中村晋也さんは大好きでございます。
いつか鹿児島の中村晋也美術館も訪れたいと思っております。
が しかし
太宰治の銅像プロジェクトというのはいかがなものかと。
もう建っちゃいましたけどね。
NIKKEI NET(日経ネット):社会ニュース-内外の事件・事故や社会問題から話題のニュースまで
銅像ぶっ建てられて喜ぶ人でもないんじゃないですか。
太宰治はいろいろと嫌いでございます。
生き方はもとより、自虐自慢みたいな作品群も。
しかし、あのぐんぐん読ませる巧みな文章とユーモアには唸らざるをえません。
でもって人間性も作品も全部嫌いだったらそれはそれでよかったんでございますが、短編「駆け込み訴え」だけは激烈に好きでございまして。
好きなら全部好きがいいし嫌いなら何もかも嫌いがいいんですのに、こう、どっちつかずの状態でいるものですから、逆恨み的にますます嫌悪感がつのるのでございまして。
ああ、厭でござんすねえ。
太宰治 駈込み訴え
いつか鹿児島の中村晋也美術館も訪れたいと思っております。
が しかし
太宰治の銅像プロジェクトというのはいかがなものかと。
もう建っちゃいましたけどね。
NIKKEI NET(日経ネット):社会ニュース-内外の事件・事故や社会問題から話題のニュースまで
銅像ぶっ建てられて喜ぶ人でもないんじゃないですか。
太宰治はいろいろと嫌いでございます。
生き方はもとより、自虐自慢みたいな作品群も。
しかし、あのぐんぐん読ませる巧みな文章とユーモアには唸らざるをえません。
でもって人間性も作品も全部嫌いだったらそれはそれでよかったんでございますが、短編「駆け込み訴え」だけは激烈に好きでございまして。
好きなら全部好きがいいし嫌いなら何もかも嫌いがいいんですのに、こう、どっちつかずの状態でいるものですから、逆恨み的にますます嫌悪感がつのるのでございまして。
ああ、厭でござんすねえ。
太宰治 駈込み訴え
ウィスキーの宣伝みたいだな。
さておき
いやあ愛憎ってほどのもんじゃございません、
憎むほど人生狂わされていませんし、愛してもいませんしね。
言うなれば 嫌好 ぐらいなもんです。
割合としては 嫌嫌嫌嫌嫌好 ぐらいなもんです。
ありますでしょう、凄いってののは分かるし、
世間的に高く評価されているのも理解できる
でもわしゃ嫌いじゃっていうもの。
ワタクシ的にはルーベンスとかポール・バーホーベンなんかもそうですが。
太宰治もそういうもののひとつなんですが
ただひとつ大好きな作品があるというのがやっかいな所で。
ときにウイスキーの宣伝というとワタクシは
「恋は遠い日の花火ではない」しか思い浮かばないのですが
古いか。古いな。
愛憎はやっかいですが、嫌好はけっこうおもしろそうです。すみません。勝手に。
確かに、複雑なもんですから。人間自体が。
「ドストエフスキーは矛盾しているが、混乱はしていない」だっけな。しかも、誰の言葉なんだ。
そういう意味では「作品と書いたものは別物」として考える派に一理ありでしょうか。私をおもしろがってた?大学の先生はそういう方でした。メルヴィル専門でしたが、「メルヴィルの生きた場所に行くなんて、僕の主義じゃないねんけど」いっちゃったそうです笑
私は、ひとつひとつをばらで考えられるので、あまり気にならないです。
最近、ついったーというのをはじめましたが、おもしろいです。
ものぐさ様で行きますよ。ものぐさ様。
「ドストエフスキーは矛盾しているが、混乱はしていない」、ワタクシもどこかで見かけたことのある言葉だと思うのですが、誰のものであったやら思い出せません。
ドストさんの、神という絶対的なるものに焦がれつつもそれへの懐疑(あるいはむしろ、怒り)に深く捉えられ、キリスト的な美しさを想う一方で悪魔的な美しさにも惹かれる、そうした点を評して「矛盾」と呼んでいるのかしらん。
だとすれば、この種の矛盾は人間において決して珍しいものではありますまい。むしろそうした矛盾の中でもがく人間が時代にも国籍にも関係なく常に存在しているからこそ、ドストさんの作品が今に至るまで読み継がれているのではないかしらん。
>作品と書いたものは別物
作品と書いたものは同じですがな。
作者と書いたもの、ではござらんか。
しかし作品とそれを生み出した人物を完全に切り離して考えることなんてできるものなんでしょうか。
もちろん「人格的に嫌な奴だったから作品も駄目」というような鑑賞の仕方は馬鹿馬鹿しいことですが、作者である人間とその所産を切り離して考えることは、ワタクシには少々困難です。
ついったーというのは最近イラン状勢がらみで話題になっているtwitterのことですな。
コミュニケーションツールの変化が、社会のありようや人間の思考のありようまで変えていく、そういう現場にいることをひしひし感じる昨今です。おもしろいのは結構でござんすが、知らず知らずの変化に呑み込まれないようにkeenでいてくださいよ。
そうです。作者です。
作者と作品を切り離して考えるというのは、
多分だけど、作者のことをすべて知るってこと自体が不可能ということもあるかもしれません。その人に実際会ったことがあったとしてもわからないから。
完全に切り離すというのは、私も無理だと思います。
私もばらばらに考えられると言っても、もちろん限界はありますから。
>知らず知らずの変化に呑み込まれないようにkeenでいてくださいよ。
イランがらみのやつです。
keenでいるのは、確かに大切なことでしょうね。
難しいですね。
わからないとしか、答えられないことが大半です。
結局、全部「疑わしい」から。実際、見たその部分(反対側はわからない)しか、確かと言えないというか。なんでもそうですけどね。
ツイッターは、実際の会ったことのある人達とするのが、私には楽しいですね。「夕飯何にする?」「そうめん」「私は焼き飯」とかそういうのです。
>わからないとしか、答えられないことが大半
ええ、だから結局私達は、大半のことについて「今、手元にある材料」から判断する以外には道がないわけです。しかも行きている以上、全てに対して判断を差し控えるということは事実上不可能でござんしょう。
それは日常のあらゆる判断に対してあてはまることであり、文学の読み方も例外ではないはず。たとえ断片であろうとも、作家の生活や人間性に関することごともまた「手元にある材料」なのであって、それらを活用した読みがあってもよかろうと思う次第です。活用の仕方・程度は読む人それぞれでしょうがね。