子供の頃TVで見た映画で、何とも後味の悪い映画がありました。
主人公が砂漠を超え、体力を消耗しながら歩き続け、あの山の向こうには
街があると最後の力を振り絞って山の頂に着いたところ・・・
延々と砂漠が広がっていた~というストーリーでした。
小学生だった私に「砂漠は怖~い!」というトラウマを刻み込んだ映画です。
タイトルも主演俳優も思い出せず、数十年ずっと心の片隅に恐怖体験として
巣食っていたのでした。
お正月明け、TSUTAYAさんに行き復刻名画の棚を見ていたらこの映画が目につきました。
「眼には眼を」はずっと戦争映画だと思い込んでいたのですが、どうも「眼下の敵」と
まぜこぜになっていたようです。
主演が共にドイツ俳優クルト・ユルゲンスだったからかもしれません。
子供の頃から彼のファンでした。
こういうインテリジェンスを感じる鋭いお顔がなんですわ~。
DVDカバーを見てこれだ~!っと。
ずう~っと心に引っかかっていたのはこの映画だと見る前に確信しました。
見てみると、「砂漠」ではなく「岩山」で、彼は一人ではなくずっと二人で
岩山の道を歩いていたのでした
*********************
眼 に は 眼 を OEIL POUR OEIL
********************
< ストーリー >
砂漠の国シリアの病院で医師として働くフランス人ヴァルテル。
勤めを終え家で寛いでいるところに一台の車が止まり病気の妻を診察して欲しいという。
疲れていることもあり、車で20分の病院に行くことを勧め眠りについた。
翌朝、車が故障し歩いてきた女性患者が盲腸と誤診され、適切な処置を受けられず
手遅れで亡くなったことを知る。その日から、深夜に無言電話がかかり、ヴァルテルは
誰かに尾行されていることに気が付く。そして・・・。
ダンディーなユルゲンスの…御髪が~!
そうだったそうだった、こういうストーリーだったわぁ
これぞ、サスペ~ンス!
もしあの時ちょっとでも話を聞いて診ていれば…、
もし車が故障していなければ…、
もし当直の医者が誤診をしなければ…、あの女性患者は死ぬことは無かったかも知れない。
不幸が重なった残念な結果。
医者ヴァルテルに法的な責任はないが、倫理的にヴァルテル本人も良心の呵責を感じている。
そして、この「良心の呵責」によって、彼は深みにはまっていく。
見ているこちらも、
妻を亡くした夫の悲しみやヴァルテルに恨みを持つ気持ちもわからないではないし、
ヴァルテルの対応に落ち度がないことも良心の呵責を感じるのもよく理解できる。
果たして夫は復讐をしようと周到な計画に立って行動しているのか?
ただ行き場のない気持ちをぶつけようとしているだけなのか?
行き詰まる心理戦が始めはゆっくり、そして一気に加速する。
フランス人の医師が、異国シリアの地で言葉もままならず、地理も不案内な中、
文化の異なる異教徒に囲まれ、車も失い、自分に恨みを抱いている男と砂漠を彷徨う。
妻を亡くした男は自分だけ助かろうとしたのか?捨て身の行動だったのか?
人を呪わば穴二つ。
アラブ人たちの装束や行動、音楽、砂漠に上空を舞うカラスや猛禽類が恐怖を煽ります。
「目には目を、歯には歯を」はハムラビ法典だと思っていましたが、旧約聖書の出エジプト記にも
同じ表現「Eye for eye, tooth for tooth, hand for hand, foot for foot.」があるのですね。
そしてこれは、復讐を肯定しているのではなくて、拡大報復禁止の戒めの教えなのだそうです。
刑罰の上限を明らかにすることで復讐に歯止めをかけるための規定なのだそうです。
つまり、やられたらやり返せ!倍返しだー!っはあかんよ~って教えってことですね。
この歳になるまで、すっかり誤解していました。
どうもイスラムやアラブに対して、私たちは偏見を刷り込まれているようです。
(そもそもハムラビ法典は紀元前18世紀のバビロニアの法典でイスラムの教えじゃないです。)
この映画の邦題は何故「目」じゃなくて「眼」だったんでしょう?
物を見る器官として「眼」を使い、視点、考え方など視覚以外の「見方」を「目」と
使い分けるらしいです。(眼=eye 目=view) *「人力検索はてな」より
だから「eye for eye」は「眼には眼を」なのでしょうね。
非常に見応えのある名作です。
「あの映画はなんだったのか?」という積年の疑問に答えが出てうれしいです。
***** 見た 映画 *****
1月4日 「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」 DVD 1972年ルイス・ブリュネル監督のフランス映画
アカデミー外国語映画賞受賞作品
1月7日 「SUITS シーズン2 vol.5~6」 DVD アメリカのTV法廷ドラマ
主人公が砂漠を超え、体力を消耗しながら歩き続け、あの山の向こうには
街があると最後の力を振り絞って山の頂に着いたところ・・・
延々と砂漠が広がっていた~というストーリーでした。
小学生だった私に「砂漠は怖~い!」というトラウマを刻み込んだ映画です。
タイトルも主演俳優も思い出せず、数十年ずっと心の片隅に恐怖体験として
巣食っていたのでした。
お正月明け、TSUTAYAさんに行き復刻名画の棚を見ていたらこの映画が目につきました。
「眼には眼を」はずっと戦争映画だと思い込んでいたのですが、どうも「眼下の敵」と
まぜこぜになっていたようです。
主演が共にドイツ俳優クルト・ユルゲンスだったからかもしれません。
子供の頃から彼のファンでした。
こういうインテリジェンスを感じる鋭いお顔がなんですわ~。
DVDカバーを見てこれだ~!っと。
ずう~っと心に引っかかっていたのはこの映画だと見る前に確信しました。
見てみると、「砂漠」ではなく「岩山」で、彼は一人ではなくずっと二人で
岩山の道を歩いていたのでした
*********************
眼 に は 眼 を OEIL POUR OEIL
********************
< ストーリー >
砂漠の国シリアの病院で医師として働くフランス人ヴァルテル。
勤めを終え家で寛いでいるところに一台の車が止まり病気の妻を診察して欲しいという。
疲れていることもあり、車で20分の病院に行くことを勧め眠りについた。
翌朝、車が故障し歩いてきた女性患者が盲腸と誤診され、適切な処置を受けられず
手遅れで亡くなったことを知る。その日から、深夜に無言電話がかかり、ヴァルテルは
誰かに尾行されていることに気が付く。そして・・・。
ダンディーなユルゲンスの…御髪が~!
そうだったそうだった、こういうストーリーだったわぁ
これぞ、サスペ~ンス!
もしあの時ちょっとでも話を聞いて診ていれば…、
もし車が故障していなければ…、
もし当直の医者が誤診をしなければ…、あの女性患者は死ぬことは無かったかも知れない。
不幸が重なった残念な結果。
医者ヴァルテルに法的な責任はないが、倫理的にヴァルテル本人も良心の呵責を感じている。
そして、この「良心の呵責」によって、彼は深みにはまっていく。
見ているこちらも、
妻を亡くした夫の悲しみやヴァルテルに恨みを持つ気持ちもわからないではないし、
ヴァルテルの対応に落ち度がないことも良心の呵責を感じるのもよく理解できる。
果たして夫は復讐をしようと周到な計画に立って行動しているのか?
ただ行き場のない気持ちをぶつけようとしているだけなのか?
行き詰まる心理戦が始めはゆっくり、そして一気に加速する。
フランス人の医師が、異国シリアの地で言葉もままならず、地理も不案内な中、
文化の異なる異教徒に囲まれ、車も失い、自分に恨みを抱いている男と砂漠を彷徨う。
妻を亡くした男は自分だけ助かろうとしたのか?捨て身の行動だったのか?
人を呪わば穴二つ。
アラブ人たちの装束や行動、音楽、砂漠に上空を舞うカラスや猛禽類が恐怖を煽ります。
「目には目を、歯には歯を」はハムラビ法典だと思っていましたが、旧約聖書の出エジプト記にも
同じ表現「Eye for eye, tooth for tooth, hand for hand, foot for foot.」があるのですね。
そしてこれは、復讐を肯定しているのではなくて、拡大報復禁止の戒めの教えなのだそうです。
刑罰の上限を明らかにすることで復讐に歯止めをかけるための規定なのだそうです。
つまり、やられたらやり返せ!倍返しだー!っはあかんよ~って教えってことですね。
この歳になるまで、すっかり誤解していました。
どうもイスラムやアラブに対して、私たちは偏見を刷り込まれているようです。
(そもそもハムラビ法典は紀元前18世紀のバビロニアの法典でイスラムの教えじゃないです。)
この映画の邦題は何故「目」じゃなくて「眼」だったんでしょう?
物を見る器官として「眼」を使い、視点、考え方など視覚以外の「見方」を「目」と
使い分けるらしいです。(眼=eye 目=view) *「人力検索はてな」より
だから「eye for eye」は「眼には眼を」なのでしょうね。
非常に見応えのある名作です。
「あの映画はなんだったのか?」という積年の疑問に答えが出てうれしいです。
***** 見た 映画 *****
1月4日 「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」 DVD 1972年ルイス・ブリュネル監督のフランス映画
アカデミー外国語映画賞受賞作品
1月7日 「SUITS シーズン2 vol.5~6」 DVD アメリカのTV法廷ドラマ
やっと家に帰りついた彼であったが、召使はお祈りの時間で、主人を出迎えもしない.医者は、急病人があれば、勤務時間外でも診療に当らなければならないが、それで帰りが遅くなった医師を、召使が出迎えをしないとはどういうことなのか?.医師は召使を咎めはしなかったけれど、医者が急病人の診察を拒めば責められることになってしまったのだ.
病気の妻を連れてアラブ人が訪れたとき、医師はこう思ったのではなかろうか?.医者も自宅にいるときは自分の時間だ、診察の場所でも時間でもない.自分はお祈りを時間にお祈りをしている、召使のお前の邪魔はしなかっただろう.だからお前も、俺の個人の時間の邪魔をする病人を追い返せ.
あるいは、窓から様子を伺っていた彼は、召使に対してこう思ったのであろう.
『主人をほっておいて、同じアラブ人の病人が来たからと言って、優しく迎え入れるとはどういうことだ.この馬鹿野郎』、召使に対して口には出さなかった怒りが、冷たい人の心となって現れてしまい、無関係の病人に追い返すことになった.そして、その冷たい心が、逆恨みという冷たい心の報復を招くことになったと言えるはず.
召使は主人に対する職務にも善意にも無縁の人間であった.田舎のの病人の家族も、医師としての職務も人としての善意も理解しようとしない人間だった.自分たちと同じ苦しみを味あわせてやると復讐した、妻を亡くした男も同じであり、未開人が職務、善意を理解しない人間であるとするならば、文明社会に生きる人間は、職務と善意を理解する人間でなければならないと言える.
医師の仕事を例にすれば、お金のない病人の治療に当っていれば、医師の生活が成り立たないのは容易に理解できる.すなわち、文明社会は個人の善意に頼っていては成り立ちはしないのである.個人の善意に頼らない社会制度、映画の場合では医療制度を充実させる必要があり、そして、文明社会に生きる人々もまた、その社会のルールに従う必要があると言える.
これは現在でも同じはず.文明社会では、まず第一に、病人が医者の個人宅を訪ねても、治療は受けられない.
召使は、お祈りよりも、主人の職務を理解し、自分の職務を全うする必要がある.
そして、医療制度の充実、映画の場合では、難しい手術を終えて一息つく間もなく急患があって、また治療に当らなければならなかったが、他の医師が対応していれば、この医師も人としての善意を失うところまで疲れ果てることはなく、自宅を訪ねてきた病人に対しても、善意を持って接することが出来たのではないか?.
名医だからと、一人の医師に全ての責任を負わせても、どうすることも出来ない.病院のシステム、社会のシステムが、一人の人間の善意に頼ることのない様に変わって行かなければならないはずである.
人は善意を失ってはならないが、けれども、個人の善意に頼っていては、社会の生活は成り立たない.個人の善意に頼らない、社会の仕組みを作る必要があり、そうした意味で社会制度が充実すれば、個人としての人も、社会の人々に対して、善意を失うことなく、優しさを持って接することが出来るはずである.(日本は医療に関しては、社会制度が充実した国になったと言えると思います.先にお金を払わないと、診察もしない国がある)
病人の顔を見て、その上で、『ここは病院ではないので、満足な診察も治療も出来ない.病院には24時間医師がいる.救急車を呼ぶから病院へ行け』、と言っていれば、彼自身も良心がとがめるものもなかったと思われるのですが.けれども職務に疲れ果てて帰って来た彼は、主人を出迎えない召使に対する怒りを堪えたところが限度で、わずかな人間としての優しさまで失ってしまっていた.
コメント、ありがとうございます。
2人が行こうとした街ダマスはダマスカス。舞台はシリアだったのですね。
残念な偶然が重なって、とんでもないことに。
バルテル医師からみたら逆恨み以外の何ものでもない。ただ、少なくとも応対しておけば罪悪感を感じることはなかったのに・・・。
一方、ボルタクの気持ちもわかる。
なんとも辛い。
バルテル医師があんなに疲れていなければ・・・。
あの時車が故障しなければ・・・。
経験のある医者が当直だったら・・・。
法だけでは割り切れない、けれど人は人を勝手に裁くことはできないでしょう。
なんとも、見応えのある映画でした。