フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月3日(木) 曇り

2011-11-04 02:32:38 | Weblog

  8時半、起床。天気予報では夏日になるとのことだったが、曇っていて、それほど気温が上がるとは思えない。予報は外れだろう。バタートーストと牛乳の朝食。

  今日は原稿書きと前から決めていた。これが散歩日和であるとつらいところだが、曇っているので、散歩の誘惑は小さい。10時からパソコンの前に座って、執筆スタート。今日の目標は400字詰原稿用紙換算で10枚。A4用紙でワードの初期設定(40字×36行)では3枚に相当する。

  チュンが騒ぐので、鳥籠から出して、私が着ているウールのベストのポケットに入れてやると、温かいのが気に入ったのか、柔らかいのが気に入ったのか、大人しくなって、居眠りを始めた。

  3枚書いたところで、昼食は炒飯。

  いま書いているのは正月明けまでに書き上げる約束になっている『日常生活の探究』。このタイトルを聞いて、ブログの年配の読者の中には、島木健作の『生活の探求』(1937)を思い浮かべる方がいるかもしれない。農村出身の青年が、東京での大学生活に不満をいだいて、帰郷し、父親と共に農業に従事するようになる過程を描いた作品で、一種の転向小説である。いまでは、忘れられた作家の忘れられた小説だが、都市と農村、本当の生き方などの問題を扱って、当時(日中戦争が始まった頃)の青年に広く読まれた。
  私の『日常生活の探究』は、方法論的にも思想的にも島木の『生活の探求』を継承するものではない。『日常生活の探究』は小説ではないし、私には学生時代に社会主義の思想に傾倒した経験もない。日常生活という平面へのこだわりは共通しているが、「探求」とは「あるものを得ようとして探し求めること」であり、他方、「探究」とは「物事の本質を探って見究めようとすること」である。たとえば、真実は探求するもので、真理は探究するものである。私が書いているのが『日常生活の探求』ではなく、『日常生活の探究』であるのは、島木のように「本当の生き方」を実践的に追求するものではなく、「日常生活」という現象の仕組みを社会学的な視点から考察するものであるからだ。
  ただし、話がそう単純ではないのは、副題を「さらなる個人化の時代のライフスタイルを求めて」としようと考えているところにある。ライフスタイルは生き方であり、それを求めるのであるから、「生活の探求」にほかならない。この副題には、現代人の日常生活の考察を通して明らかにされる問題にどう対処していくかという課題が含まれている。日常生活という現象を分析して、その仕組みがわかればそれでよいということではなく、それが問題をかかえたものである場合は、その解決策や当面の対処法を示す義務があるだろうと思うのである。

昼食後の休憩はとらず、さらに3枚ほど書いてから、散歩に出る。この辺りで休憩を入れないと、身体に悪い。

「緑のコーヒー豆」で、日誌と読書。

  くまざわ書店で以下の本を購入し、「シャノアール」で読む。

    関川夏央『「解説」する文学』(岩波書店)
    黒井千次『散歩の一歩』(講談社)
    合田正人『アラン幸福論』(NHKテレビテキスト)
    『トラッドジャパン』11月号(NHKテレビテキスト)
    『散歩の達人 空カフェ』(交通新聞社)

  関川の『「解説」する文学』は彼が文庫本の「解説」として書いた文章を集めたもの。その中には、文春文庫の『司馬遼太郎対話選集』全10冊の「解説」のスタイルを借りながら書いた評論「司馬遼太郎と「戦後知識人」群像」や、岩波現代文庫全6巻の『座談会 明治文学史』と『座談会 大正文学史』に連作「解説」として書いた「文学史議論が「娯楽」となりえた時代」といった長篇も含まれている。私は文庫本の「解説」を読むのが好きで、単行本で所有している本でも、それが文庫化されると「解説」目当てで文庫を購入することも多々あるのだが、関川の「解説」にはハズレが一度もない。

  夕食後、「ドクターズ最強の名医」を見てから、原稿を3枚ほど書いて、今日のノルマを達成する。