6.16(木)
3限の時間、研究室で調査実習のコピー班(資料のコピーを担当する班ではなくて、商品のキャッチコピーから「人生の物語」について考察する班)の相談。大切なことは、自己主張をしつつ、連携プレーをすること。自己主張のない連携プレーは退屈だし、連携プレーの欠けた自己主張は見苦しい。4限の時間、研究室で二文3年生のT君のアドバイザー面談。5限は一文の卒論演習。Nさんが少子化問題について、F君が「スラムダンク」について、それぞれ報告。「スラムダンク」は『週刊少年ジャンプ』の全盛期を支えた作品の1つで、私も愛読者の一人であった。とはいっても雑誌を購入していたわけではなく、雑誌が発売される毎週月曜日に、当時住んでいた東西線の原木中山駅前の本屋で立ち読みをしていたのである。6限の時間に「五郎八」に夕食(きざみ鴨せいろ)を食べに行く。7限の基礎演習は約束通りテキストを読んできていない(読んだのかもしれないが、BBSに感想の書き込みをしていない)学生がけっこういたので、看過すべきではないと判断し、説教をする。基礎演習は大学での勉強の仕方を習得する場所であって、不勉強の習慣を身につけるための場所ではない。7限の授業の後、研究室で二文4年生のMさんとEさんと雑談。11時半、帰宅。風呂から上がって、録画しておいたTVドラマ『恋におちたら』を観る。来週がいよいよ最終回である。すべては予定調和的な結末に向かって進んでいる。
6.17(金)
5限の調査実習は今日からグループ報告が始まった。先陣を切ったのは小説班。片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」、重松清「ビタミンF」、村上春樹「海辺のカフカ」の3冊を取り上げて、純愛や家族について論じていた。中間報告なので結論めいたものは必要ではなく、それぞれの班(小説、映画、音楽、ブログ、コピー)がどういうことをやっているのかがわかればよい。他の班がやっていることを知ることで、自分たちの班が今後どういう方向でやっていけばよいかのヒントが得られればよい。ディスカッションが終わったのは午後7時。それから音楽班の相談を「フェニックス」で9時まで行う。それを終えて、研究室に戻る途中、スロープでF君と出くわし、いま文カフェで来週が報告のブログ班が話し合いをしているのでちょっと相談に乗って下さいと言われ、顔を出す。椅子に座ると長くなりそうなので、立ったまま話をする。今日は3限の大学院の演習から8時間も学生を相手にしゃべっている。明石家さんま並である。深夜、TVをつけたら、「さんまのまんま」(ゲストは杉本彩)をやっていた。彼も50歳になったようだ。
6.18(土)
正岡先生が1981年度に担当された調査実習クラスの同窓会がリーガロイヤルホテルで開かれ、当時TAとして参加していた私(大学院の博士課程の2年生で27才だった)も出席する。実に24年ぶりの再会である。すでにみな40代の半ばを迎えている。彼らとの年齢差は当時と同じ6才であるが、あの頃の6才差といまの6才差は違う。彼らは私とはもう同年配の人間である。挨拶の中でそう言ったら、彼らは「え~っ」とか言っていたが、いまの大学生には間違いなくそう見えるはずである。私が今年度担当している調査実習クラスには博士課程1年生のI君(27才)がTAとして参加していて、ちょうどかつての私と同じ立場にいるのだが、もし四半世紀が経ってから同窓会が開かれたら、I君もきっと私と同じ感慨に耽ることだろう。年齢差は絶対的なものだが、年齢差がもつ意味は相対的なものである。今日の2限、私は1年生を相手に講義をしたが、彼らとの年齢差は実に32才である。つまり彼らが生まれたとき私は32才だった。32才と0才では神様とミジンコくらいの違いがある。あの時の赤ん坊が、いま、私の講義を聴いて、出席カードの裏に質問やら感想やらを書いて、私を喜ばせたり困らせたりしているのである。時は矢のように飛ぶ。
6.19(日)
今日は父の日ということで夕食はすき焼きだった。4月11日の私の誕生日のすき焼きの件では世間に衝撃を与えてしまったので、今回は100グラムいくらの牛肉であったかは記さないことにする。普段は別々に生活をしている階下に住む私の両親を夕食に招いたのだが、父が「柔らかい肉だね」と言い、母が「いい肉だね」と言うので、価格を告げたら、驚いていたということだけ報告しておこう。夕食後、腹ごなしに散歩に出る。熊沢書店で、岡田惠和『TVドラマが好きだった』(岩波書店)、伊集院静『美の旅人』(小学館)、酒井潔『自我の哲学史』(講談社現代新書)、三砂ちづる『オニババ化する女なち』(光文社新書)を購入。岡田惠和(よしかず)は私の好きな脚本家の一人で、『ビーチボーイズ』『彼女たちの時代』『ホームドラマ!』などのオリジナル脚本だけでなく、TVドラマ『アルジャーノンに花束を』や映画『いま、会いにゆきます』などの原作のある脚本も手がけている。本書は過去の名作ドラマへのオマージュだが、1959年生まれで私と年齢が近いため、取り上げられている作品のほとんどは私も観ていた。たぶん感性が似ているのだろう(ただし、山田太一『想い出づくり』と倉本聰『北の国から』が1981年の秋の同じ曜日の同じ時間帯に放送されていたとき、彼が前者を観ていて、私が後者を観ていた点は違う)。『淋しいのはお前だけじゃない』という1982年の夏に放送された市川森一脚本のドラマ(主演は西田敏行)を取り上げて、岡田はこんなことを書いている。
放送された当時、私は、二〇代前半。シナリオライターを志し始めた頃である。このドラマを観て、打ちのめされた記憶がある。
「こんなドラマ自分にかけるわけない」
シナリオライターなんて自分には無理かもしれない・・・・。こんな発想できるわけないし、こんなよく仕組まれた物語を、いくら勉強したって自分が書けるようになるとは到底思えない。
そんな気持になった記憶がある。
ドラマだけでなく、小説でもそうだろうが、作家志望の人にとって、二種類の作品があるのではないかと思う。
一つは描かれていること、描き方などを見て、さきほどの私のように「こんなもの書けるわけない」と思わせる作品。
もう一つは、描かれていることも身近で、描き方も、平易に描かれていて、「ひょっとしたら自分にもできるのかも」と勘違いさせてくれる作品。
(もちろん、それは大いなる勘違いであるのは言うまでもないのだが。)
市川森一さんの作品は前者である、私にとっては。誤解を恐れずに書くと、たとえば、山田太一さんの作品などは後者なのかもしれない。もちろん、それは大いなる勘違いを産むのだが・・・・。
「ドラマだけでなく、小説もそうだろうが」と岡田は書いているが、論文や評論やエッセーもそうだろうと私は思う。「こんなもの書けるわけない」と思わせる作品と、「ひょっとしたら自分にもできるのかも」と勘違いさせてくれる作品。私にとって、丸山真男は前者で、清水幾太郎は後者だった。小林秀雄は前者で、加藤周一は後者だった。丸谷才一は前者で東海林さだおは後者だった。おそらくそうした勘違いの延長線上にいまの私がいるのである。恥ずかしいことである。そして、いま、私の社会学基礎講義を受けている1年生の何割かが、「ひょっとしたら自分にもできるのかも」と思ってしまって(それは勘違いではないが)、来年、社会学専修に進むことになるのであろう。因果は巡るのである。
6.20(月)
次回の大学院の演習は私が報告をする番なので、昭和戦前期のマルクス主義および日本共産党について調べる。当時、マルクス主義は高校生や大学生の間で「大きな物語」として機能していた。社会の歴史と個人の人生をマルクス主義が架橋していた。治安維持法による思想弾圧はかえってヒロイズムとセンチメンタリズムを運動に参加する青年たちにもたらした。たとえば、中野重治の「夜明け前のさよなら」(1930年)という詩。
僕らは仕事をせねばならぬ
そのために相談をせねばならぬ
しかるに僕らが相談をすると
おまわりが来て眼や鼻をたたく
そこで僕らは二階をかえた
路地や抜け裏を考慮して
ここに六人の青年が眠っている
下にはひと組の夫婦と一人の赤ん坊とが眠っている
僕は六人の青年の経歴を知らぬ
彼らが僕と仲間であることだけを知っている
僕は下の夫婦の名まえを知らぬ
ただ彼らが二階を喜んで貸してくれたことだけを知っている
夜明けは間もない
僕らはまた引っ越すだろう
かばんをかかえて
僕らは綿密な打合わせをするだろう
着々と仕事を運ぶだろう
あすの夜僕らは別の貸ふとんに眠るだろう
夜明けは間もない
この四畳半よ
コードに吊されたおしめよ
すすけた裸の電球よ
セルロイドのおもちゃよ
貸ぶとんよ
蚤よ
僕は君らにさよならをいう
花を咲かせるために
僕らの花
下の夫婦の花
下の赤ん坊の花
それらの花を一時にはげしく咲かせるために
『中野重治詩集』(岩波文庫)の解説の中で、松田道雄はこう書いている。
医学部に入って、「医学部読書会」に参加すると同時に、私は特高のブラックリストにのせられた。臨床医としてしか生きる道のないことをさとって、小児科医になる修業をつづけながらも、私は手に入る限りの左翼の本をもとめてよんでいた。かくれたシンパ活動をこえることがなかったので、公然と転向をせまられる機会がなかった。
一九三五年に日本共産党が袴田里見の検挙によって活動を停止したあと、中野重治の作品は私をはげました。この人は転向していない。この人の目がものを見あやまらないのは、私たちの思想があやまっていないからだ、よむたびにそう思うのだった。
思想は哲学や社会科学の言葉によって語られるだけでなく、文学の言葉によっても語られる。山川均や福本和夫の論文だけではなく、プロレタリア文学というものを持ち得たことが、昭和戦前期のマルクス主義が青年層へ広く浸透していく要因ではなかったか。
調べものが一段落したところで、スポーツクラブへ行く。帰りにTSUTAYAで『いま、会いにゆきます』のビデオを借りて、深夜に観る。不思議な、そしてちょっと怖い話だ。何が怖いかというと、主人公の女性が自分(たち)の未来を知りつつ、そのことを言わずに、夫や子どもと生活をしていたところがだ。彼女は何もかも知っていて、夫と子どもは何も知らないのだ(後から彼女が遺した日記を読んで夫は、たぶん息子も、そのことを知るのだが)。感動するというよりも、怖かったですね、私は。
6.21(火)
午前11時から午後8時までずっと会議(1つの会議ではなくて、3つの会議が連続してあったのである)。今日は一年で一番昼間の時間の長い日であったが、会議が終わって外に出たらさすがに空は暗くなっていた。「メーヤウ」で夕食(タイ風レッドカリー)をとり、あゆみ書房で荒川洋治の最新詩集『心理』(みすず書房)を購入。表題作はこんな詩だ。
新幹線で三島駅を通るたびに
「ああ、もっと勉強しなくては」と 子犬は思う
昭和二十年 終戦の年の十二月
静岡県三島市に「庶民大学」の序章は生まれた
講師は三十一歳の
東大助教授丸山眞男
学生、商店主、農民、主婦、子犬が集まる
講義の中心は「なぜ戦争は起きたのか。どうして日本人は戦争を阻止できなかったのか」
という根本的自他の冬の問いかけに応えるもので
初回「明治の精神」(この日 子犬が集まる)
翌年二月から四月は「近代欧州社会思想史」(八回)
十二月は「現代社会意識の分析」(二回)さなかに彼は
雑誌「世界」に「超国家主義の論理と
心理」を発表、
漱石の小説「それから」のせりふと
戦争中の軍隊教育令、作戦要務令をとりあわせるなど
の斬新な手法と論理で 戦争に至る
日本の精神史を描き出す
「許さん!」というメモを
子犬はバッグのなかに
しのばせて歩いていたら
それが町の風でこぼれ落ちて 子犬のもとから
ふわふわ空を飛んで
それは「ゆるさん!」ではなく「許さん」という韓国の批評家の名前だ
その許萬夏さんからはよく突然国際電話がかかるが
彼はたいへん明敏な人で
以上のような話も
「三島教室というのがありまして・・・・・・生きたひとの、生きた話を
生きた市民がきいた、というような 事件」
くらいに早口でしゃべり
あとは
ぼくはびわが好きです びわもお月様 などと
何の関係もないことのひとつふたつ言っておくと
(これが重要)
ものごとはちょうどいい具合になり
すべてを
理解してしまうという人なのだ
外国に対しては 電話がちょうどいい
つながるときも
切れるときも
丸山の生活は庶民と同じで衣食住はままならず貧窮の底を這った 普段着は軍服と軍靴
あいまをみて郷里「信州」や常磐線まで買い出しにでかけた
軽い荷物と重い荷物が駅を通過する とても静かな駅を
詩「心理」はまだまだ続く。これでちょうど半分くらい。最後まで読みたい人は本屋で立ち読みをして下さい。実は、今日の会議の一つで、次号の「文学研究科紀要」に論文を一本書かせてもらうことが決まったのだが、書いてみたいテーマは複数あって、どれにしようか決めかねていた。偶々、この「心理」という詩を読んで、「二十世紀研究所」時代の清水幾太郎について書くことに決めた。「二十世紀研究所」とは、終戦の翌年、読売新聞社の論説委員を辞めた清水幾太郎が立ち上げた在野の研究所で、その活動の一環として「二十世紀教室」という巡回公開講座があって、それには多くの学者がかかわったのだが、丸山眞男もその一人だったのである。「悔恨共同体」というのは丸山の造語だが、三島市の「庶民大学」や、「鎌倉アカデメイア」や、「二十世紀研究所」といったものが続々と立ち上がった背景には、庶民の知への渇望だけではなく、知識人たちの悔恨、なぜあの無謀な戦争を止められなかったのかという思いがあった。しかし、清水は少し違っていた・・・・そのあたりのことを中心に書いてみようと思うのである。締切は9月末。夏休み中に他に2本の論文を書かなくてはならない。7月と8月で2本、9月で1本、それほど無理のない計画のように思えるのだが、不思議なことに、その場になってみると、なんて無謀な計画だったのだろうと悔恨の情にとらわれるのである。わかっちゃいるけど、やめられない、のである。
帰宅して、演劇・映像専修の武田先生から拝借したケツメイシの「さくら」のプロモーションビデオを観る。脚本は岡田惠和。一昨日のフィールドノートをお読みになって、私の岡田惠和好きを知った武田先生が貸して下さったのである。なぜ武田先生がこのプロモーションビデオを所有していたのかというと、物語の中で武田先生が訳されたJ.オーモンらの『映画理論講義』(勁草書房、2000年)という本が主人公の男女の仲を取り持つ小道具として使われているためらしいのである。武田先生はご存じないが、私は岡田惠和のファンであると同時にケツメイシのファンでもある。だから私にとって一粒で二度美味しいグリコのようなプロモーションビデオなのである。岡田の脚本はよく出来ていると思った。しかし、よく出来ているために、そして出演している鈴木えみという女優がとても美しいために、肝心のケツメイシの歌が喰われてしまっているという印象を受けた。岡田惠和、頑張りすぎである。
6.22(水)
今月初旬に入会したスポーツクラブだが、毎週2回(月・水)のトレーニングも3週目が終わった。トレーナーの人から「筋肉痛は3週間くらいでなくなりますから」と説明を受けていたが、なるほど、疲れはするが筋肉痛はなくなった。疲れの方も、気持のいい疲労で、ジムから自宅へ帰るときの道草をしながらの散歩が楽しい。ジムを出るのは午後5時頃だが、いまの季節は日が長く、雨の日でなければ(今年の梅雨はこれまでのところ雨の日が少ないように思う)、空はまだ明るい。ジムのあるビルの一階のスーパーマーケットで一口サイズにカットしたスイカのパック(300円)を買って、アロマスシティビルの前のベンチで食べた。そのとき目の前にあった松竹橋をケータイのカメラで撮る。松竹の撮影所が蒲田にあったのは大正9年から昭和11年までの間だが、撮影所の正門前を流れていた小川に架かっていた松竹橋の親柱がかつての「シネマの都」の記念にここに置かれているのである。撮影所はその後、大船に移転してしまったが、昭和11年といえば小津安二郎が彼にとっての最初のトーキー作品『一人息子』を撮った年であるから、活動写真からトーキーへの移り変わりの時期であり、蒲田駅と目の鼻の先の撮影所というのは電車の音などの問題があって使用に耐えなくなったのであろう。撮影所が移転してしまったのはしかたがないとして、1970年代くらいまではあった東口の映画館街が跡形もなく消えてしまったことは淋しい限りだ。JR蒲田駅のホームには電車の発着のときに「蒲田行進曲」が流れるのだが、「シネマの都」に映画館が2館(西口の亀屋ビルの中の「蒲田宝塚」と「テアトル蒲田」)しかないというのは地域振興という点で非常にまずいことだと私はつねづね思っている。近々、都議会議員選挙があるが、「蒲田に映画館街を復活させます」と言ってくれる候補者がいれば私は絶対に一票を入れるのであるが、どの候補者も似たりよったりのことしか言わないので、誰が誰だか区別がつかない。映画館が無理なら古本屋でもいい(唐突か)。とにかく駅の周辺に焼き肉屋と回転寿司屋とパチスロとサラ金ばかりというのは退屈だ。誠竜書林で、小林勇『随筆雨の日』(文藝春秋新社、1961年)、鈴木貞美『人間の零度、もしくは表現の脱近代』(河出書房新社、1987年)、沢木耕太郎『チェーン・スモーキング』(新潮社、1990年)を各200円で購入。
6.23(木)
朝食をとりながら、昨日購入した小林勇『随筆雨の日』の中の一編、「父と娘―三木清―」を読む。1960年の9月に書かれた文章で、それは三木清が死んでからちょうど15年目にあたる。話は小林が三木清の一人娘洋子と彼女が勉強している東大の史料編纂所の玄関で待ち合わせて、昼飯を一緒にするところから始まる。
洋子はうなぎを食いたいという。私達は赤坂山王の樹木の中の料亭へいった。座敷に対座して、私は洋子をしみじみと見た。父親に似ているがそれよりも遙かに豊かで美しい体格の立派な一人の婦人が洋子なのだ。明るい感じが溢れているのがうれしかった。こうして座っていうるとさすがに三木清の面影がありありと蘇って来るのだった。
今日、私は洋子に、その父についてききたいことがあったのだ。
それは三木が埼玉県の鷲宮に疎開していた頃のこと、とくに警察から脱走してきた高倉テルを一晩泊めてやって衣服と金銭を与えたために三木が特高に逮捕された前後のことだった。小林の文章は三木清の無念、洋子の無念を晴らすために書かれたものである。1950年の雑誌『新潮』2月号に発表された今日出海の「三木清に於ける人間の研究」という三木清の偶像破壊(というよりも誹謗中傷)を意図した文章への反駁のために書かれた文章である。
ともかくこれが出たときに洋子はひどい打撃を受けた。そして父のために反駁を書こうとしたが、東畑教授(大久保註:一橋大学教授の東畑精一。洋子の伯父)にさとされて思い止ったということである。東畑教授は、まだ幼い洋子に、この種のことについて反駁する力はないと考えたのであろう。
私もまた今氏の文章に腹を立てた。
或る日、清水幾太郎、吉野源三郎、栗田賢三の三氏と私は酒を飲んでいた。今氏の書いたものの話が出たとき私は憤慨して、三木のために反駁を書くといい出した。その時、清水、吉野の両氏はしきりに私に書いてはいけないといった。しかし今氏の三木についての文章には二人とも反対であった。私は今氏を反撃するのは、自分が適任だと主張したが、二人は何故かあくまで私の書くことに反対した。私はそれでは誰が書くのだときいた。吉野氏は自分が書くといった。私は念のために吉野氏が書かない場合はどうするかもたずねた。もしそんなことがあれば自分が書くと清水氏が断言した。
数年後、吉野氏に約束の文章を書くのかどうかをたずねた。書く意志があるという返事だった。さらに二三年たった後に同じことをきいて、同じ返事を得た。けれど今日まで、まだそれは発表されていない。
洋子と私とはこのことについても話した。洋子はハンカチを眼にあててしばらく泣いていた。そして「もう遠いことのような気もします」とかすかな声でいった。
小林勇は職業的な物書きではない。岩波書店のナンバー2、大番頭の地位にあった人である。しかし達意の文章を書く人で、古本屋の主人には彼のファンが多い。私も彼の文章が好きで神田の古本屋で『小林勇文集』全11巻を購入している。とくに亡くなった旧友のことを書いた文章は彼の作品の中でも白眉といってもいいもので、こんな文章を書いてくれる人を友に持った人は幸せだと羨ましくなるほどである。同時に、こういう確かな眼力をもつ人が編集者にいるというのは原稿を書く身としては恐ろしいことだなとも思う。私だったら絶対に小便をちびってしまうと思う。でも、そういう編集者と一緒に仕事がしてみたい。
6.24(金)
今日の東京は今年最初の真夏日となった。む、蒸し暑い・・・・。新学部になったら気温が30度を越え、かつ湿度が50%を越えたら休講という決まりを作らねばなるまい。
3限の大学院の演習では、昭和戦前期のマルクス主義と知識人・学生たちについて話をする。院生諸君はマルクス主義そのものについてあまり知らないようで、これも時代の流れかと、感慨深いものがあった。私が中学生の頃(1960年代後半)、街の書店の棚にはやたらに「弁証法」についての本が並んでいて、当時の私はそれは法律の一種なのだと思っていた。たぶん弁証と弁償を混同していたのだと思う。大学に入ってみると、実存主義とマルクス主義と精神分析は、それについて何かしら語れないと大学生とはみなしてもらえないような雰囲気があった。いま、それに相当するものは何だろうか。そういうものがはたしてあるのだろうか。
5限の調査実習はブログ班(ブログにみる人生の物語の考察)の中間発表。先行研究がまだ多くないので試行錯誤でやっている。メンバーの一人、Tさんはものは試しと自分でもブログを始めたらしいが、当初、ブログに手を出すつもりはないと言っていたのに、始めてみるとこれがなかなか面白いらしい。まだ誰にもURLは教えていないらしいが、どこの誰とも知らない顔の見えない読者だけを想定して書いているときと、顔の見える何人かの読者が混在していて、彼らのことを意識して書くときでは、ブログの語りは微妙に変化してくるはずだ。メンバーの一人、Sさんは以前からブログをやっていて、かなりのアクセスがあるようだが、最近、私が読者の一人になってからは、得意の下ネタ風(下ネタではないところが肝心な点)のネタを書くときに、「先生も読んでいる」という意識がどうしても働くらしい。この逡巡を突き抜けて、一段上のクラスのブロガーに成長してほしいものである。
6.25(土)
今日も真夏日。しかも昨日より湿度が高い。む、む、蒸し暑い・・・・。週間予報では来週一週間は毎日真夏日になっている。なんなんだ、これは? 梅雨に入ったばかりのはずが、いきなり梅雨の中休みか。まさか梅雨が明けちゃったわけじゃぁないだろうね(いくらなんでそれはないか)。今年の梅雨は空梅雨ってやつなのかもしれない。
講義を2つ終えて、二文のYさんの卒論指導。テーマが変わった。家庭内暴力からサガンの『悲しみよ こんにちは』へ。そんなのありかというくらいの大転換である。でも、いいんです。書きたいテーマで書くことが一番大切なことだから。一方、一番の問題は、私がその小説を読んでいないということである。有名な作家の有名な作品だから、知ってはいるが、読んではいない。この小説にまつわる唯一の想い出は、中学1年生のとき、友達の姉さんの通っている女子高の文化祭に遊びにゆき、文芸部の教室で作家の顔写真を見て名前を答えるというクイズに参加して、副部長だという女の子から「では、最後の問題です。このフランスの女性作家は誰でしょう? ・・・・悪い問題引いちゃったわね」と言われ、ちょっと考えるふりをしてから、名探偵コナン君のような口調で、「僕、全然自信ないけど、フランスワーズ・サガンかな~」とフルネームで答えて、全問正解の賞品をせしめたこと。年上の女性から「すご~い」と言われたのは、後にも先にもあのときだけである。Yさんから小説のあらすじを聞く。父親の再婚相手を自殺に追いやってしまう17才の女の子の話。ふ~む、けっこう衝撃的な話なんだ。帰宅の途中で熊沢書店に立ち寄って、『悲しみよ こんにちは』(新潮文庫)を購入。まさかこの年になってこの小説を読むことになろうとは思わなかった。サガンがこの小説を発表したのは私の生まれた1954年。波瀾万丈の人生を送った彼女が69才で亡くなったのは、昨年の9月24日のことだった。
6.26(日)
昨日と今日の2日間、アマチュアの全国将棋大会「アマ竜王戦」が開催されたのだが、そこで衝撃的な出来事が起こった。特別出場のコンピューター将棋ソフト「激指」が予選リーグを突破し、本戦一回戦にも勝って、ベスト16に進出したのだ(二回戦で負けて、ベスト8入りはならなかった)。・・・・と書いても、将棋を知らない人にはこれがどういうことかわからないであろう。チェスの世界ではすでに人間の世界チャンピオンを破るレベルのソフトが開発されている。チェスは取った相手の駒は再使用できないので、局面が進むにつれて盤上の駒の数が減り、つまりシンプルになるので、コンピューター向きなのである。しかし、将棋の場合は、取った相手の駒は自分の持ち駒として再使用できるので、可能な指し手の数はむしろ局面が進むにつれて増えてゆく。人間は(もちろん強い人の場合だが)、可能な指し手の数は増えても読むに価しない手は最初から切り捨ててかかるが、コンピューターは読むに価する手と価しない手を読む前に判別することは原理的に不可能だから(ある程度読んでから「読むほどの手ではなかった」という判定を下すのである)、持ち時間に限りがある勝負では、最善手を発見できないということが起こるのだ。だから将棋でコンピューターが人間に勝つのは無理だと思われてきた。しかし、将棋のソフトの開発には目を見張るものがあり、私が自分のパソコンに入れている「東大将棋」というソフトはアマ4段クラスの私といい勝負をする。今回のアマ竜王戦に特別参加した「激指」は今年の世界コンピューター将棋選手権大会で優勝したソフトで、優勝記念にプロ棋士と角落ちで戦って見事勝利している。プロ棋士に角落ちで勝つというのはアマ5段クラス=県代表クラスの力があるということだが、今回の活躍で「アマ5段クラス」が過大評価でないことが証明されたわけだ。この調子でいくと「アマ名人クラス」に達するのは時間の問題であろう。「アマ名人クラス」であれば、並のプロ棋士とはいい勝負ができる。問題は「プロ名人クラス」(羽生善治!)まで到達することができるかどうかである。並のプロ棋士と名人クラスの棋士の違いは質的なものであるように思う。その質的な違いをソフトの開発者チーム(将棋はアマチュアである)が解明することができるかどうか、すべてはそこにかかっている。
6.27(月)
書類ばかり書いていたような気がする。一つは社会調査士認定機構に提出する「専門社会調査士」の認定申請書。日本社会学会と日本教育社会学会と日本行動計量学会の3学会が合同で「社会調査士」という資格の認定を始めたのだが、学部の「社会調査士」資格関連科目(調査実習や社会調査法や社会統計学など)を担当する教員はそのワンランク上の「専門社会調査士」の資格を有していないとならないのである。申請が却下されることはないと思うが(たぶん)、認定(論文)審査料として4万円を収めないとならない。ボーナスが出たばかりとはいえ、やはり4万円は大きい。4万円あれば、あんなこともそんなこともできる。申請書を書きながらそんなことを考えているものだから、たかだか3枚の申請書がなかなか仕上がらない。もう一つは新学部の科目の提案書。5科目分ほど書いてみる。こちらの作業は新築する家の間取りを考えるような楽しさがある。
6.28(火)
自宅から駅に向かう道すがら、近所の専門学校の学生が「6月ってこんなに暑かったっけ?」と同級生に話しかけているのが耳に入った。本日の最高気温36.2度。6月の東京の気温としては観測史上最高である。これまでの記録は42年前の1963年6月26日の35.7度だった。1963年、私は小学校3年生だった。6月26日のことは記憶にないが(あったらすごいけどね)、年表を調べてみると、その日、新宿区役所が樹木保護のため動力スプレー3台を使って害虫アメリカシロヒトリの駆除を始めたとある。アメリカシロヒトリ! 思い出した。自宅の庭に柿の木があり、葉っぱにこれがよく白い巣網を張っていた。それを発見したらすぐに枝ごと切りとって、焚き火の中に投じねばならない。進駐軍とともに日本にやってきた毛虫、アメリカシロヒトリ。それを焼き殺す夏の焚き火は安保闘争の残り火のようでもあり、敗戦の焼け跡のくすぶりの最後の炎のようでもあった。翌年の東京オリンピックを分水嶺として戦後は新しい時代に入っていったのである。
午後、基本構想委員会。その後、研究室で、私がアドバイザーを担当している二文の3年生、Tさん、Sさん、T君と勉強会。夕方から、文化構想学部現代人間論系の運営準備委員会。終わったのは9時。人間発達プログラムでペアを組んでいる心理学の大藪先生とちょっと打ち合わせをしてから、地下鉄早稲田駅そばの中華料理屋「秀英」で食事。ビールを2本に餃子を2人前。冷えたビールがうまい。もっとも下戸の私はコップに2杯でもう十分。残りは全部大藪先生が引き受ける。学生時代から今日までのことをあれこれ話した。店員がラストオーダーを尋ねたので、私は鳥めし、大藪先生は中華丼を注文。店に入ったとき満席だった客はみんないなくなり、われわれが最後の客になった。
6.29(水)
夜来の雨が昼まで降っていた。蒸し暑い真夏日が続いていたので恵みの雨である。午後、雨も止んだので、スポーツクラブに行く。フロアーには各種の筋トレの器具がたくさん並んでいるのであるが、そのうちの半分は私のメニューには含まれていない。その中の一つである胸筋用のものを試してみたところ、けっこうきつかった。かなり軽目の負荷で試したのだが、しんどいのである。いつもやっている器具はだんだん負荷も回数も増えているのだが、それは特定の筋力が上昇しているのであって、トレーニングしていない筋肉は非力のままなのである。こういうアンバランスは問題ではないだろうか。メニューを作成してくれたトレーナーは、代謝効率を考えて大きな筋肉(大腿筋や背筋や腹筋など)のトレーニングを優先しているのだが、私としては全身の筋肉をバランスよく鍛えたい。時間はかかるが、与えられたメニューをまずこなして、その後、アラカルトで自分で考えたトレーニングをしよう。
夜、家の中に今年最初のゴキブリが出現。猫が何かを追いかけているので、妻が何だろうとよく見てみると、大きなゴキブリだった。妻はゴキブリが大の苦手である。悲鳴を上げながら私の書斎にやってきた。私だって得意ではないが、ゴキブリを叩き潰すのは私の役目ということになっていて、夫の(あるいは男の)面目を保つ数少ない場面の一つである。私はハエ叩きを片手に寝室に行き、猫と共同戦線を張ってゴキブリを追いつめ、仕留めた(猫も叩いてしまったような気がする。すまん)。
深夜、二文の基礎演習の学生たちから明日の授業で取り上げるギデンズ『社会学』の第7章「家族」を読んだ感想がぞくぞくとメールで送られてくる。これを読みながら講義の内容を決めるのである。しっかり読んで、よく考えて書かれたメールが多い。感心、感心。授業中の質疑応答も、BBSを使った議論も活発で、入学早々これだけできれば卒業までにはかなりのところにまで行く可能性がある(もちろん研鑽を怠らなければの話だけど)。こういう学生を相手にするときの教師の心得は一つしかない。彼ら彼女らのやる気に水を差さないことである。下手に特定の方向に導こうなどとしない方がよい。そんなことをしても私の縮小版ができるだけである。私は一人いればいい。まして私の縮小版など不要である。
6.30(木)
午前中、病院へ定期検診の結果を聞きに行く。肝機能の数値が正常値を外れていた。検査の前日、くたくたになるまでジムでトレーニングをしていた影響ではないかと思われる。いまは身体もだいぶ慣れてきたが、検査をしたのは2週間前、ちょうどジムに通い始めた直後で、疲労度もかなりのものだったのである。検査の前日は飲み過ぎや激しい運動は控えるべきなのであるが、うっかりしていた。もっとも肝機能の数値が悪いのは、検査前日の運動による一時的なものではなく、脂肪肝などが原因かもしれないから油断はできない。減量しなくては。昼食はもり蕎麦にする。
午後、大学。一文の卒論演習(5限)と二文の基礎演習(7限)。生協で新書を4冊購入。鹿野政直『近代国家を構想した思想家たち』(岩波ジュニア文庫)、佐伯啓思『自由とは何か』(講談社現代新書)、諸富祥彦『人生に意味はあるか』(講談社現代新書)、高田理恵子『グロテスクな教養』(ちくま新書)。
帰宅して、昨日が息子の17回目の誕生日であったことに思い至る。本人を含め、家族全員そのことを忘れていた。17才。かつてわれわれの世代のアイドルであった南沙織が、♪私はいま生きている~(「17才」より)と歌った、人生でもっともキラキラと輝いているはずの年齢の最初の一日をこんな形でスタートするとはなんと不憫な奴であろう。昨日の夕食のデザートは私が学生からちょうだいしたメロン(しばらく研究室の冷蔵庫に入れたままその存在を忘れていた)を切ったのだが、これがちょうど食べ頃、すこぶる美味で、家族一同「うまい、うまい」と至福の表情を浮かべながら食べたことが、誰も意識していなかったとはいえ息子の誕生日の食卓のせめてもの彩りであった。息子よ、誕生日を忘れられたくらいのことでいじけることなく、めげることなく、17才の夏をたくましく生きていってほしい。