フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2003年12月(後半)

2003-12-31 23:59:59 | Weblog

12.15(月)

 午後、「清水幾太郎の『内灘』」と「特集概要」の初校の校正を済ませて(合わせて27頁で、けっこう時間がかかった)、ポストに投函しがてら散歩に出る。栄松堂で獄本野ばらの『ミシン』(「世界の終わりという名の雑貨店」が入っている彼の最初の小説集)を見つけたので買うことにしたが、帯の「乙女のカリスマが懸命につむいだ魂の恋物語」というコピーが恥ずかしい。レジにはアルバイトの女の子が2人いる。おじさん(私)がこれを差し出したら、彼女たちはどういう反応をするであろうと考えると、気持ちがめげそうになる。そこで、『ミシン』単独ではなく、塩野七生『コンスタンティノープルの陥落』(新潮文庫)と『白州正子自伝』(新潮文庫)も一緒に購入することにした。自意識というものはお金のかかるものである。「世界の終わりという名の雑貨店」は70頁ちょっとの中篇。喫茶店で読むのにちょうどいい長さだ。「シャノアール」に行き、トーストと珈琲を注文し、読み始める。真ん中までいった辺りで、紅茶(小説の主人公の好みを真似てアールグレイ)を追加注文し、1時間半ほどで読み終える。自ら定めたディシプリンに固執して生きる青年と顔の痣のために何もかも諦めて生きてきた少女が「世界の終わり」で出会い、やがて逃避行に出る。二人を繋ぐのはVivienne Westwoodの洋服と空から降る雪。とても清冽な物語だ。熱狂的なファンがいるのは頷ける。したがって拒絶反応を起こす人々もまた多いに違いない。私は拒絶反応を起こすこともなく、かといって途中で涙ぐむこともなく、最後の頁までたどり着いた。読むに値する小説であった。家に帰って、シューベルトの「冬の旅」が聴きたくなった。

 家の近所の洋食屋「暢さん」が閉店した。いつのぞいても、客が一人いるかいないかであったので、厳しいだろうとは思っていた。味は決して悪くなかったが、メニューの数の少ないのが常連客が増えなかった原因であろう。「世界の終わりという名の雑貨店」の中で、貸しビルのオーナーが主人公の青年に部屋で何か商売を始めることを勧め、こんな繁華街から外れたエレベーターもないビルの4階で商売が成り立つでしょうかと言う青年に向かって、こんなアドバイスをしている。

「それは心配しないでいい。商売というのは不思議なもので、店を出せばどんな立地だって、何を商っていたって、一ヵ月間、収入ゼロ、誰も来なかったなんてことは起こらないんだよ。富士の樹海の中で床屋を開いたとしても、少ないが客は来る。何故か、来る。何も商うものが思いつかないなら、試しに鴨川に下りて石を拾ってきて、石屋を始めてみればいい。看板をあげれば、必ず誰かやってくるものさ」

たしかに一面の真理ではある。私が大学院生だったころ、自宅の玄関に「勉強教えます」と書いたボール紙の看板を掛けたら近所の小学生が2人、母親に連れられてやってきた。しかし、生活していくためには、たんにお客が来るだけでは不十分で、一定数以上のお客が来なくてはならない。「暢さん」はそれをクリアーできなかった。彼は大阪弁を話す人だったが、またどこか別の土地で再起をはかるのだろうか。

 

12.16(火)

会議漬けの一日。今年の4月にスポーツ科学部が人間科学部から独立し、来年の4月には国際教養学部が新しく誕生する。法科大学院(ロースクール)ほかの専門大学院もいくつか立ち上がる。このように早稲田大学は(おそらくどこの大学も)、いま、改革の真っ只中にある。もちろん文学部も例外ではなく、学部再編へ向けての議論が活発化している。しかし、なぜ変わらなくてはいけないのか、本当に変わらなくてはいけないのか、変わることでかえって悪くなるかもしれないのではないか、といった疑問を払拭できないでいる。そうした疑問を抱えたまま、どう変わるかという議論だけが進んでいっているので、ひずみというか、ねじれというか、「ふ~む」というか、「あれれ」というか、とにかくしっくりしない感じがしだいに大きくなっている。会議が終わると懐疑的になっている。

 

12.17(水)

 調査実習(社会学演習3D)で学生を叱る。私は学生に好んで嫌われようとは思わないが、こんなことを言うと嫌われるかななどと考えて、叱るべきときに叱らない(あるいは叱れない)というようなことはない。むしろ学生を叱るのは教師の、あるいは大人の重要な役目の一つだと考えている。今回、学生を叱ったのは、実習を無断で休んだり、提出物の〆切を無断で破ったことに対してである。何らかの理由で授業を休まざるをえないことはあるし、〆切が守れないこともあるだろう。実際、私も風邪を引いて休講にすることはあるし、〆切までに原稿を出せないこともある。問題は「無断で」という点である。休むならばこれこれしかじかの理由で休みますというべきであるし、〆切に間に合わないならばこれこれしかじかの理由で間に合いません(申し訳ありません)というべきである。それが共同で一つの仕事をしている者たちへの責任というものである。もし、自分ひとりが無断で休んだところで、自分ひとりが〆切を守らなかったところで、全体に何か迷惑がかかるわけではないと考えているとしたら、それはたんに無責任であるだけでなく、想像力とプライドの欠如でもある。一体、若者から責任感と想像力とプライドを引いたら何が残るというのだろうか。これから彼らは就職活動に本格的に入っていくが、責任感と想像力とプライドのある若者は、大学の教員からだけでなく、企業の人事の担当者からも評価されるはずである。

 

12.18(木)

 夕方、研究室に二文の学生で、私の基礎演習をとっているK君がやってくる。先週、提出しなければならなかったレポートを今日持参したのだ。基礎演習では、レポートは私だけなく、クラスの人数分コピーしてきて、全員に配布し、1週間かけて全員が全員のレポートを読んできて、今日はそれをもとにディスカッションをすることになっている。したがって、今日レポートを提出しても、証文の出し遅れで、あまり意味はないのである。「いまごろ持ってきてもなぁ」と私は浮かない顔でK君からレポートを受け取った。そのときK君がすかさず言った、「先生、甘いものはお好きですか?」 見ると手には何やら紙包みをもっている。「ああ、好きだけど」「和菓子なんかは?」「うん、好きだけど」「実はおはぎを買ってきたんですが」「・・・・・・・」 なるほどね、そういうことね(なんか、このごろ、こういうパターンが多い気がする)。「小田急デパートで買ってきました。僕も大好きなんです。」 そんじょそこらのおはぎではありませんという物言いである。彼が紙包みを開けると、「柿次郎おはぎ」と書かれたパックに粒餡をたっぷりとまとった大振りのおはぎが2つ入っている。お、おいしそうだ。「越後屋、お前も悪よのう」「何をおっしゃいます、お代官様こそ」「むふふふふ・・・・・」の世界である。その後は雑談。まぁ、学生を叱るだけが教師の役目じゃありませんからね。えっ、昨日と言っていることがずいぶんと違うじゃないかって? ええ、それが、何か問題でも?(←おぎやはぎの口調で←おはぎからの連想)。

 

12.19(金)

 4限の大学院の演習を終えて、そのままみんな(7名)で「カフェ・ゴトー」へ行く。今日の授業を最後にカナダの大学に留学するAさんの送別会である。念のために午前中に予約を入れておいて正解だった。いつもは落ち着いた雰囲気の店内が、卒論の提出を終えて(今日は卒論提出の最終日)、ほっと一息という感じで立ち寄ったと思われる学生たちでいっぱいである。しかし、そうと知っていたら、チーズケーキも予約しておくべきだった。ケーキケースの中にはケーキが残り少なく、われわれがパンプキンパイを5個、アプリコットパイとパウンドケーキを各1個注文したら、後にはほうれん草とベーコンのパイしか残らなかった。ヌーの大群が移動した後の草原のようである。とにかくこんなにお客でいっぱいの「カフェ・ゴトー」は初めてだった。

 夜、研究室で待っていると、二文4年生のMJさんとMMさんが卒論を提出に来た。一文の場合は、事務所に提出するのだが、二文の場合は指導教員に提出し、題目提出届に印鑑をもらい、それを事務所に提出するというシステムになっているのだ。焼肉屋「ホドリ」で打ち上げ。明日、MJさんは小説『半落ち』を読み、MMさんは映画『ファインディング・ニモ』を観るそうだ。私は年賀状書きだ。

 

12.20(土)

 散歩に出ると、晴れてはいるが、風は思いのほか冷たい。有隣堂で岩波文庫の新刊『日本近代文学評論選 明治・大正篇』、栄松堂で岩波新書の新刊鹿島敬『男女共同参画の時代』を買ってから、「洋麺屋五右衛門」で鱈子と湯葉としめじのスパゲッティーを食べる。昼食には遅い時間帯だったが、店内は混んでいて、一人客は自分だけだった。

 夜、年賀状の作成。今回の図柄(妻の担当)は白木蓮。それに歳時記から選んだ長谷川素逝の句「木蓮のつぼみのひかり立ちそろふ」を添える。年内に投函する年賀状は120枚ほど。年齢の割には少ないだろう。交際範囲が狭いのである。おかげで年賀状の作成に膨大な時間をとられることはない。一日かければ終わる作業である。

 

12.21(日)

 まだ来年のカレンダーを購入していなかったので、散歩がてら買いに出る。今日は日差しが暖かい。この数年、山中現という人の木版画が使われているカレンダーを使っているのだが、今年はそのシリーズを見かけない。卓上カレンダーは飾り気のない機能的なものでいっこうにかまわないが、壁掛けカレンダーは美術的な要素がほしい。東口の紀伊国屋書店をのぞいてみる。しばらく来ない間に本の配置がずいぶんと変わった。実用書と文庫本が店舗の中央を占め、専門書は窓際に追いやられていた。老舗の名前が泣いている。手帳コーナーに能率手帳の補充ノート(10冊入り460円)があったので購入。能率手帳はどこでも置いているが、補充ノートを置いてあるところはめったにない。やっぱり老舗だけのことはある。カレンダーのコーナーは品揃えが少なく(もうピークの時期を過ぎたのであろう)、あまり期待しないで見ていたら、大正3年に創刊されて昭和18年まで続いていた『子供之友』という絵本で使われていた12枚の絵で構成されたカレンダーがあった。婦人之友社が出している「せいかつカレンダー」というものだ。12枚の絵の画家は、岡本帰一、亀高文子、小寺健吉、竹久夢二、田中良、本田庄太郎、嶺田弘の7名である。どの絵も楽しく、美しいが、とりわけ田中良の「椿咲くころ」(大正9年)と「小さな陶芸師」(大正9年)は大正ロマンという言葉がピッタリで、思わず見とれてしまう。税込みで1500円。迷わず購入した。それから熊沢書店に寄って、能率手帳の会社が出している「シーズルーム(モダン)」というシンプルな卓上カレンダー(800円)を購入。

 

12.22(月)

 冬至。文学部の向かいの穴八幡神社は「一陽来復」のお札を求めてやってきた人たち(ほとんどがおじさんとおばさん)で大変な賑わいである。母に頼まれたお札はもう少し人の列が短くなった頃に買うとして、とりあえず露店で焼きソバと鯛焼きを買って、それを今日の昼食とする。調査実習の資料を学生に配布するために午後はずっと研究室に詰めていたが、途中でちょっと抜け出して、お札を買いに行き、小高い神社の境内から人気の少なくなった文学部のキャンパスを眺めていたら、「今年も終わりだな」という気分になった。夜、都電の早稲田駅の側の寿司屋で社会学専修の長谷先生、嶋崎先生、土屋先生とプチ忘年会。10時過ぎにお開きとなり、再び研究室に戻って、テーブルの上に散乱している書類の整理。次に研究室に来るのは来年になるかもしれないので、散らかしたままにしておくのは気分が悪い。Hさんからいただいたクリスマスリースを研究室の入口に飾って、11時過ぎに研究室を出る。

 

12.23(火)

 栄松堂の隣の文房具店にモールスキンの方眼紙タイプの手帳があったので購入(1500円)。すでに白紙タイプのものは購入してあるのだが(未使用)、文字をたくさん書くのであれば、方眼紙タイプのものの方が使いやすそうな気がして。スケジュール管理は従来どおり能率手帳(+補充用ノート)を使い、このシンプルで美しいフォルムのモールスキンの手帳はなんでも帳として使おう。前者は未来志向のアイテムで、後者は現在志向のアイテムだが、時間の流れの中で、いずれはどちらも過去志向(あの時、こんなことをしていた、こんなことを考えていた)のアイテムに変容するだろう。

 

12.29(月)

 今週は週の途中で年が替わる。一年の終わりと一年の始まりが同居する週だ。心静に、行く年を回顧し、来る年を展望したいところだが、生憎そうもいっていられない。年内に片付けてしまわないといけない仕事が二つ残っているのだ。

一つは、ある学会の機関誌の投稿論文の査読。この学会からはいつも年末のこの時期に査読の依頼が来る。一応、〆切は1月中旬なのであるが、学期が始まったら忙しくなることは目に見えているし、正月休みは正月らしいことをしたいしで、結局、大晦日までに済ませないとならないのである。投稿論文の査読というのは、投稿論文を読んで、投稿者へのコメント(修正点の指摘が中心)を作成し、編集委員会へ提出する審査用紙に結果を記入するという作業だが、少なくとも半日を要する。素晴らしい内容で何一つ文句はないか、どうしようもない内容で何も言う気がしないか、どちらかであれば話は簡単なのであるが、ほとんどの投稿論文(少なくとも私のところに回ってくるもの)は、この両者の中間に位置していて、したがって、批判的かつ建設的なコメントという微妙なバランスを必要とするものを求められることになる。これ、けっこう骨が折れます。

 もう一つは、今朝、学文社から速達で届いた『社会学年誌』の特集論文の再校(および英文サマリーの初校)の校正である。初校の校正から2週間で再校が届くとは思っていなかった(新年早々の仕事の一つに予定していた)。〆切は「1月4日」である。校正は三校まであるのだが、著者校正は再校の段階までなので、万全を期さなくてはならない。それと、英文サマリーの初校の方で問題が1つある。「左派社会党」の英語表記である。周知の通り、1945年11月に結成された日本社会党は、1951年10月に講和問題についての党内の意見の対立から左派社会党と右派社会党に分裂し、1955年10月に再統一されたのだが、分裂前の日本社会党の英語名はSocial Democratic Party of Japanで、再統一後の日本社会党の英語名はSocialist Party of Japanなのである。日本語名は同じなのに英語名は違うところに、日本社会党の複雑な党内事情が伺われる。最初の結成のとき、党名を「日本社会党」とするか「社会民主党」とするかで一悶着あった。党内左派は前者を支持し、党内右派は後者を支持し、前者が通るのであるが、その際、英語名は後者の顔を立てて「社会民主党」にしたのである。それが再統一後は日本語も英語も「日本社会党」になったのは、再統一が左派主導で行われたからである。で、ここまでは私も知っているのであるが、分裂時代、左派社会党と右派社会党がそれぞれ英語の名称をどうしていたのか、自宅にある資料では確認できないのである。図書館で調べればわかるはずだが、年末年始は休館である。上の事情から考えて、たぶん左派社会党はSocialist Party of Japan で、右派社会党は Social Democratic Party of Japanであろうと思うが、「たぶん」では駄目である。どなたかご存知の方、教えて下さい。

 ・・・・というようなことを書斎に篭ってやっていたら、何やら妻の機嫌が悪い。私が大掃除を手伝わないからである。うっかり、「日本橋の丸善に行って、帰りに有楽町で『ブルース・オールマイティ』でも観て来ようかな」と言ったところ、マジで切れそうになって、怖かった。仕方がないので、申し訳程度に、居間のドアのガラス拭きと、居間と寝室の天井の照明カバーの掃除をする。「浮世離れした学者」というイメージは男女共同参画社会ではもはや容認されないのである。

 

12.31(水)

 午後、日本橋の丸善に出かける。4階の洋書売場で日本の戦後史について書かれた本を探したが、収穫なし。外国人の関心があるのは、せいせい明治時代までの日本、『ラスト・サムライ』で描かれたような日本人であるらしい。ふと、横を見ると、外国人の若い男が平積の本の上に腰を下ろして本を読んでいる。なぜ店員は注意をしないのだろうか。「立ちなさい」と注意をしようと思ったが、相手をよく見ると、スキンヘッドで鼻にはピアス、黒の皮ジャンに腰からチェーンをぶら下げている。君子危うきに近寄らず。大晦日にこんなのを相手に喧嘩をして怪我でもしたら大変と判断し、頭の中で、彼の膝の上に檸檬の形の手榴弾を一つ置いて、ピンを抜き、その場を離れる。社会学のコーナーを覗き、Anthony GiddensのSociologyの第4版(2001)と、Murray KnuttilaのIntroducing Sociologyの第2版(2002)を購入。最近のバンドブックはどれも、従来の文献一覧に加えて関連ホームページのURL一覧が載っているが、ギデンズのものは本書専用のホームページまで開設しているところがすごい。同じ4階でカレンダー展をやっていたので、研究室用に毎日の月の満ち欠けが表示されている壁掛け用カレンダーを購入(陰暦版と太陽暦版があったが実用的な後者を選択)。それから、地下1階の文房具売場で娘が欲しがっていたスケジュール帳(12月終わりのものでなく3月まで記入できるもの)を購入し、そのまま地下鉄の通路に出て、向かいの高島屋の地下食品売場に御年賀用の進物を買いに行く。大変な混雑で、いかにも大晦日という雰囲気である。フルーツパーラーがあったので、ちょっと一服。アイスクリームの周りに、オレンジ、メロン、グレープフルーツ、西瓜、ブルーベリー等を散らし、生クリームをたっぷりかけたもの(名前は忘れた)を注文。カウンターの向こうで個々のフルーツがカットされ、盛り付けられていく過程を眺めつつ待つ。さながら寿司屋のカウンターに座っているようである。この季節に西瓜が食べられるとは思いもしなかったので、その甘さにはちょっと感激。「とらや」の羊羹と「松崎煎餅」の手焼き煎餅を購入し、帰宅。

 紅白歌合戦は白組の圧勝に終わる。こんなに大差(ゲスト審査員はほぼ全員が白組に入れたのではないか)は珍しい。私が一番いいと思ったのは、森進一が曲を作った長渕剛をバックコーラス(というよりもデュエットに近かった)にして歌った「狼たちの遠吠え」。初めて聴く歌だったが、2人の共演は圧巻で、これだけでも今年の紅白歌合戦を観た甲斐があった。ほかには、平井堅が映像の坂本九とデュエットした「見上げてごらん夜の星を」、森山直太郎の「さくら(独唱)」、モーニング娘。の「Go Girl~恋のヴィクトリー~」がとくによかったと思う。

紅白歌合戦の結果を見届けてから、近所の女塚神社に一家で初詣に出かける。


2003年12月(前半)

2003-12-14 23:59:59 | Weblog

12.1(月)

 雨の師走の入りである。『岩波茂雄への手紙』の「解説 岩波茂雄と『岩波文化』の時代」(飯田泰三)を読みながら、何通かの手紙に目を通す。たとえば、「岩波全書」創刊にあたって、岩波が三木清と相談して、田辺元に『哲学通論』の他にもう1冊別のテーマ(ヘーゲル)で執筆の追加を依頼したとき、それに田辺が怒って出した手紙(昭和8年3月21日付)。「・・・・小生の不快の原因は、貴兄も三木君も商品の大量生産をやる工場主(乃至支配人)が熟練職工を遇する態度を以て小生等に臨まれる資本家的態度にあるのです。我々(少なくとも私)の書くものはつまらぬものでも、とにかく一種の創作なので、唯時間をかければ出来る商品として扱われることは不平です。小さなものは小さいだけに、通俗なものは通俗なだけに根気と精力とを費やさなければ出来ません。それを僅かな間に四五十も景気よく並べて出す其労働の総動員に参加させて躍らせ様といふ態度は、学者の矜持が許さず友情の期待が承知しないのです。」岩波はこの手紙を読んで吃驚仰天、ただちに京都の田辺を訪ね、謝罪した。ときに岩波52歳、田辺48歳のときのことである。

 

12.2(火)

 晴天の一日。午後、有楽町マリオンに『阿修羅の如く』を観に行く。1時間ばかり早く家を出て、銀杏の大樹が美しく黄葉した日比谷公園の中の道をぶらついていたら、昔、何かの本の中で読んだ、「英語の単語の中で一番美しい響きをもった単語はpavementである」という一節を思い出した。映画はなかなか面白かった。ただ、連続TVドラマ用の原作を2時間半の作品に圧縮した関係で、エピソードを詰め込み過ぎた感はいなめない。それから、これは映像表現の宿命だが、さまざまな感情が「目に見える形」で表現されるため、ときに漫画チックというか、女の嫉妬を「恐ろしい」と感じるよりも先に「かわいい」と感じてしまう。実際、館内には何度も笑いの波が起こった。これは映画とは関係のない例え話だが、夫の愛人の得意料理がハンバーグであることを妻が知ったとしますね。その場合、夫が愛人と逢った翌日の夕食の食卓にこれみよがしにハンバーグを出すのは映画的な嫉妬の表現である。きわめてわかりやすい。しかし、本当に怖いのは、妻が金輪際ハンバーグを作らなくなることである。そして夫が「ハンバーグ、このごろ作らないね」と言ったときに、静かな口調で、「私はハンバーグ苦手ですから」と言う。ね、怖いでしょ。私の妻なら、絶対に、後者ですね(あくまでも想像ですけど)。

 

12.3(水)

 20回目の結婚記念日。花とケーキを買って帰る。

 

12.4(木)

 3限の公開講座の後、受講生12名と大隈会館内の「楠亭」でおしゃべり。「ケーキセット」は珈琲か紅茶にティラミスが付いて700円(飲み物はお代り自由)。1クラスに(人数に関係なく)5000円の補助が出るので会費は1人300円也。大隈庭園の紅葉は先週がピークのようだったが、構内の銀杏の黄葉はいまがピークかもしれない。

 生協文学部店で『丸山真男書簡集1』(みすず書房)を購入。著作集、講義録、座談集に続いて書簡集まで出ることになったか。「丸山真男」の商品価値いまだ衰えず。書簡集は全5巻で、第1巻には1940年から1973年までの書簡が収められている。パラパラと見たところ、一番興味を覚えたのは、1969年2月7日および2月25日の東京大学総長代行の加藤一郎宛の書簡である。前者は加藤が東大入試中止の責任を取って代行を辞職するという噂を聞いた丸山が辞職を思いとどまるように説得したもの、後者は再開第1回の講義の際の学生たちとの教室での質疑の様子や第2回の講義に出向く途中で学生たちにつかまって行われた「丸山教授追及集会」の様子を報告したもの。どちらも「時代の現場」からのレポートを読むような臨場感にあふれた文章。ところで、凡例をみると、第2巻は1974年から79年、第3巻は1980年から86年、第4巻は1987年から91年、第5巻は1992年から96年(没年)および補遺という構成になっているが、1940年から73年までの34年分を1巻まとめてしまうのは乱暴ではなかったか。せめて60年(安保闘争の年)までにしておいて、その分、その時期(丸山が清水と並んで「進歩的文化人」の代表であった時期)の書簡をもっと入れてほしかった。

 夕方、社会学専修を卒業して4年目、いまは外資系の証券会社で働いているHさんが研究室にやってくる。4月に日本橋に開校する早稲田大学の専門大学院ファイナンス研究科を受験するにあたっての推薦書の依頼。学生時代からテキパキ、バリバリやる人だったが、印象は少しも変わらない。

 7限の「社会・人間系基礎演習4」は先週でグループ発表が一段落し、今日はひさしぶりに私の講義。90分間フルに喋ると「喋った」感じがする。帰りの電車で長谷先生と一緒になる。今日が最後の卒論ゼミだったとかで、5限、6限、7限と通しでやっておられたらしい。

 

12.5(金)

 どうも風邪を引いたようである。しかも今日の冷え込みは格別である。明日は午後から国際会議場で人間総合研究センターのシンポジウムがあり、その司会を仰せつかっている。大事をとって今日の大学院の演習と卒論の個別指導はお休みにさせてもらい、家でじっとしている。

 

12.6(土)

 シンポジウム、無事終わる。懇親会のとき人間総合研究センター所長のY先生から「大久保先生は、以前、ジャーナリストでいらしたのですよね」と頓珍漢な質問を受ける。誰か人違いをされているのに違いないと思い、「いいえ」と答えると、「小説家でしたっけ」とますますおかしな方向へ質問が展開する。ワインが回っているらしい。横でそれを聞いていた嶋崎先生が、「いえ、エッセイストです」と茶々を入れ、「ああ、そうでしたか」とY先生納得してしまった。帰路、本部の14号館の前の銀杏並木が照明に浮かび上がって美しかった。

 

12.7(日)

「書林大黒」をのぞく。全品20%引きセールでいつもよりお客が多い。4冊購入。

(1)コリン・ウィルソン『敗北の時代』(新潮社、1959年)*300円×0.8

コリン・ウィルソンといえば『アウトサイダー』が有名だが、これを買ったのは訳者が若き日の丸谷才一だったから。

(2)永井龍男『カレンダーの余白』(講談社、1965年)*1000円×0.8

久保田万太郎を追想した文章が本書の白眉。

(3)佐佐木幸綱『底より歌え』(小沢書店、1989年)*1300円×0.8

著者は最近では俵万智の先生として知られているようだが、私にとってはやはり「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」の佐佐木信綱の孫である。本書は副題を「近代歌人論」という。信綱論も2編入っている。

(4)『ザ・大杉栄』(第三書館、1986年)*500円×0.8

「少年ジャンプ」のサイズの719頁の本に大杉のすべての著作が収められている(!)。

 

12.8(月)

 川崎チネチッタで『ラスト・サムライ』を観た。明治維新から間もない日本の軍隊の雇われ教官として来日した主人公オールグレン大尉(トム・クルーズ)は、南北戦争の英雄で、しかし、インディアン虐殺のトラウマを抱えていた。その彼が明治新政府の方針に疑義を唱える参議勝元(西郷隆盛がモデルらしい)の征伐を仰せつかるが、訓練不足の政府軍は百戦錬磨の勝元軍にあっさり敗れ、オールグレンは捕虜となって吉野の山奥の勝元の村に連れて行かれる。そこでの1年に及ぶ生活、勝元や村人たちとの交流が丹念に描かれる。いったんは江戸に戻り、帰国の準備を始めた彼であったが、勝元危うしと知って、勝元の側について政府軍と戦う決意をする。・・・・そういうストーリーである。殺陣が見事なこと、渡辺謙の鎧姿がかっこいいこと、小雪が美しいことなど、感心した点はいくつもある。反面、武士道礼賛が過ぎること(もしこれが日本人の作った映画だったらナルシシズムもいいところで、気恥ずかしくて観ていられなかったかもしれない)、勝元の英会話が上手すぎること(一体、どこで習ったんだ?)、最後の合戦の場所がゴルフコースにしか見えないこと(黒澤明の『乱』を思い出す)など、難点も多い。しかし、全体としてはよく出来た歴史大作だと思う。『ラスト・エンペラー』や『ダンス・ウィズ・ウルブス』のように作品賞は無理でも、何か1つや2つアカデミー賞を獲る可能性はあるだろう(たとえば渡辺謙が助演男優賞とか)。

 帰りに、タワーレコードで拝郷メイコのセカンドアルバム『ソイトゲヨウ』、あおい書店で「シリーズ世界の社会学・日本の社会学」の新刊『戸田貞三』(東信堂)を購入。戸田は清水幾太郎が東京帝大の社会学科に入学したときの主任で、清水はその戸田とソリが合わなかったために、いったん副手として研究室に残りながら、2年でそこを去ることになったのである。

 

12.9(火)

 来年度の卒論履修者のための仮指導が文学部の全専修でいっせいに行われる。私は自分の学生と、特別研究期間で海外におられる坂田先生の学生を対象に社会学演習室でゼミ形式で行った。1対1ではなく、私のようにゼミ形式で行ったのは他に長谷先生、嶋崎先生、山田先生。また、1対1ではあるが、自分の研究室で行ったのは土屋先生。後の正岡先生、長田先生、和田先生、浦野先生、森先生は伝統的なやりかたに従って学生控え室の隣の大きな教室に用意された面接コーナーで1対1で行った。仮指導の形式はおそらくこれからの指導の形式と対応しているのであろう。私は自分の学生には事前にA4判1枚のレジュメを準備させ、5分から10分で各自のテーマについて発表してもらった(坂田先生の学生には卒論計画書を見ながら話を聞いた上で、今日中に坂田先生に自己紹介を兼ねたメールを送るように指示する)。テーマに対する思い入れと、それを言語で表現する能力、卒論を書き進めていくために必要な2つの内的要因はこれでだいだいわかる。現時点での知識の量はそれほど問題ではない。知識の量は、2つの内的要因がしっかりしていれば、今後の時間の関数である。今月中に各自のテーマに関連した文献をリサーチし、そのリストをメールに添付して私まで送るように指示する。10時から始めて終わったのが12時半。自分が最後かと思ったら、まだ何人かの先生が終わっていなかった。1時から専修主任会なので、「天や」でそそくさと昼食を済ませる。

 

12.10(水)

 所属学会の1つである家族問題研究会から3年分(2001・2002・2003年度)の会費の請求書が届いたので、さすがに3年分未納はまずいだろうと、郵便振替で送金する。ところが机の中から2001年度の会費の領収証が出たので、「あれ?」と思い、学会事務センターへ電話で問い合せる。調べてみるので件の領収書のコピーをファックスで送ってほしいといわれ、そうしたら、ほどなく連絡が入り、事務局のミスだと判明する。では、1年分は返してくれるのかと思ったら、2004年度分を先払いしたことにさせていただきますとのことだった。あっ、そう・・・・。釈然としないが、まぁ、いいか。

 

12.11(木)

 文学部長(正式の名称は文学学術院長)の名前で、文学部の全専任教員に、「研究室での電化製品使用の自粛について」という文書が配布された。なんでも、最近、個人研究室で容量の大きい電化製品をしたことが原因でブレーカーが落ちるという事態が度々起きているのだという。「早稲田大学では、全学的に個人研究室は研究教育の場として設備を設けることになっており、電気容量の大きい電子レンジ、電気ポット、電気ストーブ等の衣食住につながる電気製品への電力供給を、前提としていません」とある。ひぇー、そ、そんな。私の研究室には、電子レンジこそないものの、電気ポットも電気ストーブもある。電気パン焼き器(トースターともいう)もあるし、電気扇風機もある。さらに、ジョージ・ワシントンのような正直さで告白してしまうが、小型の電気冷蔵庫まである。ど、どうしよう。しかし、ブレーカーが落ちたことなど一度もないぞ。なんでだろうと思いつつ、事務所に出向いて恐る恐る事情を聞いてみると、ブレーカーが落ちる事態が発生しているのは5つの研究室で1つのブレーカーを共有している第1研究棟で、私の研究室のある第2研究棟は1つの研究室に1つのブレーカーが対応しているのでそういう事態は発生していないとのこと。そういうことかと、ホッと胸をなでおろす。それにしても、電気ポットまで使用を自粛せよはないだろうと思う。だったら各階に共同の給湯室を設けるべきです。客人にお茶も出せないじゃありませんか。

 2002年3月に社会学専修を卒業して、オハイオ大学の大学院で社会学の勉強をしているM君が、一時帰国中ということで、研究室にやってくる。電気ポットで沸かしたお湯で茶を煎れる。向こうでの暮らしやこれからのことについてあれこれ話した後、夕食を一緒に食べようと「五郎八」に行ったら、彼、実は、蕎麦アレルギーであることが判明。おい、おい、そういうことは暖簾をくぐる前に言ってくれよ。でも、うどんは大丈夫ということなので、鴨せいろを勧めたところ、うまいうまいと食べてくれたのでホッとする。

 

12.12(金)

 早稲田大学での私の最初の教え子の一人で、東大の大学院に進み、いま日大で非常勤講師をしているT君が研究室にやってきた。来年度から講義に加えて1年生の基礎演習を担当することになったので、演習の運営の仕方について教えを請いに来ましたとのこと。大学の教員には教員免許というものがない。教育実習というものもない。したがって授業のやり方は各自が見よう見まね、試行錯誤を繰り返して開発する以外にない。そうつれなく突き放そうと思ったが、手土産持参である。しかも洋菓子のようである。しかたないなあ、ちょっとだけだよ、と1時間ばかり講釈を垂れる。その後はプチ忘年会。「五郎八」で食事をし、「カフェ・ゴトー」でお茶を飲む。T君は30歳。専任の職を得るためには、これからの1年1年が勝負である。授業に打ち込む傍ら、コンスタントに業績を積み重ね、公募に果敢にトライしていかなくてはならない。授業が好きで、楽しいというのは何よりだ。その気持ちを忘れずにいれば、チャンスの女神は微笑んでくれるだろう。

 

12.13(土)

 快晴。しかも暖かい。遅めの昼飯を食べた後、川崎に遊びに行く。「新京浜川崎クラブ」という囲碁・将棋のクラブが駅の近くのビルのあるらしいので、以前から一度行ってみたかったのである。

初めてのクラブに入るときはちょっと緊張する。以前、西船橋に住んでいた頃、武蔵野線の南越谷の新しく開店した将棋クラブに行ってみたら、平日の昼間だったせいか、客が一人もおらず、そのうち誰か来るだろうと思いつつ席主と指していたが、いつまでたっても誰も来ず、おまけに将棋はずっと私が勝ち続け、席主はだんだん無口になり、「じゃあ、今日はこの辺で」と気まずい雰囲気から逃げ出すようにクラブを後にしたことがあった(ほどなくしてそのクラブは廃業してしまった)。

エレベーターに乗り、5階で降りると、右が囲碁クラブ、左が将棋クラブであった(実は混浴の温泉のように中でつながっていた)。ドア越しにパチパチという駒の音がする。少なくとも先客はいるなと思いつつ、ドアを押すと、広い店内はお客さんがいっぱいで、びっくりした。さすがに地の利のいい場所にあるクラブは違う。カウンターで初めての客であることを告げる。カードに名前を記入し、棋力は三段と申告する。喫煙席と禁煙席があるとのことだったので、禁煙席での対局を希望する(こういうシステムは初めてで感心する)。

*この段落は将棋を知らない方は飛ばして下さい。最初の相手は同じ段で私よりも年配の方。攻めっ気の強い中飛車の布陣(左の銀を5三に出る形)で来られる。おとなしく応じていると主導権を握られるので、弱点の角頭を目標に急戦を仕掛ける。途中、難しい局面もあったが、相手の緩手をとがめて、最後は大差で勝つ。感想戦抜きで、相手の方はすぐに駒を並べ始めた。どうやらこのクラブは同じ相手と三番勝負(2番勝って初めてその相手に勝ったことになる)をするシステムらしいと気づく。2局目もやはり中飛車だが、今度は角を大きく左に転換してこちらの飛車の小びんを狙って来たので、またも角頭(ただし今度は角の位置の関係で、同時に玉頭でもある)を攻める。途中で飛車交換になる激しい将棋だったが、最後は玉頭の位がものを言って、やはり大差で勝つ。次の相手は、年齢は私と同じくらいか少し年長の、フランス文学専修のK教授を寡黙にした感じの紳士。段位は同じく三段。居飛車党のようなので、こちらは立石流四間飛車の布陣に組む。軽快な、筋に明るい棋風の方で、気づいたらこちらがやや指しづらい局面になっていた。しかし、将棋というのは面白いもので、少し悪いぐらいの局面というのは逆転がしやすいのである。なぜかというと、優勢を自覚した相手はこちらの勝負手に対しておとなしく応じて優勢を保とうとする心理が働くため、かえって決め手を逃してしまうのだ。この将棋もその通りになり、最後は大差で勝つ。2局目は反対に、序盤(角換わりの相居飛車)でこちらが優勢になり、それが緩手につながり、たちまち形勢を逆転され、ほとんど勝ち目のない局面に追い込まれてしまった。ところが、ここで相手が二歩を打った。最初、私もそれが二歩であることに気づかず、手筋の歩を打たれて弱ったなと考え込んでいたら、先に相手が気づき、歩を駒台に戻した。本来であれば二歩は反則負けなのであるが、チェスクロックを使った対局ではないので(つまりこちらの持ち時間が消費されたわけではないので)、そのまま指し続けることに異論はなかった。しかし二歩を打ってしまったとことに相手の方は動揺したのであろう、以後の指し手は精彩を欠き、入玉含みで徹底的に粘る私に根負けして、最後は攻めの主役の飛車も角も取られ、文字通り矢尽き刀折れという感じでなって投了された。ちょっと気の毒な感じだった(こういう負け方は堪えるのだ)。これで4戦4勝。時計を見ると午後6時半。ちょうどよい時刻なので、今日はこれで帰ることにした。川崎の駅のホームで、いましがた指した将棋の盤面を頭の中で再現していたら、反対方向の電車に気づかずに乗ってしまい、蒲田に着いて降りようとしたら鶴見だったのでびっくりした。

帰りに「TSUTAYA」で『マトリクス・リローデッド』を借りて、夕食の後、妻と息子と一緒に観る(娘はすでに映画館で観ている)。一作目の方が面白かったと思う。いろいろと思わせぶりに作ってはあるが、底が浅いと感じてしまう。ワイヤーアクションも、カーチェイスも、いまひとつ単調で、途中で「もういいんじゃないですか」という気分になってしまう。この手のシリーズもので、二作目が一作目を上回る面白さだったのは、『エイリアン』だけである。

 

12.14(日)

 9時に起き、『マトリクス・リローデッド』のビデオを「TSUTAYA」に返しに行く(翌日の午前10時までに返却ボックスに入れれば「当日返し」となる)。外出したついでに商店街を散歩する。普段、午前中から散歩に出ることはめったにないので、何だか新鮮。「南天堂」で古本を5冊購入。

(1)吉本隆明『世界認識の方法』(中央公論社、1980年)*400円

冒頭の吉本とフーコーの対談が面白そうだったので購入。吉本の発言よりも、フーコーの発言の方が明晰に感じられるのは、実際、フーコーが明晰だからだろうが、通訳が蓮實重彦であるためもあるかもしれない。こんな対談の通訳ができる人物はそうはいない。ところで、「あとがき」で吉本が「この本のいちばんはじめの対話から最後の対話までの時期に、〈世界〉はまれなほどの急激な変動を体験した」と書いているのだが、最初、何のことを言っているのかすぐにはわからなかった。1978年から1980年の間に起こった「まれなほどの急激な変動」って何だっけ? それは中越戦争、ベトナム・カンボジア戦争、ソ連のアフガニスタン侵入のことだった。そうか、そういうことがあったな。そうした社会主義諸国で起こった諸事件は、確かに、1980年の時点では「まれなほどの急激な変動」であったに違いない。しかし、それから10年後に東欧とソ連で起こったもう1つの「まれなほどの急激な変動」の前ではそれらは影が薄くなる。歴史研究の一つの落とし穴がここにある。われわれが知っている未来を過去の人々は知らない。彼らが何を考え、どう行動したかを理解しようとするなら、彼らにとって未来は常に深い闇の中にあったことを忘れてはいけない。

 (2)獄本野ばら『ツインズ』(小学館、2001年)*200円

先日、レンタルビデオで『世界の終わりという名の雑貨店』という魅力的なタイトルの映画(内容はアマチュアっぽい)を観たのだが、その原作者が獄本野ばらで、この『ツインズ』には「続・世界の終わりという名の雑貨店」というサブタイトルが付いていたので購入。映画は主人公の女子高生が日常の中に戻っていくところで終わっていたが、『ツインズ』を読むと、あの後、彼女は精神病院で自殺しちゃうんだね。ふ~む、そうなのか・・・・。で、その死んでしまった彼女への手紙として(あるいは自身の遺書のつもりで)元雑貨店主の青年が書いたのが「世界の終わりという名の雑貨店」という小説で、これがある女性編集者の目にとまり、彼は作家としてデビューする・・・・というのが『ツインズ』の物語の始まりである。カヴァーには作者の写真が印刷されているが、ああ、この人なら、「踊るさんま御殿」で見たことがある。見かけの奇抜さと違って、端正な文章を書く人である。

 (3)シオドア・スタージョン『海を失った男』(晶文社、2003年)*1000円

知る人ぞ知る(私は知らなかったのだが)アメリカのSF・幻想小説作家の作品集。知らない作家の本をなぜ購入したかというと、編者が若島正だったから。若島は京都大学の英文学の教授(数学者から転じたという経歴の持主)だが、私にとっては将棋のアマ強豪で、詰め将棋作家である。彼の考案した金銀4枚の玉頭位取りの布陣は実にエレガントであった。その彼が惚れこんだ作家なら間違いはないだろう。

 (4)村上信夫『帝国ホテル厨房物語』(日本経済新聞社、2002年)*700円

帝国ホテルの総料理長だった人の自伝。少し前に、「プロジェクトX」が東京オリンピックの選手村食堂の陣頭指揮をとったときの彼を取り上げていたので。

 (5)『HERO』(ブジテレビ出版、2001年)*200円

木村拓也主演の人気ドラマのノベライズ本。面白いドラマだったと思う。少なくとも同じく木村拓也主演の人気ドラマ『グッドラック』よりは格段に面白かった。

 夜、サダム・フセイン元イラク大統領が捕まったというニュースが飛び込んできた。やはり彼は生きていたのか。彼の扱いをどうするか。大変なのはこれからだ。