のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『MILK』

2009-05-05 | 映画
二者の間でだけ交わされたはずの会話が一方の知らぬ間に皆の話のネタに供されるというのは、一種の集団的暴力でございます。しかもただその場にいるだけで、否応なく共犯になってしまう。ああ嫌だ。



それはさておき

『MILK』を観てまいりました。
ううむ、これは素晴らしい作品でございました。

映画『ミルク』オフィシャルサイト

「私はここにいる」と宣言する。
「私には生きる権利がある」と叫ぶ。
ただそれだけのことをするのさえ、困難な人がおります。
その人とは、
多数派ではない人、
社会的に弱い立場にいる人、
宗教が見方や後ろ盾になってくれない人、そして
虐げられることが当たり前になってしまった人でございます。
そういう人たちに向って、ミルクは呼びかけます。

"My name is Harvey Milk and I'm here to recruit you!"

ミルクは単に同性愛者の代表というだけではなく、生きづらさに苦しむ全てのマイノリティの代表であると申せましょう。

1970年代のアメリカ。ゲイ・ムーヴメントが起こりつつあったとはいえ、同性愛者であるというだけで解雇されたり逮捕されたり、時には自殺に追い込まれる社会の中で、偏見と差別に立ち向かい、権利のために闘ったハーヴェイ・ミルク。
ミルクは決して孤軍奮闘していたわけではございません。多くの人々の声がこの「20世紀の英雄」を支えていたということ、そしてミルクという情熱的でチャーミングな人物が、人々の希望の寄りしろとなっていたということが、本作では力強く、かつテンポよく描かれております。
それまでずっと身を隠すように生きることを余儀なくされてきたマイノリティたち。
また多数派に属してはいても、公然と人権が抑圧されている現状に憤りを感じていた人々。
彼らの声と思いこそが、この映画の本当の主役であるとも申せましょう。
ミカン箱の上から通行人に呼びかける(まあミカンの箱であるかどうかは置くとして)まったく草の根の所から始めた活動は次第に大きくなり、街頭を埋め尽くすデモ行進となり、カリフォルニア州全土を巻き込んだ闘いへと発展してまいります。
人々の思いが実際のムーヴメントになってゆくさまには本当に胸が熱くなり、映画の山場である「提案6号」をめぐるスリリングな攻防戦にはまさに手に汗握る思いでございました。



「提案6号」とは、カリフォルニア州内の公立学校から同性愛者の教員、および同性愛者の権利擁護を支持する職員を排除せんとする条例でございます。同性愛者は神の法に背く悪(evil)であり、異常者であり、変態なのだから、子供たちに近づけちゃならん、という言い草。
けっ。
アンチ・ゲイの先鋒である政治家らが「神の摂理」やら「良識」はたまた「ノーマル」という言葉をお吐きんなって、分別ぶった顔で同性愛者を差別するさま-----その中には当時の記録映像もございました-----には、まことに、まことに、まことにまことにまことに、腹が立ちましたですよ、ええ。
ワタクシは宗教を否定する気は毛頭ございませんがね、他者への敵意を根拠づけるために神様が担ぎ出される、という現象はワタクシにはとても醜悪で盲目的なことに思われますよ。そりゃ、そうした言説も、ひとつの価値観として冷静に捉えるべきなんでございましょうよ。でもね、「神聖なもの」を後ろ盾にして人を差別する価値観なんぞ、ぺっぺっでございますよ。

ともあれ
度重なる落選にもめげず4度目の出馬でようやく政治の舞台へと躍り出たミルクはもちろん、この「提案6号」を廃案にするために奔走するんでございます。デモを組織し、敵の本拠地に乗り込んで討論会に臨み、暗殺の危険に身をさらして演壇に立つわけでございます。映画の原作である『ゲイの市長と呼ばれた男 ハーヴェイ・ミルクとその時代』を読むと、実際ミルクが常に暗殺の危険を身近に感じていたということが分かります。
映画の冒頭で40歳の誕生日を迎えたミルクが、僕は50歳までは生きないだろうとつぶやくシーンがございますが、これも脚本家の創作ではなく、ミルク自身が親しい人々に対してしばしば語った言葉でございました。
この不吉な予言どおりに48歳で凶弾に倒れたミルク。
政治活動を始めてから8年。公職に就いてからは、実にたったの11ヶ月。
しかし彼の存在がどれほど大きなものであったかは、実際の追悼行進を再現したラストシーンから、深い悲しみと共に伝わってまいります。

ひとつ申し添えたいことは、本作は決して、信念に殉じて命を落とすということを讃えたものではないということでございます。ミルク自身も死を予感していたとはいえ、別に死にたかったわけではございません。それどころか「生きたい、生きさせろ」と叫んでいたのに、それを許さない人々がいたのでございます。映画はあくまでもミルクの死ではなく、生にフォーカスいたします。
観客は「もしもの時のため」の遺言をテープに吹き込むミルクの回想とともに、彼の気楽なヒッピー時代から最期の日までをたどってまいります。いわば刻一刻とミルクの死に向って進んで行くわけでざいますが、じめじめ感はございません。むしろミルクと彼の支援者たち、そして街頭の人々からほとばしる生き生きとした時代のエネルギーからは、萎縮せずに自分の生を精一杯生きろ!というポジティブなメッセージが発せられておりました。

ショーン・ペンの演技は本当に素晴らしうございました。
カリスマ的な活動家、ジョーク好きの社交家、アグレッシヴな論客、sweetな恋人、そして死の影に脅かされる男。さまざまな側面を持つハーヴェイ・ミルクという人物が、一人の生きた人間として、スクリーンの中で呼吸しておりました。
また、ミルクを射殺する保守派の元同僚、ダン・ホワイトを演じたジョシュ・ブローリンも大変よろしうございました。『ノーカントリー』でユーモアの無い変な髪型の男に追いかけられた彼ですが、今回は自らがユーモアの無いちょっと変な髪型の男になっております。不満と屈辱感を溜め込んで思いつめて行く哀れな人物を、ぴりぴりとした緊張感を出しつつみごとに演じておりました。

ご存知の通り本作は今年のアカデミー賞で8部門ノミネートされ、脚本賞と主演男優賞を受賞しました。
授賞式の当日,会場の周辺にはアンチゲイの人々も詰めかけて同性結婚反対のプラカードを掲げたということでございますが、彼らはそもそもこの映画を御覧になったんでございましょうかね。受賞スピーチでこのことにもしっかり触れたのはさすがにショーン・ペンという感じがいたします。
この作品が世界各地で絶賛され,さまざまな映画賞を受賞していることも、授賞式でのペンのスピーチも、同性愛者への偏見を無くしていくことに一役買うことでございましょう。また、そうあってほしいと強く思う次第でございます。




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2 コメント

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Unknown (ものぐさのきち)
2009-05-06 21:51:34
はじめまして。
友人のゲイの子が、「僕らはデートしてても手をつなぐことも出来ない」と、言っていたのを思い出します。あの言葉を思い出すたび、胸が痛くなる。どんなに愛し合ってても、結婚もできない。結婚できないため親類とみなされず、死に目に会えなかったという話を聞いたこともあります。
そういう彼らの気持ちを受け入れることの出来ない人びとが、何故いるのか。
この映画を見に行きたくなりました。
「暴力夫」というイメージもありますがw、ショーン・ペンはなかなかいい俳優ですよね。
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Unknown (のろ)
2009-05-07 23:39:59
ものぐさのきち様,はじめまして。
なかなか素敵なお名前でいらっしゃいますね。

お友達のお言葉,本当に胸が痛みますし、憤りがこみあげます。
何故、こうなのか?
「男女が結婚して子孫を残すべきなのだ」とか「家族単位の社会制度が壊れるのはよくない」といった反同性愛論がありますが、同性愛者に対して自分が抱く嫌悪感(それを抱くなとは申せません、個人の感情のことですから...)を正当化し権威づけるためにモラルやら社会制度やらといった言葉を持ち出してらっしゃるように思えてなりません。家族単位を大前提にしてしまっているあたりも、結論先にありきの感があります。そして愛し合う人々が一緒にいることを妨げる社会制度なぞ、そんなに価値があるとは私には思えないのです。

ペンは受賞スピーチの中で「同性婚に反対票を投じた人々は、この機会にじっくり考えてほしい。その考えを改めないのは本当に恥ずべきことだし、孫たちからはそのことで蔑まれるだろう。全ての人が平等の権利が与えられなければならないんだ」と言っています。
全くその通りであって、今の同性愛者に対する差別と、ほんの数十年前まで当たり前のこととされていた黒人への差別(完全になくなったというつもりはございませんが)と、いったい何が違うのかと私は言いたい。むしろ差別が顕在化しづらいことから、当事者の孤立感は深いのではないでしょうか。
ちなみにワタクシ、ショーン・ペンには心身ともにマッチョなイメージがあって決して好きな俳優ではなかったのですが、本作を見てはじめて、魅力的だと思いました。

ともあれ、人々の意識は変わって行くこと、そして「いかなる社会的制度であれ、それが作られたものである限りにおいて変更可能である」(浅野俊哉著『スピノザ 共同性のポリティクス』p.139)ことをワタクシは信じております。いつかものぐさのきち様のお友達が、愛する人と晴れておつきあいできる日が来るということも。

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