フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月30日(火) 曇り

2013-07-31 03:39:42 | Weblog

  7時半、起床。

  バタートースト、冷製ポテトスープ、オレンジジュースの朝食。

   昼から大学へ。昼食はコンビニのおにぎり3個ですます。

   3限はゼミ3年生のKさんとYさんの個別相談。ゼミで勉強していきたいテーマについて話してもらい、アドバイスをする。

   4限は同じくゼミ3年生のSさんの個別相談。

   5限はゼミ3年生のもう一人のKさんの個別相談と、ゼミ4年生のTさんのゼミ論指導。

   トータルで5時間ほどしゃべっていた。

   7時半過ぎに帰宅。シャワーを浴びて、夕食。今日の献立は鶏のササミを野菜と一緒に蒸したもの。とてもヘルシー。

   夕食の後は3時頃まで、答案の採点や明日が提出締め切りの書類の作成。

   今週は毎日こんな感じになるだろう。採点地獄。いや、採点天国。ときどき採点天国の乱。


テーブルの上に乗って採点作業を見つめる飼い猫のはる。


7月29日(月) 曇り、時々小雨

2013-07-30 10:58:08 | Weblog

 8時、起床。

 10時半頃、自宅を出て、大学へ。

  途中、神楽坂で下車して、「SKIPA」で昼食をとることにする。自宅のある街(蒲田)、職場のある街(早稲田)、そえぞれ私にとっての地元であるが、その周辺の街も拡張した地元である。地元(GMT)との社交は日々のテーマである。

  店の前に行くと、のんちゃんが開店の準備をしていた。本日一番乗りの客である。

  定食を注文。カフェでは他のテーブルの客同士の会話が耳に入ってくる。けっこうプライベートな会話であることもあるが、聞こえないふりをする約束(暗黙の了解)になっている。久しぶりに会う男と女。女は最近結婚したばかりで、男はそのことを今日まで知らなかった。女が結婚した相手について男は尋ね、女は答える。女は結婚したら男友達とはもう自由に会えないだろうと結婚する前は思い込んでいたが、実はそうでもないということ、むしろ結婚したいまの方がゆとりをもって男友達と会うことができるようになるということを今日知った。そんな会話を聞きながら食事をし、食後のアイスチャイを飲んだ。

   3限の時間は採点作業。

   4限の時間、O君の卒業研究指導を済ませてから、中央図書館に行って、夏休みに読むつもりの本を借りてくる。早く読みたい。

   5限はゼミ論個別相談。前半はN君、後半はWさん。指導を終えて、「maruharu」にサンドウィッチを買いに行く。

   6限は9月卒業の予定のHさんの卒研口述試験。無事終わる。9月15日の卒業式にはもちろん臨席します。ゼミ生同様、卒研を指導した学生も私の教え子ですから。


7月28日(日) 晴れ

2013-07-29 09:41:12 | Weblog

  9時、起床。

  昼前に自宅を出て、池袋へ。新交響楽団のコンサート(東京芸術劇場)を聴きに行く。

  その前に腹ごしらえ。東京芸術劇場の裏手の西池袋公園のそばにパンの美味しいカフェがあると聞いたので、その店を探す。「CAFE TERVE!」という名前なのだが、西池袋公園がどこかだかわからない。野球少年たちに尋ねたら、親切にも公園まで案内してくれた。

  目指す「CAFE TERVE!」はすぐに見つかった。「天然酵母パンのお店」と黒板にチョークで書かれている。

  店内は、ほどよいテーブルの数とお客の入り具合で、ゆったりとしている。

  メニューを広げて、少考して、サンドウィッチとオレンジアイスティーを注文。サンドウィッチはパンも具美味しかった。お腹はまだ余裕があったので、何か追加で注文しようかとも思ったが、『孤独のグルメ』の主人公みたいになるといけないので(本当に呆れるくらい注文するのだ)、他のメニューを注文するのは再訪したときとする。、

  食後のスイーツは「La Famille」というシフォンケーキの専門店で。たくさんのシフォンケーキの中から店員さんお勧めのモモのケーキとコーヒーを注文。

  開場時間の1時になったあたりで店を出て、東京芸術劇場へ。今日は日差しが強い。 

  本日の演奏は、ブラームスの交響曲第3番ヘ長調とR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の2曲。どちらも有名な曲だが、後者の方は、冒頭部分こそ有名だがコンサートで全曲を通して聴くのは今日が初めてだった。交響詩というのは、4つの楽章からかっちりと構成されている交響曲とは違って、単一の楽章の中でたくさんのテーマが入れ代わり立ち代わり現れて、ストーリーが展開していく。私がこれまでに一番聴いた交響詩はR.シュトラウスの「英雄の生涯」だが(ワセオケがよく演奏するので)、あのストーリー展開はわかりやすかった。しかし、同じ作曲家による「ツァラトゥストラはかく語りき」のストーリー展開はそれほどわかりやすくはない。歴史的ストーリーと哲学的ストーリーの違いだろう。膝の上にパンフレットを開き、ストーリー展開を確認しながら聴いた。ストーリーが難解なだけでなく、奏者にとっては曲そのものも難曲で、ブラームスを演奏していたときよりも、緊張し、難しそうな表情だった。演奏が終わって、聴衆の拍手に応えていたときの笑顔は心底ホッとしたものだった。

  私はアンコール曲を期待したが、奏者たちのホッとした笑顔から、アンコール曲はないのだと理解した。「ツァラトゥストラはかく語りき」の練習に全力を注いだのだろう。お疲れ様でした。素晴らしい演奏でした。

  外に出ると、劇場前の広場では、ベルギービールの催しが開かれていた。私はビールは飲めないが、食べ物がおいしそうだったので、和牛の塩麹焼きというのを食べた。

  蒲田に着いて、「テラスドルチェ」のアイスコーヒーで一服。 よい日曜日だった。

  7時、帰宅。シャワーを浴びてから夕食。本日の献立はカジキマグロのソテー。

  『半沢直樹』の第三話を観る。『あまちゃん』並みの息をつかせぬストーリー展開だ。


7月27日(土) 晴れ

2013-07-28 03:17:03 | Weblog

  8時、起床。久しぶりの何の予定も入っていない土曜日。土曜日らしい土曜日。

  必修基礎演習のレポート29本をPDFファイルにしてコースナビにアップする(が、手違いで、20本しかアップできなかった。一度の操作てでアップできるファイルの上限が20なのだろうか。後から気づいて残りの9本をアップする)。

  ブログを更新する。昨日のイベントに来場いただいた方々と、関係者のみなさんに改めて感謝。

  朝食兼昼食を外に食べに出ようとしていたら、母が食事を作ってくれていたので、階下で食事。

  食事の後はしばし昼寝。一週間の疲れが溜まっているようである。真夏の健康法の一番は昼寝ではなかろうか。

  昼寝から覚めて、散歩に出る。駅の近くから「まやんち」に電話をして空席状況を尋ねると、「2、3席あります」というので、速足で向かう。

  ピーチメルバとアイスティー(アールグレイ)を注文して、昨日の日誌を付ける。

    昨日のトークショーで、私のブログの読者の一人でもある長谷先生が私のブログの解読を試みてくれたので、それに触発されて、ブログというメディアについて考えてみる。

   私がブログと日誌(いわゆる日記)の両方をやっていると話すと、「二つもですか」と驚かれることがあるが、ブログと日誌は似て非なるものである。一番大きな違いは読者の有無である。ブログは人に読まれることを前提にして書くものであり、日誌は人に読まれないこと(および読まれてしまうリスクがあること)を前提に書くものである。もし、日記を毎日書いていて、その内容をそのままブログとして毎日公開している人がいるとしたら、その日記は本来の日記ではなくブログの下書きにすぎないか、その人がまともな精神状態ではないかのどちらかだろう。

  私のブログのように日々の生活について書くタイプのブログの書き手は、映画『トゥルーマンショー』の主人公が本人は知らないうちに自分の生活のすべてがTVで実況中継されているのに対して、自分の生活の一部を意図的にネット空間にアップしているわけである。どのような一部を見せるかは書き手の意思に任されている。書き手は「見られている」客体であると同時に「見せている」主体でもある。ブログの読者はブログの書き手の日常生活を「覗き見している」ような気分になるが、「覗き見されている」側はそのこを知っている、つまり、「覗き見させている」わけである。しかし、読者とてただ黙って「覗き見させられている」だけでなく、見せられる日常の一部の中に、書き手がそれを見せるにあたって意図していることや、ときには意図していない無意識の動機までも解読してしまうことがある。ブログの書き手と読者の間にはそうした倒錯的といってもよいような知的な応酬が行われているのだ。ブログの機能は一般に「自己表現」と「つながり」だと言われているが、それはお行儀のよい言い方で、実はそうした「倒錯的な快楽」がブログの醍醐味なのだといういい方も出来るだろう。

   昨日のイベントに集まった人の多くは、長谷先生が指摘されたように私のブログの登場人物である。ちょうどTVドラマ『泣くな、はらちゃん』のように主人公の描く漫画の世界の登場人物が主人公のいる世界(イベント会場)に飛び出してきたようなものである。しかも、昨日のイベントのことを私がブログに書くことで、ブログから飛び出してきた人たちは再びブログの世界に回収されていく。日常生活とブログの中の世界はそうした入れ子的な関係にある。 

  「まやんち」を出て、「phono kafe」へ。カフェの梯子は夏の散歩の基本である。

  「今日は私は何人目の客ですか」と大原さんに聞くと、大原さんは出納帳を確認して、「11人目です」と答えた。一日で数人ということもあったことを考えると、漸増傾向にあるといってよいのではなかろうか。

  蒸しパンサンドとりんごジュースを注文し、大原さんと1時間ほどおしゃべりをする。最初は口下手な方かと思ったが、案外、話し上手な方であることが最近は明らかになった。

  夕食はポークソテー。 カフェの梯子をして帰ってきたわりには食欲がある。

  正岡寛司先生から先生が最近訳されたジョナサン・ターナー『感情の社会学理論』(明石書店)を頂戴する。これで先生が企画された「ジョナサン・ターナー 感情の社会学」シリーズ(全5巻)が完結した。

  昨日のイベントで坂井先生から拙著『日常生活の探究』が経済学者が「残余」と考える人間の感性(感情)から考察を出発している点を指摘されたが、その際、それはなぜなのかを長谷先生が(同じ社会学者として)一生懸命に答えてくれているのを私は他人事のように聞いていた(その前に20分ばかり一人でしゃべっていたので休憩していた)のだが、私が答えるのであったら、「感情が人間にとって重要なものだからです」と単純に答えたと思う。

  ジョナサン・ターナーは、むしろ社会学において長い間、感情研究が取り残されてきたことを嘆いている。

  「社会学者が感情を系統だてて研究するようになったのは、ようやく1970年代に入ってからのことであった。結果論ではあるが、感情が人間経験のすべての側面とあらゆる人間関係とに深く浸透している事実を本当に考慮すると、なぜこれほどまでに感情研究が取り残されたかは驚きというほかない。どうして社会学者は感情に目をつぶりつづけることができたのだろうか。」(29-30頁)

  ターナーはわかっていながらこういう問いわざとしている。感情研究は心理学者の仕事だとみんなが思っていたからである。

  「しかし社会学者は失われた時間を取り戻した。感情の研究は、現状においてミクロ社会学の最前線に立っている。しかも、感情は社会的現実のミクロ水準とマクロ水準とを連動する重要な連結管であるとしだいに判明してきた。」(30頁)

  本書を夏休みの読書リストに加えさせていただきます。


7月26日(金) 晴れ

2013-07-27 11:35:48 | Weblog

  8時、起床。今日は長い一日になる。

  9時過ぎに自宅を出て、大学へ。「シャノアール」で朝食をとる。

  11時から博士論文公開審査会に審査委員の一人として出席。学位申請者は早稲田大学社会科学総合学術院の庄司武史氏で、論文のテーマは「清水幾太郎の思想史的研究―形成、発展と現実への展開―」。清水の最初の著作『社会学批判序説』から最後の著作『「社交学」ノート』までを視野に入れて、清水の思想の変遷を「思想内在的に」論じたもので、400字詰原稿用紙換算で千枚に及ぶ大部の論文である。中核となるのはジョン・デューイの思想(プラグマティズム)が清水の思想に与えて影響の部分なので、私はその部分を中心に質問し、議論をした。

   3限は必修基礎演習は今日が最終回。レポート(最終版)を提出してもらい、内容について簡単に紹介(宣伝)をしてもらう。授業は今日で終わるけれど、今年度いっぱい、私は君たちの担任なので、何かあったら相談に来てださい。

    授業を終えて、「メルシー」に昼食を食べに行く。今日はタンメンではなく、チャーハンを注文。 

    5時半頃、研究室を出て、渋谷へ向かう。丸善&ジュンク堂渋谷店(東急本店7階)で開催される、拙著『日常生活の探究』(左右社)の刊行記念イベント(トークショー)に出演するためである。

   渋谷に来るのは久しぶりである。南口で出て、スクランブル交差点を渡り(ほんとに人が多い)、東急本店は左の道だったが、右の道だったかわからなくなり、信号待ちのときに隣にいた若い女性に道を尋ねようと「すみません」と声をかけたら、びっくりされたので、びっくりした。路上で他人に話しかけるのはもはや日常茶飯の行為ではなくなってしまったらしい。

   「右です。あの「BUNKAMURA」という文字の見えるビルが東急本店です」と教えてもらう。

  

   イベントは6時半から始まった。心配していたお客さんの入りもまずまずで、一安心。長谷先生の教え子や、坂井先生の放送大学の学生の方もいらしてくださっていた。それから私の教え子や、ブログを通じて交流のある方や、同業の方も来ていただけた。ありがとうございました。

  トークショーは始めての経験で、とまどうことが多かった。同業の方とのおしゃべりは日常茶飯である。数十人の人を相手に話をするのも教師であるから日常茶飯である。しかし、この2つのことを同時にやることはめったにない。誰かとおしゃべりをしながら、そのおしゃべりを他の誰かに聞いてもらうというのは、なかなか難しい。意識をおしゃべいの相手と、それを聞いている人たち(の反応)の両方にいつも向けていないとならない。しかも、今回の場合は、おしゃべりは対談でなく、鼎談であった。対談であれば、相手のおしゃべりが一段落したら、私が話す番であるが、鼎談の場合は、どのタイミングで割り込んでいったらいいか、どのタイミングで話題Aから話題Bに切り替えるか、を判断するのが簡単ではない。初心者がいきなり応用問題に取り組んでしまったようだった。

  おしゃべいの中では、長谷先生が私のブログをどう解読しているかという話や、坂井先生が社会学者は(というよりも私がだと思うが)経済学者が「残余」として扱っている部分(人間の感性)から考察を始めるところが新鮮だったという感想が、印象に残った。これについては、後日、落ち着いて考えてみたい。それにしても長谷先生の語り口と、坂井先生の語り口は、実に対照的であった。

  イベント終了後のサイン会というのも初めての経験だった。サイン会は、6月の「白鳥の湖」の公演のときに経験しているが、あのときは私がサインをもらうほうであった。本のどこに本を購入していただいた方の名前を書き、どこに私の名前を書き、今日の日付などはどこに書くのか、そういうことも知らなかった。並んでいただいた方の中にプロの編集者の方がいて、教えていただいた。

  とにかくイベントが終わり、関係者とカフェで一服してから、やれやれという気分で電車にのる。

  そういえばまだ夕食をとっていなかったことを思い出し、目黒で東急に乗り換えて、下丸子で降りて、「喜楽亭」で食事をする。夜の時間に来るのは初めてであったが、やはりお客は私一人であった。いつものチキンカツ定食。質問者の中に、「定食」について語った人がいたことを思い出す。  

  11時半、帰宅。長い一日だった。シャワーを浴びて、早々に就寝。