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森羅万象 ~ 歩く印象派

藤竹 暁 (著)『事件の社会学―ニュースはつくられる 』(中公新書) (1975年) その3

2008年01月06日 02時21分02秒 | 読んだ本・おすすめ本・映画・TV評
(その2からの続き)
 人間にとって「状況の定義づけ」をうる作業は、極めて簡単でもあり、またとほうもなく難しくもある。小野田さんが持っていた情報量はかなりのものであったが、しかし、これらの情報によって、彼が作りあげていた環境像は極めて貧弱であった。それは曖昧さに満ちていたのである。人間は、多くの情報を得ていたとしても、それによって曖昧な環境しか描けないとき、彼はいままで抱きつづけてきた確信に頼らざるをえない。古い確信にしか頼れない人間は、不幸である。現代人はこうした不幸な状態に接していながら、過去の確信にすがって生きるという生活をともすればしがちなのではないか。
 情報の豊かさのなかでの判断の貧困である。「豊富の中の貧困」は、現代の情報環境にもあてはまるであろう。

 オリジナルとコピー
「経験しない事件に対して人びとが抱く感情は、その事件を心理的に想像することから生ずる感情である」と述べたのは、W・リップマンであった。1914年の孤島では、戦争という事態を想像することによって、イギリス人とフランス人とドイツ人は、お互いを敵国人という感情で見ることになった。
 昭和49年2月27日から3月11日までの2週間にわれわれが小野田さんに対して抱きつづけた感情も、また同じではないか。経験しない事件は、収集した「情報」を人間の想像力で補って、しかるべく定義づけたときに、はじめてその人間の「環境」となる。1914年の孤島や小野田さんの事例は、日常生活とは無縁な世界の出来事のようにみえるかもしれない。しかし、われわれが社会生活を営んでゆくためには、経験しない事件、すなわちわれわれが直接的に経験することのできる「直接的環境」をこえた厖大な「間接的環境」において生ずる出来事を自分の環境とすることが必要である。
 われわれもまた、1914年の孤島や小野田さんと連続した平面で生きているのである。われわれは想像力を用いて、手元にやってくる情報を補いながら、われわれの環境を作り、すなわち状況を定義づけて生活している。この想像力は、その人間がいままで生きてきた経験とすでに得ている情報との産物にほかならない。多くの場合、現代人は、過去の経験と収集し蓄積した情報によって作りあげた「想像」(イメージ)が、実際の事件とほぼ同じであることがほとんどであるために、あるいは、実際と違っていることによって、甚大な損失や被害を蒙った記憶をあまり持っていないために、それほど疑いもしないで、平安な生活を送っているにすぎないのである。
                         (その4へ続く)
 


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