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この国と原発:第7部・メディアの葛藤/1 続けられた批判記事/石油危機、広告の転機(その1)

2012年10月23日 21時05分49秒 | 時事スクラップブック(論評は短め)

毎日新聞 2012年10月22日 東京朝刊

 「この国と原発」はこれまで6部にわたり、原発推進を巡る政界や地元自治体、中央省庁、業界、学者たちの強固な結びつきの歴史と現状などを報告してきた。多くの読者から評価を頂く一方で、「メディアはどうだったのか」との指摘を受けた。可能な限り過去にもさかのぼり、私たちの足元を見つめたい。第7部はメディアと原発の関係を追う。

 「毎日新聞は原発推進の広告と引き換えに原発批判キャンペーンをやめた」。東京電力福島第1原発事故後、こんな話が広まった。共産党機関紙「しんぶん赤旗」や「週刊東洋経済」「別冊宝島」などの雑誌に記事が載り、ブログなどで引用されている。いずれの記事も、鈴木建(たつる)・元電気事業連合会広報部長(故人)の著書「電力産業の新しい挑戦」(日本工業新聞社、1983年)が根拠だ。

 74年8月6日、朝日新聞に日本原子力文化振興財団の原発推進広告が掲載された。同書によると、国内初の原発推進の新聞広告で、実質的には電事連が主導した(同書では同年7月と表記)。その後、読売新聞と毎日新聞からも広告出稿を要請され、鈴木氏は読売には応じたが、毎日には「原発反対キャンペーンを張っている」と断る。毎日は編集幹部が「原発の記事は慎重に扱う」などと約束。鈴木氏の指摘したキャンペーン記事は「いつとはなしに消えた」ため、読売に1年遅れて広告を出した−−というのが骨子だ。

  文脈から、指摘されたキャンペーンは、国や電力会社の原発推進体制を批判的に報じた「出直せ原子力」(74年10~11月)と、市民運動や消費者運動をメーンに据えた「キャンペーン’75」(75年1~12月)の二つの連載とみられる。

  当時、鈴木氏と交渉したのは、毎日新聞東京本社広告局産業広告課長だった小林正光氏(72)。小林氏によると、鈴木氏は当初、連載記事のほか、東京社会部の河合武記者の記事が「激しい」と注文をつけたという。

  河合氏は、日本で最も早く原発を批判的に報じた記者の一人。49年に入社し、54年の第五福竜丸事件を機に原子力取材にのめり込んだ。社会部の後輩、松尾康二氏(75)によると、湯川秀樹氏ら原発に慎重な物理学者の他、東大の向坊隆(むかいぼうたかし)氏ら推進派の大物とも親しく、「博識でデスクにも臆せず正論をぶっていた」という。

 鈴木氏に「反原発キャンペーン」とされた「出直せ原子力」も監修した。74年7月に関西電力美浜原発の放射性物質漏れ事故で、関電の社長が「原子炉のトラブルにはもっと寛大になってほしい」と発言。疑問を持った東京経済部の電力担当、肥塚(こいづか)文博氏(72)が社会部の同僚に呼びかけて企画し、河合氏の指導を仰いだ。

 安全審査を形骸化させた原発推進体制の問題点を指摘した河合氏の著書「不思議な国の原子力」(61年、角川新書)はこう結ぶ。「原子力の『関係者』は、常に『国民全体』である。だから原子力は、ガラス張りの中で、公正に進められなければならない」

 73年に始まった石油ショックを機に、毎日の社内ではエネルギー問題について議論が交わされ、原発は安全に最大限配慮しながら運転を容認する立場を取った。それを踏まえて社説は、74年9月に原子力船「むつ」が放射線漏れを起こした際に「研究開発を断念すべきではない」との論陣を張った。また、77年4月に高速増殖実験炉「常陽」が日本初の臨界を達成すると「喜ばしい」とした上で「前途多難」と書いた。

 毎日新聞が電事連の広告を掲載したのは「キャンペーン’75」が終了した翌月の76年1月30日。紙面を見ると、二つの連載はいずれも中断することなく完結しており、毎日新聞が原発批判キャンペーンをやめた事実はなかった。