペリカンのスーペレーン800(本体価格5万円)を私は購入しそうな気がする。しかるに今日の私の財布には3万円ほどしか入っていない。幸いなことに、というべきだろう。私は店の中に入ることを断念し、大井町の商店街を散歩することにした。


           
               日系二世のような名前のバス停

           
                  危なそうな平和小路

           
                ハウルの動く城のような家

              
                  路地裏の血痕(嘘です)

           
                  決意して食べるべし

           
                    「新」なのにレトロ

  海老原書店で以下の古本を購入。

  初田亨『繁華街の近代』(東京大学出版会)
  多田浩二『眼の隠喩』(青土社)
  チャールズ・サイフェ『異端の数ゼロ』(早川書房)

9月27日(木) 晴れ

2007-09-28 02:39:57 | Weblog
  朝、8時6分蒲田駅発の電車に乗って大学へ。この時間帯の電車は始発であっても座るのが難しいという冷酷な事実を知る。でも、本は読める。午前9時から大学院入試(修士)の二次試験(面接)。午前中に終わり、「ほづみ」で昼食(塩ラーメンと半チャーハン)。
  38号館AV教室の鍵を開けてもらい、来週の授業の予行をする。予行といってもしゃべりの練習ではない。教卓備え付けのPC、OHP、VHS、DVD、CD、MDの操作の仕方の確認(実際にパワーポイントのスライドショーをしてみたり、映像や音楽を流したりしてみた)。照明とスイッチの関係の確認(映像を流すときはできるだけ暗い方がよいが、パワーポイントやOHPの場合はノートを取りながら見られるよう適度に明るい方がよい)。卓上備え付けマイク、ハンドマイク、ピンマイクの最適な音量の確認。パワーポイントやホワイトボードの文字が一番後ろの席からどのくらいの大きさに見えるかの確認。そういったことである。事前にこれらをやっておかないと、当日、授業の流れがギクシャクする恐れがある(それでもギクシャクすることはあるが、それが最小限ですむ)。あれこれやっていたら1時間半(つまり通常の授業1回分)ほどかかったが、この教室への苦手意識がいくらか薄くなった。

       

  研究室に卒業生のT君が面会に来る。オックスフォード大学の大学院(博士課程)への進学の相談である。T君は同大学院の修士課程を出て、一旦、新聞社に就職したのだが、研究者をめざしての人生の方向転換である。あれこれ話をし、推薦書の件、引き受ける。
  夕方から大学院入試の判定教授会。単一の議題なので30分ほどで終了。その後、研究室で面談をもう一件すませ、シャノアールでアイスコーヒーを飲んでから、家路につく。今日、面接・面談した人たちは皆、人生の岐路に立つ人たちだった。山田太一脚本のTVドラマの名作「それぞれの秋」(1973年)を思い出す。

           

9月26日(水) 晴れ

2007-09-27 01:47:30 | Weblog
  楽天チケットエージェントから、牧阿佐美バレエ団公演「くるみ割り人形(全幕)」(12月14~16日、ゆうぽうとホール)の案内のメールが届く。3日間の公演だが、主要キャストである金平糖の精と雪の精のダンサーは日替わりで、若手ツートップの伊藤友季子が金平糖の精、青山季可が雪の精を踊る16日の舞台をぜひ観たいと思う。チケットの販売開始は10月4日の午前10時である。しかるにその日は2限(10時40分から)に授業が入っている。10時から10時40分の間にうまくチケットがとれればよいが・・・、と考えているときに、牧阿佐美バレエ団には「クラブ・デ・シャルドン」という名前のオフィシャル・クラブがあって、その会員になると一般販売に先行してチケットの購入ができて、しかも割引もあることを知った。入会金1000円、年会費2500円という会費は高いものではなかろう。さっそく入会の手続きをすることした。バレエ団の事務局にメールで入会申請をし、郵便局で3500円を振り込んだ。折り返し事務局からメールがあり、入金が確認されしだい(3日ほどかかる)メールで会員番号を通知しますので、来週の頭には会員として一般販売に先立ってのチケット購入が可能ですと書かれていた。よかった、よかった。
  ところで現在私は一体いくつの団体の「会員」になっているだろう。自分の意志でメンバーになったり、メンバーを辞めたりできる集団との関係は、近代社会における社会と個人の関係の特徴である。もちろん家族に代表される共同体との関係は気づいたときにはすでにそのメンバーになっているといった種類の選択不可能なものであり、そうした関係性は前近代社会にも存在したし、近代社会にも存在するし、ポスト近代社会にも存在するであろう。しかし、歴史の趨勢としては、そうした共同体的な関係が個人の生活の中で占める割合は漸次減少してきた。共同体の代表である家族においても、家族のあり方のオプションはしだいに増加してきており、「家族の個人化」や「制度としての家族からライフスタイルとしての家族へ」といった趨勢を見て取ることができる。ただし選択可能性の増大は必ずしもそのまま選択権の行使の増大ではない。新しい集団に加入したり、既存の集団から離脱することは大小のストレスを伴うリスキーな行為である。それは上手くいくこともあれば、いかないこともある。だから安定を何よりも重視する人たちは選択可能な世界の中にあって選択権を行使しないで生きることになる。それは選択不可能な世界の中で生きることと表面的には同じであるが、決定的に違うのは、後から「なぜあのとき選択権を行使しなかったのだろう」という後悔、忸怩たる思いが生じるということである。もちろん、選択権を行使すればしたで「なぜあのとき選択権を行使してしまったのだろう」という後悔が発生することになろう。しかし、この二種類の後悔は等価ではない。何かをしたことの後悔と何かをしなかったことの後悔、そうした二種類の後悔から成り立っているのが人生というものであるとすれば、前者の後悔の方が価値が高いのではなかろうか。なぜなら・・・理由になっていないかもしれないが、人生は一度しかないからである。

           
     ついに夏休みも終わる。デスクトップの画面を秋仕様に切替える。