9時、起床。パンとハムとレタスと牛乳の朝食。食事をしていると、勝手口の辺りで野良猫の声がする。例の子持ちの猫だ。ベランダから顔を出すと、私に気づいて、上を向いて、ニャーと鳴く。食べていたハムを一枚放ってやるとペロリと食べた。もう一枚やるとやはりペロリと食べた。よほどお腹が減っているらしい。最後の一枚をやって、もうこれでおしまいと掌を振ってベランダから離れる。レタスだけでパンを食べる。
昼から大学へ。昼食を「たかはし」でとる。刺身(鮪と平目)定食。定食はよいものである。そう思っているのは私だけではないようで、定食主義(帝国主義でない)という言葉もある。定食のよいところは、第一に、見た目が楽しい。第二に、次は何を食べようかと箸の動きが複雑な図形を描く。これもまた人生の豊かさを表している。第三に、おかずだけが残ったり御飯だけが残ったりしないように無意識に計算しつつ食べるのでボケの防止につながる。第四に、もっと前に書くべきだったかもしれないが、栄養のバランスがいい。
今日は授業も会議もないが、教務室であれこれの仕事や面談、そして事務との打合せ。窓の外に目をやると緑が濃い。ソローの『森の生活』(1854年)が頭に浮かぶ。私が生まれるちょうど100年前に書かれた本だ。昨日の読売新聞の書評欄で都甲先生が『森の生活』を取り上げていた。
「ソローの試みを一言で言えば、生活の革命である。やるべきこと、手に入れるべきもの、世間での評判なんかでいつも僕らの頭はいっぱいだ。でも、本当に必要なことはそんなにあるのかな。むしろ無駄なもののおかげで、僕らは人間的に成長できないでいるんじゃないか。「働きづめの人間は、毎日を心から誠実に生きる暇などもたない。/ここまでは誰でも言える。ソローがすごいのは、実際に原始生活をやってみることだ。ネイティヴ・アメリカンたちの暮らしに触発されながら、湖のほとりに自力で小屋を建て、豆を育て、魚を獲る。そして二年間の孤独な暮らしを通じて自分でつかみ取ったものをシンプルな言葉にする。そこには権威や伝統に対する盲従などまるでない。」
私も教務の仕事が終ったら(まだ一年以上あるのだが)、私流の「森の生活」をしてみようかと思う。都市的人間である私には長期の田舎暮らしはできそうもないが、都市の中での「単純な生活」ならできそうだ。朝起きて、書斎で本を読んで、散歩に出て、昼飯を食べて、喫茶店で本を読んで、ジムで汗をかいて、風呂に入って、夕食を食べて、ものを書いて、寝る。・・・でも、これなら夏休みにやっているのと同じだということに気づく。やはり依存のシステムである都会を離れなければならないのだろうか。そうだ、「海辺の生活」はどうだろう。朝起きて、浜辺を散歩して、カフェで朝食をとり・・・い、いかん、自給自足でなければ。
6時で仕事を切り上げて、帰る。今夜は家で長男の23歳の誕生日を祝ってみんながそろって夕食を食べることになっているのだ(本当の誕生日は29日で2日早いのだが、29日は夕食の時間に全員そろわない)。蒲田に着いて、駅ビルでケーキを購入(妻から仰せつかった私の役目なのだ)。夕飯の献立は長男の(家族全員の)好物である餃子だった。
息子はこの夏に大学院の研究室のプロジェクトで一月ほど中国(成都)に行くことになっている。初めての海外だ。はなむけに奥田民生の名曲「息子」(1995)を贈ろう。
http://www.youtube.com/watch?v=m1aBXSYLsrI
明日は午前中にチュンを小鳥の病院へ連れて行く