3.16(木)
昼食の後、WBCの日本対韓国戦をTV観戦。スコアボードに0が並ぶ緊迫した試合だったが、結局、2-1で韓国が勝った。それにしても日本ベンチに終始漂っている悲壮感は観ていて辛かった。負けられない、負けるわけにはいかない、そうした重圧が監督や選手たちの顔を強ばらせていた。一体感と闘争心に溢れつつもどこかリラックスした感じの韓国ベンチとは好対照であった。そういえばアテネ五輪のときの日本野球チームにも同様の雰囲気があった。日の丸を背負って戦うということはそれほどまでに重苦しいものなのか。しかし国民の期待を背負って戦っているのはどの国の選手も同じであろう。日本の選手は精神的に弱いのか。先日のトリノ五輪に出場した日本選手達も、「楽しんでやれました」という言葉をまるで合い言葉のように唱えていたが、TVの画面を通して観た限りでは、みんな悲壮な表情をしていた。一番現代っ子らしく見えたスノーボードのハーフパイプの少年少女たちも、難度の高い技に挑んで失敗しては雪面に顔を埋めて泣いていた。あれほどの落胆ぶりは他の国の選手には見られないものだった。そしてインタビューのマイクに向かって、次の五輪での雪辱を早くも誓っていた。雪辱のために4年間頑張るのか。武士の仇討ちのようではないか。とにかく悲壮である。彼らが悲壮感を漂わせるのは、われわれが悲壮を好むからである。そしてわれわれの悲壮好みはメダル至上主義と表裏一体のものである。メダルを期待され、しかし力及ばず、あるいは不運にしてメダルに手が届かなかった選手は、メダルの代わりに悲壮感を手に入れるのである。
夜、風雨いよいよ強まる。明日はこの風雨の中を大学に行かねばならない。調査実習の報告書の編集がまだ終わっていないのである。参加予定の学生は5名。同じような顔ぶれでやっている。悲壮というべきかもしれない。
3.17(金)
午後1時から研究室で調査実習の報告書の編集作業。本日の担当はKさん、Hさん、O君、S君、F君の5人。インタビュー記録(52名分)の校正。元々が話し言葉であったものを文字にしたものであるから、主語と述語が対応していないとか、挿入句や反復が多くて読みづらいといったことはある程度しかたがないが、明らかなミスタッチや変換ミスは見逃せない。作業が終了したのは9時近く。それから先週と同じ焼き肉屋「ホドリ」に食事に行く。女将さんがわれわれを覚えていて(メンバーは同じではないのだが、女将さんには同じに見えたのであろう)、海老やら韓国海苔やらをサービスしてくれる。先週は土曜の夜に来て、今週は金曜の夜に来たわけだが、いずれもわれわれ以外に客は一組しかおらず、商売繁盛とはいえないようである。先週は終盤に肉を追加注文してやや持て余したので、今日は満腹の一歩手前で止めておいて、冷麺で締めることにした。焼肉と冷麺の組み合わせは、誰が思いついたのかは知らないが、いつも感心する。帰宅して、WBCのアメリカ対メキシコ戦の結果を知る。こんなこともあるのか。王監督の「神風が吹いた」というコメントにはちょっとドッキリ。編集作業でペンディングになっていた箇所を忘れないうちに片付けてから、風呂を浴び、就寝。
3.18(土)
TVドラマ『愛と死をみつめて』の前編を観る。1964年に映画化およびTVドラマ化された作品で、当時、小学校4年生だった私は大空真弓と山本学の主演のTVドラマを観て感動した覚えがある。何しろ「愛と死」である。これ以上はない最強の組み合わせである。われわれの社会は愛情に至上の価値を置く愛情至上主義社会である。しかし、向かうところ敵なしの愛情にも弱点がある。それは持続性の問題である。愛情は移ろいやすい。結婚式のときに新郎新婦が「永遠の愛」を誓うという行為は、逆説的に、「永遠の愛」というものの不可能性の表明になっている。実際、結婚生活における夫婦間の愛情を重視する社会ほど、離婚率は高いのである。愛情の弱点である移ろいやすさを克服する唯一の方法は、時間を停止させること、「いま、この瞬間」の永久化である。写真にはそれに似た機能がある。しかしどれほど写真を撮ろうと、現実の時間を停止させることはできない。現実の時間を停止させることのできるものは死だけである。もちろんAさんが死んだ後も世界は存在し続けるわけだが、それはAさんの存在しなくなった世界であり、Aさんの存在する世界はAさんの死の瞬間に消滅するのである。だから愛し合う二人にとって二人の愛を永遠のものにする究極の方法は心中である。心中に比べると、『愛と死をみつめて』の二人の場合のように、愛し合う二人のどちらか一方が死ぬという方法ないし事態は、愛の永遠化において不完全である。なぜなら残された一人は現実の時間を生き続けなければならないからである。事実、大島みち子の死から5年後、河野実が『愛と死をみつめて』の読者であった綿引潤子と結婚したとき、マスコミは彼の不実を批判したのである。今回のリメイク版は河野実がそうしたバッシングに遭う場面から話が始まる。リメイク版ならではの効果的な演出といえよう。ドラマの主要な舞台は大阪だが、大ヒットした『ALWAYS三丁目の夕日』を意識したのであろう、当時の大阪の街並みが再現されていて(東京タワーではなく通天閣!)、ドラマの本筋とは別に楽しめた。ところで大島みち子は同志社大学の「社会学科」の学生だったことを今回初めて知った。四年制大学へ進む女性が少なかった時代に、それも社会学科とは、ずいぶんと先進的な女性であったわけだ。60年安保闘争の興奮いまだ冷めやらぬ時代の「新しい女」だったのかもしれない。ジャーナリスト志望だったそうだから、もしかしたら清水幾太郎の文章の読者だったかもしれない。
3.19(日)
自宅のベランダに毎日来ている二匹の仔猫、なつ(メス)とあき(オス)のうち、なつが首の所に怪我をしているので、つかまえて獣医に診せに行くついでに避妊手術もしてもらうことにした。手術は明日なのだが、手術の前は胃が空っぽでないとならないので、前日に捕まえて連れてくるように言われている。朝、餌をやるときに捕まえようとしたがうまくいかない。何やらいつもと違う気配を感じているのだろうか、手の届くところまで寄って来ない。昼に再びトライして、今度は捕まえる。それほど暴れることもなく、ネットに入れるとおとなしくなった。頭を撫でると、小さな声でニャーと泣くので、可哀想な気がしたが、野良猫と人間が共生していくためにはこうするのが最善なのだ(と自分に言って聞かせる)。そのままキャリーケースに入れて、妻が獣医のところへ連れて行った。
昼食の後、妻と鶯谷にある大久保家の菩提寺に墓参りに行く。家を出るとき、WBCの準決勝、日本対韓国戦は2回の表裏を終えて0対0であった。経過が気になる。野球の試合の経過がこれほど気になるのは久しぶりである。2時間後、墓参りから帰ってくると、玄関の附近で犬の散歩をさせていて隣の家の奥さんが、私たちの顔を見るなり、「日本が勝ったわよ」と言った。それでもう試合は終わったものと思って、TVを付けたら、8回表の日本の攻撃の途中で雨のため試合は中断していた。得点は6対0で日本のリード。隣の奥さんは「日本の勝利は確実よ」と言うべきだったのだ。ほどなくして試合は再開され、韓国の8回裏と9回裏の攻撃をピシャリと封じて、日本の勝利が確定した。九死に一生を得た人間は強いということの見本のような試合であった。それにしても送りバンド失敗で嫌な流れになりそうなときに出た代打福留のホームランは値千金の一発だった。
夜、『愛と死をみつめて』の後編を観る。みち子が同室の患者の依頼でウェディングドレスの仮縫いのモデルになるなんて話は原作にあっただろうか。リメイク版の創作だとすれば、ずいぶんとあざといエピソードを添えたものである。泣かせればいいという話ではないだろう。泣けたけど。「私に健康な日を三日下さい」というみち子の最後の日記はやはり胸を打つ。一日目は家族と過ごし、二日目は恋人と過ごす。ここまでは誰でも思いつく。三日目、一人になって思い出と遊ぶ。人生の最後の一日を一人で過ごすというのは本当に死を覚悟した人にしか思いつかない発想だと、42年前、小学生だった私は思ったが、その感想はいまでも変わらない。
3.20(月)
気が付くと3月も下旬である。今年度中に片付けるべきいくつかの仕事を抱えながら、新年度の授業のことを頭の片隅で考えている。授業が木・金・土にあることは今年度と同じだが、3年連続で担当した調査実習を他の先生と交代したこと(代わりに2年生の演習Ⅱを担当)、後期の土曜6限にやっていた「社会と文化」を前期の金曜6限に移したこと、「現代人の精神構造」という新しい科目を後期の金曜6限に開講すること、大きな異同はこの3点である。調査実習は一番時間とエネルギーを投入する科目なので、それがなくなるのは、正直、ホッとする。土曜日に講義3つは身体的につらかったので、それが2つになったのは、これもホッとする。「現代人の精神構造」は山田真茂留先生(社会学)、藤野京子先生(心理学)、御子柴善之先生(倫理学)とのジョイント・レクチャーで(チーム名は4人の頭文字を採ってMOFY)、私がコーディネーターを務めるのだが、ジョイント・レクチャーはひさしぶりなので、はたしてうまくいくかどうか(4人の話が有機的にリンクしてジョイント・レクチャーならではの効果が生まれるかどうか)、ちょっと心配である。かくして安堵2つに心配1つ。トータルでは今年度より授業はいくらか楽になるはずだが、問題は会議である。現在、引っ張り込まれている学内の会議体は、教授会は別として、12、3ある。今日も午後4時から6時半まで学生部発行の『新鐘』の編集打合せ会議があったが、もしもすべての会議が毎週1回開かれたとすれば、“会議毒”は簡単に致死量を超え、労災として認定されるであろう。
3.21(火)
書斎のTVでWBCの決勝戦、日本対キューバを観戦。途中から息子もやってきたので、「アナウンサーは例の誤審の審判のネタを引っ張りすぎだよな」とか、「韓国政府は選手の兵役免除を発表するのが一試合早すぎたね」とか、あれこれしゃべりながら観戦。母によると息子は私と声がそっくりなので、もし母が書斎の外にいたら、私が独り言をいっているように聞こえたかもしれない。ああ、あの子も勉強のしすぎでとうとうおかしくなったか・・・・と。母はどんな本であれ私が本を読んでいれば勉強をしていると思い、メールであれブログであれ私がパソコンの画面に向かって何か打っていると学術論文を書いていると思っているのである。そうじゃないんですよ、お母さん、と一々訂正はしない。息子が大学教授になったことは母の自慢なのである。誤解は誤解のままでいいではないか。試合は10対6で日本の勝利。なんと優勝である。選手たちは一生分の親孝行をしたに違いない。
昨日の夜、卒論ゼミのメンバーに初回のゼミの日時、場所についてメールで連絡した。しかし、ワセダネットのシステムの移行(3月10日午前9時以降、それまでの転送設定は無効になること、メールはすべて新システムの方の受信箱に届き旧システムの受信箱には届かないこと)を知らない学生もいると思われるので、「業務連絡」としてここにも書いておこう。
第1回卒論ゼミ
日時 4月13日(木)5限・6限
場所 第4会議室(39号館4階)
*すでに決めてある順番に従って、最初の3名が報告。1人あたりの報告時間は30分程度。レジュメを自分の分を含めて21部用意。第1ラウンドの課題は自分が取り組もうとしているテーマに関連した既存の文献のレビュー。12月の仮指導のときとテーマが変わっていることは構わない。
ところで、これはメールには書かなかったが、実は、第4会議室には椅子が18脚しかない。しかるに演習メンバーは私を含めて21名である。したがって最後に来た3名は立っていてもらわないとならない(というのは嘘で、3階の私の研究室から椅子をもってきますから、ご安心を。でも、遅刻はしないように)。
3.22(水)
午前、妻が動物病院から「なつ」を連れて帰ってくる。20日に避妊手術を受け、2泊してきたのだ。帰ってくる途中はキャリーケースの中でおとなしくしていたが、自転車が玄関先で止まり、見慣れた風景だと気付いたとたんにミャーミャーと鳴き始めた。その声を聞きつけて、きょうだいの「あき」がどこからか姿を現し、呼応するようにミャーミャー鳴き出した。「あき」は、この2日間、突然姿の見えなくなった「なつ」を探すように近所をミャーミャー鳴きながらうろついていたのである。気持ちとしてはきょうだいを早く対面させてやりたいところだが、獣医のアドバイスに従って、「なつ」は家でもう1泊させ(今夜は雨も降りそうなので)、明日、戸外に放つことにする。「なつ」はキャリーケースから出たがってしばらく鳴いていたが、しだいに落ち着き、私が水の入った皿を差し入れると、全部飲んだ。柵の間から私が指を入れると、引っ掻こうとしたりせずに、鼻の頭をすり寄せてきて、ゴロゴロと喉を鳴らした。ここは自分にとって安全な場所なのだということを理解したようである。
午後から大学へ。社会学教室の会議の前に五郎八で腹ごしらえ。カウンター席について注文をしようとしたら、私が注文を言う前に、「天せいろでよろしいですか」と聞かれる。しかたなく「はい」と答えたが、自分の口から「天せいろ」と言いたかった。私は常連客のように振る舞うことも、常連客のように扱われることも、好きではない。「いつものやつを」なんていう注文の仕方はしたことがない。そういうのは羞恥心の欠如した下品な行為だと私は思っている。最後の天ぷら(たいてい南瓜が最後)を食べ終えて、蕎麦湯を飲んでいるとき、女将さんから25日の卒業式の時間について聞かれた。おそらくそれに合わせて開店時間を調節するのだろう。3回行うことは知っているが、時間までは知らなかったので、文学部の事務所にケータイで問い合わせる。1回目が9時半、2回目が12時半(一文・二文はこの回)、3回目が15時半とのこと。メモをして女将さんに渡す。教室会議では戸山図書館運営委員を4月から別の先生にやっていただけることになった。よかった、よかった。
夕方から大隈会館の教職員レストラン楠亭で社会学の教員懇親会。正岡先生は研究室の片付けでお疲れになったようでご欠席。非常勤で来ていただいている先生方の出席も少なく、いつも顔を合わせている面々といつもしているような話をする。
3.23(木)
午前、「なつ」を戸外に放つ。最初、キャリーケースの扉を開けてもすぐには外に出てこなかった。行儀よく座ったまま、あるいはゴロンと横になったまま、喉をゴロゴロ鳴らしている。しかし、しばらくすると、やや警戒しながら扉の外に出て来て、ダイニングキッチンのあちらこちらを好奇心一杯で探索し始めた。そして、ベランダに面した隣の和室にやってきて、硝子戸の外にいる「あき」に気づき、硝子戸を開けてやると、スイッと出て行った。夕方、床屋に行く。先客は一人しかおらず、数人の店員が手持ち無沙汰に立っていた。散髪を終えて帰ってくると、玄関先に「なつ」と「あき」がいた。私が腰を下ろすと寄ってきたので、「なつ」の頭を撫でてやろうとしたら、指先を爪で引っ掻かれた。もうすっかりいつもの野良猫に戻っている。
夜、研究ノート「清水幾太郎と彼らの時代」の24日付けの記事をアップロードする。普段なら、当日の朝飯前の(ときに朝飯を食べながらの)仕事なのだが、明日の午前中は急ぎの仕事に取りかからねばならないので、就寝前に済ませたのである。それにしても一日一記事でけっこう続くものである。卒論に取り組む学生たちにも「卒論ブログ」を勧めたい。文献からの抜き書きや、思いついたアイデアをコツコツ記録しておけば、それほど苦労することなしに卒論が仕上がるのではないだろうか。すでにブログをやっている人もいるであろうが、「卒論ブログ」はそれとは別に、卒論に特化したものとして、作った方がいい。その方が使いやすいと思う。普通のブログの中に卒論関連の記事を混ぜると、その記事のキーワードは「卒論」となるであろうが、これではせっかくのキーワード検索の機能を十分に生かすことにならない。「卒論ブログ」として独立させれば、個々の記事のキーワードは卒論の章節立てや、サブテーマに対応したものになるであろう。記事のストックがある程度の分量になってきたときに、キーワード検索でグルーピングを行えば、「卒論ブログ」の全体がどのように分化し、かつ統合されているかが把握しやすいであろう。その結果、この部分が手薄だからもっと力を注いで行こうとか、この部分はかなり肥大してしまっているから、削ろうとか、二つの章に分割しようとか、そういう戦略が立てやすくなるであろう。それよりも何よりも、「卒論ブログ」の一番の効果は、卒論が前に進むということである。思いついたときにやろう、そのうちやろう、と思って放置しておくと、「その時」はいつまでたってもやってこない。
3.24(金)
父は今年で83歳になるのだが、最近は、小さな子供のようである。ほぼ一日ベッドに寝ていて、「だるいよ~」「さびしいよ~」と周囲の人間にアピールしている。人が視野の外にいってしまうと、一層大きな声で、あるいは手をポンポンと叩いて、誰かがやってきてくれるまで止めない。叱っても、なだめても、駄目なのである。こちらの対処としては、ベッドサイドで話相手になるか、徹底無視を決め込んで何かほかのことをやるか、しかし、前者はこちらの仕事が滞る。後者はストレスが溜まる(無視しても声や音は聞こえてくるのだから)。結局、一番妥当な方法は、家族が入れ替わり立ち替わり父の話相手になり、かといって間断なくというわけではなく、ある程度放ってもおくというものである。今日、私がベッドサイドにいたときは、昔の流行歌をデュエットした。「白い花の咲く頃」(岡本敦郎)、「りんご村から」(三橋美智也)、「夢淡き東京」(藤山一郎)、「別れの一本杉」(春日八郎)・・・・などなど。「よく知ってるねぇ」と父が感心する。それもそのはずで、流行歌は私の商売道具の一つなのである。しかし、真夜中に目が覚めた父の相手をするときは、こうした孝行息子を絵に描いたような対処は無理である。「いま何時だと思ってるんですか」とつい口調が厳しくなる。いまが何時かなんていう配慮ができなくなっていることがまさに父の病気の核心であるわけで、そういう反省の求め方はナンセンスなのである。この点は頭では十分わかっているのだが、実践において不十分なのである。介護は修行である。
3.25(土)
午前11時から現代人間論系運営準備委員会。実習費のことなどを話し合う。社会学専修では調査実習はメインの科目で、実習費とゼミとは切っても切れない関係にあるのだが、しかし、文学部全体を見渡した場合、実習費というものがある専修の方が少数派である。そういうものがなぜ必要なのかと思っている先生方の方が多いのである。現代人間論系は単一の学問分野の教員から構成されているわけではないので、こうした合意形成には意外と時間がかかる。一つ一つきちんと話し合って決めていくほかはない。午後2時半から36号館AV教室で社会学専修の学位記授与式。学位記授与が終わって、乾杯をして、それから文カフェで行われている二文の卒業パーティにちょっと顔を出してから、帰宅する。家族の事情により、社会学専修の謝恩会は失礼する(幹事の方、ごめんなさい)。
一昨日のフィールドノートで「卒論ブログ」の勧めを書いたが、さっそく調査実習クラスのO君が「卒論ブログ」を始めた。とても素直な青年である。将来、悪い女に引っかからないか心配だ。
3.26(日)
原稿書きの合間に父の介護。あるいは、父の介護の合間に原稿書き。夕方、父が突然高熱を出す。体温計のデジタル表示が39.9度になったときはさすがに焦った。しかし、解熱剤と脇の下など4箇所にあてがったアイスノンが効いて、ほどなくして大量の汗をかき、微熱程度まで下がる。汗で濡れた下着や寝間着を取り替え、しばらく様子を見たが、体温の再上昇は見られないので、一安心。ただいま午前0時をちょっと回ったところ。これからまた原稿書き。20年ほど前、赤ん坊の世話をしながら原稿を書いていたときのことを思い出す。
3.27(月)
今日は妹が父の介護に来てくれたので、昼間は原稿書きに専念できた。ようやく目処が立つ。昨日今日と丸二日家の外に出ていない。4月になったら花見に行きたい。そうそう、TSUTAYAの会員証の更新にも行かなければ。夜、大学院への進学を決意した学生からメール。研究テーマのことで相談があるという。3月、4月は決意の季節である。
3.28(火)
調査実習の報告書『ポピュラーカルチャーとライフストーリー』の版下が完成する。A4判332頁(プラスCD一枚。これには52名のインタビュー記録が収録されていて、印字すればA4で500頁ほどになる)。明日、印刷会社の人に渡すのだが、「はじめに」、「目次」、「編集後記」等のファイルを数人の学生にメールで送って、最後の校正をしてもらう。メールを送信した後で、妻に読んでもらって、数カ所のミスを発見する。原稿が書き上がるとまず妻に読んでもらうという習慣は、村上春樹と同じである。ただし、村上のように作品の感想を求めているわけではなく、純粋に校正をお願いしているのである。自分で書いた文章のミスというのは、なかなか自分では気付かないのである(このフィールドノートにしてからがそうだろう)。夜、校正を依頼した学生たちから返信のメールが次々に届く。学生の名前が間違っている箇所があった(ギャッ!)。音楽班のレポートのサブタイトルが間違っていた(ギャッ!)。「編集後記」(これはKさんに書いてもらった) の中に何回も出てくる「がけっぷち」という言葉が一箇所だけ「がけぷっち」になっていた。これは愛嬌のある小さな(プチ)ミスである。面白かったのは、すべてのミスを一人で全部指摘できた学生はいなかったことだ。三人寄れば文殊の知恵というが、やはり校正作業は複数の人間でやらないと駄目だということが改めてわかった。
3.29(水)
昼から大学へ。印刷会社のN氏が研究室に報告書の版下を受け取りに来る。色見本から表紙の色は浅葱色に決める(去年は萌葱色だった)。完全版下だが、ノンブル(頁数)と背表紙の校正を一度やって、11日に完成の予定。これが報告書の目次である。
N氏が帰った後、昼飯を食べに出る。花冷えである。部屋を出る前から、今日はメルシーのチャーシュー麺と決めていた。漠然と腹が減っているときは五郎八の天せいろが定番だが、具体的に「今日は○○が食べたい」と一途なまでに思うときがたまにあって、今日がそういう日だった。途中のあゆみブックスで『論座』1月号を購入し、加藤周一のインタビュー記事「新世代へ 価値を内面化し良心に従う『自由な個人』となれ」をメルシーおよびその後のシャノアールで読む。
学生運動を担った50代後半の人々が今後大量に定年を迎え、現役を退き始めます。これは、実証的データを集めれば研究対象となるでしょうが、私の漠然とした感じでは、彼ら68年世代の「しるし」が、日本では弱いと思います。アメリカでは、68年世代がベトナム反戦運動とヒッピー・ムーブメントの二つに分かれました。ベトナム反戦はきわめて政治的だったのに対して、ヒッピーは風俗的な運動だった。それが重なったり離れたりしながら、互いに影響しあって、中産階級的価値観に対する強力なアンチテーゼとなりました。
ところが日本では、東京の山の手に住む中産階級の輪郭、横顔が終始はっきりせず、アメリカほどの戦いがいがある相手とはなりませんでした。そのため、日本に長髪、ジーンズ、マリファナ、貧乏暮らしといったピッピー文化が根付かなかった。ですから、私は68年世代には期待感もありますが、彼らはそれほどアクティブな存在にはならないと思います。
戦後日本の民主主義社会がある程度実現できたのは、「自由」と「平等」の「平等」の方です。本当の意味での自由はまだ実現していません。日本は自由のない平等社会なのです。自由な個人が責任をもって自分の信じることに向かって進むことのみが本当の自由です。ですから、若い人たちには、「自由な個人になれ」と言いたい。
加藤は1919年(大正8年)生まれ。今年で87歳になる。(現役の)最高齢の知識人といっていいだろう。研究室に戻って、リクライニングチェアで昼寝。このところ寝不足気味だったので、版下を渡して、溜まっていた疲れが出た感じ。こういうときは風邪を引きやすいので注意しなければ。雑用をいくつか片付けてから、生協文学部店で本を数冊購入し、帰宅。
3.30(木)
午前、メールとファックスで用件を2つ済ませてから、研究ノート「清水幾太郎と彼らの時代」の更新(いままでで一番長い記事を書く)。昼食の後、革のハーフコートを着て、散歩に出る。シャノアールで『論座』1月号の座談会「社会学は進化しつづける」(宮台真司、佐藤俊樹、北田暁大、鈴木謙介)を読む。全体として同人雑誌の合評会のような印象。
鈴木: 北田さんと同じで、私もアカデミズム回帰をしないといけないと思っています。その際、二つのものから距離を置いた方がいい。一つは「いま」に寄り添った時代感覚です。そのへんは後続世代が、自分よりももっとうまく語ってくれると思うのです、自分は軽佻浮薄な議論に囚われたくない。もう一つはインターネットから退却しなきゃいけないと思っています。
宮台: ほう。鈴木君がそれを言うのか。インパクトがあるな、それ。(笑)
鈴木: ネットを使った検索精度が上がると、そこから独自の世界観が生み出されてしまう。「ネット的リアリティ」しか分からない、少数の人たちの世界観に資するような言説に巻き込まれていくのはまずい。最近は学者のブログも増えましたしね。(笑)
夕食の後、いつか早稲田青空古本市で購入した『伝統と現代』1978年5月号(特集:現代大衆論)に載っている川本三郎「大衆なんて知らないよ」を読む。
「大衆論」を書くのは苦痛である。かつて社会学者はしばしば「大衆社会」について論を書いた。「大衆社会における知識人」について語った。だがそれがどうしたのだというのか。
「大衆論」というのは少なくともその論者が、自分は大衆ではないという自負を持っているところに成立している。自分はいつも大衆をながめ、観察し、分析することができるという、自分自身の能力・社会的位置をいささかも疑っていないというところではじめて「大衆論」は成立する。いわば、「大衆論」というのは、知識人が自身の高みから大衆を見下すことによって成立する。…(中略)…
「生活者」とか「庶民」という言葉もいまや迫力・衝撃力を失いつつある。それは以前は知識人が自己否定的に援用した言葉ではあった。知識人の中の知識人嫌い(オレこそが本当の知識人で、お前らは体制的知識人だという思いあがり)が、他の知識人を批判する場合しばしば“助っ人”として動員されたのがこの「生活者」であり「庶民」である。要するに、インテリが、もうひとりのインテリの無気力・ひとりよがり・自意識過剰をせせら笑う時に必ず武器にするのがこの「生活者」なのであり「庶民」なのである。
「大衆vs知識人」というもはや錆び付いた図式の下で「大衆」を論じることの恥ずかしさが語られている。それから四半世紀が経った。いまは「大衆」の代わりに盛んに論じられているのは「若者」である。「大衆」を論じるときと違って、年輩の学者が「若者」を論じていれば、「お前だって若者だろう」とヤジられる心配がないからかもしれない。しかし、若手の学者はそういうわけにはいかない。昨日の読売新聞の夕刊のコラムに北田暁大がこんなことを書いていた。
ニートだけではない。キレる子ども、希薄な友人関係、現実と虚構の混同…。私たちの社会はどういうわけか、若者を得たいの知れない存在として理解することに慣れてしまっている。…(中略)…なぜ若者たちは否定的なまなざしを向けられ続けているのだろうか。
一つには社会学者の浅野智彦が指摘するように(『検証・若者の変貌』)、若者が物言えぬ社会的弱者である、という現実がある。実態を誇張し、一方的な批判を投げかけても、マスメディアや公の場で発言の機会のない若者たちから反論が返ってくることはない。いわば若者批判は勝ちを約束されたゲームなのだ。また、大人でも子どもでもない若者の独特の立ち位置も、若者批判の増殖と深い関係があるのだろう。まっさらな白紙としての子どもでも、自我を確立した大人でもなく、ほどほどの改良可能性とほどほどの社会的責任を持つ若者には、つねに安んじて「未熟である」という批判を投げかけることができる。批判のフォーマットが定式化しているわけだ。
大学で教えていると、多くの若者が俗流若者論に苛立っていることが分かる。彼らはあまり口には出しはしないが、自分たちの人間関係が希薄だとか貧困だとか言われることに静かな怒りを感じている。
「多くの若者」の中には北田自身も含まれているのであろう。私の実感からすれば、俗流若者論に苛立っているのは「多くの若者」ではなく、「一部の若者」である。「多くの若者」はまだ俗流若者論に安住している。演習の発表などで、学生が「いまの若者の特徴は・・・・」と大人が書いた本の紹介をして、ただ紹介するだけで、批判的なコメントを付加するわけでもないときなどに、私が、「で、君は自分たちが著者からそういうふうに見られていること、分析されていることに何か反論はないわけですか。君もそういう若者の一人ということでいいわけですか」と水を向けても、「苛立ち」が表明されることは少ない。「大人vs若者」という図式はまだ当分使い回されることであろう。
3.31(金)
午前、研究ノートの更新。昼食をとり、妻がジムから帰るのを待って、ひさしぶりのジムに出かける。筋トレを2セット、時速6キロのウォーキングを1時間。シャノアールで『伝統と現代』(1978.5)掲載の吉本隆明のインタビュー「大衆・知識・思想 戦後大衆の感性的変化をめぐって」を読む。副題に示されているように、このインタビューの主題は戦後(30数年が経過)における大衆の変化である。
その変化というのは、名前をつけることはまずできない。市民主義者は、これを市民民主主義が定着して証拠だというかもしれないし、それから進歩派はまた、進歩的な人権思想が浸透した成果だというでしょうし、革命的な人というのは、自分らの先駆的な活動というものが、こういうふうな変化をきたせしめたんだと、それぞれが我が田に水を引くかもしれないけれど、ぼくはそんなものは全部信じないのです。…(中略)…だけど、あきらかに大衆のなかに感性的に起こってしまった変化というものはあって、そのことをつかむことは、戦後ということの全体をつかむことにつながる重要な問題だと思います。しかし、それをつかむことは、たぶんまだできないんじゃないかなと思うんです。つまり、どうしても対象的にならないで、どっかで、何か、分離して対象にしきれないところがあるから、うまくそれをつかむことは、ほんとうは、まだ完全にはできない。ただ、あきらかにおこってしまった変化、不可避的におこってしまった変化といったらいいようなものなんですが、それはだれでも認められるんではないか。イデオロギーを全部抜かしても、そいつは認められる変化なんじゃないかなと思える。それが何なのかをつかまえることは、まだむつかしいような気がしますが、だけど、ぼくはそういう問題なんだと思いますね。…(中略)…たとえば敗戦以降のアメリカ文化の影響っていうのは、どれだけ強烈だったかとか、あるいはそうではないとか。微視的に言うなら、大衆の感性を変えてしまった要因というのはたくさん言える。けれど、それは数えあげていって数えられるものであるように思います。いちばん数えがたいのは、そこの経済社会過程の構造みたいなところで、何か質的な変化がおこっている。それは全世界史的におこっている。経済制度の問題とは混交してはならないある変化がおこっている。そこのところがよくわからないということがいたばん重要な問題じゃないかなとぼくは思いますね。
吉本隆明にはファンが多い。私は彼のファンではないが、彼の語り口には、「よくはわからないが、何か重要なことが語られている」という雰囲気が漂っているということはわかる。性急な言語化(名前をつけること)を控えるという態度も知的な誠実さを感じさせる。だが、その一方で、何だか思わせぶりな語り(文章)だなと呆れる気持ちもある。「微視的に言うなら、大衆の感性を変えてしまった要因というのはたくさん言える。けれど、それは数えあげていって数えられるものであるように思います」と言っているけれども、具体的にあげているのはアメリカ文化の影響ひとつだけではないか、もっとたくさんあげてみてほしいな、と言ってみたくなる。『踊るさんま御殿』のMC、明石家さんまなら、即座に「たとえば?」とツッコミを入れるところだ。