ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「スズメバチの巣」 パトリシア・コーンウェル

2007-08-13 10:41:07 | 
期待が大きいと、失望も大きい。

90年代のアメリカで最も話題になったミステリー作家の一人がパトリシア・コーンウェルだと思う。デビュー作「検屍官」は実に面白かった。当然にシリーズ化され、私も楽しみに読んでいた。

そのコーンウェルが新しいシリーズを始めたというので、期待に胸を膨らまして読んだのが表題の本だ。ところがだ、これは要するに「顔見せ興行」のようなもの。登場人物を紹介することが目的で、とてもミステリーとは言えない。

そりゃ、随所にコーンウェルらしい仕掛けは、いくつも散りばめられているが、ミステリーを期待した私としては失望も甚だしい。なんだか、TVドラマのシリーズ化を目指しているような感じがあって、不純な印象を拭いきれない。

面白い作品のシリーズ化は、私とて望ましいと思うが、まだ始まったばかりで、面白いかどうかも分らない作品なのだから、少々あつかましい。

既に次の作品も刊行されていると思うので、読んでみてから判断すべきだと思う。思うが、少々気がそがれた。コーンウェルのことだから、きっと面白いはずだが、どうも出だしがこれでは先が思いやられる。

ちょっと、いい気になりすぎじゃあないかねえ。
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「毎日かあさん4出戻り編」 西原理恵子

2007-08-11 14:38:09 | 
ちょっと悔しい。負けた気がして、取り上げたくはないのだが、やっぱり無視できない。

今年の4月にこのブログでも取り上げた、西原女史の配偶者である「かもちゃん」こと鴨志田氏。その死後2週間ほどして、朝日新聞に西原女史へのインタビューが掲載されていた。記事のなかで西原は、「かもちゃんと知り合って、世界が広がった」と冷静に述べていた。

私は興味津々だった。西原が漫画のなかで、どのように鴨志田氏の死を描くのか?いささか不謹慎な興味心だと思うが、あれほど罵り、露骨なまでにアル中ぶりを描き、情け容赦の無い姿を描いてきた西原だ。一度は離婚して、復縁してまでして最後を看取った配偶者の死を、どのように描くのか。どんな嘘を書き、どんな誇張をするのか。長年の西原ファンとしては、見逃せないと思っていた。

しかし、最後の最後で、当然に普通で、珍しくも無く、ありきたりの臨終の姿を描いてみせた。だから参った。嘘つきで、えげつなく、執拗に乱雑な西原が、嘘もつけず、誇張も出来ず、素直にそっけなく、その夫の死を描いてみせた。完敗としか言い様がない。

私は西原の漫画を読んで、叙情を感じたことはあっても、目頭を熱くしたことはない。いや、無かった。過去形で言わねばならないのが、なんか悔しい。実は「毎日かあさん」のシリーズは、一巻しか持っていなかったのだが、これで全部揃えずにはいられなくなった。途中が抜けているのは許せない。そんな気分になってしまった。ああ、悔しい。
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「地球・45億年の孤独」 松井孝典

2007-08-10 09:51:31 | 
地球に優しくという言葉が好きになれない。

地球という存在にとって、その表面上に生息する数多の生物は、いかなる存在意義を持つのだろう。そんな疑念が、私の頭の片隅から離れない。

地球上に生物が存在するようになったのは、今から40億年ほど昔のことだ。以来、何度となく大絶滅が繰り返されてきた。最大の絶滅は、30数億年前の海で起こったとされる。太古の生物が暮らす海に、突如として発生した恐るべき怪物。当時の生物には有毒な酸素を放出する怪物の所業で、当時の生物の99%が死滅したという。酸化作用という化学反応を引き起こす酸素は、太古の生物には耐えられない猛毒であり、ほんのごく一部の生物が深海や地中の奥深くに逃げ込んで生き延びた以外は全滅した。

代わって地球上に蔓延したのが、酸素をエネルギーに転換できる生物たちだ。我々人類も、当然にこの子孫になる。数え方にもよるが、この40億年で大きく7回は大絶滅があったとされる。一番近かったのは恐竜を死滅させた6500万年前の大変動だ。

原因は謎とされる。宇宙から飛来した隕石の衝突説が巷間に流布されたのは、比較的最近のことだが現在は否定的だ。隕石衝突説が弱いのは、6500万年前にユカタン半島に墜落する以前から恐竜たちは衰退の状況にあったことを説明できないからだ。止めを刺す要因にはなったと思うが、恐竜絶滅の真因にはなりえない。

現在強く支持されつつあるのがスーパーボルケーノ説。つまり超巨大噴火活動だ。地球の表面(地殻)のはるか下に今も蠢くマグマ層が数億年に一度、地殻をぶち破って大量に噴出する。その際の火山灰が大気を数年間覆い、太陽の日差しを遮り寒冷化を招き、植物を死滅され、動物を絶滅に追いやる。地球が完全に氷結したことすらあった。

ただ幸いなことに地表の7割は海で、大半のスーパーボルケーノは深海で起こるらしい。海洋生物には大打撃だが、地表への影響は少ない。しかし、運悪く地表でこのスーパーボルケーノが発生した場合は、生物の大虐殺が引き起こされる。

なれば、地球にとって、その表面上に生息する生物の存在は、いかなる価値を有するというのか。この地球にガイアという概念を当てはめ、意思ある存在として提起した学者の一人が、表題の著者松井孝典だ。

馬鹿らしいと吐き捨てるのは簡単だ。それでも無視しきれないのは、宇宙の生誕から、生物の進化にはある種の意思あるいは方向性を感じることがあるからだ。人智では計り知れない意思の存在を、神と呼び、畏れ、讃えたのは、か弱き人類の気の迷いかもしれない。

SF的アイディアとさえ思えるガイア説が、一般人よりも科学者たちに広まったのは、誰よりも科学者たちが人智の限界に近いからではないか。読んだ当初は「とんでも本」ではないかと思っていたのですが、現在は少々不安に思うこと多々あり。

我々人類なんて、地球の表面上にはびこる細菌のような存在でしかないのではないか。地球に優しくなんて、とんでもない傲慢に感じる。地球にとって人類など必要な存在であるわけなく、あくまで生存を黙認されているだけではないか。

松井先生は、東京大学の助教授(当時)であり、次のノーベル賞に最も近いとまで噂される学究の人です。奇をてらってガイア説を取り上げたわけではなく、学術研究の一つの試論として取り上げただけだと思います。それなのに、私にとっては下手なホラー小説よりも恐ろしく感じてしまったのです。
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「パンドラ抹殺文章」 マイケル・バー・ゾウハー

2007-08-09 13:21:09 | 
食べ物に好き嫌いなし。

これは自信をもって言える。ところが、読書に限っては偏食の気が強い。どうしても、好きになった分野に偏る性癖があるからだ。あまりバランスの良い読書とは言えないと思う。

だから、図書館で本を借りる時は、バランスをとるよう工夫する。一回に3冊借りることが多い。なるべく異なる分野から1冊づつ借りるよう努めている。例えばミステリー、政治、動物ドキュメントとか、歴史小説、軍事、エッセーといった具合になる。

変に思われるかもしれないが、知識をバランスよく摂取したいと願うが故の小細工だ。雑食性だと言ってもいい。元々子供の頃の愛読書がジャポニカの百科事典だったくらい、雑学志向が強いせいでもある。

ただ、デメリットも当然にある。いろんなことを知りたいくせに、専門的な深みがないことにコンプレックスを感じていたので、大人になると一つの分野に集中することを志向するようになった。税理士などという専門職を選んだのも、その表れでもある。

実際問題、10代の頃までは偏食ならぬ偏読が酷かった。ミステリーや冒険小説はかなり好きだったのに、フォーサイスやマクリーンのはずれを続けざまに読んだことから嫌気が差して、一時まったく読まなくなっていた。

20代の病気療養中に、上記の三分野読書を始めだしたことで、何気に手に取ったのが表題の本だった。予備知識はまったくなく、読み始めた。これが大当たり、もの凄く面白かった。こんな面白い本が出ていたのに、それに気がつかなかった不明を恥じたくらいだ。

イスラエル出身の作家というのも、新鮮な印象があった。戦争が日常的にある国で育った作家の手による、国際謀略は現実的(本当にありそう)で、そのプロット造りの巧みさに感心した。以来、新作は必ずチェックしている。

三分野読書は、時々はずれをひくが、それでもこんな快作に出会える楽しみもある。さて、次の週末はどんな本に出合えるのでしょうね。楽しみ、楽しみ。
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「パイプの煙」 團伊玖磨

2007-08-08 09:26:37 | 
少し旧聞になるが、全世界のウェブ上にあるブログの数は8000万にもなるという。

そのブログへの投稿の今年上半期のトップは39%で日本語だという。2位が英語で37%というから驚いた。ウェブ上で使われる言語の大半が英語のはずだから、ブログにおける日本語の突出ぶりが窺われる。

ちなみに英語で書かれたブログの多くは、政治社会情勢の自分なりの分析や意見を述べたものだという。一方、日本語で書かれたブログの大半は日常生活の諸事を書いた日記形態が大半だという。文字通り電子日記の様相を呈している。

日記という表現形式が、平安時代の頃から男女を問わずなされていた日本ならではの現象な気がする。しかし、まあ、不思議に思えるのは、日記とは本来私的であり、内省的な性格を有するがゆえに公開を目的としたものではないはず。にもかかわらず、公開を前提としたウェブ上に書かれているのだから不思議だ。

かくいう、このブログにしたところで読書日記の性格が強い。自己顕示欲の現れだと指摘されれば、その通りと首肯せざるえない。もっとも私自身は、自分の考えをまとめるためであったり、文章修行のつもりであったりする。

出来ることなら、短い文章で自分の考えを伝えられるようになりたいと願っている。ところが、これが難しい。日常生活においてもお喋り好きで、饒舌に過ぎるせいか、文章も徒に長い。もっと推敲をしなければならないと思うが、仕事の合間に書いているせいか、しばしば疎かにしているのは否定しがたい。

週末に、のんびりと他の人の書かれたブログを読んでいると、時折短い文節に明白な想いを感じさせるものに遭遇することがある。他の人の文を読むのも、またいい勉強になる。

でも、やはりプロの文筆業の人が書いたものには敵わないと思う。表題の本は、私が初めて読んだ随筆だと思う。この人は巧い。既に故人だが、文章のリズムとか、文節の切り方なんかは絶妙だと思う。多分、若い頃漢籍に親しんでいたことが、その国語力の根底にあると思う。

さすがに、今から漢籍を嗜もうとまでは思わないが、この人の随筆は手元に置いて時々楽しんで読んでいます。
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