フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2003年3月(後半)

2003-03-31 23:59:59 | Weblog

3.15(土)

2日前にインターネットサイト「日本の古本屋」で注文した『平野謙全集』全13巻(新潮社、1974-75)が届く。山口県徳山市のマツノ書店からである。この全集は14件の古本屋で扱っていて、値段が一番高いのは渥美書房(早稲田の古本屋だ)の110,000円、一番安いのは小宮山書店(神田の有名な古本屋だ)とマツノ書店の35.000円。古本の値段にはかくのごとく差がある。だからある程度値の張るものを買うときは時間をかけて何軒もの古本屋を回る必要があったが、インターネットでそれが瞬時にわかるのは本当にありがたい。小宮山書店のものは「イタミ有り」、マツノ書店のものには「函少汚」と注記があった。私は「美本」であることにこだわらないが、古本のメッカである神保町の小宮山書店が最低の値段をつけたからにはそれなりの「イタミ」なのだろうと考え、マツノ書店のものを注文した。今日届いた『平野謙全集』の「函少汚」は四半世紀という歳月を考えればあたりまえという程度のもので、全然気にならない。『堺利彦全集』を五山書房に注文したときは代金を事前に銀行口座に振り込むシステムだったが、マツノ書店は郵便振込用紙と一緒にすぐに品物を送ってきた。こちらのやり方の方が客としては気分がいい。(ただし、受注のメールには代金の振込みは「商品到着後1週間以内」とあったが、本と一緒に入っていた挨拶状には「2週間以内」とあった。どちらが正しいのだろう? まあ、どっちにしろ、月曜に振込みますけどね)。

平野謙は清水幾太郎と同じ1907年の生まれで、清水より2年遅れて東大文学部社会学科に入学している。しかし、中退して美学科に再入学し、以後、文芸評論家としての道を歩いた。全集の最終巻に平野は後記を書いている。

「私一個とすれば、今年の春、四十余日の入院生活を送ったとはいえ、曲がりなりにこの後記を書きとおし得たことを、ありがたいことと思っている。私などの年齢になれば、いつ癌になっても高血圧にたおれても不思議ではない。それを、ともかく最終配本にまで無事たどりつくことができたのは、僥倖みたいなものであって、そのことをふくめて私は心から感謝したいのである。(中略)かねがね私は自分の運勢を『はじめよく、おわりわるし』と思ってきたが、この最終回配本の後記を校正している現在、第一回配本の『さまざまな青春』に対して、思いがけなく第二十八回野間文藝賞が授賞され、すくなくともこの全集に関するかぎり、私の運勢はあてはまらないようだ。やはり感謝の気持ちとともに、そのことをここに付記しておきたい。」

存命中に自分の全集が刊行され、それが完結するという気分はどのようなものなのだろう。当時、平野は68歳。これからの人生は「余生」だと彼は思ったはずだ。しかし、彼の「余生」は短かった。最終巻の刊行から2年4ヶ月後、平野はかねてからの食道癌にクモ膜下出血を併発して亡くなった(ちなみに、同じく1907年生まれの高見順と亀井勝一郎もやはり食道癌で亡くなっている)。

 

3.17(月)

朝、9時に妻と一緒に家を出る。妻は10時に銀座の松屋の前で友達と待ち合わせで、私は有楽町の日劇で上映している『戦場のピアニスト』の10時5分からの回を観るためである。とくに一緒に出る必要はないのだが、妻が有楽町から松屋までの道がわからないというので、案内するためである。松屋は銀座4丁目の交差点のところにある。「銀座4丁目の交差点の場所がわからない東京人がいるとはね」と電車の中で軽口を言っていたら、実際に行ってみると、銀座4丁目の交差点のところにあるのは松屋ではなく三越で、松屋は隣のブロックだった。これでまた権威失墜だ(以前、妻が今日と同じ友人と三越の前で会うというので、日本橋三越までの行き方を教えたところ、二人が会う約束をしていたのは銀座三越の方だったようで、後で文句を言われたことがあった)。

開演20分前に映画館に着くと、すでに50人くらいの列が出来ている。中年の女性と初老の男性が目立つ。平日の午前中から映画を観ようなんて、堅気の人間、すなわち額に汗して働いている人間のすることではないという思いが一瞬胸をよぎるが、まあ、いいや、そういう人間じゃないし、と列の最後に並ぶ。場内に入ると、ずいぶんと大きなスクリーンで、私はふつうの映画館なら前から3列目あたりの席に座って、座席に身を沈め、視野いっぱいをスクリーンにして観るのが好きなのだが、ここでは10列目あたりまで下がらないとスクリーンの左右両端が視野から外れてしまう。

『戦場のピアニスト』は評判どおりのいい映画だと思う。『シンドラーのリスト』や『ライフ・イズ・ビューティフル』のような強制収容所の場面は出てこない。一家が強制収容所行きの列車に乗せられるとき、主人公だけがその場から逃れることができたからだ。映画の舞台はゲットーとその外のワルシャワの市街だ。主人公のピアニストは、『シンドラーのリスト』の主人公のように人の命を救うために奔走するわけでもなく、『ライフ・イズ・ビューティフル』の主人公のように息子のために懸命に芝居を演じ続けるわけでもない。ただひたすら周囲の惨劇を見つめ、逃げまどうだけだ。圧倒的な無力感。映画のポスターにもなっている廃墟と化したワルシャワの街は彼の心象風景そのものだ。それにしてもユダヤ人があまりにもあっけなく殺される様はこれが事実だとはとても信じられないほどだ(たとえばある女性などは、収容所行きの列車に乗せられる前に、「行き先はどこですか」と尋ねたとたんにピストルで額を撃たれてしまうのだ)。こうした悲惨な物語の中、随所で流れるピアノの演奏は心にしみる。映画のハイライトシーンである、ドイツ軍将校のリクエストに応えてピアノを弾くシーンが素晴らしかったのはもちろんだが、映画の最後、エンド・ロールが流れる中、戦後の演奏会でピアノ協奏曲を弾く主人公の両手と鍵盤のクローズアップは圧巻であった。これほど観客の目を釘付けにするエンド・ロールは初めてである。

 

3.18(火)

昨日の夜、98年度に社会学専修を卒業し、いまはワシントンDCに住んで、コンサルタント会社に勤務しているMさんからひさしぶりのメールが届いた。結婚の報告だった。お相手は彼女が交換留学でオレゴン大学に行っていたときに知り合ったフランス人(彼もやはり留学でオレゴン大学に来ていた)とのこと。結婚式は彼の生家のあるフランスのリヨンで6月に行うという。なんでも彼の親戚の所有するワイン農園で行うらしい。国際結婚にもワイン農園でのアウトドアの結婚式にも驚いたが、もっとびっくりしたのは、結婚式に私を招待したいと書いてあったことだ。私も早稲田大学で教えるようになって10年目になるので、卒業生の結婚式に何回か呼ばれたが、海外での結婚式に呼ばれたのは初めてである。しかし、私は結婚式への出席は「日帰りの出来る範囲内」と決めているので(おまけに学期中だし)、当日、結婚式の行われている時刻に、彼の地の空の方角を見やりながら、「おめでとう。幸せにね」と胸の中で祝福をさせていただきますと返事のメールを書いた。

 

3.19(水)

インターネットで注文した古本の代金を五山堂書店の銀行口座に振り込むとき、4,650円を振り込むべきところを、間違って『平野謙全集』の代金としてマツノ書店に郵便振込みで送金するはずの36,000円を振り込んでしまう。直後に気づき、麻雀に喩えれば、3翻でリーチをかけたらいきなり対面の役満に振り込んだときくらいびっくりした。すぐに五山堂書店に電話して、差額分を返送してくれるよう依頼する。電話のこちらとあちらで苦笑。

 

3.20(木)

米英を中心とする同盟軍によるイラク攻撃が開始される。国際社会における戦争は外交の一手段であるが、兵器の殺傷能力が高まるにつれ、「最後の手段」(可能な限り回避すべきもの)と考えられるようになった。明治維新以降、日本は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と多くの戦争を当事者として経験してきたが、1945年以降は「平和」が続いている。しかし、その間も地上から紛争や戦争は絶えることがなかった。あいかわらず戦争は外交の一手段として「有効」であり続けている。いま、大量殺害兵器を隠し持っているのではないかと思われている国を、大量殺害兵器を公然と所有している国が攻撃している。したがって、今回の戦争において、大量殺害兵器の所有それ自体が悪いとされているわけでないのは明白である。悪いのは、第一に、それを「隠し持っている」ことであり、第二に、それが他国の攻撃に対する抑止力ではなく、「(テロで)実際に使用される可能性がある」ことであるーこれが同盟国側の(というよりもアメリカの)攻撃正当化の論理である。しかし、この論理を小学生に理解させるのは難しい。もし「隠し持っている」ことが悪いのであれば、英米仏露中印のように公然と所有すればいいことになるが、実際には、すでに所有している国々は新たに所有する国の出現を許さない。こうした既得権の保護はまったく「自由主義的」ではない。なぜ大量殺戮兵器の所有・開発が一部の国には認められ他の国には認められないのかを説明することは、「抑止力による平和」というゲーム理論的概念を使えば可能なのであろうが、しかし、ゲーム理論というものは「合理的に行動する複数の主体」というものを暗黙の前提にしており、この前提は個人のレベルだけでなく国家のレベルでもフィクションに過ぎないことは明らかである。われわれは他人をうっかり信用してはいけないように(人を見たら泥棒と思え)、英米仏露中印を能天気に信用してはいけないだろう。大量殺害兵器が「実際に使用される可能性」がイラクと北朝鮮で高く、英米仏露中印で低いという認識は短期的には正しい(国際社会からの孤立は国際社会のルールの弛緩を意味するから)。しかし、長期的には間違っている(公然であれ、非公然であれ、存在する兵器は常に使用される可能性があり、その可能性が時間の経過とともに小さくなっていくという保証はどこにもない)。

 

3.21(金)

「誠竜書林」の200円均一本のコーナーに晶文社の「文学のおくりもの」シリーズが何冊か出ていた。つい最近まで400円の値がついていたものが値下げされたのだ。「文学のおくりもの」シリーズは1970年代に出版されたもので、超有名な作家は意識的に外した、知る人ぞ知るといった感じの現代の海外文学を紹介したシリーズで、国東照幸のブックデザインと長新太の絵が洒落ていた。このシリーズ(第三期まで合計21冊出た)の第1巻はレイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』。私は学生時代にガールフレンドからこの本を薦められたが、読もうとは努めたものの、結局、読まずに返したことがある。私は本を読むのは人一倍好きだが、人から薦められた本を読むのは苦手としている。薦められて読んだ本で面白かった経験は少ない。読書というものは恋愛と同じで、自分が一目惚れした本を夢中になって読むからこそ面白いのであって、紹介や見合いというのは(したことがないので憶測でいうのだが)どうもね・・・。しかし、人が薦めてくれた本を読まずに返すというのは気まずいものである。実際、そのガールフレンドとは長くは付き合わなかった。その思い出の(?)『タンポポのお酒』を古本屋の店頭で見つけたのも何かの縁であろうと、購入した。一緒に、同じシリーズのリチャード・ヒューズ『ジャマイカの烈風』も、「息もつかせぬ筆致で鬼才ヒューズが描きあげた驚くべき世界。全世界の人々の目を瞠らせた、イギリス文学の傑作中の傑作」という宣伝文句に惹かれて購入。たんに「傑作」だったら買わなかったかもしれないが、「傑作中の傑作」ですからね。

 

3.22(土)

このごろ、学生たちから大学院進学の相談のメールが届く。そういう季節なのであろう。私はこれまで一度も特定の学生に「大学院へ進学しないか」と自分から声をかけたことはない。見込みのある学生と出会わなかったからではない。将来の就職が大変だからというのはあるが、それだけではない。たぶん、自分の一言が相手の人生の道筋を決めてしまうかもしれないということ、変えてしまうかもしれないということ、それを回避したいという心理が働いているのであろう。私自身は、大学院への進学を誰かから勧められたことはない。誰に相談することもなく、自分で勝手に決めたのである。ただし、卒論の評価がよかったことは自信(あるいは自惚れ)にはなったと思う。指導教員は現在の社会学専修の同僚である正岡寛司先生であった。その意味では(正岡先生にそのおつもりは全然なかったはずだが)、私にも背中をプッシュしてくれた他者はいたわけである。また、もう一人忘れてはならないのは、社会学者(評論家)の清水幾太郎である。最初の大学院の受験に失敗し、1年間の浪人をしていたとき、私は彼に卒論の概要を同封した手紙を送った。実は、私の卒論は「子供と社会に関する発達社会学的考察」というのだが、これは清水の『社会と個人』(1935年)と『社会的人間論』(1940年)という2冊の本からヒントを得て書いたものである。つまり社会学の根本問題である「社会と個人の問題」(両者の関係や如何に)を、社会の時間(時代)ではなく個人の時間(年齢)を軸にして、個人の加齢に伴って現代社会における「社会と個人の問題」がどのように生成・変容していくかという観点から論じたもので、発達心理学の知見を社会学の視点から再解釈したものといってもいい(当時はまだ「ライフコース研究」という言葉を知らなかった)。無名の読者からの不躾な手紙に対して、清水は丁寧な返事をくれ、そこには卒論の概要を読んで「大変に見事だと思いました」と書いてあった。一種のファンレターに対する返事であるから、リップサービスは当然であろう。当時の私もそのくらいのことは心得ていたが、浪人中の身に誉め言葉は素直に嬉しかった。だから、というわけではないが、学生(ときには卒業生)が大学院進学について相談に来たときは、基本的にプッシュする方向でアドバイスをするようにしている(・・・・と書いているいまもまた相談のメールが届いた)。

 

3.23(日)

 私の愛読書の一冊に池波正太郎『散歩のとき何か食べなくなって』(新潮文庫)がある。この影響だろうか、散歩に出ると何か食べたくなる。今日は西蒲田駅前商店街を入ってすぐのところにある「富士そば」という立ち食いそばのチェーン店で、前から気になっていた480円のカツ丼を食べた。私の中ではカツ丼というのはご馳走の部類に属している。たとえば、小津安二郎の映画『東京物語』(1953年)の中に、尾道から上京してきた義父母(笠智衆と東山千栄子)が嫁(原節子)のアパートで店屋物を食べるシーンがあるが、あのときの店屋物はたぶんカツ丼である(天丼であれば、海老の尻尾が丼の蓋からはみ出ているはずだが、それはなかった)。そう、かつて、家に客が来て、何か出前をとるとき、寿司、鰻重、天丼、そしてカツ丼が定番であった時代があった。いま、寿司と鰻重は依然としてその地位を保っているが、天丼の地位はやや低下し、カツ丼の地位はだいぶ低下したように思う。それにしてもカツ丼が480円とは・・・。デフレの申し子「ワン・コイン・ランチ」(500硬貨1枚の昼食)にカツ丼も仲間入りしたというわけだ。店の外に出ていたカツ丼のポスターはとても美味しそうで、これが480円とはとても信じられない気がした。もちろん、サンプルやポスターが実物以上であることはこの世の常で、実際に出てきたカツ丼はポスターの写真のものよりカツはやや小ぶりで、とじ卵には火が通り過ぎで、ご飯にはあまり煮汁が沁み込んでおらず、吸い物はしょっぱかった。しかし、480円という価格を考えれば(実際、私は食べながら何度もそう自分に言い聞かせた)、味・ボリュームとも及第点を与えてよいだろう。ちなみに、早稲田界隈はカツ丼発祥の地として知られている(というか、「元祖カツ丼」「本家カツ丼」を名乗っている店がある)が、私がよく食べるのは、元祖でもなく本家でもない、文学部横のうどん屋「ごんべえ」のカツ丼(650円)である。もっともここのカツは自家製ではなく、近所の洋食屋「おとぼけ」で揚げてもらっているのだが(ときどき横断歩道で、「ごんべえ」のおばさんがカツの山盛りの皿を運んでいるところを見かける)。

「富士そば」の隣はいつも立ち寄る「書林大黒」である。100円コーナーに河出書房版の「カラー版日本文学全集」の端本がどっさり出ていたので、「石川淳」と「室生犀星・堀辰雄」と「尾崎一雄・上林暁・永井龍男」の3巻を購入。

 

3.24(月)

 今頃の季節になると、大学の周囲の本屋の店頭に『ワセクラ』と『マイルストーン』がうずたかく積まれる。大学が配布する講義要項を「表の情報」とすれば、両誌は「裏の情報」である。見かけはタブロイド判の『ワセクラ』よりもちゃんとした冊子体の『マイルストーン』の方が立派だが、講義情報誌としては『ワセクラ』の方が老舗で、小さい活字で情報量が多く、しかもゴシップ的な(毒を含んだ)内容である。つまり読み物として面白いのは断然『ワセクラ』である。ただし、自分の講義に関する記事以外は(おそらくほとんどの教員はそう感じているはずだ。まさに「人の不幸は密の味」である)。たとえば、私の「社会学研究」についてはこう書かれている。

「充1 楽3 前テ 後テ 出有 サンプル多数。代返可。授業出てればテスト楽でA。試験は論述形式。マクロな社会構造・変動と、ミクロなライフコースが重層的に相互作用・共振し、総体を形成するダイナミズムを、社会学的想像力を用いながら、音楽やビデオを素材に考察。日常生活を見るまなざしが変わる。とても面白いし、涙もあり。今はなきオープンカフェで露文の草野先生をパフェに誘ったが、あとで先生が革マルにカレーに誘われた。偽善者っぽいけど、やはりいい人。学生運動弾圧派だが、対話による解決を志向する姿勢には一定の評価あり。」

 さまざまな内容を含んでいるが、因数分解しながらコメントを加えておきましょう。

 「充1 楽3 前テ 後テ 出有」・・・・知らない人のために説明しておくと、「充」は充実度、「楽」は楽勝度のことで、それぞれ5段階評価(数字が小さい方が充実・楽勝度高い)。「前テ」「後テ」とは前後期とも教場テストをやるということ。「出有」は出欠を取るということ。「充1」は光栄です。「楽3」はそうでしょうね。テストと出欠についてもその通り。

 「代返可」・・・・名簿を読み上げて返事をさせているわけではないので、「代返」という言葉は正しくないが、要するに、出席していない学生の出席カードを友人が代わりに書いて(あるいは記入済みのカードを事前に預かっておいて)提出することができちゃうという意味ですね。はい、そういうことをやってどういう御利益が本人にあるのか私にはわからないけれど(むしろ授業に出ていなければテストで困ると思う)、したければできます。教員の中にはこうした「代返」を見破ろうとして配布する出席カードに細工(針で穴を開けておくとか、角をカットしておくとか)をする人もいると聞く。いやはや、ご苦労な話です。

 「授業出ていればテスト楽でA」・・・・これは完全に間違った情報。よほど頭がいいか要領のいい特殊なサンプルの投稿であろう。実際は、Aを取る学生は20%しかいない(フィールドノートの「2.9」を参照)。

 「試験は論述形式」・・・・これは事実。○×形式でやれたらどんなにか採点が楽だろうと、採点しながらいつも思う。

 「マクロな社会構造・変動と、ミクロなライフコースが重層的に相互作用・共振し、総体を形成するダイナミズムを、社会学的想像力を用いながら、音楽やビデオを素材に考察」・・・・なるほど、そういうことだったのか。

 「日常生活を見るまなざしが変わる」・・・・社会学ってそもそも常識破壊的な面があるのです。

 「とても面白いし、涙もあり」・・・・松竹新喜劇か。

 「今はなきオープンカフェで露文の草野先生をパフェに誘ったが、あとで先生が革マルにカレーに誘われた」・・・・「オープンカフェ」というのは文学部のホームページにあったBBS(掲示板)のことで、いろいろあったが、総じて面白い経験であった。われわれ(草野先生も)が教務を交代するとともに「オープンカフェ」も消えてしまった。地上からアナーキーなものはどんどん消えていく。夏草やつわものどもが夢のあと。

 「偽善者っぽいけど、やはりいい人」・・・・「いい人っぽいけど、やはり偽善者」が正しい(偽悪者ぶってどうする)。

 「学生運動弾圧派だが、対話による解決を志向する姿勢には一定の評価あり」・・・・それはどうも。ここでいう「学生運動」とは「自称自治会=革マル派の活動」のことではなくて、おそらく、一昨年の夏に活発化した「1・3・8号館地下部室撤去反対運動」のことだろう。『ワセクラ』はその運動に対してシンパ的な立場に立っている印象を紙面全体から受けるが、反体制を貫こうという姿勢には一定の評価あり。

 編集者の方、来年の号には「ワセクラの愛読者」という一文を追加しておいて下さい。

 

3.25(火)

 卒業式。冷たい雨がキャンパスの桜の蕾を濡らす。社会学専修の卒業生一人ひとりに卒業証書を手渡し終えて(これは専修主任の役割)、研究室で休んでいると、私が卒業論文の指導をした二文のIさんが研究室に挨拶に来た。卒業生が研究室に挨拶に来ること自体は珍しいことではないが、珍しいのは男性が一緒について来たことだ。しかも、よく見るとその男性には見覚えがある。なんだ、3年前に一文の社会学専修を卒業したK君ではないか。「なんで君が?」と聞いても、K君もIさんもニヤニヤしていて答えない。本棚をバックにIさんと私のツーショットをK君が写真に撮る。記念写真を取り終えて、二人を椅子に座らせて、改めて問う、「なんで君が?」。ようやくIさんが答えた、「実は私たち付き合っているんです」。そ、そうなのか。Iさんの説明によれば(K君はずっとニヤニヤしたまま)、 彼女が1年生のとき、彼は4年生で、彼とその仲間がやっていた同人誌のサークルに彼女も参加したのだそうである。そうか、そういうことか。でも、いままで一言もそんな話出なかったぞ(もっとも卒論ゼミの場所でそんな話も出せないか)。「ということは、付き合い始めて4年ってことかい?」と聞くと、二人、またもニヤニヤしながら、「ええ、まあ」と答える。この流動化社会において(?)、4年間も交際が続いているとはなかなかのものである。もっと2人の話を聞きたかったが、謝恩会の時刻が迫っているので、「じゃ、また」と研究室を出る。

 

3.26(水)

 昨日、謝恩会の会場(新宿のセンチュリーハイアット)に向かう途中のタクシーの中で腕時計が止まった。電池が切れたのである。卒業生を送り出す度に、私も電池が切れたような状態になる。とくに今年の卒業生のようになかなかいい学生が揃っていたときはとくにそうである。彼ら彼女らが去り、また新しい顔ぶれの学生たちと一から関係性を構築していかなければならないかと思うと、「ふぅ」と小さなため息が出る。新学期の授業が始まるまでのしばしの間、充電期間がほしい。しかし、専修主任となるとそうも言っていられないのがつらいところで、今日は午後から、社会学専修の新2・3・4年を対象としたガイダンス(3回)、教室会議、社会学専修教員懇親会が立て続けにあった。

 

3.27(木)

 大隈通り商店街の平山時計店で腕時計の電池交換をしてもらう。支払い(800円)のときスタンプカードをくれる。スタンプ5個で電池交換が1回無料になるという。「この電池はどのくらい持つのですか?」と聞いたら「2年くらい」とのことだった。ということは、6回目の電池交換は10年先のことになる。気の長い話である。そのときまで、このスタンプカードをちゃんともっているとはとても思えないし、そもそも、平山時計店がそのときまであるかどうか・・・・(失礼)。

 

3.28(金)

 新年度の社会学演習Ⅰ・Ⅱ・Ⅲそれぞれのクラス分け抽選結果の発表。私は今回、ひさしぶりに社会学演習Ⅲ(調査実習)を担当する。早稲田大学人間科学部を10年前に卒業した人たちへのインタビュー調査で、タイトルは「そして彼らは30代になった」。私のクラス(D)の学生は24名(女子13名、男子11名)。性別比はとてもいい。以前、女子20名、男子3名というときがあって(「幸福」がテーマだった)、あのときはちょっと弱った。とくに今回は、インタビュー調査なので、対象者の人生への関心やシンパシーが重要になってくるのだが、その関心やシンパシーが女性の立場からのものに偏ってしまっては困るなと思っていたので、抽選の結果にはほっとした(でも、私のクラスに入った学生はほっとしていないかもしれないが)。

 

3.30

 越後湯沢の駅からバスで50分ほど山奥に入ったところにあるスキー場に来ている。今度高校3年になる長女が小学校にあがる前から毎年一家で来ているスキー場で、もう目をつむっても滑れるくらい、コースのカーブや起伏が体に染み込んでいる。私の腕前は一向に上達しないが、そのくせスピード重視で、転倒するときは、そばで見ている家族が「お父さん、死んだかと思った」と言うくらい激しく転倒する。今日も、一度、少しばかり急な斜面でコントロールを失って転倒し、後頭部を強打した。しかし、スキーは斜面を怖がったらだめで、逆に攻めていく気持ちで滑らないといけないというのが、ここ10数年の経験から得た教訓である。

 ゲレンデにいるとき、携帯電話に二文の教務の先生から連絡が入る。私が担当している基礎演習の定員についての問い合わせである(昨日、新入生の登録があったのだ)。履修希望者は36名とのこと。昨年同様、全員受け入れますと回答する。演習というものの性格を優先すれば、原則定員である25名に絞るべきなのだが、新入生が最初に登録する必修科目であることを考えると、それがいきなり抽選漏れではやる気に水を注すことになろう。ただ、昨年は44名を受け入れて、演習の出来としては70点(前期80点、後期60点)くらいだったので、演習の進め方は去年とは変えねばならないと考えている。

 ところで今回のスキーはパソコン持参である。ホテルの部屋の電話回線を使ってメールのやり取りをするためである。いま、大学は科目登録の時期なのだが、web登録のシステムが破綻してしまい、急遽、旧来のマークシート方式に切り替えたため、授業の開始日を1週間遅らせざるを得なくなった。こうした混乱の最中なので、関連方面といろいろとメールのやりとりをしなくてはならないのである。しかし、こんな山奥のスキー場にいても、携帯電話やインターネットが使えるというのは便利であると同時に、気ぜわしいものである。地理的には都市から遠く離れても、「都市」というシステムからは逃れることができない。逆に言えば、空間的には都市の内部にいても、通信メディアの末端装置を使えなければ、「都市」というシステムからは疎外される。今後、「デジタル・デバイド」はますます重要な社会問題となることだろう。ところで、ひさしぶりにダイヤルアップでメールを使って、運悪く、1.3メガの添付ファイル(原稿)のメールを受信してしまい、その受信スピードの遅さに辟易した。自宅にADSLを引いてからわずか2ヶ月半だが、すでにそのスピードが自分にとっての「標準」になってしまっていて、その「標準」を大きく下回る事態を不快と感じるメンタリティが形成されている。こうした「社会的速度」の上昇に伴う問題も「デジタル・デバイド」の一部といえるかもしれない。

 

3.31

 旅行の楽しみの1つは、列車の中やホテルの部屋で本を読むことである。私にとって読書は日常的な行為だが、非日常的な空間での読書はまた格別で、集中力も高まる。今回、スキー場に持参したのは、出版されたばりかりの佐々木千賀子『立花隆秘書日記』(ポプラ社)。以前、立花が秘書を新聞広告で募集して、500人以上の応募者の中から一人の女性を秘書に採用するまでの過程を『婦人公論』に書いたことがあり、私はその文章を読んでいたので、「ああ、あのときの秘書さんか」とすぐにbk1に注文した。私はこの本を読む前、いや、正確に言えば、読んでいる途中まで、これは立花隆を礼賛あるいは擁護した本だと思っていた。というのも、このところ、立て続けに立花隆批判本が出版されているからである。しかし、『立花隆秘書日記』には多分に「内部批判」的な箇所がある。正確に言えば、著者は1998年末で秘書を辞めているので(このことは知らなかった)、「秘書による批判」ではなく「元秘書による批判」である。たとえば、立花が『週刊文春』での阿川佐和子との対談の中で、経済的には苦しい生活について縷々述べたときに言った一言、「秘書にもお金を払わなければならないし」に彼女はかなり傷ついたという。「私の給料は決して高いとはいえないはずだ。世間一般の基準からも、仕事の難易度やボリュームからも見合った額が支給されているとは思えない。(中略)別に少なくたってかまわない。ただ、支給する側にそういう認識があるかどうかが、私にとっての重要なポイントだった。もし少ない給料で働いてもらっているという自覚があれば、週刊誌上で先述のような言葉は出てこないだろうと思った。自分なりに支給される報酬以上の働きをしているという思いが私をささえていたのだが、立花さんは必ずしもそう思ってくれてはいなかったようだ。はるかな宇宙の果てで、名もない小さな星がひっそりと消滅したような寂しさを感じた。」・・・・いわゆる立花批判本が「知の巨人」の「知」の部分を批判しているのに対し、この元秘書は立花の「情」の部分を批判している。なんとなく自分を捨てた(彼女は経済的理由で解雇されたのである)冷たい男へのあてつけのようなものが感じられなくもないが、「頭のいい人は人間的に欠けたところがある」と考えたい世間一般の人たちは彼女に同情するに違いない。


2003年3月(前半)

2003-03-14 23:59:59 | Weblog

3.1(土)

 博士論文研究会(それにしてもストレートなネーミングだ)の第2回。今回の報告者は沢口恵一氏(大正大学講師)で、組織生態学の理論的研究が彼のテーマである。組織生態学というのは・・・・、まぁ、なんです、学問の世界にはいろいろなテーマがあるということです。会の後、高田馬場の「天天飯店」で食事。

 

3.2(日)

 日曜日であるが、午前中、大学で会議。入試シーズンは土曜も日曜もありません。会議の後、研究室で早稲田青空古本市で買った沢木耕太郎『深夜特急 第一便』を読む。この本は北杜夫『どくとるマンボウ航海記』(1960年)、小田実『何でも見てやろう』(1961)と並ぶ三大青春放浪記といってもよいのではないだろうか。残念なことは、私は若い頃にこの本を読むことができなかったことだ。『深夜特急 第一便』が出版されたのは1986年の5月だったが、私はそのとき32歳で、5ヶ月になる娘がいた。できればもっと身軽な時期にこの本を読みたかった。この年の7月、私たち一家は市川市に転居し、私は娘をベビーカーに乗せて公園デビューを果たすことになる。

 

3.3(月)

 午前、大学院の科目履修生の面接。午後、教授会。教授会はいつものように長かったが、今日は『深夜特急』を携えていったので大丈夫。「第二章 黄金宮殿」を読む。教授会の最中に本なんか読めるのかというと、もちろん読めるのである。それは学生が授業中に(もちろん大きな教室でないと無理だが)本が読めるのと同じである。教室に居眠りや私語があるように、会議室にも居眠りや私語はある。ときにはたんなる私語ではなく、専修の会議をやっているところもある(会議中に会議!)。さすがに携帯でメールをやっている人はまだ見たことありませんけどね。今日の教授会で入試関連の仕事はすべて終了。夕方から文学部カフェテリアで慰労会(立食パーティー)。みなさん、おつかれさまでした。

 

3.4(火)

 bk1の新着書籍情報メルマガが届いたので見ていたら、『平民社百年コレクション第3巻 安部磯雄』(論創社刊  6,800円)というのがあった。既刊の巻は誰だろうと調べてみると、第1巻が幸徳秋水で、第2巻が堺利彦だった。堺利彦の巻なら購入してもいいかなと思い、その前に「日本の古本屋」で彼の本を検索してみたところ、『堺利彦全集』全6巻(法律文化社、1970年)がいくつかの古本屋から出品されていた。一番高いのは蟻屋書房の35,000円、一番安いのは共立書院の12,000円(ただし、共立書院のものは「2巻函かなりシミあり」と注記されている)、その次に安いのは五山堂書店(ほか数店)の15,000円。『平民社百年コレクション第2巻 堺利彦』の2倍ちょっとの値段で『堺利彦全集』全6巻が購入できるのならその方が得であると判断し、五山堂書房にメールで購入を申し込む。しかし、先日の『清水幾太郎著作集』のときのように、すでに売却済なんてことも十分に考えられる。けれどそれは杞憂に終わり、ほどなくして五山書房から「このたびはご注文を誠にありがとうございました。本書は在庫致しております。保存状態は良好でございます。ただし各巻の扉に個人蔵書印(志賀蔵書)が押されております」とのメールが届いた。蔵書印が押されていることなどまったくかまわない。むしろちゃんとした蔵書家の所有していたものであることがわかって嬉しいくらいである(まさか「志賀」って「志賀直哉」じゃないでしょうね)。すぐに銀行に行き、指定された口座に代金を振り込む(夜、「日本の古本屋」で再び『堺利彦全集』を検索したら五山堂書店のものがリストから消えていた。五山堂書店は対応が迅速なしっかりした古本屋であることがわかった)。

 外出したついでに「書林大国」の店先の100円本コーナーをのぞいて6冊購入。「シャノアール」でパラパラ読む。

(1)山根基世『であいの旅』(毎日新聞社、1988年)

山根さんはNHKのアナウンサーで、早稲田大学文学部の英文専修のOG(私が入学する2年前に卒業された)。38歳のときに13歳年上の男性と結婚されたのだが、そのときの気持ちを正直に書かれたエッセーが興味深かった。

 (2)『尾崎豊Say good-by to the sky way』(リム出版、1992年)

 尾崎豊は1992年4月25日に死んだ。本書はその3ヵ月後に出版された追悼本。400頁というボリューム、上質の紙、多数の彼の写真、全作品の歌詞、これが100円で入手できるとはとても信じがたい。

 (3)山崎正和『不機嫌の時代』(新潮社、1976年)

 「ひとつの名伏しがたい未知の気分が、そのころ、やうやく生まれたばかりの日本の中産階級の家庭を侵し始めてゐた。/それは、捉えどころのない漠然とした気配ではあったが、しかし、人びとはそれがこれでの経験のなかにない、ひとつのえたいの知れない鬱屈であることには気づいてゐた。明治四十年代の初頭、すなわち、日露戦争の戦後がしだいに「戦後」として意識されるやうになったころ、人びとはにはかにまざまざと、それが自分の日常を浸していることを自覚し初めてやうであった。」・・・・魅力的な書き出しだ。もしかしたら林真理子はこの山崎正和の本のタイトルから『不機嫌な果実』という彼女の小説のタイトルを思いついたのではなかろうか。

 (4)高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』(講談社、1982年)

 もちろん高橋源一郎の出世作(群像新人長編小説賞優秀作)にして代表作であるこの小説はすでに読んでいる。ただし文庫本で。今日、購入したのは単行本、それも初版本である。これがたった100円とは!

 (5)富岡多恵子『丘に向かってひとは並ぶ』(中央公論社、1971年)

 魅力的なタイトルの短篇(中篇?)小説集。冒頭の表題作の書き出しは、「ヤマトの国からきたといっても、ヤマトの国というのはどこなのかだれも知らない」。次の作品「希望という標的」の書き出しは、「去年の九月の終わりごろ、私はニューヨークから汽車で二時間ほどのトレントンという駅についた」。そして最後の作品「イバラの燃える音」の書き出しは、「荒物屋のおスマさんは一日中じっと坐っていることはなかった」。物語の時代的・空間的・階層的設定は自由自在。プロの小説家だ。

 (6)源氏鶏太『若い仲間』(集英社、1960年)

 1960年と言えば「60年安保」である。とくに私のように「清水幾太郎」に関心のある人間ならばなおのことそうである。しかし、忘れてはならないことは、市井の人びとは「安保」にそれほどの関心はなかったということである。私が源氏鶏太の往年のサラリーマン小説を読むのは、そういう当たり前のことを忘れないためである。

 

3.5(水)

 Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「メトロポリタン美術館展」を妻と見に行く。9日で終了なのでたぶん混んでいるだろうと思って行ったらやはり混んでいたが、文学部の同僚のK先生も奥様(ですよね?)といらしていたのには驚いた。世間は狭いです。75点の作品が展示されていたが、やっぱりピカソは群を抜いている。「いいな」と思う作品があるとたいていピカソの(私の知らなかった)作品である。モディリアーニやルオーやユトリロやローランサンの作品は、一目見て彼らの作品であることがわかるが、ピカソの場合は時期によって題材や画風が大きく変化する。しかし、その空間の処理や色使いの確かさは一貫していて、他の追従を許さない。会場を出る前に、もう一度、入口の方に戻って、彼の「盲人の食事」を目に焼き付ける。この作品は数種類の画集で見て知っていたが、実物はそのどれよりも美しい色彩と繊細な陰影を帯びていた。

 東急本店8階のレストラン街の蕎麦屋で昼食をとり、ル・シネマの『小さな中国のお針子』の2回目の回の予約をしてから、東急本店向かいのブックファーストで上映開始時刻までの時間をつぶす。3冊の本を購入。

(1)和田誠・村上春樹『ポートレイト・イン・ジャズ2』(新潮社、2001年)

 まったく迂闊な話なのだが、『ポートレイト・イン・ジャズ』の「2」が出ていたことに今日始めて気がついた。たぶん新聞の広告は見ていたはずだが、『ポートレイト・イン・ジャズ』の宣伝をまたやっているものと思い込んでいたのだ。2冊が棚に並んでいるのを見て自分の勘違いに気がついたしだい。村上春樹の小説の主人公じゃないが、「やれやれ」だ。

(2)『できる一太郎13』(インプレス、2003年)

 最近買った「一太郎13」のガイドブック。ワードのガイドブックは腐るほど店頭に並んでいるのに、一太郎のものはめったに見かけない。ようやくここで(しかも本棚の片隅で)見つけました。

(3)MICHAEL J. FOX, Lucky Man: a memoir, Ebury Press, 2003(paperback edition)

 すでに翻訳で読んでいるが、ペイパーバックが出たので。

『小さな中国のお針子』はいい映画だった。文化大革命の最中の1971年、2人の青年が反動的知識青年として再教育のため四川省の山奥の村に送られてくるところから物語は始まる。その村で2人は「小さなお針子」と呼ばれる美しい娘(永作博美に似ていると思ったのは私だけでしょうか)と出会う。2人は禁書とされている外国小説(バルザック、スタンダール、フローベル、ドストエフスキー、デュマ・・・・)を盗み読んでは、字の読めない娘に朗読して聞かせてやる。バルザックの影響を受けた娘は、ある日、一人で村を出て行く。新しい人生を自分の力で切り開いて行くために。それから30年の歳月が流れる。青年の1人はヴァイオリニストとなりフランスで暮らしている。あの山奥の村がダムの建設のために水の底に沈むというニュースを知り、初恋の娘へのお土産の香水を買って、その村を訪ねる。しかし、娘はそこにはいない。なつかしい村の風景や村人を撮ったビデオを携えて、彼はもう一人の青年(上海で高名な歯科医になっている)のところへ行き、一緒にそのビデオを見る。もう一人の青年も20年ほど前にその娘の行方を捜したかことがあるが、わからなかったということを話す。かつて娘が住んでいた家に残されていたミシンの上に置いてきた香水の壜が水の底に沈んでいく・・・・。というふうに物語の荒筋を紹介すると、悲しい話のように聞こえるかもしれないが、確かに切なくはあるが、随所にユーモアがちりばめられていて、いわゆる「文化大革命の裏の真実を暴く」映画ではない。どんなに辛い時代にあっても、人は笑うし、恋をするし、そして一冊の本が人生を変えることがある。つまり、そういう映画だ。

 

3.6(木)

『山の郵便配達』(フォ・ジェンチイ監督、1999年)をビデオで観る。気になっていた映画だったが、「岩波ホールで上映された映画だから、どうせしみじみとしたいい映画なのだろう」と観る前から内容が予想できてしまって、いままで放っておいた。それを観る気になったのは、『小さな中国のお針子』のプログラムを読んでいたら、マー(ヴァイオリンを弾く青年)役のリィウ・イエは『山の郵便配達』の息子役で映画デビューしたと書いてあったからである。リィウ・イエは、日本で言えば、デビューした頃の筒井道隆のようなピュアでナイーヴな雰囲気をもった、これまでの中国映画には見られなかったタイプのスターだ。というわけで、リィウ・イエ目当てで観た『山の郵便配達』だったが、期待したとおり、リィウ・イエはよかった。険しい山岳地帯の村々をゆく郵便配達の父とその後継者の息子の物語で、息子が小さい頃、父が転勤で3ヶ月に1度しか家に帰って来なかったため、2人の間には薄い膜のようなものがいまだにあって、息子は父のことを「お父さん」と呼ぶことができずに「あなた」と呼んでいる。その2人が郵便配達の仕事の引継ぎのために、「次男坊」という名前の犬と一緒に、2泊3日の山行に出る。そして、途中の村の人びととの交流や父との対話を通じて、息子の中に、郵便配達という仕事を自分の一生の仕事とする決意と、父との「和解」が生まれる。やはり「しみじみとしたいい映画」だったが、「しみじみしなさい」という押し付けがましいところがなかったので、素直な気持ちでしみじみできた。ひとつだけ違和感があったのは「次男坊」という字幕で、日本語の字幕で犬の名前なんだからやっぱり「ジロー」でしょ。

 

3.7(金)

 川本三郎『郊外の文学誌』(新潮社、2003年)を読む。『新潮』に連載していたものが単行本となったものだが、同じ著者が『大航海』に連載していた「林芙美子と昭和」がつい最近『林芙美子の昭和』(新書館、2003年)として単行本になったばかりで、300頁(前者)、400頁(後者)の本を立て続けに出すというのは、凄い。『郊外の文学誌』は「東京の郊外」の歴史を、田山花袋から庄野潤三まで(日露戦争後から太平洋戦争後まで)の「郊外」を舞台とした小説を素材にして、論じたものである。序に曰く、「日本の近代は、郊外住宅抜きには語れない。大正から昭和にかけて『ノンちゃん雲に乗る』のお父さんのような都市中間層が生まれ、社会に中核になったとき、その居住地として郊外が選ばれていった。そして、そこに生きる小市民の暮しが、日本人の典型的なライフスタイルになっていった。世田谷に住んだ長谷川町子の『サザエさん』や、子供時代、中目黒に住んだ向田邦子の作品で繰返し描かれるのは、郊外生活する小市民の慎ましい幸福である。・・・・この「理想としての郊外」が現実でもなおあるべき故郷として人々に懐かしくイメージされていることは、一九八八年に公開されて大ヒットした宮崎駿のアニメ『となりのトトロ』が、まだ「武蔵野」の面影を残す昭和三十年代の埼玉県所沢の郊外を舞台にしたことでもわかる。」また、最後の章に曰く、「思えば、日本の近代文学は「家族の不幸」をこそ描き続けていた。私小説は、繰返し、家という制度の重さ、父への反抗、夫婦関係の息苦しさを描き続けてきた。家庭小説を描いた作家の早い例に、夏目漱石がいるが、漱石の描く家庭には、どこか冷たい風が吹いていた。・・・・/しかも、多くの作家にとって、国家や社会という大状況に比べると、家族や家庭は、小さな日常として軽んじられてきた。大の男が、家族愛や夫婦愛など語るべきではないと考えられた。それは、戦前の家父長制的な家族制度が崩壊したあとも変わらない。「家庭の幸福」という、考えてみれば、生活者にとってもっともかけがえのない基本が、「小市民的」と切り捨てられた。「小市民」とか「プチブル」といった言葉は、戦後の日本社会で長く否定の言葉として使われてきたことを忘れてはならない。/戦後、そういう風潮が強かった昭和二十年代のなかばに、庄野潤三は、「家庭の幸福」「小市民の幸福」という、それまで近代文学が関わろうとしなかった世界に身を寄せていこうとした。これは実に新鮮で、大仰にいえば、日本の近代文学史上、画期的なことといってよかった。コロンブスの卵といってもいいだろう。」・・・・なるほど、庄野潤三はそういうふうに位置づけられるのか。私は、「家庭の幸福」が日本の近代文学で脚光を浴びたのは、メーテルリンクの「青い鳥」が大正期に誤読的に(「あなたのおうちの幸福」を「真の幸福」と誤解して)受容されたときのことであると思うが、それはあくまでも児童文学という「おんな・こどもの文学」の世界のことで、「おとこの文学」の世界ではたしかに庄野潤三の登場をまってのことかもしれない。これは、もう、さっそく彼の『夕べの雲』を読まなくちゃ。

 

3.8(土)

 大隈会館で社会学専修の97年度卒業生の同期会があった。120名の同期生の40%にあたる48名が集まった。女性が6割以上を占めていたように思う。地方から駆けつけた人や、お腹の大きな人もいた。一人一人がマイクの前で近況報告をした。彼らが3年生のとき、私は社会学研究Ⅲという授業をもっていて、その授業では一人一人が教卓のマイクの前でクラスメートの書いたレポートを読んだ感想を述べるということを何度かやった。今日、目の前で近況報告をする彼らの姿と7年前の教室での彼らの姿が重なって見えた。7年前は「日常」を相対化し分析の対象とすることに彼らは熱心であったが、今日は自分たちが置かれている「日常」がいかに多忙であるかを語ることに彼らは熱心であった。そこにはたんなる事実だけではなく、自負や、自嘲や、諦念といった気分も含まれていたように思う。5年という歳月を淡々と語ることは難しい。夕方、社会学専修の出身で卒業3年目のMさんが研究室を訪ねてくる。たくさんの卒業生と一堂に会するのも楽しいが、一人の卒業生と喫茶店の小さなテーブルで話し込むのもいい。教師の人生の楽しみは教え子が増えていくことである。

 

3.14(金)

1週間ぶりの「フィールドノート」である。この1週間、だらだらと「春休みの日々」を送っていた。午前10時頃に起き(「起き」と書くと主体的な印象を与えるが、実際は飼猫に顔を舐められて目が覚めるのである)、遅い朝食をとりながら食卓の上のノートパソコンで新聞各社のホームページを見てまわり、午後はあれこれ本を拾い読みし、夕方近くに散歩に出て本屋(新刊本屋と古本屋)を数軒のぞき、夜はTVドラマを見たり、本を読んだり、ぼんやりしていたりで、気づくと午前3時頃になっている・・・・そういう日々である。

「或る人は、生活というものに、一度も出会わないで死んでゆく。」昨日買って、今日、電車のシートで読んだ秋山駿のエッセー集『舗石の思想』(講談社文芸文庫)の冒頭の一篇「ノートの声」の冒頭の一文である。「こういう人の一日は、つまり、昨日という一日とまったく同じものなのだ。その昨日はというと、そのまた前の一日とまったく同じ内容を繰り返したものに過ぎないのだ。そして、明日は?・・・・いや、そんなふうに考えるはずはない。考えれば否応なく、新しい生活というものが始まってしまう。それでは、昨日もなく明日もなく、ただ一日の内部のなかに、自分の生を石化させておくことができなくなってしまう。」まったく評論家というのは辛辣なことを平然と書くものである。しかしその批判の矛先は当然すぐに筆者自身にも向けられる。「それなら、私は確かに生活をしているのか、と思えば、恐ろしいほどだ。(中略)私がこの三日ばかりを、まったくの無為の中で過ごした。つまり、ただ寝て、食べて、テレビを見て、そんなことだけで一日を過ごした。まったく何もしないで消費してしまった。そして、その時間はもう還ってはこない。と取るに足らぬ三日間というものが、そこで封印され、その形で完了してしまったのだ。」筆者の自戒は読者である私にも反省の念を生じさせる。なんとかしなくては。「毎日毎日の歩行が小さな冒険旅行であった、あの少年時の光景を私の内部に再生しよう。あの道この道の至る処で、私は見た。現実を構成する繊維と、人間の切れ切れの姿とが、生存の不思議に深い光景の中で交錯するところを。/ーいろんな発見を力いっぱい持って帰っては、その探検報告をノートに記した。そのノートは、いまもそのために開かれていなければならぬ。/(中略)このノート決して手放すな。白い紙を前に、ただ緊張して待っているその時間を失ってから、お前の堕落はひどいものになった。」・・・・というわけで(苦笑)、一週間ぶりの「フィールドノート」です。

今日は午前10時から第一文学部の科目履修生(聴講生)の面接があって大学に来た。JRの定期券はもう有効期限が切れているが、4月中旬に授業が始まるまでは平均して週2回程度の登校なので、定期を継続するには及ばない。面接は11時頃には終わり、大学が用意してくれたお弁当(京樽のちらし寿司)を研究室で食べる。育ち盛りの中年にはもの足らない分量で、戸山図書館で借りた『定本花袋全集』第一巻を携えて(川本三郎が『郊外の文学誌』の中で紹介していた「本邦初の通勤小説」である「少女病」を読むため)、「カフェ・ゴトー」にチーズケーキを食べに行く。「カフェ・ゴトー」は卒業生(と言っても私が文学部で教えるようになってからの話だから、ここ10年くらいの卒業生、とくに女性)にとても人気のある喫茶店で、先日の同期会のときも、会の後で何組ものグループが「カフェ・ゴトー」でおしゃべりを楽しんだらしい。地下鉄の駅から文学部までの道沿いには、マクドナルド、モスバーガー、ケンタッキー、サブウェイ、シャノアール、松屋、てんや、銀だこ、といったチープな店が林立しているが、それだけに「カフェ・ゴトー」のようなクラシックな雰囲気の喫茶店は貴重だ。もっとも私はたまにしか来ない。それも人と話をするために来るのがほとんどで、今日のように一人で来ることはめったにない。私が一人で喫茶店に入るのは本を読むためだが、「カフェ・ゴトー」の落ち着いた照明は本を読むためにはいささか暗いのである(唯一読書に適した入って左手の窓際の大きなテーブルはいつもたいてい先客がいて、今日もやはりそうだった)。「少女病」は面白い小説だった。明治40年の4月、つまり彼の出世作『蒲団』の出る5ヶ月前に、雑誌『太陽』に発表された短編だが、そこで描かれている主人公の姿は『蒲団』の主人公のそれと瓜二つといってよい。「少女病」は『蒲団』のための習作、あるいは『蒲団』の副産物だと言ってよい。ベイクド・チーズケーキは美味しかった。紅茶はポットでもってきれくれ、カップで三杯は飲めるのが長っ尻にはうれしい(レモンのスライスも2枚付いてくる)。会計のときマスターに確認したところ、店を始めたのは12年前とのことで、確かその前は「ルプティニ」という名前の喫茶店でしたよねと聞くと、その店はいまは池袋の方にあるとのことだった。

「カフェ・ゴトー」を出て古本屋街を散歩する。最初に文房具屋で紙袋を買い、買った本を次々に入れていく。「西北書房」で坪内祐三編『明治文学遊学案内』(筑摩書房、2000年)。これはすでにもっているかもしれにないのだが、先日、読もうと思ってあちこち探したがないので、もっている気がしていただけなのかもしれない。「安藤書店」で清水将之『青い鳥症候群』(弘文堂、1983年)。ここはどんな安価な本でもきちんとビニールのカバーをして、売値を記入した腰帯を付けてある。神田でもこういう古本屋は少ない。「岸書店」で『オーウェル評論集』(岩波文庫、1982年)と『ワーズワース詩集』(岩波文庫、1957年)。ここは仏教関係専門の店であることを入ってから思い出した。すぐに出るのも失礼なので、入口近くの文庫本コーナーを眺めていたら、つい購入。「二朗書房」で大隈秀夫『大宅壮一における人間の研究』(山手書房、1977年)。レジの青年は、不慣れなのか生真面目なのか(あるいは不慣れで且つ生真面目なのか)、本を紙で包むのにえらく時間がかかった。あともう一軒、名前を思い出せない古本屋で清水幾太郎『現代思想』上下(岩波書店、1966年)と『現代日本文学大系88 阿川弘之・曾野綾子・庄野潤三・北杜夫集』(筑摩書房、1970年)。『現代思想』はハードカバー・箱入りのときのもので、しかも初版。これが2冊で300円とは感嘆してしまう。『現代日本文学大系』の方は庄野潤三の作品(芥川賞受賞作の「プールサイド小景」が入っている)を読みたくて。300円だから文庫を買うよりも安い。

 ずっしりと重くなった紙袋を下げて、久しぶりに中央図書館へ行く。雑誌のバックナンバー書庫で、『簡易生活』という明治40年頃に上司小剣らが出していた月刊誌について調べる。「簡易生活」は「シンプルライフ」の訳語で、日露戦争後の「金の世」の中で「シンプルライフ」という生き方が脚光を浴びたのである。バックナンバー書庫は何時間いても、いや、何日通っても飽きることがない。「宝庫」という言葉がぴったりする。記事を読みつつコピーをとり、コピーをとりつつ記事を読んでいたら、空が暗くなっていた。

昨日読んだ久野昌之原作・谷口ジロー絵『孤独のグルメ』(芙蓉社文庫、2000年)というコミックの主人公を気取って、大隈通り商店街にある初めての洋食屋にふらりと入り、オムライスを注文する。750円という値段は学生街の洋食屋にしては少し高いと思うが、卵を3つくらい使っているのではないかと思われるボリューム(カップスープとサラダも付く)は確かに男子学生も満足するだろう。私はトマトケチャップが卵にかかっているものを想像していたのだが(高田牧舎のオムライスがそうだ)、ここのはデミグラスソースだった。そういえば竹内結子主演のTVドラマ「ランチの女王」に出てきたオムライスもデミグラスソースだった。オムライスといえばこちらの方が主流なのかもしれない。私はどちらも好きだが、生憎、昨日の晩ご飯がハヤシライスだったので、デミグラスソースが二晩続くことになってしまった。まあ、美味しかったからいいけど。食後にコーヒー(250円)を頼んでちょうど1000円なり。研究室に戻る途中で「ルネッサンス」に立ち寄り、いいだもも・伊藤誠・平田清明編『いまマルクスが面白い』(有斐閣新書、1988年)を購入。昭和の終焉、ベルリンの壁の崩壊、ソ連邦の解体、そうした歴史の大きな転換点の「手前」でこういう本が出版されたところが「面白い」。ルネッサンスはとても古本屋とは思えない小綺麗な内装で、正直、大丈夫なのか、頑張ってほしいと、店の前を通るたびに思う。

ただいまの時間、午後11時。研究室でこの「フィールドノート」を書いている。まもなく警備員さんが見回りに来るだろう。さて、今日の分をホームぺージにアップして、帰るとしましょう。