フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月5日(土) 曇り

2011-11-06 00:01:43 | Weblog

  9時半、起床。やはり週末は一週間の疲れが出る。ブログの更新をすませたから、朝食兼昼食をとりに散歩に出る。駅前のディスカウントチケット店で、『マネーボール』の前売り券を購入(1300円)。

  久しぶりに池上へ行く。「甘味あらい」のご主人が亡くなって以来だから、一ヵ月ぶりである。池上は蒲田の隣町で、自転車でも徒歩でも行ける地続きの町だが、文化的には独立した町である。その文化的な表象が本門寺であり、そして個人的には「甘味あらい」だった。

  「薫風」で食事。本日のランチのキーマカレー(コーヒー付)を注文し、持参した宇野常寛『リトル・ピープルの時代』を読む。

  「私たちは今、(古い意味での)「歴史的」には何物でもない路地裏や駅前の商店街を「聖地」と見做して「巡礼」し、放課後には郊外の川べりにたむろしては虫取りをするようにネットワーク上のモンスターたちを狩る。複雑化する社会生活において、私たちは日常的にその身体とは半歩ずれたそれぞれのコミュニティごとのキャラクターとして否応なく振る舞ってしまう。ひとたび携帯電話を手にし、パソコンを前にすればその解離の構造は簡単に可視化できる。私たちは、いつの間にか現実を実に多重なものとして把握している。情報技術の発達は、そんな私たちの変化をより明白にしてくれる。そしてこの変化は、言い換えれば私たちが求める〈反現実〉が〈ここではない、どこか〉への逃避=仮想現実ではなく、〈いま、ここ〉の拡張=拡張現実として現われていることを示している。」(425頁)

  

  「薫風」を出て、どうしようかと迷ったが、やはり「甘味あらい」に行ってみることにした。「薫風」で食事をして「甘味あらい」でデザートを食べる。これが池上散歩のパターンであったが、「甘味あらい」が閉店して、片肺飛行をしているようなバランスの悪さを感じる。「浅野屋」や「池田屋」で葛餅を食べるという手がないわけではない。しかし、そうした店は「甘味あらい」の機能的代替物にはならない。「甘味あらい」はたんに美味しい甘味を食べるだけの場所ではなかった。ご主人や奥さんとあれこれおしゃべりを楽しむ場所でもあった。ときにそのおしゃべりが他のお客さんを巻き込むこともあった。ご夫婦だけで営んでいる小さな店ならではのことである。最後の角を曲がって、「甘味あらい」が見えてきたとき、『幸福の黄色いハンカチ』の主人公のように、店の前に営業中であることを示す小さな布切れが出ていることを期待している自分がいることにわれながら呆れた。しかし、現実は変えようもなく、店の戸は閉められ、暖簾は店の内に仕舞われていた。生活構造の一隅に生じたこの消失感、喪失感はなかなか埋まりそうにない。

 

   蒲田に戻り、もう一軒、「緑のコーヒー豆」とか「テラス・ドルチェ」とか「シャノアール」とか、どこかに寄って読書の続きをしようかとも考えたが、もうコーヒーは飲んだし、コーヒー以外のものを飲む気になれなかったので、真直ぐ帰宅する。家の者はみな外出していて、チュンを籠から出して、一階の和室で遊ばせる。野良猫の「なつ」がベランダにやってきて、チュンをじっと見ていたが、チュンの方は別に気にとめるふうでもなかった。「トムとジェリー」のようだなと思った。

  夕食後、三谷幸喜が『素敵な金縛り』のキャストを総動員して制作したTVドラマ『素敵な隠し撮り』を観る。三谷自身が三谷の役(自分の映画が封切られたばかりで作品の評判を気にする監督)で出演していて、深津絵里演じるホテルのコンシェルジュとの会話が実に面白かった。