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フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月28日(土) 曇り

2009-02-28 23:59:54 | Weblog
  寡黙に、しかし、メールは公私とりまぜて何通も書いたので、ある意味では饒舌な一日を自宅で過ごす。その中の一通のメールにまつわる話。 
  小学校時代の同級生だったN子さんからメールをいただく。N子さんはいま大阪の高校で英語の教師をされている。姓のイニシャルで書かないのは、結婚して姓が変わっているから、それでは別人のようでしっくりしないからである。N子さんは私のことを「孝治くん」と呼ぶきわめて少数の(絶滅危惧種といってよい)人たちの一人である。近所では廃業したクリーニング屋のおばさんぐらいだ。ただし、これはメールの中での呼称で、小学校時代、N子さんは私のことは「大久保くん」と呼んでいた。小学校のクラスには、美人で勉強もできる女の子というのが一人ないし二人くらいの割合でいると思うが(これは社会的法則の一種である)、N子さんはそういう女の子の典型だった。そういう女の子は学級副委員長になった。一方、学級委員長は男の子がなるものというジェンダーがはっきりしていた時代で、私もしばしばそれを務めた。しかし、3年・4年・5年・6年とずっと同じクラスであったにもかかわらず、私が学級委員長でN子さんが副委員長という組み合わせの記憶はない。どうしてかというと、学級正副委員長は通年のものではなく、学期ごとに別の生徒が選ばれたからだ。N子さんはたいてい一学期に副委員長に選ばれる。それに対して私は二学期か三学期に委員長に選ばれる。人望におけるこの違いが私とN子さんがペアになれない根本的な理由であった。ちなみに私としばしばペアを組んだE子さんは、いま、私の家の二軒隣に住んでいる。
  で、N子さんが今日メールを私に送ってきたのは(前回=初回から数年が経っている)、N子さんはTVドラマ『ありふれた奇跡』を観て、昔自分が住んでいた土地(蒲田・池上周辺)がロケ地になっていることに気づき、もしかしたら「孝治くん」のブログにそのことが載っているんじゃないかと思ったら、やっぱり載っていて(しかも度々写真まで付けて)、それで嬉しくなって・・・ということであった。『ありふれた奇跡』のおかげである。そしてもうひとつの「ありふれた奇跡」ともいえるのは、私が購入してその書名をブログに書いた本の著者が、N子さんがつい最近リカレント教育で大学院の修士課程で学んだときの先生のお一人だったことだ。清水幾太郎研究のための一冊として購入した本だが、そんなつながりがあったなんて、驚いた。N子さんは『ありふれた奇跡』を毎週その時間(大阪でも木曜10時)にちゃんとテレビの前に座って観るそうだ。そうしないとこの素晴らしいドラマに対して申し訳ないような気がするという。その感覚は実によくわかる。私も努めてそうするようにしている。お互い、そういう世代の人間なのである。

2月27日(金) 霙のち雨

2009-02-28 02:00:52 | Weblog
  10時、起床。霙が降っている。「淋しさの底ぬけて降るみぞれかな」(丈草)が頭に浮かぶ。本当に寒々とした冬の雨である。朝食兼昼食のインスタント・ラーメンを食べてから、近所の耳鼻科へ行く。喉の具合は昨日の朝よりも悪化しているように感じる。医者は「ずいぶん腫れてますね。これは重症です」と言った。おかしなもので、そう言われると寒い中を来た甲斐があったような気がする。これがもし「たいしたことはありませんね」と言われたら、「そんなことで泣くんじゃありません。男の子なんだから」と母親に言われた子どものような気分になったことだろう。抗生剤、消炎剤、去痰剤、そしてそれらの薬から胃腸を保護するための薬が処方される。向かいの薬局で処方箋を渡す。今日は薬剤師との世間話はなし。今日は(おそらく明日も)寡黙な男でいかねばならぬ。高倉健でいかねばならぬ。
  霙は氷雨(ひさめ)ともいうが、氷雨は霙よりも概念が広く、冷たい冬の雨一般を指す場合もある。午後、霙は氷雨に変わった。氷雨といえば演歌の名曲「氷雨」は私の愛唱歌の一つである。愛唱歌といってもカラオケや宴会の席で歌うわけではなく、傘を差して歩きながらひとりで口ずさむのである。多くの歌手に歌われていて、最近では「うたばん」でジェロが歌うのを聴いたが、プロの歌手に「上手」という言い方はへんだが、実際、とても上手だった。しかし、何といっても日野美歌の「氷雨」が一番だ。あのすみずみまで自分のものにした情感たっぷりの歌いぶりは完成された芸術品を観るようである。「氷雨」の歌詞のポイントは「傘がないわけじゃないけれど」の部分である。たんに「帰りたくない」というのと、「傘がないわけじゃないけれど 帰りたくない」というのとでは陰影の深さが全然違う。もしも、私が女性から「帰りたくない」と言われても、「帰りなさい」と言うと思うが(高倉健ですから)、「傘がないわけじゃないけれど 帰りたくない」と言われたら、同じ返事を言えるかどうか自信がない。今日、ユーチューブで検索していたら、本田美奈子の「氷雨」を見つけた。これがいいのである。日野美歌とは違う彼女独自の「氷雨」である。本田美奈子が白血病で亡くなって3年が経つ。映像の中で伴奏のピアノを弾いている羽田健太郎も一昨年に58歳で急逝した。美しく、淋しい「氷雨」である。

2月26日(木) 曇りのち小雨

2009-02-27 11:27:33 | Weblog
  8時半、起床。喉がいがらっぽく、声が出にくい。やはり風邪をひいたようだ。困ったことになった。今日は午前中から夜まで会議、会議の連続なのである。しかも黙って座っていればいいという会議は一つもない。ベーコン&エッグ、トースト、紅茶の朝食。
  10時半から拡大人事委員会。これから夜までのことを考えると、ここで喉を酷使することはできない。最初に手をあげ、しかし最小限の発言にとどめる。おかげで(?)会議は予想されていたよりも早く終了したようである。
  昼休み、研究室にやってきた4年生のTさんに頼まれていた書類を渡す。お土産にワッフルをいただく。腹持ちのよい昼食をとろうと「すず金」に鰻重を食べていったが、ずいぶんと混んでいる様子だったので、「メルシー」でチャーシューメンを食べる。外を歩いていると少々寒気がする。
  1時から今度新しく現代人間論系(兼思想宗教系専修)の助手になるS君への業務の説明。思想宗教系専修の丸野主任、T助手、現代人間論系からは私、K助教、A助手が参加。主任が甘いもの好きであることなどを説明する。よく覚えておいてね。
  2時から運営主任会。ここだけは発言しておかなければ、という場面のみ発言する。
  4時から教務と現代人間論系との懇談会。懇談とはいっても、ときとして激しい言葉の応酬もあった。耳鳴りがして、頭がくらくらする。いま倒れたら労災が適用されるのだろうかと考えたりした。
  引き続き、6時から現代人間論系の教室会議。遅くなることを予想して事前にAさんにお茶菓子の用意をしておいてもらう。配られたのは「たねや」のどら焼き、桜餅、黄粉餅など。主任の喜ぶ顔が見たいという一途な思い(?)が伝わってきて胸を打たれた。疲労はピークに達していたが、いくらか元気を回復する。8時半頃、終了。その後、論系室でK君、Aさんと細かな点の再確認。「9時になったら帰るから」とあらかじめ言っておき(今日は『ありふれた軌跡』のある日だ)、宣言通り、9時に大学を出る。
  10時、帰宅。しかし、そのまま『ありふれた軌跡』を観る気力はなく、ハードディスクに録画して、風呂に入る。よく考えたら夕食をとっていないことに気づき、風呂を出てから、夕食をとる。アスパラとベーコンの炒め、明太子、大根の味噌汁、ご飯。目を閉じて味噌汁を飲むと、その温かさが体中に広がる感じがした。食後、録画しておいた『ありふれた軌跡』を観る。クライマックスに向って物語が急速な展開を示す。自分が登場人物それぞれの立場だったらどういう言動に出るだろうかと考えながら、山田太一の人間を見る眼差しの深さ鋭さに畏怖の念すらいだきつつ、観る。
  フィールドノートの更新は明日回しにして、メールを一本書いてから、就寝。

2月25日(水) 雨のち曇り

2009-02-26 03:00:27 | Weblog
  8時半、起床。朝食は炒飯。今日は10時半から教授会があったが、一部の議題が定足数を満たさず次回(3月2日)に持ち越しとなった。困ったものだ。その日は定年退職される先生方の挨拶がある。本来予定されていなかった議題で時間が押したらお気の毒である。教授会の後、那須先生、長田先生と早稲田社会学会の件で1時間ほど相談。それから「秀永」に昼食をとりに出る。定番の木耳肉(ムースーロー)定食を注文。今日は寒い上に、ちょっと風邪気味のせいもあって、コートを着たまま食事をする。椅子に座っていながら、立ち食い蕎麦屋で食事をしているような気分だった。大学に戻り、しかし研究室は寒いので、教員ロビーで食後の珈琲を飲みながら、加藤周一『私にとっての20世紀』(岩波現代文庫)を読む。すでに、単行本(2000年)で読んでいる本だが、加藤の死去を機に現代文庫として再刊されるあたって、2006年の講演会の記録、2008年(8月4日上野毛の自宅で)のインタビューの記録、そして成田龍一による解説が加えられたので、それが読みたくて購入した。インタビュー記録「加藤周一・一九六八年を語る―「言葉と戦車」ふたたびー」を興味深く読む。1968年とはパリでいわゆる「五月革命」が起こった年であり、世界中で同時多発的にスチューデントパワーが爆発した年である。「なぜ同時に世界で起こったのでしょう」という質問に加藤はこう答えている。

  「なぜか。それを説明するのは難しい。いくらなんでも全然似ていない状況のもとで酷似した戦闘が起こるのはどうしてかという問題ですね。しかし、それははっきりした理由と論点のない、茫漠とした、しかし非常に強い閉塞の感情だと思いますね。閉塞感。それは資本主義の発展の波の中に、それは必然的に現われるんだと思います。ある時は景気が良く、ある時は景気が悪い、そして景気が悪い時は、その景気の悪さから生じるところの失敗、つまり困難は貧しい人に押しつけられて、金持ちはその時を何となく生き延びる。そういうわけで、漠然とした閉塞感の背景には新古典主義の自由市場主義、なんでもかんでも市場の問題だという考え方と、それだけではなく、経済的な構造があると思うんです。背景にそういう構造があるから感情が生じる。いろんな心理的要素がないまぜになって、そこに格差問題が生じる。なんとなく窒息するような、行き詰るような状態、そういうことが爆発したんじゃないかな。」(288-289頁)

  加藤が体調不良をおしてインタビューに応じたのは、思い出話をするためでない。40年前と現在の状況の類似性を強く感じているからである。

  「・・・今の日本の中でも将来閉塞感っていうのはあると思うんですね。だけど表現の方法を見出してないし、ちょっと仕方がないみたいになっている面が大きいと思うんです。それはどうなるか。ある時点でもって爆発する。あまり論理的じゃない面も出てくるわけですよ。気分の問題だから。・・・このままいってもどうにもならないし、よく親のこと言うことを聞いて、先生の言うことを聞いて、つまり会社の言うことを聞いて、よい労働者になって、それでどうするんだ、という。それで満足できないヤツが、ある雰囲気を醸成する、もう先がないという閉塞感。しかもそれが非常に広くシェアされる。それが現在の状態です。」(297-298頁)

  それなのに、なぜ今の若者、学生たちの怒りは社会に向わないのでしょうか、という質問に加藤はこう答えている。

  「ある意味で、明治維新以来の日本は、ずっと非人格化、非個人化、間化という代価を支払って、経済的発展や軍事的な力を持つようになったのです。総理大臣でさえ非個人化するわけですから。組織の動き方、組織の作用ということに変化してきたわけです。それで誰かが非常に儲かるかというとそうでもない。そのために大衆が迷惑しているとばかりは言えない。簡単にいえば、ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス(軍産複合)ですね。このシステムの中に入ってしまえば、だんだん専門分野に関する細かい話になっていって、人間的に大きな方針や行く先を全体として指示できるような人はいなくなるということです。」(298-299頁)

  インタビュアーは最後に未来に対する希望の可能性を尋ねている。

  「それは、できるだけ人の話をよく聞き、しかし、なるほどそうかでおしまいにするのではなく、なんとか人間らしさを世界の中に再生させることを意識しなければならない。実際そういうものとして意識して戦うわけですが、戦う前になんだか分らないものと戦うわけにはいかないから、何が相手なのか、敵なのかを理解することが大事。それは広い意味で思想的な教育の問題ですね。だから、著作業にもし効果があるとすれば、少しでも、どんなに少しでも思想的影響を及ぼすということが大事。/それでその思想は第一部は事実認識です。それをはっきり理解しなければならないです。何が起こっているかということを。それが、私が思想といっているものです。だから第一部は、感覚的な事実の収集とその整理です。整理するにも、どうしようかという考えがすでに必要になる。人間的感情や空想というものの混在した一種の人間的感覚による世界の解釈の仕方ですね。」(299頁)

  ここで「人間的感情や空想というものの混在した一種の人間的感覚による世界の解釈」と加藤が呼んでいるものは、私流に翻訳すれば、「物語」ということである。さて、ここからは「番宣」です(そうだったのか!)。4月からスタートする私のゼミ「現代人のライフストーリー」では、個人が自分自身の過去を回想し未来を展望するときの準拠枠としての「物語」だけではなくて、現代人が社会を、世界を認識するときの準拠枠としての「物語」についても研究の対象とする。心理学と社会学の二本立てで行きますと言っているのは、ゼミ生諸君、そういう意味だからね。

2月24日(火) 曇り一時雨

2009-02-25 03:18:50 | Weblog
  9時、起床。余りもののコロッケを麺つゆで煮たもの(カツ煮のコロッケ版)をおかずにトーストと紅茶の朝食。今日は一日自宅で原稿書き。ときどきメールが届くが、その多くは何かの依頼である。職務上断れないものがほとんどだが、中には断る自由が存在するものがある。問題はその自由を行使するかどうかである。勝間和代は『断る力』(文春新書)の冒頭でこう書いている。

  「私は今、タイムマシンに乗って20代後半の自分にたった一つアドバイスをするとしたら、「『断る力』を一刻も早く、身につけること」と言うでしょう。実際、私が「断る力」、英語にすると「Say No」、すなわち相手の言いなりにならずに拒否する力を身につけることができたと確信したのは、34歳で初めての離婚をしたときからだと思います。そして、その時から、私の世界はドラマティックに変わりはじめました。
  人から何かを頼まれる、頼られる、うれしいことです。そして、頼まれたことに対して相手の気に入るように振る舞うと、それなりのごほうびが来ます。そうやって私たちは親からも、先生からも、上司からも、育てられてきました。しかし、単に頼まれたことを断らずに唯々諾々と行うといことは、自分の人生の進路を行き当たりばったり、他人に委ねてしまっていると言い換えることもできるのです。」(11頁)

  もちろんなんでもかんでも断れと言っているわけではない。引き受けるものと断るものの区別がきちんとできる判断力、そして依頼を断る以上はそのことから生じる不利益を引き受ける覚悟ないし実力が必要だ。「断る力」はそうした力とワンセット、鶏と卵の関係にある。彼女は20代後半の自分に「断る力」を身につけろとアドバイスしたいそうだが、「断る力」を身につけそれを実際に行使できるようになるのは早くても30代半ばではなかろうか。われわれが生きている世界はそういう場所である。自分自身を顧みても、30代半ばの頃はまだ「断る力」を行使することはなかった。多少とも「断る力」を行使できるようになったのは40代に入ってからではなかったか。それでも頼まれたことの8割は引き受けていたはずだ。それがフィフティ・フィフティになるのは文字通り50代になってから、つまりつい最近の話だ。年齢の上昇は地位の上昇を伴うことが多いから、という理由だけでなく、人生の残り時間の感覚が強まるからでもある。昨日の深夜、私にとってはいささか気の重い依頼のメールが届いた。それに断りの返事を書くために1時間ほどの時間を必要としたため(「お引き受けできません」の一言ではすまないのだ)、玉突き式に、ブログの更新の時刻が1時間遅れ、就寝の時刻も1時間遅れた。しかし、先方からはすぐに返信のメールがあり、「わかりました」とは言ってもらえなかった。この件については後日会って話をすることになった。「断る力」の行使は幾つになっても容易くはない。
  昼食は「やぶ久」の鍋焼きうどんを食べに出る。少し雨が降っていたが、気分転換のためである。「やぶ久」ではいつも『週刊文春』を読む。待っている間だけでなく、食べながら読む。「鈴文」ではこれができない。「やぶ久」のような気のおけない店も私には必要なのだ。映画評で『チェンジリング』がもの凄い数の星を獲得していた。3人が満点の5つ星、2人が4つ星ではなかったか。こんなことはめったにない。さっそく駅前の格安チケット店へ行って『チェンジリング』を1枚購入する。ついでに『スラムドッグ$ミリオネア』と『ジェネラル・ルージュの凱旋』のチケットも購入。
  有隣堂で以下の本を購入し、いつもならば喫茶店で読むところだが、今日はそうのんびりもしていられないので、帰宅する。

  嵐山光三郎『追悼の達人』(新潮文庫)
  加藤周一『私にとっての20世紀』(岩波現代文庫)
  福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)
  『文藝』2009年春号
  季刊「at」14号
  『昭和30年代の大田区 蘇る青春の昭和』(三冬社)
  『PHPスペシャル 幸せ時間セオリー』

  『追悼の達人』は昨夜娘が読みたいと言っていた本で、家の中のどこかにあるはずなのだが、捜しても見つからなかったので(もしかしたら研究室か)、もう1冊買うことにしたのである。「断る力」はまだまだの私であるが、「同じ本を買う力」はけっこうある。ただし、それはときとして「買ったことを忘れてしまう力」(赤瀬川原平いうところの「老人力」の一種)である場合もある。今回は「買ったことは覚えているがどこに置いたかを忘れてしまう力」なので、これは所有している本の数や保管場所の問題とも関連しており、単純に「老人力」の一種とはいえない。そういうことにしておきたい。