フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月16日(水) 晴れ

2011-11-17 08:31:24 | Weblog

  8時半、起床。ベーコン&エッグ、トースト、紅茶の朝食。

  午前中、事務所から電話があり、急な用件で予定よりも早く家を出る。

  1時から教務室でその急な用件で面談。20分ほどで修了。「屏南」で購入した弁当を食べる。

  2時から教授会。5時を少し回ったあたりで終了。いつもより1時間以上は早い。ミルクホールに行って、コーヒーを購入。店の人たちに「お疲れ様です」と挨拶される。

  7時から教務全体会。お弁当(「今半」のすき焼弁当)を食べながら、9時過ぎまで。

  あゆみ書房で『広告』(博報堂)という雑誌を購入。特集のタイトルが「明日を生きるための物語」。電車の中で読む。浅野智彦が「トラウマ・大きな物語・共同性」の中でこんなことを書いている。

  「1980年代以降、「大きな物語の凋落」という(それ自体大きな物語にもみえる)語り口が盛んに繰り帰されてきましたが、もう少し正確に言えば、「大きな物語」が失効したのではなく、それが大きな「物語」だと認識されたことによって力が失われてしまったということなのでしょう。・・・(中略)・・・では、物語の相対性をそのまま受け入れていくことが人間にできるのか。「こういう物語もあれば、ああいう物語もあるよね」と。「今はとりあえずこの物語にコミットしているけど、それが絶対というわけじゃないよね」という感じで生きていけるかどうか。私には正直わからないところがあるのですが、もしかしするとそういう状態は多くの人にとってはひどくつらいもので、やはり何か特権的な大きな物語が欲しいと思ってしまうのかもしれない。あるいはそういうかりそめのコミットメントだけで十分だと感じる人々がこれから多数派を占めるようになるのかもしれない。もう少しありそうなシナリオは、共同体の範囲をぐっと狭めて、身近な人間関係の中で共有される物語に、その身近さを担保にコミットしていくというものです。それとは裏腹に、無数の様々な物語を消費したいという、物語消費への欲望というものは、今でも増大し続けているように思います。例えば、「感動をありがとう」という言い方がありますが、あれは考えてみればとても貪欲な言葉で、「ありがとうと言わせるだけの感動をもっともっと与えてください」という感じですよね。物語は感動を生み出す最も手っ取り早いやりかたのひとつですから、自分を感動させてくれる物語への需要は、日々増すばかりです。」

  10時半、帰宅。風呂を浴びてから、明日の授業の準備。夜食に「ラーメンですかい」(姉妹品に「うどんですかい」がある)という小さなカップ麺を食べる。小腹が減った、しかし、夜食はよろしくないというコンフリクトを妥協的に解消するものとしてときどき食べている。小さな物語消費といえよう。