昨年の冬に急逝したのが漫画家の石川賢だ。なんとなく予感めいたものはあった。やっと再開した「魔獣戦線」が未完に終わりそうな気がして、昨年このブログでも取り上げたのだが、やはり予感は当たってしまった。
頑固なまでに、自分の描きたいものを描き続けた漫画家だった。永井豪の弟子筋にあたり、似た絵柄ながらも、独自の世界の構築に成功した人だ。師匠(というか兄貴分か)同様、ちょっとHな場面を入れるところもそっくりだったが、時折ギャク路線やパロディー路線に走るところもそっくりだった。
そのパロディー路線の代表作といえるのが表題の作品だと思う。当時映画「スターウォーズ」が大人気であったので、てっきりそのパロディーかと思いきや、東映や日活の任侠映画のパロディーだった。
タイトルからして笑ってしまうが、内容は案外シリアスなものになっている。このあたり、頑固に真面目な石川賢らしい。
「やくざ」という言葉は、外国でも通用するほど認知度が高い。マフィアや三合会のように、どの社会でも非合法な犯罪組織は存在するものだが、日本のやくざほど堂々看板掲げている連中も珍しい。外国から見れば、やくざを社会的に公認していると思われても致し方ないと思う。
表題の漫画のように、やくざが宇宙に進出するかどうかは知らんが、日本では当分今まで通り堂々とはびこる存在であり続けると言わざる得ない。なぜなら、社会が必要としているからだ。
江戸時代にもやくざは存在したが、あくまで裏稼業であり、大概が本業(興行師や香具師など)を持っていて、やくざが本業であるケースはわりと少なかった。その存在はあくまで日陰者としてのものだった。
ところが、明治維新後近代的民法による統治を実施するようになると、日陰者が堂々ふるまうようになってきた。理由は近代的民法と司法機構にある。
本来、民法とはその国、社会の歴史的風土から育まれるものだ。しかし、欧米並みの近代国家を目指した明治政府は、フランス民法の翻訳版を日本の民法にあてはめた。それは当然に日本の社会風土に根ざしたものではなかった。フランスから招聘された民法学者は当然に反対したが、明治政府は応じなかった。
永い年月をかけて、フランスからの輸入民法を日本の社会に合う様、少しづつ改正していった。その一方、大学の法学部を中心にこの民法を既成事実化させていき、裁判等を通じて日本の社会に根付かせるという、気の長い作業を続けて今日に至る。
欧米以外の国で、近代化を成し遂げた先駆者が日本だが、このような形で近代化を導入したのは空前絶後だと思う。古き伝統をもつエジプトやインド、トルコは、早くから欧米の近代化を知ってはいたが、日本ほど徹底した近代化は出来なかった。当然だと思う。長年、社会に育まれ大事にされた慣習法から離れた輸入民法に素直に従えるわけがない。
識字率が世界一高く、学習能力の高い日本だからこそ可能な荒業だったと思う。しかし、やはり無理はあった。その無理がやくざを必要とした。民事上の争いは、いつの時代でも絶えることはない。だからこそ、政府の仕切りが必要になるのだが、輸入民法の考え方自体、一般大衆には馴染めなかった。おまけに裁判は時間と金がかかる。
そこに仲介者としてのやくざの役割が活きてくる。怖いやくざだからこそ、双方の意見をとりまとめ、仲介役を果たすことが可能だった。実力無き仲介者では、争いが収まるわけがない。庶民はそのことを分っていた。だから、政府のお墨付きの民法や裁判にたよることなく、率先してやくざに仲介を依頼した。
さらに戦後のマルクス主義の攪乱が、やくざにお墨付きを与えてしまった。政府はもちろん、大手メディアも見てみぬふりをしてきた裏事情がある。マルクス主義に染まった学生運動や左派市民活動家に対する抵抗勢力として、やくざや右翼が利用された。ここではじめて裏社会と政府権力との接点が生まれた。
利用しておきながら、平然と裏切るのが政府というものだ。有名な角福戦争の裏で暗躍したやくざたちだが、田中角栄退陣後、福田首相(当時)による頂上作戦で、やくざは権力から遠ざけられたかにみえた。
しかし、バブル経済にたかった政治業者、官僚OB、ゼネコン不動産業界に続いてやくざも参入して、美味い汁を吸っていた。やはり縁は切れてなかった。その後始末に10年以上の歳月と血税が投じられたのはご承知のとおり。
再び商法改正などで、裏稼業の人間に対する弾圧は再開されたが、手を変え品を変えてやくざは生き残っている。この調子では、本当に、やくざも宇宙に進出するかもしれない。
近代化のための民法導入が、皮肉なことに非合法組織ヤクザを育てた。実態と合わぬ法治は、必ず矛盾を引き起こす。現実離れした平和憲法が、空想平和主義を生み出し、有事への合法的対応を不可能にしている現実もまた然り。
日本人って、法治が嫌いなのかなぁ~?
頑固なまでに、自分の描きたいものを描き続けた漫画家だった。永井豪の弟子筋にあたり、似た絵柄ながらも、独自の世界の構築に成功した人だ。師匠(というか兄貴分か)同様、ちょっとHな場面を入れるところもそっくりだったが、時折ギャク路線やパロディー路線に走るところもそっくりだった。
そのパロディー路線の代表作といえるのが表題の作品だと思う。当時映画「スターウォーズ」が大人気であったので、てっきりそのパロディーかと思いきや、東映や日活の任侠映画のパロディーだった。
タイトルからして笑ってしまうが、内容は案外シリアスなものになっている。このあたり、頑固に真面目な石川賢らしい。
「やくざ」という言葉は、外国でも通用するほど認知度が高い。マフィアや三合会のように、どの社会でも非合法な犯罪組織は存在するものだが、日本のやくざほど堂々看板掲げている連中も珍しい。外国から見れば、やくざを社会的に公認していると思われても致し方ないと思う。
表題の漫画のように、やくざが宇宙に進出するかどうかは知らんが、日本では当分今まで通り堂々とはびこる存在であり続けると言わざる得ない。なぜなら、社会が必要としているからだ。
江戸時代にもやくざは存在したが、あくまで裏稼業であり、大概が本業(興行師や香具師など)を持っていて、やくざが本業であるケースはわりと少なかった。その存在はあくまで日陰者としてのものだった。
ところが、明治維新後近代的民法による統治を実施するようになると、日陰者が堂々ふるまうようになってきた。理由は近代的民法と司法機構にある。
本来、民法とはその国、社会の歴史的風土から育まれるものだ。しかし、欧米並みの近代国家を目指した明治政府は、フランス民法の翻訳版を日本の民法にあてはめた。それは当然に日本の社会風土に根ざしたものではなかった。フランスから招聘された民法学者は当然に反対したが、明治政府は応じなかった。
永い年月をかけて、フランスからの輸入民法を日本の社会に合う様、少しづつ改正していった。その一方、大学の法学部を中心にこの民法を既成事実化させていき、裁判等を通じて日本の社会に根付かせるという、気の長い作業を続けて今日に至る。
欧米以外の国で、近代化を成し遂げた先駆者が日本だが、このような形で近代化を導入したのは空前絶後だと思う。古き伝統をもつエジプトやインド、トルコは、早くから欧米の近代化を知ってはいたが、日本ほど徹底した近代化は出来なかった。当然だと思う。長年、社会に育まれ大事にされた慣習法から離れた輸入民法に素直に従えるわけがない。
識字率が世界一高く、学習能力の高い日本だからこそ可能な荒業だったと思う。しかし、やはり無理はあった。その無理がやくざを必要とした。民事上の争いは、いつの時代でも絶えることはない。だからこそ、政府の仕切りが必要になるのだが、輸入民法の考え方自体、一般大衆には馴染めなかった。おまけに裁判は時間と金がかかる。
そこに仲介者としてのやくざの役割が活きてくる。怖いやくざだからこそ、双方の意見をとりまとめ、仲介役を果たすことが可能だった。実力無き仲介者では、争いが収まるわけがない。庶民はそのことを分っていた。だから、政府のお墨付きの民法や裁判にたよることなく、率先してやくざに仲介を依頼した。
さらに戦後のマルクス主義の攪乱が、やくざにお墨付きを与えてしまった。政府はもちろん、大手メディアも見てみぬふりをしてきた裏事情がある。マルクス主義に染まった学生運動や左派市民活動家に対する抵抗勢力として、やくざや右翼が利用された。ここではじめて裏社会と政府権力との接点が生まれた。
利用しておきながら、平然と裏切るのが政府というものだ。有名な角福戦争の裏で暗躍したやくざたちだが、田中角栄退陣後、福田首相(当時)による頂上作戦で、やくざは権力から遠ざけられたかにみえた。
しかし、バブル経済にたかった政治業者、官僚OB、ゼネコン不動産業界に続いてやくざも参入して、美味い汁を吸っていた。やはり縁は切れてなかった。その後始末に10年以上の歳月と血税が投じられたのはご承知のとおり。
再び商法改正などで、裏稼業の人間に対する弾圧は再開されたが、手を変え品を変えてやくざは生き残っている。この調子では、本当に、やくざも宇宙に進出するかもしれない。
近代化のための民法導入が、皮肉なことに非合法組織ヤクザを育てた。実態と合わぬ法治は、必ず矛盾を引き起こす。現実離れした平和憲法が、空想平和主義を生み出し、有事への合法的対応を不可能にしている現実もまた然り。
日本人って、法治が嫌いなのかなぁ~?