ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

減価償却の嘆き

2007-08-20 09:48:25 | 経済・金融・税制
日本では、何事も時間がかかる。

グローバル・スタンダードの導入が叫ばれて、何年も経つが遅々として進まない。いや、一部が急激に進んでいるのだが、それが全体に波及しているとは言い難い。

引当金が国税局の目の敵とされ、多くの引当金が損金不参入の憂き目に遭っている。大量の退職者を迎えているにもかかわらず、中小企業では退職給与引当金は廃止され、退職給付会計の導入は竜頭蛇尾に終わっている。401k?あれは資金の株式市場流入を目指したものとの性格が強すぎる。

日本はやはり製造業の国だと思う。だからこそ設備投資の費用化である減価償却制度の改正は、非常に重要な意味を持つ。そう言われてから、はや十数年。平成10年の法人税大改正で議題に上がりながら、先送りとされた減価償却制度の国際会計基準との整合化がようやく導入された。

あらためて減価償却について説明しておきます。現在の会計では、売上と費用の差から利益を認識します。100円で仕入れたものを、150円で売れば、利益は50円となります。売上マイナス費用で利益が計算されるわけです。

ところで、100万円で購入した自働包装機(機械という資産になります)をどう費用として認識するのか?この機械は10年間は稼動するものと仮定すると、その購入価額100万円を10年で除した10万円が一年間の費用と見積もることが出来ます。このような資産の費用配分のことを減価償却といいます。

実務上は、取得価額に見積もり使用年数(耐用年数といいます)から算定した償却率をかけて、減価償却費を計算します。

しかし、口うるさい奴が細かいことを言い出した。10年後に処分するときに、自働包装機は中古機械として売れる価値があるのではないか。だから、その処分価格を差し引いて減価償却は計算されるべきだと。この処分価格のことを残存価額と言います。会計上、取得価額の10%が残存価額とされてきました。

そこで、(取得価額マイナス残存価額)× 償却率で減価償却費を計算してきたのです。当然に減価償却費は減少しています。

たしかに使用可能年数を経過した後でも、売れる資産はないわけではない。でも売れれば、それは売却収入として別途利益を認識しますし、現実問題は処分費用がかかるほうが多い。

だから、先進国ではとっくの昔に残存価額を認識することを止めていました。でも、日本では大蔵省が首を振りません。残存価額を廃止すると、減価償却費が多く計算され、その結果利益が減少して、税収が減ってしまう。代わりの税収が確保されない以上、残存価額の廃止は認められない。そう言って、国際会計基準からはずれた、時代遅れの制度を温存してきました。

国際競争の厳しい現代社会です。同額の設備投資をしても、費用化される金額が少なければ、当然に原価は減り、利益が算出されて良いことのように思えるかもしれません。しかし、それは過大に税金を払うことを意味するだけでなく、なかなか費用化されない設備投資を抱えた企業には、過大な負担となり国際競争力を削ぐものとなってきました。なにせ、他の先進国が次々と費用化しているのを横目に、使えなくなって初めて全額費用化する羽目に陥った日本企業は青くなりました。

さすがにマズイと気がついたのか、あるいはバブル崩壊後ようやく景気回復の効果が出て税収が増えたことを背景に、財務省は減価償却における残存価額の廃止に踏み切りました。適用は今年平成19年4月以降の取得資産からです。過去の残存価額の累積は、来年の決算から5年間で少しずつ償却する予定です。

正直言って、5年で償却なんてせずに、一括で落としたいものです。どうゆう理論付けをしたのか知りませんが、多分本音は歳入の安定確保でしょう。十数年かけて、ようやく導入された減価償却の改正ですが、最後の最後に後ろ足で砂をかけられた気分です。あぁ腹立たしい。
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償却資産税の恨み

2007-08-17 09:22:55 | 経済・金融・税制
騙されたとの思いが抜けきらない。

テナントビルの一室を借りて、そこで店舗を営業したとしよう。当然、借りたままの現状では、店舗としては使えない。資金を投じて店舗の内装工事をするのが通例だ。これを内部造作と言う。

その内部造作は修繕工事の性質を持つが、一括で必要経費とはならない。工事の内容により、建物付属設備として、あるいは器具備品として資産計上することになる。

ところで、1月に提出する償却資産税の申告は、例によって会社経理とは異なるものとなる。内部造作については、主に構築物と器具備品に分けて申告することが、償却資産税の申告の手引きに書かれており、その通りに申告していた。

疑いも持たずに、過去何年もそのように申告していた。

それが忘れもしない平成16年税制改正だ。地方税法343条に新たに加えられた9項の中身に仰天した。要約すると「内部造作は、取り付けたものが事業の用に供する場合に限り、償却資産税を課税することができる」となっていた。

おい!この条文は創設だよな。では、今までの課税根拠は一体何だったんだ?

調べてみると、総務省の見解では内部造作については家屋の所有者に家屋として固定資産税を課するとあるが、地方税法には根拠条文がない。平成10年に通達を定めて、それに基づいて東京都は課税していたらしい。おいおい、いつから通達は法律になったのだ。呆れたことに、地方税法を拡大解釈して、長年内部造作を課税していたらしい。

賦課処分の取り消しを求めて東京都に審査請求をした税理士もいたようだが、平成10年の通達を根拠に棄却されたようだ。当然にそれ以前の賦課は、時効の壁に阻まれてもはやお手上げ状態だ。私自身の考えでは、そもそも総務省の見解自体が、実態と合わず無理があるので、償却資産税の対象となるのは相応だと思う。でも、租税法律主義の観点からは納得できない。

私は税金は、有権者の信任を受けた議員により構成される議会(立法府)で承認された法律に基づいて課税されるものだと考えている。いつから東京都主税局は立法府になったのだ。平成16年改正は、過去の不正を正当化する小細工なのか?

都税事務所から送付された申告書の手引きを信じて、根拠条文を調べなかった納税者及び税理士にも問題はないとは言わない。正直言って、償却資産税の申告は付随業務で、本気で取り組んでいる仕事としての意識は薄い。せいぜい、改正事項に目を配る程度の関心しかないのが実情だ。ほとんどの税理士がそうだと思う。

不愉快なのは、東京税理士会の税務審議部の答弁で、「個々の税理士が関与先と対応すべき事案」だと逃げたことだ。誰もが右山税理士や飯塚税理士にはなれない。税務訴訟は、行政訴訟であり、相当な経済的余裕がないと出来るものではない。問題が専門的に過ぎるので、世論やマスコミの支援は難しい。

このような事案こそ、税理士会の支援が必要だと思うが、どうも逃げ腰のようだ。猫に鈴をつけるのは、やはり誰もが嫌なのだろう。一人では無理でも、税理士会の支援があれば可能ではないのか?私のような下っ端の支部幹事の発言力なんぞ、多寡が知れている。それでも機会があったら、声を上げてみたいと思う。
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償却資産税の悩み

2007-08-16 13:12:17 | 経済・金融・税制
時たま困ることがある。

私の仕事は税理士だ。税の専門家であるつもりだ。ところが、全ての税についてではない。やはり専門は法人税、消費税、所得税、相続税の4法に集中する。国税4法とも言う。

しかし、税法は国税だけではない。地方税という奴もある。実はこれが苦手というか、不勉強な税の最たるものだ。法人地方税はまだいい。これは法人税に連動しているので、まったく知らないでは仕事にならない。

不動産取得税や登録免許税に関しては、実のところほとんど概要しか知らない。むしろ司法書士の先生方のほうが詳しいはずだ。そして、困るのが固定資産税というやつだ。とりわけ困るのが、償却資産税だ。ちなみに、土地家屋は申告ではなく、地方自治体の課税担当者が見て回って賦課してくる。一方、機械設備、器具備品などは納税者が自ら申告しての納税となる。

ここ数年、毎年秋になると銀座地区の法人を対象に、法人会主催の改正税法の講師をしている。経理のベテランが出席するだけに、質疑応答がけっこうシンドイ。質問で困るものの一つが、償却資産税と国税の差異だ。

例えばPCを購入したとしよう。40万円のPCを購入すると、一括で経費に落とすことは出来ない。備品として資産計上して、4年間に分割して費用に落とす。この資産の費用化のことを減価償却という。

ただし、法人税法では取得価額10万円未満の資産は一括で経費に落とすことを認めている。また20万円未満の場合だと、3年間での均等償却を認めている。更に中小企業だと取得価額30万円未満ならば、一括で経費の落とすことを認めている(但し、制限あり)。

実にありがたい制度なので、多くの法人は活用していると思う。しかし、これらの制度はあくまで国税において定められたものだ。地方税である償却資産税には適用されないものがあるから、非常にややこしくなる。

やっかいなのは、法人税法の認めている中小企業の30万円未満の一括償却が、償却資産税では認められていないことだ。つまり企業が決算では一括で必要経費に落とした30万円未満の資産(当然に簿価0円)は、毎年1月の償却資産税の申告の際には、改めて記載しなければならないのです。つまり企業の償却資産台帳が決算用と、償却資産税用と2種類必要になります。当然両者は一部が一致しません。

経理担当者にとっては、面倒くさいこと甚だしく、なぜ国が認めたことを地方自治体が認めないのだと苦情が出るのは、ある意味当然だと思います。ただ、国と地方では税法自体も違う。固定資産税は地方自治体の大きな収入源であり、相談もなしに国で減税政策(30万円未満一括償却など)を導入されても、地方は受け入れがたいと言う地方の事情も分らないではない。

更に企業の決算申告は、年一回と企業が任意で決められる。日本では3月決算と9月決算がおおい。ところが、償却資産税の申告は毎年1月末と決められている。法人の決算月に合わせて申告が出来れば、経理担当者の負担は大幅に減るが、これも現行では認められない。

納税者の利便よりも、政府の内部事情を優先しての仕組みなので、いたし方ないことだと思います。しかし、法人会で私がなぜに地方自治体の立場を説明せねばならないのか。同席して、答弁を手助けしてくれる税務署の審理官ともども、毎回頭をひねっています。嗚呼、シンドイ。
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夏になると思い出すもの

2007-08-15 09:21:31 | 日記
毎年8月の初旬に税理士試験は行われる。

暑いさなかに、冷房も無い大学の教室で試験は行われた。汗をふくためのタオルを何枚も用意して、試験に挑んだものだ。一年一回の真剣勝負に待ったは無い。体調が悪かろうが、容赦なく試験は行われる。ちなみに現在は冷房完備の教室で試験は行われているらしい。ちょっと悔しい(苦笑)。

ネット上に数多あるブログのなかには、税理士試験に挑む受験生のものが結構ある。私は時々、それらを読みにいくことがある。はっきり言えば自分のためだ。実務に追われ勉強がなおざりになりがちな自分を戒めるために、受験生のブログを読みに行く。慢心を畏れ、初心を取り戻すためでもある。

かつての自分がそうであったように、受験生は悩み、もがき、苦しみながら勉強を続けている。過酷な世界だと思う。どんなに努力しても、合格という結果が出なければ意味は無い。合格率10%前後(科目別)の試験は、常に勝者よりも敗者が多い。

率直に言って、頭の良さよりも記憶力の良さがものを言う試験だ。才気煥発さより、粘り強い執念が役に立つ試験でもある。落とすための試験としての性格が強く、良き税理士を生むための試験だとは言い辛い。

昨今の就職難を背景に、ずいぶんと受験生も増えたが、難易度が落ちたわけではない。だいたい20代の若い受験生で平均5年ぐらい。働きながら勉強する社会人受験生だと、10年以上かけて合格を手にすることも珍しくない。

頭の良さだけでは、まず合格できない。人間1年や2年なら勉強に集中することは難しくない。しかし、3年、5年と歳月を重ねるうちに、心のスタミナが切れてくる。知識とは、人の役に立ってこそ意味がある。しかし、受験勉強は合格のためだけに存在する。合格が遠い試験勉強ほど、やる気を削ぐものだ。極言すると、受験勉強は自分のためだけでしかない。これが辛い。

人は支え合って生きている。自分の知識が他の人の役に立つ喜びが、仕事を頑張る支えになる。しかし、受験勉強は自分だけのための作業でしかない。これを何年も続けることは、非常に難しい。だからこそ、何のために勉強して資格をとりたいのか、その動機が大切となる。動機=モチベーションを維持することこそ、税理士試験の秘訣だと思う。

その点、私は幸運だったと思う。寝ても覚めても、難病のことが脳裏を離れなかった私にとって、勉強に集中している間だけは、病気のことを忘れられた時間だった。病気の苦しみから解放される時間が、私にとっての受験勉強だった。

勉強をやりすぎて、病気を再発させたのは本末転倒甚だしいが、それでも後悔はしなかった。ただ病気に苦しむ毎日よりは、試験合格という具体的目標に向かって前向きに努力することは、まだ我慢が出来たからだ。ただ、漠然と生きる、生きるだけの苦しみがあるなんて、健康な頃は思いもしなかったものだ。

さりとて、受験勉強が厳しいことには変わりは無い。しかし、私は合格することを疑いもしなかった。覚えるべきことを覚え、複雑な手順を反復して覚えこませば、必ず合格できるなんて、ある意味楽なものだった。いくら医者の言う通りに、薬を飲み、安静を守り、治療に専念しても結果が出ない苦しみに比せば、はるかに楽だったからだ。

気がついたら、予定通り合格していた。今ではそんな風に思い出してしまう。

でも、やっぱりそれは違うと思う。人間、歳月を重ねると、苦しい思い出は消えて、楽しいことばかり覚えているものだ。きっと私も苦しみもがいて勉強していたはずだ。その気持ちを思い出すため、受験生のブログを読みに行く。

最近は仕事に自信を持つようになってきた。それが過信にならないよう、初心を思い出すために私は時々過去を振り返ります。謙虚さとは違うと思う。多分、臆病なのでしょう。過信は過失に通じますから。それが浮「のです。
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「中国にもう花は咲かない」 黄文雄

2007-08-14 05:42:26 | 
戦前、日本が植民地支配した二つの国が台湾と韓国だ。この二つの国は、戦後大きく高度成長を果たした国でもあるが、対日感情において、大きな違いを見せる国でもある。

日本の支配について好意的な対応をみせるのが台湾だ。一方、韓国は年々反日的対応を加速化させる。実に不思議な現象だと思える。戦前の日本政府が、両国について異なる支配をしていたのなら分るが、実際は差を設けることはしていない。なぜ、かくも違いがあるのだろうか。

台湾も韓国も、その経済発展の基盤は、日本の植民地時代の遺産を活用したことは間違いない。それを堂々認めて敬意を払う台湾に対して、可能な限り無視して、むしろ被害者感情をむき出しにする韓国。いったい、何故にこれほどの違いが生じたのだろう。

実は違いは他にもある。反日感情むき出しの韓国人だが、日本にやってきて歳月を重ね、2世3世と住み続けると、何時の間にやら親日的になる。下手な日本人よりも、よっぽど日本に対して愛国的になることが珍しくない。

一方、台湾の人も日本に生活の拠点を持つ人は少なくない。国籍を日本にする人も出てきている。しかしながら、韓国の人のように日本に対する愛国的姿勢はみせない。あくまで台湾人であろうとする。冷静に距離をとっていると感じることが多い。

傍で見ていると、実に不思議な違いを見せる。この違いはどこから生じるのだろう?

私がこのような疑問を持つような契機となったのが、表題の著者、黄文雄氏の本を読むようになったからだ。黄氏は、台湾出身だけに親日的姿勢をみせることが多い。台湾を開発した日本人と違い、台湾を搾取した大陸出身者によって支配された台湾政府に対して、厳しい姿勢をみせる。一方、同じ日本の植民地であった韓国の反日姿勢を厳しく指弾する。

私が初めて黄氏の著作を読んだのは90年代のことだが、当時はまだマイナーな存在であった。韓国が反日姿勢を激しく打ち出すたびに、黄氏の著作は売れ続け、現在ではかなり有名な著作家となった。うまく時流にのったと思う。

未だに自身が納得のいく結論は出していませんが、今現在の私の考えは、自国の文化に対する自信の違いです。台湾人はやはり中国人。その圧倒的な歴史の重みが刻み込まれており、現在の日本の優位性を一過性のものとして、ある意味余裕をもって受け止められる。

一方、長年他人のふんどしで相撲をとっていた朝鮮半島の住人は、虚勢を張らざる得ない。シナの文化の忠実なコピーであることを矜持としていたが、その矜持を剥ぎ取られ、偽りの優越感に意地でもしがみ付かざる得ない。劣等感を押し隠すには、虚勢をはるしかない現実が、過激な反日姿勢に走らせる。

だから、日本に来て日本に馴染んでしまうと、容易に反日姿勢を捨て去ることが出来る。一方心の奥底では、絶対の優越感を持つ中国人は、余裕を持って親日的態度をとることが出来る。台湾人の親日姿勢を私は素直に信じることが出来ない。ただし、礼には礼をもって対すべきと思うので、そこは大人の対応をすべきだと思う次第。

かつては気持ちよく読んでいた黄氏の著作ですが、現在はそれを真に受けて増長しないことが肝要だと、自らを戒めています。貶されるより、お世辞にこそ注意すべき。驕り高ぶって自滅の道を辿った先人は数多いることを忘れてはならないと思うのです。
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