8時、起床。
ハムトーストと紅茶の朝食。
今日は祝日だが、大学は授業をやっている。暦通りにやっていると半期15回の授業が成立しない科目が生じるためだが(とくに月曜日の科目がそうなりやすい)、教員も学生も釈然としない気分だろう。私は水曜日は授業がそもそもないのだが、今日は演習のグループ発表の事前相談の予約が入っているので、午後から大学に出る。
昼食は「テラス・ドルチェ」で。
ハンバーグライスのセット(ブレンドコーヒー付)を注文。
街の風景も普段の水曜日とは違う。東京駅丸の内北口の横断歩道に親子連れの姿を観るのは祝日ならではだ。
キャンパスには普段の水曜日の学生たちの姿がある。みんなまじめである。
4限の時間を使って、演習「個人化の社会学」の2章を担当するグループの事前相談。どういう構想で発表をするつもりなのかを聞く。それなりのテーマであるが、面白くない。彼らが面白がっている気配がない。それではダメである。各自のテキストを見せてもらった。案の定、書き込みをしながら、つまりテキストと格闘しながら読んだ形跡がない。たぶんサラリと読んだだけなのだろう。発表を聞く側の学生ならばそれでもよい。しかし発表をする側の学生は、聴く側の学生よりも何倍も深くテキストを読まねなくてはならない。深く理解しようとしなくてはダメだ。深く理解しようとして読めば、当然、いろいろなことを考えながら読むことになる。その考えたことをテキストに書き込みながら(ノートをとりながらでもよいがテキストに書き込む方が手っ取り早い)読むことである。テキストを身銭を切って購入する意味はそこにある。
発表は、「第2章にはこういうことが書いてありました。以上」というものではいけない。他の学生もそれは知っている。それはスタート地点にすぎない。発表の本題はそこから始まるのである。「私たちはテキストをどう読んだか」が聞きたいのである。聞く側は「へえ、そんな読み方をしたのか」と感嘆したいのである。感嘆させてほしいのである。そのためには発表する側は聞く側の何倍も深くテキストを読まなくてはならい。
グループは4人ないし5人で構成される。当然、読み方に違いが出てくるだろう。着目点(面白がったり、疑問をもったり)が違ってくるだろう。それをぶつけ合って、調整しながら、発表にもっていく必要がある。しかし、話を聞くかぎり、そういう形跡が感じられない。ぶつけ合うほどの論点がないのか(読みが浅いから)、論点の違いはあるのだがぶつかり合いを避けているかのどちらかである。結果、あたりさわりのないようなテーマが選ばれる。だから面白くないのだ。「君たちはこのテーマが本当に面白いのか。私には全然そのようには思えない」と厳しい指摘をしておいて、紅茶を煎れ、コンビニで買っておいたドーナツを提供する。さて、一服しようかと。このあたりの呼吸がベテランの教員ですな(笑)。彼らが相談を始めたので、研究室の鍵を預けて、私は外に出る。
「カフェ・ゴトー」でフリーライターの秋山千佳さんと会う。昨日、「SKIPA」で会ったばかりだが、そのとき拙著『日常生活の探究』をさしあげる約束をしたので、善は急げ、彼女は近所にお住いので、「カフェ・ゴト―」で待ち合わせをして、本をお渡しする。
6時過ぎに大学を出て、帰宅する前に、病院に母を見舞う。面会時間終了の8時までいる。今日は朝食、昼食(好物のハンバーガー)ともに食べたが、夕食は時間が早くて(6時)、食欲がわかないので食べなかったそうだ。
帰宅して夕食。鶏肉とグリーンアスパラと椎茸の炒め物、アボガドとトマトとベビーリーフのサラダ、冷奴、茄子のみそ汁、ご飯。