ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「5001年ヤクザウォーズ」 石川賢

2007-08-25 14:32:43 | 
昨年の冬に急逝したのが漫画家の石川賢だ。なんとなく予感めいたものはあった。やっと再開した「魔獣戦線」が未完に終わりそうな気がして、昨年このブログでも取り上げたのだが、やはり予感は当たってしまった。

頑固なまでに、自分の描きたいものを描き続けた漫画家だった。永井豪の弟子筋にあたり、似た絵柄ながらも、独自の世界の構築に成功した人だ。師匠(というか兄貴分か)同様、ちょっとHな場面を入れるところもそっくりだったが、時折ギャク路線やパロディー路線に走るところもそっくりだった。

そのパロディー路線の代表作といえるのが表題の作品だと思う。当時映画「スターウォーズ」が大人気であったので、てっきりそのパロディーかと思いきや、東映や日活の任侠映画のパロディーだった。

タイトルからして笑ってしまうが、内容は案外シリアスなものになっている。このあたり、頑固に真面目な石川賢らしい。

「やくざ」という言葉は、外国でも通用するほど認知度が高い。マフィアや三合会のように、どの社会でも非合法な犯罪組織は存在するものだが、日本のやくざほど堂々看板掲げている連中も珍しい。外国から見れば、やくざを社会的に公認していると思われても致し方ないと思う。

表題の漫画のように、やくざが宇宙に進出するかどうかは知らんが、日本では当分今まで通り堂々とはびこる存在であり続けると言わざる得ない。なぜなら、社会が必要としているからだ。

江戸時代にもやくざは存在したが、あくまで裏稼業であり、大概が本業(興行師や香具師など)を持っていて、やくざが本業であるケースはわりと少なかった。その存在はあくまで日陰者としてのものだった。

ところが、明治維新後近代的民法による統治を実施するようになると、日陰者が堂々ふるまうようになってきた。理由は近代的民法と司法機構にある。

本来、民法とはその国、社会の歴史的風土から育まれるものだ。しかし、欧米並みの近代国家を目指した明治政府は、フランス民法の翻訳版を日本の民法にあてはめた。それは当然に日本の社会風土に根ざしたものではなかった。フランスから招聘された民法学者は当然に反対したが、明治政府は応じなかった。

永い年月をかけて、フランスからの輸入民法を日本の社会に合う様、少しづつ改正していった。その一方、大学の法学部を中心にこの民法を既成事実化させていき、裁判等を通じて日本の社会に根付かせるという、気の長い作業を続けて今日に至る。

欧米以外の国で、近代化を成し遂げた先駆者が日本だが、このような形で近代化を導入したのは空前絶後だと思う。古き伝統をもつエジプトやインド、トルコは、早くから欧米の近代化を知ってはいたが、日本ほど徹底した近代化は出来なかった。当然だと思う。長年、社会に育まれ大事にされた慣習法から離れた輸入民法に素直に従えるわけがない。

識字率が世界一高く、学習能力の高い日本だからこそ可能な荒業だったと思う。しかし、やはり無理はあった。その無理がやくざを必要とした。民事上の争いは、いつの時代でも絶えることはない。だからこそ、政府の仕切りが必要になるのだが、輸入民法の考え方自体、一般大衆には馴染めなかった。おまけに裁判は時間と金がかかる。

そこに仲介者としてのやくざの役割が活きてくる。怖いやくざだからこそ、双方の意見をとりまとめ、仲介役を果たすことが可能だった。実力無き仲介者では、争いが収まるわけがない。庶民はそのことを分っていた。だから、政府のお墨付きの民法や裁判にたよることなく、率先してやくざに仲介を依頼した。

さらに戦後のマルクス主義の攪乱が、やくざにお墨付きを与えてしまった。政府はもちろん、大手メディアも見てみぬふりをしてきた裏事情がある。マルクス主義に染まった学生運動や左派市民活動家に対する抵抗勢力として、やくざや右翼が利用された。ここではじめて裏社会と政府権力との接点が生まれた。

利用しておきながら、平然と裏切るのが政府というものだ。有名な角福戦争の裏で暗躍したやくざたちだが、田中角栄退陣後、福田首相(当時)による頂上作戦で、やくざは権力から遠ざけられたかにみえた。

しかし、バブル経済にたかった政治業者、官僚OB、ゼネコン不動産業界に続いてやくざも参入して、美味い汁を吸っていた。やはり縁は切れてなかった。その後始末に10年以上の歳月と血税が投じられたのはご承知のとおり。

再び商法改正などで、裏稼業の人間に対する弾圧は再開されたが、手を変え品を変えてやくざは生き残っている。この調子では、本当に、やくざも宇宙に進出するかもしれない。

近代化のための民法導入が、皮肉なことに非合法組織ヤクザを育てた。実態と合わぬ法治は、必ず矛盾を引き起こす。現実離れした平和憲法が、空想平和主義を生み出し、有事への合法的対応を不可能にしている現実もまた然り。

日本人って、法治が嫌いなのかなぁ~?
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「ナイロビの蜂」 ジョン・ル・カレ

2007-08-24 13:31:03 | 
親愛を込めた握手という奴が苦手だ。

とりわけ苦手なのが、初対面の人からされる親しげな握手だ。どうも居心地が悪い。そもそもが、親愛さという奴がいきなり生まれる訳が無い。それを握手という表現手段でいきなり示されても、素直に受け入れる気にはなれない。

もちろん、握手の意味を知らないわけではない。武器を持つ手が、その武器を放して、相手に友好の証左として握手を求める意図は、それ自体悪い意味があるわけではない。

相手から投げかけられた友好のサインを無視するほど、不躾な礼儀作法を良しとする気もない。だから握手に応じるも、そこでいきなり親密な友好関係が生まれるわけがない。

最初はやはり疑いの気持ちを隠しつつ、少しずつ信頼関係の構築に努め、実績を積み上げた後にこそ親密な友好関係は育まれるものだと思う。

ところが、欧米の人はいきなり親愛を込めた、力強く暖かい握手をしてくる。とびっきりの笑顔を添えてだ。

これがどうも苦手なのだ。欧米の文化では、交渉は形を変えた戦いの場であり、そこには裏切りや謀略、諜報など様々な手練手管が織り込まれるのは承知の上だ。わかっちゃいるが、その親しみをこめた笑顔と、暖かい握手には戸惑わざる得ない。

その笑顔の裏側にある本心を押し隠す上手さに閉口する。その暖かい握手をする手が、平然と武器を取り人を殺すことを厭わぬこと、いちいち思い返すのが苦痛でもある。

日本人は交渉下手だと言われるのも、分る気がする。分るけれど、あまり反省する気にもなれない。日本人には、日本人なりの親愛の示し方があると思うし、決して情の薄いわけでもない。ただ、それを表に出すのが苦手なだけだ。

だからこそ、表題の本のように、平然と仲間を裏切り、死に追いやり、それでいて心を込めた弔辞を読み上げる神経に驚嘆せざる得ない。あの厚顔無恥ぶりは、そうそう真似できるものではない。この冷酷無比ぶりに比せば、お皿を数えて恨み言を並べる日本のお化けなんざ可愛いものだ。

私には、親しげに笑みを浮かべながら、平然と弱点を探り、隙を見ては奪い去ろうとする欧米のやり口は、どうも好きになれない。まあ、イスラムもシナも似たようなものだから、日本が幼稚なのだと蔑まれても致し方ない。致し方ないけれど、あたしゃ日本人に生まれて良かったと思う。

イギリスの諜報機関出身のスパイ作家であるル・カレだって、心の奥底ではあの「親しげな握手」には、ある種の諦念を持っていると思う。だからこそ、こんな作品を書けるのだと信じたい。

余談だが、この小説も映画化された。けっこうよく出来た映画化だと思う。ハリウッドで撮られたものでないことが良く分る映画だった。たまには良いね、ヨーロッパの映画も。
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「エンデュアランス号漂流」 アルフレッド・ランシング

2007-08-23 09:30:18 | 
人生、苦もありゃ楽もある。運気が登り調子の時は、痘痕もえくぼで、何事も良い方向にみえるものだ。しかし、いつもいつも成功できるわけじゃない。

どんなに努力しても、失意の人生を過ごさねばならぬ時は、誰の人生にも必ずあると思う。そんな時は、なにをやっても上手くいかない。大物の貫禄と思えた鷹揚さは、ノロマで怠惰に成り下がり、堂々としたリーダーシップは、単なるえばり屋に堕する。上り調子の時は長所に思えたことが、下り坂の人生ではすべて欠点だと思えてしまう。

だからこそ失敗して、失意のどん底にある時こそ、その人の真価が問われると思う。

イギリスの冒険家、サー・アーネスト・シャクルトンは失敗した冒険家だ。失敗したにもかかわらず、その失敗の時の生き様が人々の共感と敬意を育んだ稀有な人物だ。近年、ビジネス・スクールやコンサルティング・ファームのテキストとして使われているせいで、けっこう知られるようになった人物でもある。

私にとっては、東の文天祥、西のシャクルトンと称する、憧れの人物でもある。

憧れるのは、私が失地の時にこそだらしなく、情けない人間だったからだ。冷たい氷雨が襟元から浸み込む悪天候のなかで、私は寒さに震え、縮こまって怯えていた。多分、本気で生きる気力を引き起こせば、立ち上がることも出来たと思う。思うけど、それを実行することなく、テントの片隅でへたりこんでいた新人の頃。

天気は回復の兆しをみせず、強風は轟音を轟かす。濡れた衣類は体温を奪い去り、身体が震えることを抑えられない。へたり込むほどの肉体的疲労よりも、希望をもてない不安が引き起こす精神的な萎縮のほうが辛かった。私一人じゃない。同じ一年の数人も私と同様にへたり込んでいた。

新人練成と言う名の「しごき」登山は、たしかにきつかった。きつすぎた。私は自分がこれほどまでに弱弱しいとは思いもしなかった。喧嘩に負けて、ぼろ糞に殴られている時よりも辛かった。相手に負けたのではない。自分の弱さに負けたことを自覚していたからこそ、殊更その敗北感は強かった。

そんな状況下でも、明るい笑顔で励まし、率先して雑用をこなし、話しかけてくる奴がいた。私の方が体力はあるはずなのに・・・私の方が経験豊富なはずなのに・・・同じ一年なのに、何故にこれほど差がつくのだ?

それは心の強さだと思う。どんな状況にも屈せず、常に希望を失わず、人々を明るい方向に振り向かせることが出来る。私はそんな強さに憧れた。いつかは自分もそんな人間になりたいと切望した。

未だ遠く叶わぬ願いではあるが、少しずつでいい。一歩でも近く、理想に近づきたいと思う。
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「神々の指紋」 グラハム・ハンコック

2007-08-22 12:40:38 | 
私は由緒正しいアンモナイトの子孫である。根拠?うん、夢で見たのさ。太古の海を気持ちよく漂っているアンモナイトの自分をね。文様が美しい貝殻と、繊細で力強い触手を棚引かせながら、緑の海を優雅に泳ぐ古代生物である自分に気づいた時の安堵感は、なんとも素晴らしいものであった。

ところが、巨大な口を空けた凶暴なシーラカンスが襲ってきて、哀れ華麗なアンモナイトは・・・あ!目が覚めた。

冗談はさておき、私は過去を飾り立てる自己紹介が嫌いだ。とりわけ笑っちゃうのが、旧貴族の出であることを語る輩だ。日本の貴族ぐらい間抜けな連中も珍しい。本来なら武士に実権を握られた段階で滅亡してもおかしくない。実力なき旧・支配者が滅ぶのは歴史の必然と言っていい。

ところが、心優しき日本人は、天皇やその取り巻きの貴族どもを滅ぼさなかった。滅ぼすだけの価値もなかったのかもしれないが、どうもある種の文化遺産の管理者として残しておいたようだ。実際問題、私は天皇制自体を、古代から引き継がれた文化遺産だと考えている。だからこそ、今も大衆から愛されて(?)いるのだろう。

古代の貴族は、当然に実力ある支配者であったが、その子孫どもときたら、生き残っただけがとりえの情けない連中だと私は思う。このあたりの思考は、私が過激な左翼思想のもとで思春期の一時代を過ごしたことの名残だ。

だから、「私(わたくし)の祖先は藤原家ですの、オホホホッ」なんて恥も知らずにのたまう馬鹿に出会うと、心底軽蔑したものだ。黙っていれば、素の当人を正当に評価してやるものを・・・

しかし、まあ、人間って奴は古今東西を問わず、過去を飾るのが好きなようだ。そんな人間の心根につけこんだのが、表題の本だと思う。

白状すると、最初に読んだ時はずいぶんと興奮したものです。

でも、日を置き冷静に振り返ってみると、その内容はかなり問題がある。気がついたのは、その仮説のほとんどが実証されていないこと。さらにその仮説のもととなる資料の扱い方に偏向が感じられることだ。

思い入れが強すぎて、反証の検討が十分でない。仮説を既定の事実としてしまい、史跡などをその既定の事実化の道具として扱っている。ちょっとオカシイぞ、と思い直したのは再読後のことです。

既に沢山の反論がなされ、見事「トンデモ本」の仲間入りを果たしたようですが、未だに真に受けている方も散見します。新聞のTV欄を見ていたら、まだ取り上げている番組があったので仰天した覚えがあります。まあ、未だに解明されていない海底の遺跡の映像は、たしかにロマンが漂いますが、あくまで仮説として楽しむにとどめるべきでしょう。

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「死のサハラを脱出せよ」 クライブ・カッスラー

2007-08-21 09:17:16 | 
手のひらが乾いているとイライラする。

昔からの性癖で、手のひらが適度に湿っていないと、どうも落ち着かない。今でも手の渇きを感じると、わざわざ手洗いに行き、手の平を濡らして戻ってくる。何故と問われても困るのだが、昔からそうだった。

現在、ちょっぴり心配しているのが、年齢による手の平の乾燥化だ。どうも不可避なものであるらしい。加湿クリームのようなものも市販されているようなので、いずれはお世話になるかもしれない。

だから砂漠で暮らすことは、私には考えられない。手の平の乾きでさえ嫌なのに、ましてや水の無い砂漠を横断するなんて、想像しただけでもウンザリする。多分、水が無い状態に追いやられたら、一日中ジュースのことを考えていると思う。コーラの一気飲みとか、麦茶のがぶ飲みが脳裏を占領してしまうだろう。プールに飛び込むことや、岩肌から流れ落ちる清流に顔を突っ込むことだけを考えると思う。人間、水なしでは生きて行けないと本気で思うぞ。

余談だが、砂漠を表現するのに、「砂」という字は適切ではない。Dezartとは、水の少ないところを意味しており、正確には沙漠と書くべきだ。沙の字は水が少ないを意味する漢字で、本来はこちらの字を使っていた。それをもの知らぬ文部官僚が「砂漠」を正式な名称としてしまった。ちなみに戦前の地理誌関係の書物では「沙漠」と書いていることが多い。

このことを教えてくれたのは、高校の地理の先生だった。その先生の話では童謡として知られる「月の砂漠」の唄のイメージが、砂漠という言葉に市民権を与えてしまったそうだ。あの「月の~、砂漠の~♪・・・」の唄を聴くと、誰もが砂丘を駱駝に乗って旅するアラビアの民を思い浮かべてしまう。唄の力、恐るべしだと思う。

実のところ、世界の砂漠の大半は小石と潅木の広がる荒野で、砂丘が拡がるような砂の荒地はそう多くない。少ないなかでも世界で一番有名な砂丘の砂漠が、表題の作品の舞台となるサハラ砂漠だ。

数年前にハリウッドで映画化されたので、そちらを思い出された方もいるかもしれない。まあ、わりと良く出来た映画化だと思うが、もし原作を読んでいないのなら、是非読んで欲しいと思う。ダーク・ピットのシリーズもののなかでは、一番の快作だと考えている。

非政府機関NUMAのヒーローであるダーク・ピットものとしては、「タイタニックを引き上げろ」のほうが有名かもしれない。相変わらず、世の中を私欲に溺れる悪役と、正義の味方に分ける単純無比な二分法が、多少鼻につくのが難点。それでも豊富な歴史知識を活かした舞台設定と、個性豊かで陽気なヒーローの活躍は、確かに楽しいと思う。
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