フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2005年12月(後半)

2005-12-15 23:59:59 | Weblog

12.16(金)

 3限の大学院の演習はUさんがアトピー性皮膚炎についての言説分析。アトピーから社会が見える。5限の調査実習は音楽班の発表。Jポップから社会が見える。ところで、本日は卒論提出の最終日。一文生は第一会議室に設けられた提出所に午後5時までに卒論を提出しなければならない。時間厳守の故、毎年、悲劇が起きるのだが、今年はどうだったのだろう。私の担当している学生は全員無事提出できたのであろうか。二文生は直接私のところに卒論を持参し、受領書に私が印鑑を押し、それを学生が事務所に提出するシステム。0さんは5限の授業が始まる前に、K君は5限の授業(6限まで延長)が終わった後に、研究室にやってきた。二人とも、とくにK君は、最後の追い込みで精神状態がハイになっているのであろう、卒論の内容についてあれこれ熱っぽく語るので、受領書を事務所に提出し忘れてそのまま帰ってしまわないように注意する。若者よ、落ち着きなさい。

 

12.17(土)

 2限の「社会学基礎講義B」、3限の「社会学研究10」、そして6限の「社会と文化」、すべて今日が最終回(年明け早々に教場試験)。以前は、授業はすべて通年単位だった。それが現在は、いくつかの演習科目を除いて、授業はすべて前・後期の半期制になっている。実質3ヵ月で、TVドラマのワンクールと同じ。あっという間ですね。TVドラマも昔は半年が普通だった。去年、『白い巨塔』が半年間やったが、ワンクールのTVドラマに慣れた視聴者には「大作」って感じを与えたのではなかろうか。都市化とは時間の短縮化である。時間は稀少な資源だから、それを効率よく使おうとする。たとえば、カップ麺にお湯を注いで待つ時間は当初は「5分」が普通だったと思うが、いまでは「3分」が主流になっている。カップ麺ではないが、「玄関開けたら2分でご飯」というキャッチフレーズの商品もある。数分の短縮が人生全体にとってどれほどの意味をもつかは疑問だが、「3分」や「2分」に慣れてしまうと「5分」を長く感じるようになる。一旦、半期制に移行した授業が通年に戻ることはもうないであろう。授業が半期制に移行する一方で、一回の授業の時間はあいかわらず90分のままである。小中高と45分ないし50分を単位とする授業を受けてきた学生には90分の授業は長く感じられるであろう。私自身、大学に入った頃はそう感じた。たんに時間が物理的に長くなっただけでなく、大学の教員は授業に格別の工夫をしない人が多かったから、なおさらである。ひたすら講義ノートを読むだけという授業も珍しくなく、あれはお経を聞いているようだったが、さらに驚いたことには、一部の学生はそれを懸命に筆記していた。私は漫然と聞きながら、たまに「なるほどね」と思ったところだけをメモする程度だったので、ノートは一向に消費されず、試験のときにもあまり役に立たなかった。しかし、後年、自分が試験を採点する立場になって気付いたことだが、自分が授業でしゃべったことがそのままコピーされているだけの答案ほど読んでいて退屈なものはない。記憶力はいいのだろうが、思考力がないのではないかと思ってしまう。ああ、また試験の採点の季節になった。今回は全部で400枚ほどであろうか。私は授業自体は苦ではないが、試験の採点が苦である。採点をしながら、なかなか減らない答案の束を見ていると、何かの呪いではないかと思ってしまう。

 

12.18(日)

 明日から調査実習の合宿で鴨川セミナーハウスに行く。折りしもこの冬一番の冷え込みである。カンパが街にやって来た。ラオックスに注文しておいたレーザープリンターのカートリッジを受け取りがてら散歩に出る。冷え冷えとした空気が気持ちいい。私は寒がりだが、防寒をしっかりして外を歩くのは好きである。駅前の商店街はクリスマスの飾り付けをしていて、それが全然お洒落な感じではなくて、私が小学生の頃もこんなふうではなかったかと思えてきて、なんだか楽しい。熊沢書店に寄って松岡正剛『知の編集術』(講談社現代新書)を購入。つい最近、松岡の「千夜千冊」というサイトを見つけて、すごい読書家がいるものだと感心した。取り上げている本の数もすごいが、一つ一つの書評の分量も半端ではない。しかも更新の間隔が短い。読み飛ばすだけならできるかもしれないが、読んだものについて何ごとかを書くとなると、立ち止まって考える時間が必要である。そう考えると、この更新の間隔の短さは感動的である。感動的といえば、「千一夜」と「千二夜」の間に置かれた番外篇「退院報告と見舞御礼」は必読である。夜、明日の合宿ための資料の作成。ただいまの時刻、19日午前2時半。そろそろ寝なければ・・・・とパソコンの電源を切ろうとしたときに、社会学専修主任の長谷先生にメールを出さなくてはならない用件を思い出した。就寝は3時だな。

 

12.21(水)

 夕方、調査実習の合宿より帰宅。鴨川セミナーハウスでの3日間は天気に恵まれた。演習室の窓からはなだらかな丘陵と海が見える。丘陵には一日中陽があたっている。学生たちの報告を聞きながら、ときどき窓の外に目をやっては、あの丘陵に小さなセカンドハウスを建てて、リビングルームのソファーで本を読んだら気持ちがいいだろうなと考えたりした。海の見える家に住むことは私の人生の夢の一つであるが、妻に言わせると、海辺の家は潮風で傷みが早い上に洗濯物がちゃんと乾かないからダメだとのこと。海辺の家というのは夫婦の一方がロマンティックなだけでは建たないのである。合宿で予定していたことはすべて予定どおり消化できた。26人の学生(1名体調不良で不参加)が各自のインタビュー対象者のライフストーリーを紹介・分析し、それをもとに質疑応答。1ケースに要する時間は30分から40分。学生は自分が報告者を演じるのは26ケース中の1ケースで、残りのケースに関しては聞き手である。このとき積極的に聞き手の役割を演じることが出来るかどうかが重要である。積極的に聞き手の役割を演じるとは、第一に、居眠りをしないということであり、第二、質問や意見を述べるということである。残念ながら居眠りをする者(とくに最終日の午前中)や発言をしない者はいたけれども、総じて言えば、質疑応答は活発であった。特筆すべきは男子が全員発言したことである。26名中男子学生は6名で、日頃は女性のパワーに押されがちなのだが、今回は幹事のS君を筆頭によく頑張った。頑張ったのは演習の時間だけではない。食事の時間も頑張ってお代わりをしていた。唯一の体育会系のG君は、夏の軽井沢合宿では体調不良のため「見かけ倒し」と後ろ指を指されていたが、今回は汚名返上とばかり、お代わりをする度に私に「○杯目です」とアピールをしていた。

 

12.22(木)

 今日は冬至。文学部前の穴八幡神社には一陽来復のお札を求める人たちで混雑していた。私も母親に頼まれてお札を一枚購入。その足で娘へのクリスマス・プレゼントを購入するために生協文学部店へ。昨夜、妻が娘に何が欲しいか尋ねたところ、「本がいい。お父さんに選んでほしい」とのことだったので、通常、人に本をプレゼントすることはしない私なのであるが(押しつけがましい気がするので)、娘の希望とあればしかたがない。さて、どんな本にしよう。思案の結果、以下の6冊(持ち歩きに便利なように全部文庫本)を購入。

川上弘美『蛇を踏む』(文春文庫)

江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』(集英社文庫)

小川洋子『博士の愛した数式』(新潮文庫)

レベッカ・ブラウン『体の贈り物』(新潮文庫)

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)

本多孝好『MOMENT』(集英社文庫)

代金は2625円(定価の一割引き)。安上がりなクリスマス・プレゼントである。夕方から現代人間論系運営準備委員会。会議の後、同じメンバーで高田馬場の「欣隆」という台湾料理店で忘年会。久しぶりにビールを飲む。う~ん、美味い。ただし、最初の2杯(コップ)だけだけど。料理も美味しかった。安藤先生の行きつけのお店なのだが、駅からは少々離れており(寒かった)、「こんなところにこんな店があったのか」という感じのお店で、人生が一つ豊かになった気がした。帰宅して、一陽来復のお札を決められた方位の壁に貼り、ゆず湯に入る。

 

12.23(金)

 ひさしぶりの休日。しかし合宿の身体から戻っておらず、朝7時に目が覚め、起床。身体は疲れているのに、神経が鎮静していないのである。昼食(チャーシュー麺)の後、2時間ほど居眠り。夕方、散歩に出る。栄松堂で、杉田弘毅『検証 非核の選択』(岩波書店)と高橋伸彰『グローバル化と日本の課題』(岩波書店)を購入。シャノアールでクリームソーダを飲みながら前者を読む。タイトルは堅いがジャーナリスト(共同通信社ワシントン支局長)の書いたものだけあって読みやすいし、面白い。戦後という時代を考える上で「核」の問題は重要度Aランクであることを再確認した。

インターネットで注文しておいた「ほぼ日手帳」が今日届いた。評判の手帳なので一度自分で使ってみたかったのだ。スケジュール帳としてではなく(それは大学から支給される能率手帳で足りている)、日々の記録帳として使うつもり。「生活を楽しむ手帳」というコンセプトに共感。最近は「目標実現のためのツール」としての手帳が流行しているが、そういうガツガツした感じがないところがいい。

調査実習クラスの学生、SさんとMさんが(並べると変な感じだが)、各自のブログで「今日、久しぶりに吐いてしまった」という話を書いていた。偶然の一致と思うが、合宿の疲れと暴飲暴食(?)にこの寒さが加わって、体調を崩したのかもしれない。Mさんの場合は自宅で吐いたようなのでまだしもだが、Sさんの場合は電車の中(駅のプラットフォームか?)で吐いたらしい。悲惨である。しかも「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる人はほとんどいなかったそうだ。若い女の子が飲み過ぎて吐いていると見られたらしい。Sさんの感想。「冷たい社会だなぁ」。ようやく気づきましたか。そう、社会(都市)とは冷たい場所なのである。それはいまに始まった話ではなく、都市が形成された当初からそうなのである。だからこそ人々は暖かい場所としての家庭を必要とした。「冷たい社会と暖かな家庭」は同時発生的なのである。もちろん現実の家庭は必ずしも暖かいわけではない。だから人々は理想の家庭と現実の家庭との間の温度差に苦しんだ。近代小説の一形態としての家庭小説は夫婦や親子の不和や対立をテーマとしているが、そこには家庭への過剰な期待があった。明日はクリスマスイブ。クリスマスケーキを家族で食べるという高度成長期に定着した慣習は、こうした家庭への過剰な期待に応えるための演出の一つである。社会学者の家庭も例外ではない。

 

12.24(土)

 午前、このところ食欲低下の著しい父を車椅子で近所の内科医院へ連れて行き、点滴を打ってもらう。処置室で点滴をしている間、ベッドの脇で本を読んでいたが、隣が診察室で、次々とやってくる患者と医師とのやりとりが全部聞こえてしまう。鼻水とか下痢とかの話ならまだしもシリアスな会話もあってちょっと困った。それにしても年末のお医者さんは大忙しだ。

娘が昨日の夜、体調を崩し、今日は午前中に父と同じ近所の内科医院で診察を受け、家で安静にしていたので、K君との約束はキャンセルしたのだと思っていたら、午後6時を過ぎた頃に、玄関のチャイムが鳴って、ドアを開けるとK君が立っていた。キターーーーー!(2チャンネル風に)。娘が「おいでよ」と呼んだのである。そうか、そうか、そうまでして会いたいのか。仲の良いことである。というわけで、私、妻、娘、息子、母、K君の6名でクリスマスイブの食卓を囲むことになった。最初、緊張から、私の軽口にドギマギしていたK君ではあるが、ワインが回ってくるにつれ口が滑らかになってきた。妻が私に「いまなら本音のトークが聞けそうね」と言ったが、私としてはむしろそれを避けたくて軽口を叩いているのである。何もわかっちゃいないのだから。

 

12.25(日)

 山田昌弘さんから新著『迷走する家族 戦後家族モデルの形成と解体』(有斐閣)を頂戴する。落合恵美子さんが10年前に出した『21世紀家族へ 家族の戦後体制の見かた・越えかた』(有斐閣)が日本の戦後家族の解体を「楽観的」に描いたとすれば、本書は戦後家族の解体を「悲観的に」描いている。「現在起こっている状況は、家族の多様化というより家族の階層化であり、また、家族の変遷(ある形態から別の形態への移行)というよりは、移行先が不明という意味で『家族の迷走』の始まりである」というのが山田さんの見解だ。

迷走とは、従来の家族モデルにすがる人、新しい家族モデルを試す人、そして選択した家族モデルの実現ができる人、できない人、そして家族自体をもちたくてももてない人が混在する状況である。

 山田さんの予測では、グローバル化(の一側面としての雇用の不安定化)と、個人化(の一側面としての家族関係の不安定化)の進展によって、「できない人」や「もてない人」が今後ますます増えていく。彼らは新しいライフスタイルを生きているわけではなくて、自分が求めるライフスタイルを生きることができずにいるのだ。山田さんはすでに『希望格差社会』の中でそうした現状を描いているが、その現状の由来(戦後の60年間)を描いたのが『迷走する家族』である。ディープインパクトも負けてしまったことだし、年末年始にペシミスティックな気分に浸りたい人にはお勧めである。

 

12.26(月)

 午前中に年末の墓参りを済ませてから大学へ。卒業生のT君(96年卒)が研究室がやってきたので、「五郎八」で食事をし、「カフェ・ゴトー」でお茶をする。お土産に岩波ホールで上映中の映画『二人日和』の鑑賞券をいただく。お菓子も嬉しいが、こういうのも嬉しい。T君は主演の藤村志保のファンで、『カーテンコール』で映画館のもぎりの役を好演した彼女のことを私がフィールドノート(12.7)で取り上げたことが嬉しかったそうだ。夕方、二文の基礎演習の次回の報告班(労働生活班)の相談。夜、「楠亭」で「正岡先生と35年を語る会」(1月28日)の発起人の打ち合わせ。

 

12.27(火)

来年3月に定年退職される正岡寛司先生のお顔を初めて間近で拝見したのは、学部の3年生のときに履修した家族社会学の講義のときであったと思います。先生は40歳目前で、そのときの印象は、小太りで、色が黒くて、エネルギッシュで、なんだか炭団(たどん)のような方だなというものでした。

私は社会学専修ではなく人文専修の学生でしたので、そのままいけば、先生との関係もそれだけのもので終わっていたはずなのですが、大学4年の夏、卒論指導をしていただいていた心理学の相場均先生が心臓のご病気で急逝され、正岡先生にピンチヒッターで卒論指導をお願いすることになったのです。後期が始まってすぐに先生の研究室にご挨拶に伺い、卒論の構想についてお話させていただきました。先生は、「テーマが大きすぎる。もう少し禁欲したほうがよい」という趣旨のことをおっしゃいました。研究室に伺ったのはその一度だけで、締め切り前の一ヶ月ほどで400字詰原稿用紙75枚の卒論を一気に書き上げ、提出しました。タイトルは「子供と社会に関する発達社会学的考察」としました。卒論口述試験では、「今回読んだ卒論の中では一番面白かった」と言っていただけました。アドバイスに従ってコンパクトなものにしたのがよかったのでしょう。望外の評価に勇気づけられた私は、一年間の勉強の後に、大学院(社会学専攻)へ進み、今日に至っています。

 今年度、私は早稲田社会学会の機関誌『社会学年誌』の編集委員長をしているのですが、正岡先生に論文のご寄稿をお願いしました。頂戴した論文「社会学再考」は通常の倍近いボリュームがありました。私は論文のダウンサイジングをお願いしようかと思いました。しかし、内容に目を通して、考えが変わりました。削るのは無理な注文なのです。本当は、先生は論文のタイトルを「社会学再考(一)」としたかった。(一)は(二)を予告するものであり、さらには(三)(四)・・・・を予想させます。残念ながら『社会学年誌』には連載論文という形式はありませんので、タイトルから(一)は取らせていただきましたが、頂戴した原稿はダウンサイジングすることなくそのまま掲載させていただくことにしました。先生の最終講義(2006年1月28日4限、文学部38号館AV教室)ではその論文の抜き刷りが配られますが、タイトルから察せられる通り、そして実際にお読み頂ければわかる通り、この上なく大きなテーマに取り組んだ、禁欲というものとおよそ無縁な論文です。私は、30年前の卒論指導のときのことを思い出し、呆れると同時に愉快な気分になりました。つまりは感動してしまったのです。

 70歳になられた正岡先生は、お痩せにはなられたものの、色はあいかわらず黒く、ますますエネルギッシュで、備長炭(びんちょうたん)のような方という印象です。

 

12.28(水)

 午前、持病の診察で病院へ。病院は明日から年末年始の休みに入るので、さぞかし混んでいるかと思いきや、それほどでもなかった。山田昌弘『迷走する家族』を1時間ほど読んだところで名前を呼ばれる。診察、検査、会計を終え、院外処方の薬を病院のそばの薬局で出してもらい、「やぶ久」で昼食(すき焼きうどん)をとってから、一旦帰宅し、すぐまた散歩に出る。有隣堂で本と雑誌を購入。

塩野七生『ローマ人の物語ⅩⅣ キリストの勝利』(新潮社)

年に一作ずつの書き下ろしもいよいよ次巻で完結である。

岡田恵和『あいのうた シナリオ集』(日テレ)

   ノベライズではなく、シナリオそのままなのがいい。

 『世界 総目次1946-2005』(岩波書店)

   雑誌『世界』の創刊60周年を記念した総目次(著者別総索引付)。もちろん清水幾太郎研究の資料として。

 『考える人』2006年冬号(新潮社)

   特集「一九六二年に帰る」を読みたくて。

 『10年後の日本』(文春新書)

   この手の予測本はあたった試しがないのだが・・・・。

 ミュリエル・ジョリヴィエ『移民と現代フランス』(集英社新書)

   二文の基礎演習でのグループ発表のテーマと関連しているので。

 林香里『「冬ソナ」にハマった私たち』(文春新書)

   今年度の卒論で「冬ソナ」をテーマにしたものがあるので。

 村木和木『「家族」をつくる 養育里親という生き方』(中公新書ラルク)

   来年度の卒論で「養子制度」をテーマにしたものがあるので。

 さて、明日は書斎の大掃除。窓際に横積みにされた本や書棚に二重置きにされた本をなんとかしなくてはならない。はたしてちゃんと片付くのだろうか。

 

12.29(木)

 書斎の大掃除を始める。本の整理(しかるべき本をしかるべき場所に配置すること)を始めると大仕事になってしまうので、さしあたり机上の書類、窓際に横積みなっている本、書棚に二重置きになっている本の移動に着手する(ただし後ろの本の背表紙が見える程度の二重置きは許容する)。これが今日の成果だ。昨日の写真と比べるとスッキリしたのがわかるでしょ。で、そこにあった本はどこに移動したのかというと、階下の書庫ではなく、書斎のスチール製の本棚の上にダンボールの上置きを作ってそこに収納した。都会と同じで空間の有効活用のため書棚は高層化するのである。これで書斎の四方の壁面はドアと窓の部分を除いて天井まで本で埋まることになった。5年前、この家を建てるとき、こうした事態を予想して、書斎の壁面と床の強度は他の部屋の数倍に設計してもらった。大工の頭領がびっくりしていたのを覚えている。

 

12.30(金)

 我が家は二世帯同居である。三階建て住宅の一階は私の両親の居住スペース(ただし私の書庫がある)で、二階と三階は私と妻と子供たちの居住スペースである。台所と風呂はそれぞれにあるが、玄関は一つで内階段である。こういう形態の同居のため、日頃、宅配便の対応は一階の母がするのだが、届け先は私か妻であることが多く、母にはそれが不満のタネである(インターホンでは「宅配便で~す」と言うだけで、誰へのものかは言わないし、こちらも一々聞かないから)。今日は門松の件で一悶着あった。妻の父が今年の一月に亡くなったので、私たち夫婦は喪中である。年賀状も出さないし、お節料理も作らない。しかし、私の両親は喪中ではないから、神棚の注連縄を新しいものと交換し、鏡餅も飾っている。それはよいと思う。しかし門松を立てるのは遠慮してもらった。私がそれを言ったのは母が門松を近所の花屋から買ってきて、私にそれを門口に立てるように言ったときだったので、不承不承という感じが母にはあったが、門松を立てて角が立ったのでは洒落にならないと思ったのであろう、門松はなしということでコンセンサスを得た。ところで、この喪中なるもの、何はしていけなくて、何はしてよいのか、なかなか難しい。私が祖父母を亡くしたのは小さな子供の頃であったから、今回が実質的に初めての喪中経験である。インターネットのマナーのサイトを調べても、厳格なものからそうでないものまでかなりの幅があるようである。年越し蕎麦はどうなるのだろうか?

 

12.31(土)

 いましがた紅白歌合戦が終わった。一番印象に残ったのは、モーニング娘。の卒業メンバーたちが登場して、新旧のメンバーが一緒になって踊り歌った『LOVEマシーン』であった。1999年の大ヒット曲であるが、光陰矢の如し、彼女たちは最年少の懐メロ歌手であった。一番インパクトのあった歌はグループ魂の『君に缶ジュースを買ってあげる』だった。歌の上手な歌手はたくさんいたが、阿部サダヲほど一生懸命に歌った歌手はいなかった。彼らは白組の勝利に大きく貢献したと思う。さだまさしの『広島の空』もよかった。「蝉は鳴きつづけていたと彼は言った あんな日にまだ鳴き続けていたと 短い命惜しむように 惜しむように鳴き続けていたと」の部分が秀逸。最後のリフレインは、さだまさしの中に長渕剛が入って歌っているようだった。

 2005年を振り返ってみると、職業生活の面では、授業と会議と論文作成でこれまでになく多忙であった。一文の調査実習、二文の基礎演習、大学院の演習、演習はどれも例年以上に熱心な学生が多かった。講義科目が後期から週3コマになり、ずっと続けてきた講義記録の作成は無理になった。新学部関連の会議にはずいぶんと時間とエネルギーを投下した。社会学専修を離れて、文化構想学部の現代人間論系の教員になることに決めたので、何もかも一から考えていかなくてはならなかった。新天地の開拓者のような心境であった。学期中は授業に専念し、長期休暇中に論文を書くというペース配分は維持できた。家庭生活の面では、子供たちが一人前になるのはまだ先であり、その一方で両親とくに父の老いが著しく、下の世代の扶養と上の世代の介護の責任を同時に負ういわゆる「サンドイッチ世代」の真っ直中に自分がいることを痛感した。健康面では、ジムに通って筋力をつけつつ5キロのダイエットにも成功したが、持病の結石で二年連続の入院・手術を経験したので、差し引きゼロであろうか。職場と家庭以外の領域では、読むこと、観ること、聴くこと、歩くこと、食べること、人と会うこと、そして「フィールドノート」を書くこと、いずれも相変わらずの調子でやってきた。いや、やってこれた、というべきか。何よりもそのことを感謝しよう。


2005年12月(前半)

2005-12-14 23:59:59 | Weblog

12.1(木)

 今日から師走。しかし私は走らない。安静第一。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め。自宅で昼食(焼きそば)をとってから大学へ出る。5・6限は一文生の卒論演習。本日が最終回。残り実質1週間から10日、国民精神総動員レベル5(最大値)で頑張りなさい。渡り廊下を歩いていたら、二文の2年生で去年私の基礎演習の学生だったKさんと出くわす。「やあ、元気でやってるかい」と聞いたら、「はい、元気でやっています。実は、来年1月のミス日本の全国大会に出場することになりました」と言うからびっくりした。8名の関東地区代表の一人に選ばれたのだそうだ。「そ、そうなんだ。ということはミス日本も夢じゃないってことか。うん、なんだかいけそうな気がするぞ」と励ますと、Kさんはニッコリ笑った。笑顔が『冬のソナタ』の主演女優に似ている。これまで二文といえば吉永小百合さんであったが、ひょっとして、ひょっとすると、Kさんが吉永小百合さんの跡を継ぐかもしれない。7限の基礎演習は「教育」班の報告。新しい理想の学校のあり方が示される。その意気やよし。惜しむらくは学校以外の社会の諸セクター(自治体や企業や家族など)と理想の学校がどうリンクするのかが明らかでない。それが明らかでないと、子どもは理想的な学校に適応すればするほど学校の外側で不適応を起こすことになるかもしれない。社会学的思考とは社会のあるセクターや制度をその社会の他のセクターや制度と関連づけながら行う思考である。7限終了後、来週報告する班(エスニスティ)のメンバーと研究室で相談。11時半、帰宅。夕食は帰宅の途中の「つけめん大王」でとる(レバニラ炒め)。中華鍋を扱う料理人の身体所作にしばし魅入る。

 

12.2(金)

 昼から大学へ出る。「五郎八」で腹ごしらえ(天せいろ)。常連客の一人にスラリとした若い女性がいるのだが、彼女の前にはいつもせいろが三枚重ねられている。普通は二枚である。三枚は大盛りである。女性客の大盛りは珍しいので印象に残る。3限の大学院の演習はM君が70年代前後におけるフォークソングの変遷について実際に曲を紹介しながら報告した。私もこれに似たことを授業でやっているが、M君はオフコース(小田和正)のファンのようで、その動向に焦点があてられていた。レジュメも質量ともになかなかのもので、もぐりの授業(M君は教育研究科の博士課程の学生)に投下するエネルギーとしては過剰なように思えるが、「研究を楽しむ」ということは職業として学問をやっていこうとする人には不可欠の資質である。4限は研究室で二文生の卒論指導。5限(6限まで延長)の調査実習はキャッチコピー班の報告。合格基準ラインはクリアーしているので、質疑応答で出た問題点を改善して、バージョンアップした原稿に仕上げてほしい。

 

12.3(土)

 11月下旬から12月初旬にかけて我が家は記念日ラッシュである。11月25日が娘の誕生日。28日が妻の誕生日。そして今日12月3日はわれわれ夫婦の結婚記念日である。この過密さは尋常ではない。おめでとう三連発。ここでドメスティックに祝祭的気分を盛り上げてから、クリスマス、大晦日、お正月という年末年始の国民的行事を迎えるのである。午前中から大学へ。2限の社会学基礎講義を終えて研究室に戻ってくるのは12時20分頃。そうすると昼休みは正味40分しかない。だから土曜日の昼食は大学に来る途中のファミリーマートで買ったおにぎりなのだが、今日は頭の中で授業のシミュレーションをしながら歩いていておにぎりを買い忘れてしまったので、買い置きのカップヌードル(チリトマト)で済ます。3限の社会学研究10を終えて、小腹がすいたので、講義ノート作りの作業は「カフェ・ゴトー」でチーズケーキを食べながら。土曜のこの時間帯はたぶん「カフェ・ゴトー」が一番混んでいる時間帯で、大きめのテーブルで他の客(男女ペアと、大学の卒業生とおぼしき女性ペア)と相席となる。相席のときの作法はいかに彼らの話を聞いてない振りをするかにある。物理的には聞こえていても、心理的に無関心を装わねばならない。しかし、話の内容が興味をそそるものである場合は、なかなか骨が折れる。卒業生の女性ペアの話はゴシップ満載(私が早稲田大学の教員であるとわかっていたら話さないであろう内容)で思わず話に加わりたいくらい面白かった。いや、加わってもよかったかもしれない。カフェの見知らぬ客同士の間で会話が生まれるというのは、パリであれば普通のことである。東京でも居酒屋ではそういうことばしばしばあるようである。しかし東京のカフェではついぞ見ない光景である。社交的空間における非社交性ということ。深夜、『野ブタ。をプロデュース』(録画)を観る。サタン(邪悪なるもの)の化身である蒼井かすみの登場(正体暴露)によって信子、修二、彰の友情の絆はかえって強まった。異端者たちがいよいよ三聖人へと変身していく。

 

12.4(日)

 朝、雨戸を開けたら冷気がスーッと室内に流れ込むのがわかった。いよいよ冬本番か。午後、小雨の中、傘をさして散歩に出る。栄松堂と有隣堂を回って、村上春樹『意味がなければスイングはない』(文藝春秋)、大森与利子『「臨床心理学」という近代 その両義性とアポリア』(雲母書房)、リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』(白水社)、大泉実成『人格障害をめぐる冒険』(草思社)、和田哲哉『文房具を楽しく使う 筆記用具篇』(早川書房)、許光俊『世界最高の日本文学 こんなにすごい小説があった』(光文社新書)、山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』(光文社新書)、菅原健介『羞恥心はどこへ消えた?』(光文社新書)、松本健一『三島由紀夫のニ・ニ六事件』(文春新書)、大村敦志『父と娘の法入門』(岩波ジュニア新書)、『諸君!』1月号を購入。

 シャノアールで『諸君!』に目を通す。清水真木「ボランティア礼賛―「恐怖政治」への道」、林道義「東京女子大よ 私の何処が「不名誉」なのだ」、宮崎哲弥「今月の新書完全読破」の3篇を読む。清水真木はこれが論壇デビュー作か? 晩年の清水幾太郎のホームグランドであった『諸君!』で孫が論壇デビューを果たすというのは感慨深いものがある。

 自宅に戻り、さまざまなジャンルの音楽を論じた村上春樹『意味がなければスイングはない』の中から、まず「ブルース・スプリングスティーンとアメリカ」を読む。私はスプリングスティーンのファンであるが、彼の大ヒット曲「ボーン・イン・ザ・USA」には違和感を覚えてきた。ナショナリズム礼賛。しかし、村上の文章を読んで、その違和感が大いなる誤解(ただし、スプリングスティーンの側にも問題はあった)の上に生じたものであることが判った。スプリングスティーンの音楽とレイモンド・カーヴァーの小説の共通点についての考察も興味深かった。

 彼らは結局それぞれの夢を実現させることができた。もちろん紆余曲折はあったものの、一人は小説家になり、もう一人はロックンロール歌手になった。そしてどちらもワーキング・クラスの生活と心情をありありと描くことによって、創作者としてのアイデンティティを獲得し、ひとつの時代を画することになった。

 しかし彼らのいちばんの共通点といえば、自分たちが成し遂げたそのような達成を純粋な奇跡として捉えていることかもしれない。二人とも、自分たちが成し遂げたことを目にして(もちろんそれは彼らが一貫して激しく求め続けてきたものなのだが)、喜ぶよりも先に、驚きに立ちすくんでいるみたいに見える。いったいどのようにして自分たちがこれまで生き残ってくることができたのか、いや、そればかりか圧倒的なまでの世間的成功を収めることができたのか、それが自分でもうまく呑み込めないのだ。彼らは何度も何度も足下の地面を靴で踏んで叩いてみる。これは本当に本物の成功なのだろうか、と。

 ここで村上は、スプリングスティーンとカーヴァーを論じながら、自分自身の作家としての成功(世界的成功!)についても語っていると読むべきだろう。それは二人の作品についての共感的語りから容易に察せられることである。

 

12.5(月)

 リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』(岸本佐和子訳、白水社)には51の短篇小説が収められている。本文が190頁足らずの本なので、一つ一つの話はとても短い。超短篇小説といった方がいいだろう。しかし、そこには豊穣な物語が含まれている。たとえば、冒頭の「十三人めの女」は一頁わずか八行の作品である。

 十二人の女が住む街に、十三人めの女がいた。誰も彼女の存在を認めようとしなかった。手紙は彼女に届けられず、誰も彼女のことを語らず、誰も彼女のことを訊ねず、誰も彼女にパンを売らず、誰も彼女から物を買わず、誰も彼女と目を合わさず、誰も彼女の扉を叩かなかった。雨は彼女の上に降らず、陽は彼女の上に射さず、夕暮れは彼女に訪れず、夜は彼女を包まなかった。週は彼女の上を通りすぎず、年は彼女の上に明け暮れなかった。彼女の家に住所はなく、彼女の庭の草は刈られず、彼女の庭の小径は歩かれず、彼女の寝床は眠られず、彼女の食事は食べられず、彼女の服は着られなかった。そういったことのすべてにもかかわらず、彼女は人々の仕打ちを恨みもせず、その街に住みつづけた。

 最後のワンセンテンスがすごい。「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」(佐々木信綱)の「ひとひらの雲」みたいに、すべての叙述が最後の一言のために、それに向かって整然と配置されているという感じ。「十三人め」というのが、イエス・キリストの十三人の使途のひとり、イスカリオテのユダを連想させることはいうまでもない。完全なる黙殺。いまふうに言えば、究極のいじめ。しかし、「そういったことのすべてにもかかわらず、彼女は人々の仕打ちを恨みもせず、その街に住みつづけた。」このワンセンテンスで、彼女の裏切り者のイメージは払拭され、いや、むしろ事態は逆転し、彼女は聖人の様相を帯びてくるのだ。

 

12.6(火)

 午前10時から一文の卒論仮指導(19名)。これまで一番多かったのが20名だったから、ほぼそれに匹敵する人数。今日は顔合わせと割り切って2時間で終わらせることを目標としたが、結局、3時間ちょっとかかった。テーマはいろいろである。

 ネット社会での報道における人間の役割

 クラブミュージックに見る若者文化

 広告から見る社会

 恋愛至上主義社会における恋愛性差

 上京

 専業主婦VSキャリアウーマン

 ラジオにみる人々のコミュニケーションと社会意識

 企業の社会的責任(CSR)

 少子化時代に生きる女性

 『Shall we ダンス?』にみる結婚後の人生

 養子縁組制度に見る日本人の親子観について

 男のダイエット

 ブロガーの世界

 食における現代の親子関係について

 現代日本女性の幸せ探し

 現代社会における「東京ディズニーランド」の役割について

 ロックミュージックの社会的役割

 サーフィンの社会学

 日本人の語りにおける仮面意識

「マックス・ウェーバーにおけるナントカカントカ」とかいった類のいかにも社会学の卒論といった感じのものはない(そういう学生はもしいても他の先生のところへ行っているのであろう)。流行の社会現象やトピックスが中心である。女性や家族に関するテーマが多いのは学生の性別の偏り(男子学生4人、女子学生15人)の反映である。たぶん何割かの人は今後テーマが変わるであろう。それはかまわない。自分が本当に取り組んでみたいテーマでなければ意味がない。テーマをきちんと立てること、これが卒論の第一関門である。仮指導を手伝ってくれた院生のI君と「五郎八」で昼食(揚げ餅うどん)。午後3時からカリキュラム委員会。午後6時半から二文の卒論仮指導(2名)。「ホドリ」で夕食(焼肉)をとりながら9時頃まで行う。あゆみブックスで『将棋世界』1月号を購入し、帰りの電車の中で読む。プロ試験に見事合格した瀬川さんの写真が表紙を飾っている。7月4日のフィールドノートで、私は今回のプロ試験の結果を「●○●○○」で第5局で瀬川さんが合格を決めるだろうと予想し、その通りになった。自慢しておきたい。

 

12.7(水)

 シネスイッチ銀座で上映中の『カーテンコール』(佐々部清監督)を観た。福岡のタウン誌の若い女性記者が、読者からの投稿がきっかけで、昭和30年代末から昭和40年代中頃にかけて下関の映画館「みなと劇場」に出ていた幕間芸人の消息を尋ねる物語。高度成長期の後半、映画産業の全盛期から衰退期へと移りゆく時代、在日朝鮮人差別を背景として、幕間芸人の家族の暮らしと、そして離れ離れになった父と娘が二十年ぶりに済州島で再会を果たすまでを描く。古き良き時代へのまなざしは『ALWAYS 三丁目の夕日』に似たものがあるが、決定的に違うのは、『ALWAYS 三丁目の夕日』ではそうしたまなざしは映画観の客席の中にあって、作品の内部にはない(なぜなら昭和33年が「現在」だから)のに対して、『カーテンコール』は現代が「現在」なので、観客ばかりでなく、登場人物たちも古き良き時代へまなざしを向けているということである。観客にとって『ALWAYS 三丁目の夕日』の登場人物たちは時間旅行の観光の対象であるが、『カーテンコール』の登場人物たちは時間旅行の同伴者である。『カーテンコール』の作品としての出来は必ずしも満足のゆくものではない。展開にもたもたしたところや、ギクシャクしたところが感じられる。しかしもしかしたらそうした「不器用さ」も古き良き時代へのまなざしを倍加させる効果があるのかもしれない。それになりより、私にとっては、鶴田真由(幕間芸人の娘)、奥貫薫(幕間芸人の妻)、伊藤歩(記者)というお気に入りの女優たちが出演しているだけで、もう十分なのである。藤村志保(モギリの女性)の魅力に気付いたことも収穫であった。映画館を出て、「千疋屋」で遅い昼食(フルーツサンドと珈琲)。周りを見渡すと女性客ばかりで、なんだか落ち着かない。しばらくして男女のペアーが入ってきてくれたので、ホッとする。神楽坂の「紀の善」なんかでも似たような状況をしばしば経験するが、甘党の男性たちはどこでどうしているのだろう。

 

12.8(木)

 午前中、病院。2時間待ちの診察は数分という典型的な病院時間。待たされること自体はそんなに苦ではない。本が読めるから。ただ電車の中とかの読書と違って、病院の待合い所の空気は重いので、読書の悦びみたいなものは感じない。自宅に戻る途中のセブンイレブンで昼食用におでん(大根、竹輪、竹輪麩、厚揚げ豆腐、ロールキャベツ)を購入。コンビニでおでんを買うのは久しぶりだが、熱々で、なかなか美味しかった。これで400円ちょっというのもリーズナブル。一服してから大学へ。6限は研究室で二文の基礎演習の次週の報告班の相談。Y君から手土産がわりのカップ麺(日清どん兵衛天ぷらうどん)を頂戴する。彼の親元から届いたもので東京では売っていない関西風の汁がポイント。彼らが帰った後、さっそく食してみたが、うん、いける。東京人の私にも関東版は汁が濃すぎる。東京でも関西版を買えるといいのにと思う。7限の基礎演習はエスニシティ班の報告。外国人労働者の問題がテーマだったが、日本社会にとって痛し痒しの問題で、簡単な解決策などないのだが、発表後の質問に考え考え答えていた誠実さを評価したい。大学を出たのは9時半を回っていた。実は蒲田で卒業生のMさんと待ち合わせをしていて、彼女から私が録画ミスで見落とした前々回の『野ブタ。をプロデュース』のDVD(彼女が録画していたもの)を受け取る手はずになっているのだ。Mさんは銀座ワシントン靴店で働いているのだが、今夜はリーガルシューズ蒲田店の店長(Mさんと同期入社で同じく早稲田大学卒の女性)と蒲田でカラオケに興じる予定なので、蒲田に着いたら携帯に連絡してもらえればDVDをお渡しに行きますと連絡をもらったのである(彼女は私のホームページを見て『野ブタ。をプロデュース』の件を知ったのである)。蒲田到着は10時40分。改札附近で待っていてくれたMさんからDVDを受け取る。このお礼は後日ということで横浜方面の電車のホームに向かうMさんたちを見送る。Mさんは卒論でTVドラマをテーマにしたほどのTVドラマ・フリークで、卒業後も季節季節のドラマ評をメールで交換している。持つべきものはよき教え子である。

 

12.9(金)

 昼から大学へ。3限の大学院の演習はN君が執筆中の修士論文(私が副査の一人)の概要を報告。「ひめゆりの塔」の戦後史を物語論との関連で論じたが、論文の構成および論理展開に曖昧な部分がある。残り一ヶ月でどこまで詰められるかの勝負である。卒論は来週が締め切りだが、修論はそれを抱えて年を越さねばならない。いわゆる正月気分を味わうことは難しいだろう。お気の毒なことである。いっそのこと来年度からは年末提出にしてあげたらいかがか。授業後、学生会館と郵便局で用を済ませてから、「天や」で遅めの昼食(天丼と小うどんのセット)。5限の調査実習は映画・TVドラマ班の報告とディスカッション。今日取り上げられた作品は、『未成年』、『リリイ・シュシュのすべて』、『誰も知らない』、『プラトニック・セックス』、『深呼吸の必要』、『北の国から』。私が未見の作品も混じっている。年内に観ておかなくてはなるまい。午後8時頃まで延長して行う。帰り道、「ごんべえ」のおばさんと目があったので、そのまま店内に入り、ひさしぶりにカツ丼を注文。カツ自体は大したことはないのだが、甘辛味のカツの衣が美味しくて、御飯が進むのである。あゆみブックスで三浦雅士『出生の秘密』(講談社)を購入。電車の中で読む。

 

12.10(土)

 朝、家を出るとき、財布を机の上に置き忘れた。大学の近くのコンビニで昼食用のおにぎり三個を購入しようとして、そのことに気付いた。「あっ、ごめんなさい、財布を忘れちゃいました」と店員さんに謝り、店を出る。年に何度かこういうことがある。こういう場合のために、定期入れに千円札を数枚入れておくことにしているのだが、今回はそれも怠っていた。幸い研究室の引出の中に小銭があったので、昼食は「築地銀だこ」のたこ焼き(6個入り400円)ですます。しかし、6限が終わってから、いつもだったら蒲田の「とん清」あたりで特上ヒレカツでも食べるところなのだが、今日はそれができないため、まっすぐ家に帰り、家族の夕食の残り物(豚肉とブロッコリーの炒め、シュウマイ、卵スープ)を食べることになった。ところが御飯が残っていなかったため、階下の親の台所から御飯だけもらってきた。昔の日本映画を観ていると、ご近所から味噌や醤油を借りる場面がしばしば出てくるが、「御飯、分けていただける?」というのはなかったように思う。二世帯同居ならではのコミュニケーション的行為といえよう。

 

12.11(日)

 日曜の朝の楽しみは新聞の書評欄を読むことである。うちは朝日と読売の二紙をとっているので(一階と二階で)、楽しみも二倍である。午後、散歩がてら、書評を読んで目星を付けた本を買いに熊沢書店へ行く。熊沢書店には新聞の書評欄で取り上げられた本のコーナーがある。今日の朝刊で取り上げられた本もちゃんと並んでいて、担当者のやる気を感じさせる。蒲田で売り場面積が一番広いのは有隣堂だが、品揃えが行き届いているのは熊沢書店である。オーウェン・ギンガリッチ『誰も読まなかったコペルニクス』(早川書房)、北沢方邦『音楽入門―広がる音楽の宇宙へ』(平凡社)、竹内一郎『人は見た目が9割』(新潮新書)を購入。一階下のルノアールで、ポテトサンドイッチと珈琲を注文し、購入したばかりの本に目を通す。至福のひととき。TSUTAYAで『ローレライ』のDVDを借り、海老屋で鮪の角煮とわかさぎの佃煮を、十勝おはぎで鯛焼きを購入。夕食(海鮮鍋)のとき、わかさぎの佃煮を食す。すこぶる美味。食後、『ローレライ』を観る。潜水艦ものにはA級映画がいくつかあるが、これはB級映画である。堂々たるB級映画になりえる作品であったが、惜しむらくは「戦争」や「国家」や「戦後の日本」について何ごとかを語っているような素振りが見える。劇画的な登場人物が多い中で、ピエール瀧がよかった。彼は『ALWAYS 三丁目の夕日』にも氷屋の役で出演しているが、電気冷蔵庫の普及で表舞台から消えていく商売の悲哀を一瞬の表情で演じて存在感があった。

 

12.12(月)

 いま話題の三浦展『下流社会』(光文社新書)の冒頭に「下流度」チェックの12の質問が出てくる。半分以上当てはまるものがあれば、かなり「下流的」なのだそうだ。

1. 年収が年齢の10倍未満だ。→×

2. その日その日を気楽に生きたいと思う。→× (毎日が気楽だと早晩飽きてしまうと思う。のんびり出来る日がときどきあればそれで十分)

3. 自分らしく生きるのがよいと思う。→○

4. 好きなことだけして生きたい。→× (好きなことができないのはいやだが、好きなこと「だけ」して生きたいとは思わない)

5. 面度くさがり、だらしがない、出不精。→△ (面度くさがりで、だらしないが、出不精ではない)

6. 一人でいるのが好きだ。→× (一人でいるのも好きだ)

7. 地味で目立たない性格だ。→×

8. ファッションは自分流である。→× (服はたまにしか自分で買わない)

9. 食べることが面倒くさいと思うことがある。→× (えっ、そんな人、いるんですか?)

10.   お菓子やファーストフードをよく食べる。→△ (お菓子は食べるが、ファーストフードは食べない)

11.   一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごすことがよくある。→×

12.   未婚である(男性で33歳以上、女性で30歳以上)。→×

この質問の面白いところは、「下流的」であるかどうかを、経済的指標(収入や貯蓄)ではなく意欲や嗜好によって測定しようとしているところである。というわけで、○の数は1つ。△を○に格上げしたとしても3つ。どうやら「下流的」ではないようだ。だからといって「上流的」でもないだろう。たぶん「小市民的」なのだ。

 『社会学年誌』の「編集後記」を書いて担当者にメールで送信してから、昼飯を食べに出る。「やぶ久」のすき焼きうどん。半熟卵と甘辛の汁が煮込んだうどんにからまって実に旨い。TSUTAYAに寄って『ローレライ』を返却し、『誰も知らない』を借りる。評判は聞いていたが、小さな女の子が死ぬ話(その代表は『蛍の墓』である)は苦手で、今日まで観ないで来た。しかし調査実習の映画班がこの作品を取り上げることになったので、観ないわけにはいかなくなった。熊沢書店で玄田有史『働く過剰』(NTT出版)、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)、小林信彦『昭和の東京 平成の東京』(ちくま文庫)を購入。夕食の後、『誰も知らない』を観る。やはりいい映画だった。

 

12.13(火)

 午前、カリキュラム委員会。午後、教務委員会。間が20分ほどしかなかったので、昨日のチェックで「ファーストフードは食べない」と書いたばかりだが、モスバーガーを買ってきて研究室で食べる。モスバーガーのレジで店員さんに「先生!」と声を掛けられる。よく見ると、卒論演習のOさんだ。「もう卒論は仕上がったの?」と聞いたら、「はい、昨日生協に製本に出しました」とのこと。考えてみると、一文の卒論提出は明日からの3日間だから、いまの時点で仕上がってなかったら大変だ。それにしても卒論を仕上げてさっそくバイトとは元気がある。1960年代のアメリカの青春映画に出てきそうなモスバーガーの制服がOさんにはよく似合っていた。生協文学部店で桜井厚・小林多寿子編『ライフストーリー・インタビュー 質的研究入門』(せりか書房)を購入。来年度の社会学の2年生の演習の私の担当クラスのテキストにしようかと思う。栄松堂でドミニク・ノゲーズ『人生を完全にダメにするための11のレッスン』(青土社)、石井政之・石田かおり『「見た目」依存の時代』(原書房)を購入。夕食(ビフテキ、ジャーマンポテト、牛乳とほうれん草のスープ、トマトとレタスのサラダ、ご飯)の後、『リリイ・シュシュのすべて』をビデオで観る。中学生たちの鮮烈な心象風景。稲森いずみが母親役で出てきたのには驚いたが(たぶん友情出演)、ちょっと得したような気分。

 

12.14(水)

 ただいまの時刻、15日午前0時を回ったところ。いま、少なからぬ学生が卒論を死にもの狂いで書いていることだろう。16日(金)が提出最終日だが、製本をして提出しなくてはならないから、「当日製本」を利用するとしても、16日の朝が執筆のデッドラインである。残り1日と8時間くらいか。私自身も卒論は「当日製本」だった。ただし、製本屋さんに頼むのではなく、自分で製本をした。書き終えたのが最終日の朝で(私が書きなぐった原稿を、妹が同時進行で原稿用紙に清書してくれた)、それから百科事典で製本の仕方を調べ(!)、半日かかってクロス張りの製本を行い、事務所に提出したのである。おそらくクロス張りは私だけであったと思う。夜、『あいのうた』最終回を観る。最後の場面(外は桜が咲いていた)で、片岡(玉置浩二)が部屋から出てきたのにはびっくりした。てっきり、クリスマスの後、ほどなくして死んだものと思っていたから。「治ったわけではない」とナレーション(菅野美穂)が入ってはいたから、奇跡が起きたというわけではないようだが、普段着で朝の食卓に着いていたということはずっと小康状態が続いているということか・・・・。でも、ドラマ的にはちょっと往生際が悪くないか。はじめからこういうシナリオだったのだろうか。「片岡さんを死なせないで!」というファンの声に押されてシナリオが変更されたんじゃなかろうか。そんな気がする。

 

12.15(木)

 今日は5限の卒論演習がない(先々週で終了)。だから7限(午後7時40分から)に間に合うように自宅を出ればよい。ぎりぎり午後6時40分に出れば間に合う。しかし、それではいくらなんでもと思ったので、午後5時頃、家を出た。夜勤の人というのはこんな感じなのだろうか。空気が冷たく澄んでいて、西の空に明るい星がキラリと光っている。途中、「五郎八」はまだ開いていなかったので、「天や」で早めの夕食(天ぷらうどん)をとる。うどんは関西風。天ぷら(海老、イカ、茄子、いんげん)はうどんとは別に出てくるので、うどんの上には載せないで、天つゆで食べる。650円は割安感がある。7限の基礎演習は、階級班の発表。「デジタル・ディバイド」をテーマにした発表だった。基礎演習を担当していていつも思うことは、新入生のパソコンの習熟度にずいぶんと個人差があるということである。クラスのBBSを設置して、全員それに何かを書き込むように最初時間に指示を出すと、その日の夜のうちに書き込みをする者もいれば、たんに怠惰のためではなく、アクセスの方法がわからず、あるいはキーボードで文章を打つ訓練ができていないため、翌週になってもBBSに書き込みができないものが必ず何人かはいる。結局、研究室のパソコンを使って、イロハから教えることになる。幸い覚えるのははやい。しかし、私のクラスにはいないが、適切な学習の機会がないままに2年生になっても大学のメールのアドレスやパスワードを取得できていない学生もいるらしい。今日の報告はこうした格差(ディバイド)をどうしたら小さくできるかという話がメインであった。20分くらいで報告が終わったので、残った時間(30分ほど)をどうやって維持するのかといえば、けっこう次々と質問が出て、結局、授業時間を20分ほど延長して質疑応答を行った。午後10時、キャンパスを歩いたら、頭の真上に月がクッキリと輝いていた。「月天心貧しき町をとおりけり」(蕪村)。