フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月30日(日) 晴れ

2006-04-30 23:59:59 | Weblog
  書斎の机の上の片付けていたら、書類の山の中から未開封の封書が出て来た。娘の大学からのもので、開けてみると学費の振り込み用紙が入っていた。前期分の納入期限は4月28日(金)となっている。すでに過ぎているではないか。妻のところへ持っていったら、「ダメじゃない!」と叱られた。す、すいません。でも、2、3日振り込みが遅れたからといってすぐに学費未納で除籍なんてことにはならないはずだけど・・・・。でも、余所の大学のことは知らないからなあ。
  午前中は研究ノートの更新作業。昨日、筒井清忠編『西條八十と昭和の時代』を読んで、考えたことを書く。更新を済ませてから散歩に出る。やぶ久で昼食(天丼とおろし蕎麦のセット)。東急プラザ5Fの西村フルーツパーラーの1260円の特製イチゴパフェ(普通のイチゴパフェは680円)に激しく惹かれたが、さすがに50過ぎの男が一人で日曜の午後のフルーツパーラーに入ってイチゴパフェを注文するのは困難である。栄松堂で、佐藤俊樹『桜が創った「日本」』(岩波新書)と土橋正『やっぱり欲しい文房具』(技術評論社)を購入。シャノアールで読む。後者で紹介されていた美篶堂のみすずノート小口染め(色は紺・松葉・こげ茶・黒・赤の五色)に惹かれる。素敵なデザインと良い紙質のノートというのは、まず購入し、用途はその後で考えるのである。
  夜、買ったばかりのモバイルノートPCで連休明けの授業の講義ノートを作りながら長谷川京子主演の『おいしいプロボーズ』を観た。レストランが舞台のTVドラマと言えば、矢田亜希子主演の『マイリトルシェフ』、竹内結子主演の『ランチの女王』、松本幸四郎主演の『王様のレストラン』などが思い浮かぶが、『おいしいプロポーズ』はそれらに比べてかなり見劣りがする。料理そのものが美味しそうに見えないところがレストランものとしては致命的である。

4月29日(土) 曇り、一時雨

2006-04-30 02:58:27 | Weblog
  ゴールデンウィークが始まった。5月1日(月)、2日(火)は担当科目はなく、会議の予定も入っていないので、5日(金)まで7連休である(6日の土曜日は2コマ授業があり、これはちゃんとやります)。もっとも連休といっても、行楽の予定があるわけではなく、自宅で読書と原稿書き中心の日々となるはずである。それでも「明日の授業の準備」の必要がないというのは素晴らしいことで、普段なら録画しておいて週末に観るTVドラマも、その日の放送時間に観ることができる(ささやかなことに幸せを見出す才能には、私、自信がある)。
  午前中、授業日誌を更新し、演習ⅡBの学生たちに業務連絡のメールを出す。演習ⅡBといえば、先日、彼らの書いた自己紹介シートを読んでいて気づいたのだが、自分のことを「○○と呼んで下さい」と書いてあるケースがけっこう多い(ただし全部女子学生)ということだ。自分の呼称を指定するという行為には、複数の呼称の可能性が想定される状況において、他者が迷わないようにという配慮と、自分にとって好ましくない呼称の排除という2つの意図がある。男子学生にそうした行為が見られないのは、複数の呼称の可能性が小さいためであろう。たとえば、「大久保孝治」であれば、「大久保君」か「大久保」で、「孝治」や「孝治君」や「たかちゃん」や「タッキー」(無理矢理です)という呼称の可能性はほとんど考えられないであろう。だからわざわざ「○○と呼んで下さい」と指定する必要がない。しかし女子学生の場合は、パーソナルネームが呼称として活用されることがしばしばあるので、選択肢が多くなるのである。「○○と呼んで下さい」と呼称を指定しているケースを見ると、そのほとんどがパーソナルネームないしその変形(愛称)を指定している。その理由を尋ねたところ、姓で呼ばれると疎遠な感じ(この人、私のこと嫌っているのかしら)がするからだという。つまり「○○と呼んで下さい」と呼称を指定する行為には「仲よくしてね」というメッセージが含まれているわけだ。男子学生の場合は、「仲よくしてね」というメッセージは、呼称の指定によってではなく、「(僕に)話しかけて下さい」という表現によって代替されているように思われる。ところで「○○と呼んで下さい」というアピールは同級生に対してのもので、教員は圏外なのかと尋ねたら、仲間外れにしては気の毒と思ったのか、「そんなことありません」と予想とは違った答えが返ってきたので、行きがかり上、呼称指定をしてきた女子学生はさしあたり「教室内限定」でその呼称で呼ぶことにしてみるかと考えている。
  午後、注文しておいたモバイルパソコンをラオックスに受け取りに行きがてら散歩に出る。サンカマタ商店街の中にある「多津美」というトンカツ屋で昼食(ロースカツ定食)。「一二三書房」で筒井清忠編『西條八十と昭和の時代』(ウェッジ選書)を購入。シャノアールで読む。途中から店内が混んで来たと思ったら、急に雨が降ってきたためらしい。傘を持ってこなかったので、雨宿りを兼ねて5、60頁ほど読む。とても面白い。「清水幾太郎と彼らの時代」の「彼ら」の一人に西條八十を加えたくなった。
  夜、業務連絡のメールで学生たちに観ることを勧めたETV特集「就職4年目の私・大卒離職率35%の衝撃」を観る。座談会の出席者の一人に大手商社の会長がいて、与えられた仕事を辛抱してやり遂げて成長していくことの心構えを若者たちに盛んに説いていたが、彼の新入社員時代の企業といまの企業の決定的な違いを見落としている(あるいは判っていてあえて言及しないようにしている)ように私には思えた。それは企業の側に社員を育てようとする意識が希薄になっていること、「使い捨て可能な労働力」として社員を見るようになっていることである。企業が自分を育てようとしてくれているのか、たんに働けるだけ働かせようとしているだけなのか、社員には判るはずである。前者の場合は辛抱のし甲斐があるが、後者の場合は体力が消耗し気持が荒廃していくだけである。この観点から会長に反論を試みる若者が現れることを私は期待して観ていたのだが、座談会に出席していた若者たちはお行儀のいい人たちばかりだったのか、あるいはそういう場面は編集でカットされたのか、そっちの方向には議論は展開しなかった。

4月28日(金) 晴れ

2006-04-29 02:01:51 | Weblog
  地下鉄早稲田駅側の「サブウェイ」で昼食用にサンドイッチを買う。新発売(期間限定)のアボガドベジーを注文。「サイズはどういたしますか?」と聞かれたので、以前B.L.TサンドイッチのMサイズを注文していささかもの足りなかった記憶があったので、今回はLサイズを注文してみた。目の前で注文した品が作られていく。LサイズというのはMサイズ(15センチ)の1.5倍くらいかと思っていたら、2倍だったので驚いた。ボリュームたっぷりだ。しかし、もっと驚いたのは、完成したLサイズのサンドイッチを、私に何の断りもなく、包丁でさっくり2つにカットしてしまったことだ。そ、それじゃあ、Mサイズのサンドイッチを2個注文したのと同じではないか?!いや、金額的には同じではなくて、Mサイズ2個の場合は360円×2=720円だが、Lサイズは660円で、60円お得なのである。しかし、私が言いたいのはそういうことではない。LサイズのサンドイッチはLサイズであることに意味があるのである。10カラットのダイヤと5カラットのダイヤ2個では、絶対、10カラットのダイヤの方が価値があるはずである。ああ、Lサイズのサインドイッチを両手でもって頬張りたかった。一瞬、駄々をこねてみようかとも思ったが、職場の近くということもあり、思いとどまった。
  ある授業で、学生に父親の職業を尋ねていたときに、「小説家です」と答えた学生がいたので、「えっ、小説家?! お名前は?」と聞くと、有名な方だったので、驚いた。
  その授業の後、研究室に戻ろうとキャンパスを歩いていると、この春大学を卒業したばかりのOさんが私を見つけて駆け寄って来て、「今朝、先生が夢に出て来たんです!」と言ったので驚いた。一瞬、何と返答していいかわからず、「そ、そうですか」と答えたが、研究室に戻ってから、「いや~、偶然だね。実は、僕もあなたの夢を見たんですよ」くらいのことは即座に返せないといけなかったなと反省した。まだまだ未熟である。
  別の授業で、授業が終わった後、一人の学生が教壇のところに来て、自己紹介をした。この春、社会科学部の大学院に入学したS君である。私の授業を聴講したいのだという。大学院の学生が学部の授業を聴講というのは珍しい(大学院の演習を履修したり、もぐったりするのが普通である)。「研究テーマは何ですか?」と尋ねたら、「清水幾太郎です」と答えたので驚いた。正直、今年になって一番驚いた。20代の青年が「忘れられつつある思想家」清水幾太郎の研究で修士論文を書こうとしているとは!
 「しかし、何でまた清水幾太郎なの?」
 「清水の本を読んで興味を覚えました」
 「何を読んだの?」
 「『倫理学ノート』です」
 「『倫理学ノート』! 最初に『倫理学ノート』を読んだの?!」
 「はい」
『倫理学ノート』は清水の98冊の著作の中で最高峰の一つで、おそらく一番難度の高いものである。普通は、『本はどう読むか』とか、『論文の書き方』とか、『社会学入門』とか、その辺りから入るものである。最初に『倫理学ノート』というのは、登山の初心者がいきなり冬の槍ヶ岳に挑むようなものである。しかも「それで清水に興味をもちました」とは恐れ入る。学部の授業では清水幾太郎の話なんかしないから、大学院の演習の方に来るように勧めたが、S君は昼間は会社勤めをしていて夜間の授業でないと出られないのだそうだ。そうですか、じゃあ、たまにこうして清水の話でもしましょうと言っておく。
  というわけで、今日はいろいろと驚くことがあった。  

4月27日(木) 曇り、時々小雨

2006-04-28 09:14:16 | Weblog
  JR東京駅から地下鉄東西線に乗り換える途中の飲食店街で昼食をとる。鮪のカツ定食。鮪のフライは子どもの頃によく食べた家庭料理の一つであるが、最近ではあまり見かけない。鰺のフライがまだまだ定食屋では定番メニューの地位を保っているのとは対照的である。懐かしさに惹かれて注文してはみたものの、期待していたほど美味しいものではなかった。生臭いのである。記憶の中の鮪のフライは全然生臭くはないのであるが・・・・。形も違う。子どもの頃に家で食べた鮪のフライは拍子木の形をしていたが、今日食べたのは鉄火丼で使うような薄くスライスした形をしていた。したがって歯ごたえに乏しい。店内には鮪のカツ定食を注文していた客が他にも数人いたが(みな中年の男性だ)、私と同じ感想を持ったのではなかろうか。
  本部キャンパスにある教員組合事務所に寄ったついでに古本屋を数軒のぞく。店外の百円均一本の棚から5冊購入。和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(岩波全書)、宮田光男『きみたちと現代』(岩波ジュニア新書)、養老孟司『バカの壁』(新潮新書)、山崎正和『曖昧への冒険』(新潮社)、谷川俊太郎・長新太『地球へのピクニック』(教育出版センター)。小雨が落ちてきたことを店主に知らせる。「メープルブックス」のシャッターが閉まっていたので、もしかして店仕舞いしてしまったのかと思ったが、本日臨時休業の貼り紙が出ていた。新参の古本屋のことは何かと気になるものである。
  4限(二文の卒論指導)、5限・6限(一文の卒論演習)、7限(社会人間系基礎演習)と授業が続く。合間に五郎八で夕食(天せいろ)。時間がなくて最後の蕎麦湯が飲めなかったのが心残り。10時半、帰宅。玄関脇の屋根付きのガレージスペースに「なつ」と「あき」用の新しい寝床(タオルや布きれを敷いたダンボール箱)を設けてやったのだが、二匹ともちゃんとそこに入っていた。私の顔を見て、「なつ」が箱から出てくる。人なつっこいから「なつ」なのかもしれない。風呂を浴び、録画しておいたTVドラマ『医龍』の2回目を観る。チーム・ドラゴンの3人目は麻酔医(阿部サダヲ)かと思っていたが、内科医(佐々木藏之輔)だったか。意外に落ちるのが早かったな。『医龍』の原作はコミックだが、そのコミックの原案はあの『ぼくが医者をやめた理由』の永井明である。彼が死んでもうすぐ2年になる。


4月26日(水) 曇り

2006-04-27 11:33:47 | Weblog
  午前中に歯科に行って、午後は娘の大学の演劇研究部の春公演を見物に行く。2時開演のところ最寄りの駅に着いたのが1時40分。バスを待っていたのでは間に合いそうになかったので、タクシーに乗る。子どもの目から見ると、大人が通りでサッと手を挙げてタクシーを呼び止め、それに乗り込み、「○○まで」と運転手に告げる一連の行為は、大人っぽいというか、いつか自分もあんな風に振る舞ってみたいと思わせる憧れの行為の一つなのだが、生憎、私は子どもの頃から乗り物酔いをする体質で、とくに自動車は最悪で(信号やカーブで加速や減速を頻繁に行うためだろう)、周囲の大人達の「じゃあ、タクシーで行きましょうか」という会話を聞くと、死刑宣告を受けた囚人のように打ちひしがれた気分になったものだが、今日のように短い距離(料金は900円だった)なら大丈夫。
  春公演「沈黙の臓器」は、新人部員の勧誘という目的があるためであろう、長短三本の演目で構成されている。最初の「ピロシキ」は、片方の腎臓がピロシキになってしまった青年とその主治医の二人の会話のみで構成されるショートコント。お笑いコンビのインパルスが演じても(板倉が医師役、堤下が患者役)そのまま舞台で使えそうな脚本である。「ピロシキ」が終わって、役者二人が客席に向かって、「本日は春公演にお出でいただきありがとうございます」と挨拶したので、「ピロシキ」は一種の前菜だったのかと了解する。
  二本目の「かえるちゃんのともだち」は、演劇研究部のオリジナルで今回が初演。女同士の友人関係にまつわるちょっとしたトラウマの物語。「ちょっとした」と書いたが、それは大人の目から見てのもので、当人たちには深刻な問題なのであろう。とくに友人関係が日常生活の中で大きな比重を占める若者たちにとっては。「かえる」は子ども時代のトラウマチックな出来事の原因であるとともに、現在のもつれてしまった友人関係をもつれの始まりの日まで「かえる」ことによって解きほぐしたいという願望でもあるのだろう。物語の最初と最後が呼応しているのは、なるほどね、という感じでスマートな印象を受けた(娘が脚本を書き、ヒロインを演じている芝居の感想を書くのは難しい)。
  三本目の「病気」は別役実の作品で、いわゆる不条理劇である。ちょっとした身体の不調を訴えて診療所にやってきたサラリーマンが、周囲で展開されるわけのわからない状況に翻弄されているうちに、当初は頑なに拒んでいた病人という役割を自ら引き受けることによって、そこに安住の場所を見出すという物語。ある意味、わかりやすい現代社会批判(正気と狂気の倒錯)なのであるが、なにしろ初演が1980年代の初めの芝居であるから、その正攻法さがいささか古風に感じられる。当時は、不条理劇というものを我慢して観ること、舞台上で展開される不条理な状況を「不条理なもの」として鑑賞し、楽しむ作法が観客の側にあったと思う。自分が不条理劇を理解できる観客であることを示すことが一種の自己呈示として機能しえた時代であったと思う。しかしいまはもうそういう時代ではない。「不条理なもの」を「わけのわからない面白さ」として鑑賞してくれる観客の存在を期待することはできない。「笑い」という人間固有の高度な精神の運動でさえ、「キロバトル」という単位で瞬時に判定され、一本の数直線上での序列が決定される時代なのだ。実際、授業時間との関係なのかもしれないが、上演中の観客の出入りの激しかったこと! 「不条理なもの」→「わけのわからないもの」→「面白くないもの」という回路で観客は反応する。私には、ある意味、舞台上で展開される不条理劇よりも客席で展開される観客の動きの方が不条理なもののように思えた。不条理な世界の中で不条理劇を演じてもインパクトは薄い。世界が不条理に充ちていることに不条理劇を観て改めて気づくという牧歌的な時代はもう終わったのである。あからさまに不条理な時代に不条理劇を上演することの意味は何なのか、演劇研究部は「研究」する必要があるだろう。